2016/04/01

【私撰名馬物語#62】ナリタタイセイ

―90年代の日本競馬を席巻したナリタ軍団のミッシングリンク―


~“西の常勝集団”ナリタ軍団とは~


ナリタ軍団の活躍馬を見掛けなくなってからしばらく経つ。今から20年ほど前の日本の競馬界には無くてはならない存在であった、故・山路秀則氏が率いた「ナリタ」と「オースミ」の馬たち。どういうわけか「オースミ」の馬はビッグタイトルに恵まれなかったが、片や「ナリタ」からは鮮烈な印象を残した三冠馬・ナリタブライアンや、素晴らしい末脚を武器にクラシックホースとなったナリタタイシン、そして菊花賞を制した後長らく王道路線のバイプレイヤーとして活躍したナリタトップロードら、GⅠ級の名馬たちが立て続けに飛び出した。彼らはナリタ軍団が関西でも指折りの強豪集団であることを強烈にファンに印象付け、あのピンクに紫山形の勝負服に対して畏怖の念すら抱かせている。

これらの3頭はいずれも種牡馬として恵まれず、自身の血を拡げるには至らなかった。しかし、典型的な失敗種牡馬であったナリタタイシン以外の2頭は、共に早世したものの活躍馬の母方に名を残している。特にナリタブライアンの娘の仔が豪GⅡ馬になったというニュースは記憶に新しい。また、マイネルハニーの活躍次第ではナリタブライアン牝馬の株価も上昇することであろう。ナリタトップロードは代表産駒のベッラレイアの仔出し次第だろうか。

そんなナリタ軍団の歴史は意外と短く、山路氏がJRAの馬主資格を取得したのは1986年のことである。軍団初期の代表馬と言えば、クロフネによって派手に更新されるまで東京ダート1600mのレコードを保持していたナリタハヤブサであろう。同馬が頭角を現したのは1990年のクラシックシーズン。そしてナリタブライアンがクラシック三冠を制したのは1994年のことである。また、それに前後してナリタタイシンが1993年の皐月賞を制し、持込馬のナリタキングオーが1995年のクラシックトライアルを2勝した。まさに“強いナリタ軍団”を印象付けた馬たちである。

ここまで90年代のナリタ軍団の活躍を駆け足で振り返ってみた……待て、あの1頭をあなたは忘れていないか。いや、もしかすると忘れるどころかご存じないのかも、その1頭。1992年、“坂路の鬼”“スパルタの風”ことミホノブルボンが強さを誇示した皐月賞、2着は何という馬だったか?ライスシャワーか?アサカリジェントか?マチカネタンホイザか?違う違う。ナリタタイセイだ。矢継ぎ早に活躍馬が誕生したナリタ軍団が、草創期から全盛期へと至る過程で奮闘したミッシングリンク。彼の存在はまさしくそれだろう。言わば“進化の過程で失われた存在”であるナリタタイセイは、一体どんな一生を送った競走馬だったのだろうか?

~人呼んで「天剛」、北より来たる~


名種牡馬と謳われたノーザンテーストが、生涯で唯一送り出した日本ダービー馬と言えばダイナガリバー。同馬は1987年暮れの有馬記念(14着)を最後に引退&種牡馬入りした。1989年生まれのナリタタイセイは、そのダービー馬の初年度産駒に当たる馬だ。母のビューティマリヤは地方の1勝馬であるが、同じ牝系からはナリタブライアンのライバルと目されたナムラコクオーや、1969年の桜花賞馬・ヒデコトブキなどが誕生している。母の父はトライバルチーフという輸入種牡馬で、同馬は本邦にて4シーズン供用された後早世したものの、素軽さと早熟性を武器に1979年、80年と3歳(旧馬齢表記)リーディングを2年連続で獲得した。その血は後世の競馬にも影響を与えており、ゴールドシップの母母母父として名を残しているほか、アングロアラブのトップサイアーの1頭だったトライバルセンプーの父としても著名である。産駒はスピードがある反面距離に壁があり、他に例を見ないほどの極端な早枯れタイプとしても知られていた。だが一方で、菊花賞3着馬のロングイーグル(その母は名繁殖牝馬・スイーブ)を出すなど、配合次第で多少の柔軟性も持ち合わせていたようである。

ナリタタイセイの生まれ故郷は門別の天羽牧場である。同牧場では生産馬を血統登録するにあたり、「天」の下に漢字をもう一つ付けて命名していた。このビューティマリヤの息子の血統名は「天剛」。天羽繁場主が言うには、「骨太のごっつい感じ」からそう命名したのだという。早くから雄大な馬格を誇り、幼駒時代はケンカで負けたことが無かった天剛は、牧場の人々の愛情に包まれてすくすく成長した。黒鹿毛の彼の顔面には、父のダイナガリバーのそれによく似た大流星が居座っていた。

半姉のナリタレッドバード(中央1勝)が入厩した縁もあって、成長した天剛は栗東の中尾謙太郎調教師の仲介により山路秀則氏に購入された。中尾師は「骨太で飛節のつきがすごく良い」「これはもう本物という感じ」と色めき立ち、一目見てこの天剛を気に入ったが、一方の山路氏は「これは競走馬というより、馬車馬」と、あまりにもがっしりした様子に多少難色を示したという。それでも中尾師の猛プッシュによって、晴れてナリタ軍団の仲間入りを果たした天剛は、山路氏によって「ナリタタイセイ」と名付けられ、3歳春には早くも栗東に入厩。以後少しずつ調教を施されていった。

「確かに全体に骨太で動きにもキビキビとした感じは無かったけど、どこか一本芯の通っているような大物感を漂わす馬だったから、自分の信じたように仕上げてみようと決めていた(中尾師:談)」

~大型ルーキーの悲喜交々~


幼駒時代の印象通りに馬格が大きくなっていたナリタタイセイは、攻め馬を強める過程において中尾師の期待に十分応えるだけの動きを見せるようになった。やがてゲート試験も順調にパスし、夏の札幌競馬場に運ばれてデビューを待ったナリタタイセイだったが、500kgオーバーの馬体に脚元が悲鳴を上げたのか、当地のダートコースでの調教中にソエを発症。デビューの計画は白紙となってしまった。

とは言え幸いなことに重症では無く、ソエが無事治まった後、1991年11月の京都開催の新馬戦(芝1600m)にてナリタタイセイはデビューを迎えた。そして、松永幹夫騎手が操ったデビュー戦を4馬身差の勝利で難なく飾った彼。先行して力で押し切るレースぶりは至って安心のおけるものであり、彼の高いレースセンスと素質を周囲に感じさせるには十分であった。

2戦目と3戦目は勝ち切れずに終わったが、上位には食い込んだ。年明け初戦の若菜賞(京都芝1400m)では初めて“若き天才”こと武豊騎手が手綱を取り、逃げを打ってそのままゴールイン。戦績を4戦2勝とした。続く若駒S(京都芝2000m)では一気の距離延長が心配されたものの、1番人気に応えて早め先頭の競馬に持ち込み、南井克巳騎手が鞍上のエイシンテネシー(後に京都金杯を制す)の差し脚を抑え完勝して見せた。重賞経験こそまだ無いが、クラシック候補生としてここまでの戦績は申し分無い。

~皐月賞へ向けて好事魔多し~


ここまで武騎手とのコンビでのし上がってきたナリタタイセイ。だが、同騎手にはラジオたんぱ杯勝ちのノーザンコンダクトという先約がいたため、ナリタタイセイは新たに南井騎手を鞍上に迎えてクラシックに挑むこととなった。南井騎手は1989年にバンブービギンで菊花賞を、翌1990年にはハクタイセイで皐月賞を制し、三冠ジョッキーへ向けて王手を掛けた当時39歳の男盛り。現代的なスマートさには乏しいが、がむしゃらに馬を追う姿は「ファイター」の異名を取り、タマモクロスやオグリキャップの背中も知る男ともあって、この期待の大型馬を動かす鞍上として不足はあるまい。態勢は整ったはずだった。

ところが、クラシックを前にしてナリタタイセイに想定外の病魔が襲い掛かる。突然ノドを痛めたのだ。幼駒時代、デビュー前と、そんな兆候は全く見られなかったのだが……愛馬を襲った病に対峙した中尾師はあらゆる手段を講じたものの、どれもさしたる効果は見られなかった。

3月下旬には東上しオープン特別の若葉S(中山芝2000m)に臨んだが、1勝馬のセキテイリュウオーの3着に敗退。着差は思いのほか大きく、贔屓目に見ても完敗と言えた。この状態で早めに動いて外を回す無理をした点と、後の活躍ぶりを鑑みれば、ロスの無い競馬をした勝ち馬に離されたのは納得がいくところとしても、大して出世しなかったサウスオーにすら後れを取ったのはいただけない。こうして降って湧いたようなノドの不安を抱えながら本番に挑むこととなったわけだが、痛めた箇所が箇所だけに、管理する中尾師は神に祈るような気分だったことだろう。

~1992年、絶対王政ブルボン王朝興る~


折からの雨模様により、開催が進むに連れて悪化していく中山の馬場。ダンディルートの代わりにシャレー、そしてミルジョージの代わりにマグニテュードという“代用血統”から誕生した2番人気の3歳王者が、3月29日のスプリングSを圧巻の競馬で突き抜けていた。中間頓挫があったように決して万全の状態では無かったミホノブルボンが、生まれて初めて打って出た逃げの戦法で他馬を蹴散らしたのだ。その強さに馬場の要素はまるで関与せず、同馬を追い掛けた馬たちは皆潰れた。この時初めて絶対王政たるブルボン王朝が、1992年の4歳クラシック戦線に打ち立てられたのである。

クラシック制覇への期待感だけはミホノブルボンを上回っていたノーザンコンダクトはまるで動けず11着に沈み、荒れ馬場を口実に皐月賞から尻尾を巻いて逃げ出した。前年の朝日杯でブルボンに肉薄したヤマニンミラクルも未だ本調子に無い。こうなると、逆転の期待を懸けられるのは弥生賞馬のアサカリジェントぐらいなもの。3つの皐月賞トライアルが終了し、事態はにわかに1強ムードの様相を呈してきた。

その他、相手なりに走るスタントマンや、やや不器用ながら豪快な末脚を使うマヤノペトリュース、ノーザンコンダクトより“ノーザンテースト最後の大物候補”の座を奪い取ったマチカネタンホイザ、久々のスプリングSでは完敗したものの上がり目が見込めるライスシャワーなどが連下として挙げられていたが、逆転の目はどうも薄かった。ライバルが各地で名乗りを上げる中、年明けには元気が良かったはずのナリタタイセイはやや萎みがち。彼の陣営が天に祈るのは、まさしく恵みの雨だけであった。

~雨の中山、雨中の一冠目~


その日の中山競馬場は断続的にザーッと雨が降っていた。4月19日、皐月賞。直前の追い切りに臨んだ南井騎手は、「この状態でも2000mまでは何とか持ちます」と一言。湿った空気は痛めたノドにちょうどいい。して、上位人気馬で雨を願っていたのはこのナリタタイセイぐらい。上位進出へ向けて、一応舞台設定は整った。

当然のことながら、1番人気はミホノブルボン。距離に不安を抱えながらも、戴冠を望む期待感はそれ以上だったようで、単勝オッズは1.4倍とズバ抜けていた。以下、アサカリジェントとセキテイリュウオーというトライアルレースの勝者が続く情勢。当のナリタタイセイは4番人気だったが、若葉S3着馬にこの評価はむしろ見込まれていたと言えなくも無いだろう。

観客席の傘の花が密集して躍る。悪天候に見舞われ、概ねモノクロームな中山競馬場において、4番枠から鮮やかに絶好のスタートを切ったミホノブルボン。一方、隣の5番を引いたナリタタイセイは平凡な飛び出しとなった。そのまま緩みの無いペースで他馬を引っ張る王者。中団辺りを追走し、初めて馬群に揉まれる展開となったナリタタイセイだったが、幸いにも持ち前の気の強さが良い方向に出た。

3コーナーにて他馬のジョッキーの手が盛んに動き始める中、南井騎手はある程度余裕を持ってコーナーを周る。黄色い帽子のライスシャワーがすぐ外にいたが、慣性に任せて周ったナリタタイセイと外のアサカリジェントに挟まれ、勝負所で圏外に飛んだ。そんなことはお構いなしに、小島貞博騎手とミホノブルボンは先頭を行く。積極的な競馬を試みた田中勝春騎手のセキテイリュウオーが内の荒れ馬場を通って必死に堪えるも、差は広がるばかり。逆に外を回したアサカリジェントとスタントマンも揃って脚が上がってしまった。後方待機から追い込み戦法に出たマヤノペトリュースはもう届きそうに無い。

ナリタタイセイは馬群を割って猛然と伸びた。必死の形相で追いまくる南井騎手。だが、荒野を突っ切るかのように伸びる先頭の栗毛馬との差はまるで縮まらない。

「改めてタイセイの能力の高さを見た思いがしたよ。その直線は長いようで一瞬の出来事だった(中尾師:談)」

結果は2馬身半差の2着であったが、納得の準優勝でもあった。何よりも、2000mの距離を無事に走り終えられたという事実は、陣営を安堵させるには十分なものと言えたのだ。

余談であるが、南井騎手はこの皐月賞の2日前に実父を亡くしていた。だからと言うか言うまいか、直線での南井騎手の追いっぷりとムチの連打を映像で拝見すると、彼の執念にも似た強い思いを覚えさせられる。

~運命を変えた強行軍~


皐月賞準優勝馬が中2週でダービートライアルのGⅡ・NHK杯に出てきた。これは1970年代以前の日本競馬での出来事では無い。1992年のことである。

府中での試走という意味合いも勿論ある。決断した中尾師にとっては「間隔を空けるよりは使い込んだ方が良い」と納得のローテーションだったようだが、21世紀の現在の常識からすればむしろ「ダービーを勝つ気が無いのか」とすら思えてしまう。500kg前後の大型馬だけに、脚部への無理も半端なものではあるまい。

内容は文句無しに完勝と呼べた。府中の芝2000mと言えば外枠不利が定説だが、外目の13番枠ながらもスーッと道中2番手につけられた。直線ではさらに外からマチカネタンホイザに迫られたが、馬体を併せるとグイッと伸び、高い勝負根性を見せつけた。結局2着馬に1と1/4馬身の差をつけて、ナリタタイセイは生まれて初めて重賞タイトルを手にしたのであった。位置取りに腐心した皐月賞からすれば、まことに楽な競馬である。

「ミホノブルボンは強いが、胸を張ってぶつかれる」とは南井騎手。いつもの彼の騎乗スタイルからすれば、出来るだけムチを使わなかったNHK杯の競馬は本番を見越してのことだろう。だが、後々中尾師はこう述懐している。

「実のところあの時(皐月賞)が体調のピークで、NHK杯はその余韻で勝てたという気がするんだ。もしこれが1つ後ろへズレて、NHK杯にピークが来ていれば、ダービーでもその勢いで持ちこたえたかも知れないと思えてならない……」

~鼻白うて、やがて悲しき大流星~


案の定と言うべきか、NHK杯以後のナリタタイセイは下降線の一途を歩むこととなった。曇天の下で施行された日本ダービーでは、離れた2番人気というそれなりの評価を得たものの、好位の競馬から4コーナーでもう苦しくなり7着に敗退。4馬身差で圧勝したミホノブルボンどころか、ライスシャワーとマヤノペトリュースの激しい2着争いからも大きく離される結果に、陣営の落胆は大きかった。

痛めていたノドと気管、加えて母の父がトライバルチーフという血統面を鑑みるに、2400mの距離は長かったのかも知れない。とは言え、1992年当時は4歳馬が秋の天皇賞に舵を切るなんてことはほぼあり得ない時代。したがって秋の大目標は菊花賞以外に考えられなかった。

ところが、ノドの不安が解消されることは遂に無く、それどころか彼は夏を無事に越すことすら叶わなかった。春の疲労からの夏負けが深刻化しまともに調教も積めない。10月半ばの菊花賞最終トライアル・京都新聞杯には何とか間に合わせることが出来たが、皐月賞の頃の強かった面影はまるで無かった。先行するも淀の坂で失速し、10頭立てのシンガリ負け(1着のミホノブルボンから5秒差)を喫した彼は、菊戦線から完全に脱落。状態の悪化により本番へ出走する目途も立たず、やがて中筋を傷めて満身創痍の状態で彼は放牧に出されることとなった。

菊花賞は小柄なライスシャワーが制し、ブルボン絶対王政は勃興から1年経たずに崩壊した。元・王者たるミホノブルボンは以後1戦も走らずに引退していくわけだが、ナリタタイセイもなかなか復帰の目途が立たなかった。1993年11月のシリウスS(中京芝1200m)。このオープン特別で、すっかり浦島化したナリタタイセイは1年1ヶ月ぶりに競馬場に姿を現したが、さすがにこの条件では復活しろと言われても無理がある。至極当然と言うべきか、16頭立ての14着に沈んだナリタタイセイは、このレースを最後に表舞台から消え去ってしまった。

前年5月に恩師である戸山為夫調教師を癌で失い、途方に暮れたミホノブルボンが引退を決めたのは翌1994年の初めのこと。時をほぼ同じくして、かつて覇を競ったナリタタイセイの競走馬登録も抹消されている。抹消事由は“乗馬”。以後の彼の消息を伝える資料は少ないが、手元の紙媒体の資料には「馬事公苑に乗馬として寄贈される予定だったが、ノドの手術の最中に麻酔をしたまま心臓が止まり死亡した」とある。こうして“やがて悲しき大流星”は、何とも侘しき最期を遂げたのであった。

~兄の名誉回復を果たしたけなげな妹~


ナリタタイセイが不慮の事故でその命を失ってから、2年ほど経ったある春の日。田原成貴騎手に導かれてGⅠのウィナーズサークルに立った1頭の牝馬がいた。ファイトガリバー。彼女はその兄のナリタタイセイの活躍によって、種牡馬ダイナガリバーと繁殖牝馬ビューティマリヤの間に誕生することとなった馬である。レースぶりは兄とは似ても似つかない豪快な追い込み。だが、その黒っぽい鹿毛と顔の真ん中を通った流星は兄を彷彿とさせるものであった。10番人気ながらも桜の女王に輝き、続くオークスでもエアグルーヴの2着に頑張った彼女が“ナリタ”を冠しなかったのは、兄の体質の弱さが原因なのだという。

この兄妹の父親たるダイナガリバーは他にGⅠ馬を出さなかった。言うなれば、同馬が種牡馬として一定の地位を築いたのはまさしくファイトガリバーのおかげであろう。そして、彼女の誕生に関わった兄ナリタタイセイの活躍ももっと評価されるべきである。“ミホノブルボンのライバル”として、確かに彼は力不足だったのかも知れない。しかし、全盛期のその活躍ぶりを思い起こす度に、もう少し彼を振り返ってやっても……と思わせられて仕方が無いのだ。それにしても、90年代の競馬を扱ったムックや雑誌を読む度に、「ナリタタイセイは成績と比べて影の薄い存在であった」と感じるのだが、果たしてそれは彼以降活躍馬が続出したナリタ軍団の中で埋もれたからという理由のみに拠るのだろうか。

ナリタタイセイ -NARITA TAISEI-
牡 黒鹿毛 1989年生 1994年死亡
父ダイナガリバー 母ビューティマリヤ 母父トライバルチーフ
競走成績:中央11戦4勝
主な勝ち鞍:NHK杯

2016/03/12

【私撰名馬物語#61】メジロゴスホーク

―菊を獲り得ず、いっそ大空を目指したメジロ軍団の“2匹目のどじょう”―


2016年春現在の障害最強馬と言えば、アップトゥデイトで衆目の一致するところ。かつての総大将・アポロマーベリック亡き今、2番手にはサナシオンとオースミムーンが並び、以下エイコーンパスらが団子状態といった感じだろうか。なお、筆者は以前白状したように大して障害レースに思い入れがあるわけでは無いので、障害事情に詳しい方がいらっしゃったらどんどんツッコんでもらって構わない。

私が競馬を見始めた頃はちょうど障害戦の改変期に当たり、未勝利とオープンの間の400万下条件が廃止されたり、障害グレード制が導入されたりと、当時の浜口義曠JRA理事長が旗振り役となって障害レース振興策が実行された。1999年に“中山大障害(春)”から名称が変更され、メジロファラオが勝者となった第1回中山グランドジャンプ。この大レースも、翌年には世界でも稀な国際招待障害競走へと模様替えし、日本馬のゴーカイが外国馬を一蹴している。このゴーカイは長らく日本の障害界に君臨し続けたが、ついに暮れの大一番・中山大障害には勝てずに終わった。

1999年12月の中山大障害、そのゴーカイの初めての戴冠を阻んだのがゴッドスピードであった。当時の障害界は、今よりもさらに平地力のある馬が幅を利かせていた印象があり、特に伝統的にスピードが要求される関西の障害界においてその傾向が顕著であったように思う。いずれも平地オープン級のアワパラゴンやファンドリロバリー、カネトシガバナーにウインマーベラスといった辺りがその代表であろう。また、関東にはオークス馬の全弟にしてやはり平地力抜群のノーザンレインボーがいた。そしてゴッドスピードは平地重賞2勝にして長じて中山大障害馬となった。平地重賞ウイナーが中山大障害を制した例は、少なくとも1984年以降ではこの馬以外に無いはずである。

だがゼロ年代も半ばに入ると、何故か障害界の上位から平地実績のある馬が消えていく。ロードプリヴェイルにメジロロンザンといった中堅級こそ出現したものの、なかなか障害界の頂点を極めるような馬は現れなかった。時代は下って10年代。ケイアイドウソジンやルールプロスパーといった平地重賞連対馬の活躍の報も聞こえるようになったが、やはり中堅の域を出ない。交流重賞とは言え平地重賞連対歴のあるアップトゥデイトのようなパターンは、むしろ稀有なケースと呼べそうである。

どうも前置きが長くなったが、今回の主人公は1989年の阪神障害S(春)を制したメジロゴスホークという馬である。この馬も平地重賞で連対した経験を持ちながら障害入りしたケースに当たる。近い年代の馬には、平地障害両方の重賞を制した第1号となったメジロワースや、第2号のナムラモノノフがおり、やはり関西を中心に“平地力のある障害馬”が多数出現していた時代であった。そしてメジロゴスホークは、その旗手となるべき競走馬だったはずなのだが……。

1984年生まれのメジロゴスホークの母はメジロパンサーというネヴァービートの娘。母の母のメジロマジョルカは、メジロドーベルの牝祖として知られるメジロボサツ(朝日杯3歳Sなど)と同期で、クイーンC制覇、オークス3着などの実績を残した馬であった。その半弟には天皇賞馬のメジロタイヨウが、近親にはメジロマスキットや前述のメジロワースらの名障害馬たちがいる。天皇賞馬の姉にこのサイアーライン随一のスタミナタイプであるネヴァービートを重ね、そこにニジンスキー産駒の中でもスーパーヘビー級の鈍重さを誇る種馬・ニゾンを付けて誕生したのが、メジロゴスホークである。まさにメジロイズム炸裂の重苦しいステイヤー。そのヘビーさたるや、肩に小錦が乗っているレベルに等しい(懐かしいネタだな)。いや、馬名が“ホーク”だから「ドカベン」こと元・南海ホークスの香川伸行(故人)か……?

重いのは血統の字面だけでは無い。1歳上の半姉のメジロカピュサン(父バウンティアス)も500kgオーバーの栗毛のデカい馬であったが、同じ毛色のメジロゴスホークはそれ以上にデカく、ガッチリしていた。長じて栗東の大久保正陽厩舎に入厩し、同馬主のメジロデュレンが菊花賞を制した20日後に当たる、1986年11月末の阪神開催の新馬戦(芝1600m)でデビュー。このレースを飯田明弘騎手の手綱でクビ差勝ちを収めたのだが、馬体重は536kgとヘビーそのものであった。だが大きな馬体と同じように大久保師の期待も大きかったようで、初陣の2週後にはいきなりGⅠの阪神3歳S(旧馬齢表記)に挑戦。単勝オッズ6.2倍とそこそこの支持を受けたものの、スローからの末脚勝負に対応できず、ブービーの7着に敗れている。なお勝ち馬は悲運の金髪・ゴールドシチーであり、結果的にこれが最後の勝利となった。

超重量級と呼ぶべき鈍重な血統故に距離を伸ばしての奮起が期待されたが、年明けの福寿草特別(京都芝2000m)では出遅れてしまい10着に大敗。見た目通りに末脚が鈍く、バテないっちゃあバテないが切れないし好位を確保できないと伸びない、そんなじれったさがメジロゴスホークの魅力であり、最大のウィークポイントであった。

福寿草特別で大敗を喫した後、3戦1勝のメジロゴスホークは放牧に出された。そして帰ってきたのは同年8月の函館開催。前年の菊花賞馬・メジロデュレンが2勝目を挙げたのが6月末のことだから、常識的に考えて菊花賞には間に合うわけが無い。案の定とでも言うべきか、9月までの函館開催では3走したものの勝ち上がることが出来なかった。

このデカくてズブい馬に最も好条件なクラシックは言うまでも無く長丁場の菊花賞だが、もう万事休すか……と関係者は落胆した。ところが、鞍上をそれまでの飯田騎手からメジロデュレンのパートナーである村本善之騎手にスイッチすると、突然メジロゴスホークは輝きを放ち始める。10月の北野特別(京都芝2400m)を後続に2馬身差つけて逃げ切ると、連闘で挑んだ嵐山特別(京都芝3000m)も味な競馬で2連勝。これが“西のいぶし銀”村本の敏腕なのかどうなのか、あれよあれよのうちに菊花賞に間に合ってしまった。しかも嵐山特別勝ちからの挑戦というローテーションはメジロデュレンと一緒。そしてジョッキーも一緒と、あまりにも出来過ぎた好条件での挑戦である。

こうなると期待したくなるのが2匹目のどじょう。この年の菊花賞にはこれといって穴として狙うべきステイヤー血統の馬がおらず、ダービー馬のメリーナイスは3000mの距離に、皐月賞馬のサクラスターオーは休み明けの臨戦過程にと、飛車角となるべき馬がそれぞれ不安材料を抱えていた。もっとも、メジロゴスホーク自身も復帰後嵐山特別で早くも5走目と押せ押せで使われていただけに、不安が皆無というわけでは無かったのだが……。

1987年の菊花賞はいわゆる「菊の季節に桜が満開」のフレーズで知られる、常識外れの菊花賞であった。これは挑戦者たるメジロゴスホークにとって不運に他ならなかった。単勝9番人気と評価を完全に落としたサクラスターオーが、淀の坂を越えてみるみるうちに進出し、直線で内からニュッと顔を出した。同馬の鞍上の“代打男”東信二騎手が1発、2発とムチを振るうと、他の馬を蹴散らしてグイグイと伸びる。馬場の真ん中を通って差を詰めたゴールドシチーは、この奇跡の勝利の添え物に過ぎない。まして直線早々に脱落した5番人気のメジロゴスホークなんて……結果、「菊の季節のサクラ」から1.2秒離された8着に屈したメジロゴスホーク。こうして彼は、自分の名を全国区に轟かせる最大のチャンスを掴み損ねた。

一敗地に塗れた菊花賞から中2週。行き掛けの駄賃的に出走したトパーズSでメジロゴスホークは5歳の上がり馬のハシケンエルドに敗れ、2着に終わった。ハシケンエルドは次走の有馬記念で3着に突っ込み、世に言う「ユメ馬券」の飾り物の役割を果たすわけだが、有馬で同馬の手綱を取ったのがメジロゴスホークから降りた飯田明弘騎手だったのは皮肉というものか。一方のメジロゴスホークは、翌1988年の幕開けとなる金杯・西(京都芝2000m)で日の出の勢いのタマモクロスと遭遇し、3着に敗退。続いて日経新春杯(京都芝2200m)、京都記念(京都芝2400m)とGⅡを連戦するも、2戦とも人気になりながら掲示板にすら載れなかった。

陣営はこの惨状を見て目先を変え、攻め駆けする長所を活かすためメジロゴスホークをダート戦に出走させた。この判断はひとまず吉と出る。3月の仁川S(阪神ダート1800m)を早め先頭の競馬で完勝。彼のジリ脚の短所をカバー出来るダート戦は如何にも良い選択のように思えた。次走の交流重賞・帝王賞(大井ダート2000m)では地方の強豪の前に9着と結果を残せなかったものの、夏の札幌シリーズでダートを3走して2着2回と好成績。GⅢの札幌記念2着で収得賞金を積み、秋の重賞戦線へ向けて弾みをつけた。

ところがダート戦を使ったせいか、芝レースにおいてメジロゴスホークはテンに行けなくなり、得意なはずのダートに戻しても一線級相手では歯が立たなかった。これが器用じゃない器用貧乏の哀しさと言うべきか。同年暮れにはとうとう障害練習がなされ、これがなかなか手応えが良かったということで、翌1989年の正月に障害デビューする手筈が整えられた。だが、折りからの除外ラッシュの関係で、障害未勝利戦では無く同日の金杯・西に出走せざるを得なくなり、ここで1着馬から5.7秒離されたシンガリ負けを喫したことで、陣営の平地への未練は完全に断ち切られた。

姉のメジロカピュサンは障害を2戦していずれも大差ぶっちぎったことで当時話題になった馬であり、いとこのメジロアイガーは前年春の東京大障害(例年の中山大障害に相当)を制し、その妹のメジロマスキットは後に中山大障害(秋)を制すなど、メジロマジョルカのラインからは優れたジャンパーが多く生まれていた。そこに平地の実績十分なメジロゴスホークの登場である。期待されないはずが無い。障害練習で手綱を取った池添兼雄騎手は「さすがにすごいわ」と興奮し、調教師たちも「まともならすぐオープンやな」と感嘆するほど、メジロゴスホークの走りは当時の障害界ではずば抜けていた。メジロ軍団としては、大一番を制した後故障したメジロアイガーの代役、言うなれば「障害界に求めた2匹目のどじょう」。それがメジロゴスホークであった。

満を持した障害入りによって、あの菊花賞以来に注目を浴びたメジロゴスホーク。障害初戦は伏兵馬に押し切られて2着に終わったものの、2戦目を難なく勝ち上がり、昇級戦も6馬身差ぶっちぎった。2連勝で迎えたのは同年3月11日の重賞・阪神障害S(春)(障害3200m)。同じく平地力のあるツナミやマーブルレリック、平地重賞2勝の実績馬・マルブツサーペンなど、スピードのあるメンツが揃う中、メジロゴスホークは単勝1番人気に推された。障害入り以来手綱を取り続ける池添騎手は、「まさか1番人気になるとは……飛びにしてもツナミの方が上手い。この馬の知名度ですかね」と不思議がったが、ファンは8歳馬のツナミよりもフレッシュさに勝る6歳馬のメジロゴスホークの台頭を望んだ、ということであろう。

それぞれ2、3番人気のツナミとマーブルレリックが好スタートを切ったが、後者がいきなり落馬したため、ツナミにとっては非常に楽な展開になった。その逃げは平地力のある同馬にとってはマイペースながらも、他馬にしてはハイペースもいいところである。平地オープン級のメジロゴスホークですら追走に手こずる中、いつの間にやらレースは最終障害へ。

阪神の障害3200mのコースは直線に障害が無い(当時)。コーナーを回ってスパートを掛けたルドルフ世代の歴戦の雄・マルブツサーペンが逃げ粘るツナミに迫る。次いでメジロゴスホーク。彼の望み通りに平地力の勝負となった最後の直線で、先頭のツナミは突如として失速してしまう。実は同馬は最終障害を飛んだ際に故障を発症したのだった。次第に近づくゴール板、そして外から迫るメジロゴスホーク!間一髪、ゴール前で外の馬が内で粘る馬を捕らえ切った。

関西障害界のニュースター誕生と相成ったわけだが、鞍上の池添騎手はレース後早速苦言を呈した。

「確かにこの馬、平地のスピードだけなら桁違いです。でも反面、飛びがどうもマズい。雑と言うよりも用心深すぎるんです。だからどうしてもスピードが落ちて、滑らかに飛べない。ちょうど“よっこらしょ”って真上に上がっていく感じかな(池添騎手:談)」

なるほど、飛びの上手い馬ならスピードを落とさずに斜めの角度で飛んでいくものだ。ズブくて不器用なメジロゴスホークはそれが出来ない。これでは大一番の中山大障害なんて、夢のまた夢である。オオタカを意味する名を冠した彼が障害レースの大空へと飛び立つためには、飛びの修正が急務であった。

だが手直しする暇も無く、彼の仕事の“破綻”はすぐにやって来た。障害4連勝を狙って出走した5月6日の京都大障害(春)(障害3270m)。ヤマニンアピールやエイシンフェアリーといった西の強豪不在の11頭立てのやや小粒なメンツの中で、メジロゴスホークは前走以上の評価を得ていた。しかし、彼が淀の大障害コースのゴール板を無事駆け抜けることは遂に無かった。「とにかく無事に飛んでくれたら」という大久保師の願いも虚しく、大障害コースの入り口に当たる11号の何の変哲も無い土塁障害に向かって勢いよく突っ込むような体勢で落馬し、競走を中止した。

競走中止後の彼の容態については伝わっておらず、分かっていることは5月中に競走馬登録を抹消されたということのみに過ぎない。引退後は乗馬に転用されたというが、現役を退いた後の行方がハッキリしているメジロアイガーやメジロワースらとは違い、その繋養先は全く不明である。もしかすると、落馬の際に脚部を痛めて廃馬になったのかも知れない。同じ大久保正陽厩舎の後輩たるメジロパーマーが障害帰りで春秋グランプリを連勝したのはこの3年後のこと。前に札幌記念勝ちの実績があったパーマーが、本気で障害重賞を獲りに行くべく“札幌記念2着のメジロゴスホークの2匹目のどじょう”を狙って障害入りを図ったのかどうかは定かではないし、師の真意が今後明らかになることも無いであろう。どじょう取りがどじょうになった、とでも呼ぶべきなのか、否か。

メジロゴスホーク -MEJIRO GOSHAWK-
牡 栗毛 1984年生 没年不詳
父ニゾン 母メジロパンサー 母父ネヴァービート
競走成績:中央平地23戦4勝 障害5戦3勝 地方1戦0勝
主な勝ち鞍:阪神障害S(春)

2015/12/24

【私撰名馬物語#60】ノーザンコンダクト

―発展途上のブルボン王朝を存分に脅かした“和製アラジ”の騒乱―


サンデーサイレンスの直仔たちが種馬として全盛を迎えている今となっては顧みられることも大変少なくなったが、社台ファーム……いや、日本競馬の底上げに大いに貢献したはずのノーザンテーストの直系子孫は、去る2013年に滅亡しまった、らしい。“最後の砦”たるメジロブライトが早世し、ノーザンテースト直系最後の重賞ウイナーのレッツゴーキリシマも、結局後継にはなれずにひっそりと引退。して最後に残った種牡馬が公営浦和の下級条件を勝っただけのダイナマイトメール(父はダイナレター)だというのだから、何とも侘しい。そのダイナマイトメールの産駒も皆すでに競馬場から姿を消したようで、かつて日本競馬を牛耳った大種牡馬の血脈は虚しくも途絶えた模様だ。

私が競馬を始めた頃は、「ノーザンテースト最後の大物」という仰々しい枕詞がまだ世間でまかり通っていた。その対象となったのは、例えばクリスザブレイヴ。あるいはシティースケイプ。はたまた正真正銘最後の産駒であるラストリゾートといったあたり。さらに時代を遡れば、マチカネタンホイザだとか、ノーザンアスリートだとか、ノーザンポラリスだとか……そして忘れてはならないのが、本稿の主人公であるノーザンコンダクトであろう。

引退から20年以上が経過した今や彼は「ミホノブルボンの咬ませ犬」としてのみ記憶されている存在かも知れない。大牧場期待の良血にして名門厩舎所属という、誰もが羨む人的背景。故に、当時の彼に対するマスコミやファンの期待は限りなく膨らんだのだが、実際に人的背景に見合った能力を備えていたか、と問われれば、そりゃ疑問符もつくというもの。見出しの「和製アラジ」という呼称も、立派な後継種牡馬を残した本家に甚だ失礼と、各所よりお叱りを受けそうではある。

後に「ミホノブルボンの真のライバル」へと昇格したライスシャワーが、記録と記憶両方に残る名馬として7歳(旧馬齢表記)で身罷ったのに対し、このノーザンコンダクトと、朝日杯にてブルボンと覇を競ったヤマニンミラクルは名馬として讃えられることも無く、単なる「早熟の天才」扱いの競走馬に成り下がってしまった。それは考えようによっては不幸なのかもしれない。しかし裏を返せば、ノーザンコンダクトという馬は実力以上の華を持ち合わせた馬であった、ということでもある。一時的なものであったにせよ、3歳終了時の彼がミホノブルボンを上回る期待を集めていたのは事実であるし、彼の末脚には相当の魅力が感じられたのだ。1992年の春、人心を大いに惑わした大騒乱の首謀者であるノーザンコンダクトは、果たしてどのような競走馬であったのだろうか。

中央競馬のリーディングサイアーの座を11年連続で獲得し、現在に至る社台王国を築き上げる立役者となったノーザンテースト。しかしそれほどの種牡馬でありながら、同馬が日本ダービー馬を生涯で1頭しか出せなかった、というのはそれなりに知られている事実である。そのただ1頭のダービー馬とは、1983年生まれのダイナガリバーであるが、ダービーに加えて有馬記念をも手中に収めたにも関わらず、この孝行息子は社台スタリオンステーション入りを許されなかった。こういった措置は、社台グループの創業者である故・吉田善哉氏の意向であった、と一般的に言われている。要するに、生前の善哉氏は内国産種牡馬を軽視していたのだ。後にサッカーボーイが社台SS入りする際にも、善哉氏は次男の吉田勝己氏と激しく揉めたという。

だが、ダイナガリバー、またはアンバーシャダイが、もし現役時にミスターシービー(内国産種牡馬として初めて社台SS入り)並のパフォーマンスを発揮していたら、どうなっただろうか?恐らくは社台入りが叶っただろうと私は思う。彼らノーザンテーストの息子たちには、社台王国を発展させると善哉氏に思わせるだけの魅力が無かったのだ。後には両者共にGⅠサイアーとして名を馳せたと言えども、偉大なるノーザンテーストの後継種牡馬としては物足りず、やがてサイアーラインは断絶に至る。件のノーザンコンダクトが誕生した1989年の時点では、こんな未来は予測できなかっただろう。しかし、いにしえの大種牡馬たち……ヒンドスタンやチャイナロック、そしてテスコボーイやパーソロンと比較すると、決定打と呼べる大物を出せていない、というのはノーザンテーストの全盛期においても一部で懸念されていたようである。

それだけに、人々は「ノーザンテースト最後の大物」をひたすら渇望した、というわけだ。数々の産駒たちがその対象となったのだが、結局最後の最後まで決定打は出ないまま、後継争いは静かにゲームセットを迎えることになる。それもこれも、やはり今は昔、の話ではある。

冒頭で述べたように、ノーザンコンダクトも多くの例に漏れず、ノーザンテースト産駒における「最後の大物」と呼称された。が、千歳の社台ファームにて生を享け、当地で育成されていた3歳の頃の彼は、“大物”では決して無かったようである。

「小柄な馬で、3歳馬の中に1頭だけ2歳馬が混じっているような感じを与える馬だったんですよ(社台ファーム・尾形重和氏:談)」

ざっくり言うと、幼駒時代の彼はチビだったのだ。母のアトラクト(父ブラッシンググルーム)は1988年初頭に米国より輸入された繁殖牝馬で、同馬はその春にクレヴァートリックを父に持つ牡駒を産んだのだが、このノーザンコンダクトの一つ年上の半兄は非常に小さな馬であった。兄の名はアトラクティヴといい、400kgそこそこの馬格ながらも中央で1勝を挙げた。獣医の尾形氏はこう続ける。

「小さいと言ってもその兄に比べれば体はあったし、闘争心も優れてましたから、そこそこは走ってくれるんじゃないかと見ておりました(尾形氏:談)」

ノーザンコンダクトに対する牧場の期待は決して小さくは無かった。とは言え、重賞を勝ってクラシック戦線を賑わすほどになるとは……というのが本音であるようだ。プロ野球に準えれば、巨人のドラフト4位の社会人出身の二塁手ぐらいの期待感、と言えるだろうか。

とは言え、名門軍団の良血馬であることに変わりは無い。母方の血は代々優秀な種牡馬が重ねられ、近親にも海外の重賞勝ち馬が多数存在した。して栗東の名門・伊藤修司厩舎所属ともなれば、一般的な評価はいやが上にも高まるところ。成長しても440kg程度のまるで牝馬のような細身な馬体にしかならなかったが、少なくとも血統や人的な背景を鑑みれば、「ノーザンテースト最後の大物」候補としての資格は十分にあった。父譲りの栗毛で、顔の真ん中には形の良い流星が据わっている。また、彼の眼は優しげで、薄い馬体と相まって牝馬を思わせたという。

注目のデビュー戦は1991年11月の淀で迎えた。若手のホープ・岡潤一郎騎手が跨った新馬戦の結果は人気通りの1着。芝のマイルを好位につけ、後に重賞を賑わせるナリタフジヒメ以下を完封するという結果であった。伊藤師はこの勢いを駆って、中1週でオープン特別の京都3歳S(京都芝1800m)にノーザンコンダクトを出走させたが、馬場の荒れた内を通る形となりスタントマンの3着に屈した。

2戦目にして初黒星を喫したものの、「おしまいの脚には見どころがあった」と伊藤師は悲観していなかった。続いて再び中1週で出走したエリカ賞(阪神芝2000m)では、武豊騎手が鞍上のマヤノペトリュースに1馬身半差つけて完勝し2勝目。この勝利によって、負けん気の強いチビの二塁手は、一躍関西のクラシック候補に躍り出たのだった。

ノーザンコンダクトが通算戦績を3戦2勝としたエリカ賞は11月の末に施行された。したがって、例年ならば関西馬らしく12月半ばの阪神3歳Sへ出走するのが定石であろう。ところが、この1991年に3歳戦の番組の大改編が執り行われたために、“西の3歳チャンプ決定戦”だった阪神3歳Sは牝馬限定戦の阪神3歳牝馬S(現:阪神ジュベナイルフィリーズ)へと模様替えし、東の朝日杯3歳Sが牡・セン馬限定の東西統一3歳チャンプ決定戦として新装開店していたのだった。さらに、12月後半のGⅢ・ラジオたんぱ杯3歳牝馬Sも牡・セン限定戦に姿を変え、距離も従来の1600mから2000mに延長された。明らかにクラシック路線を見据えたGⅢとなったのだ。これは折り合いに不安が無く、マイルの忙しい競馬よりもじっくりと競馬を進められる中距離以上が向くノーザンコンダクトにとって、願っても無い朗報に他ならない。伊藤師は連闘での東上となる朝日杯3歳Sを迷わず避け、ラジオたんぱ杯3歳Sをノーザンコンダクトの次走に選択した。

12月半ばの朝日杯3歳Sでは栗東・戸山為夫厩舎のミホノブルボンがハナ差でヤマニンミラクルを下し、重賞初挑戦にしていきなりGⅠを奪取していた。だが、一見して短距離が向く血統背景故なのか、「皐月賞へは不安が先立つ」と戸山師の声のトーンはいたって低い。むしろ、父がリボー系でジャパンC2着馬のアレミロードというヤマニンミラクルの方が、客観的に見て距離不安は無いように思えたほどである。ところが、GⅠにおいて僅差の2着に入り、クラシックへの展望が開けたはずのヤマニンミラクルが、これ以降勝ち星を挙げられずに引退してしまうのだから競馬は分からない。戸山師が朝日杯後のインタビューでこう言っているのにも関わらず、だ。

「勝つには勝ったけど、2着だったヤマニンミラクルの強さの方が目についてしまいましたね(戸山師:談)」

一方、ラジオたんぱ杯に出走してきたノーザンコンダクトには、伊藤師の27年連続重賞制覇の大記録が懸かっていた。前年限りで看板馬たるスーパークリークが競馬場を去り、1991年の伊藤師はそれまで9度重賞に管理馬を送り出しながらも、3着が最高着順という結果にあえいだ。デビュー3戦で鞍上を務めた岡騎手が前週に騎乗停止処分を受け、ラジオたんぱ杯でノーザンコンダクトの手綱を取ったのは藤田伸二騎手であった。藤田騎手は新人ジョッキーながらも37勝を挙げている、追えると評判の期待株。しかしながら重賞勝ちはまだ無い。西の名伯楽の記録達成は、薄手の馬体のクラシック候補と、度胸満点のルーキーに託された。

圧巻の内容だった。12頭立てのラジオたんぱ杯3歳S。単勝2.0倍の1番人気に推されたノーザンコンダクトは、道中は先頭から10馬身以上離れた9番手の位置に悠然と構えた。4コーナーでピンク帽のスタントマンが仕掛けて早め先頭の競馬を試みたが、直線に入ると外から藤田騎手のゴーサインに応えてノーザンコンダクトが一気に伸びる。まさに豪脚という表現がピッタリとハマる脚を見せ、並ぶ間も無くスタントマンらを交わしたノーザンコンダクトは、グイグイと伸び2番手を突き放してゴールイン。名伯楽の27年連続重賞制覇と、のちのダービージョッキーの初重賞制覇を請け負うことに成功した。

「直線を向くまで我慢しろと言われたので、ちょっと置かれた3コーナーあたりでは迷いました。でも、じっとしていて正解でした。直線は本当によく伸びてくれましたね(藤田騎手:談)」

「レースを終えてみて、この馬の強さを改めて認識したというのが、私の正直な心境です(伊藤師:談)」

2着に敗れたスタントマンの渡辺栄調教師は、「あれで勝たれたら仕方が無い」とノーザンコンダクトの豪脚に思わずシャッポを脱いだ。勝ちタイムこそ2分5秒9と一見平凡であったが、これはかねてからの阪神競馬場の大改修による馬場改造が影響しており、ノーザンコンダクトの走りに傷を付けるものでは全く無い。むしろ、改修により新しく設置された直線の坂を力強く上る姿にこそ、彼の強さが凝縮されていた。追い出すと重心を低く下げ、自らハミを取ってグイグイと伸びる。ジョッキーのアクションへの反応も鋭く、妙な癖も無い。同い年の馬にヨーロッパの3歳GⅠを総なめにし、勢いそのままに米国に遠征してブリーダーズCジュヴェナイルをも手中に収めた「ワンダーホース」ことアラジがいたが、2頭は血統構成がよく似ており、栗毛で小さめの馬格であることも同じと、共通点が多かった。もっとも、ノーザンコンダクトを恐れ多くも「和製アラジ」と呼んでいたファンが当時存在したかどうかは、私は知ったこっちゃないが。兎にも角にも、大種牡馬・ノーザンテースト産駒の決定打が、この年遂に放たれたように感じられても、全く無理は無かったのだ。ちなみに、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬の選考において、ノーザンコンダクトはGⅢ1勝馬ながら2票獲得している。

こうして1992年クラシック戦線の有力候補として名乗りを上げたノーザンコンダクト。年が明けて、伊藤師が4歳の初戦として選択したのは、共同通信杯4歳Sであった。関西のきさらぎ賞では無く、府中の共同通信杯を選んだという点に、伊藤師のダービーへの意気込みがまざまざと感じられよう。

ところが、新たに鞍上に迎えようとしていた武豊騎手が前日に騎乗停止処分を受けてしまい、急遽ノーザンコンダクトには再び岡騎手が跨ることとなった。岡騎手は当時関西期待のホープとして注目される存在であり、前年の秋にはリンデンリリーでエリザベス女王杯を制しGⅠジョッキーの仲間入りを果たしていた。デビュー3戦の手綱を取った顔馴染みの騎手ではあったものの、後々のノーザンコンダクトの運命を鑑みると、これこそがケチの付け始めであったように思えてならない。

+8kgと幾分太目残りで出走した共同通信杯。しかし、ファンの評価は単勝オッズ1.5倍。当然の如く1番人気と、彼に対する期待感は天井知らずなようであった。2番人気のマチカネタンホイザは同じノーザンテースト産駒で、3番人気のエアジョーダンはアンバーシャダイの仔である。ノーザンテースト時代の象徴とも呼ぶべき同重賞では、遅めのペースをエアジョーダンが早めにスパートし、例の如く外から追い込んだノーザンコンダクトを3/4馬身抑え込んだ。思わぬ不覚に、レース後の岡騎手は「もうこの馬に乗ることは2度と無いでしょう」と無念さを滲ませたと言われる。

“控えめな3歳チャンピオン”ミホノブルボンは年明けに腰を捻るアクシデントに見舞われ、調整が遅れ気味であった。一方のノーザンコンダクトも2着に敗れた前走からのレース間隔を考えると、弥生賞は避けて3月末のスプリングSを選んだ方が上策なように思えた。運命のいたずらなのか、この2頭の関西馬は本番の皐月賞では無く、前哨戦のスプリングSにおいて顔を合わせてしまう。ノーザンコンダクトの鞍上には今度こそ「若き天才」こと武騎手が据えられ、片やミホノブルボンには今まで通りに厩舎縁の小島貞博騎手が跨った。若き天才と地味な障害上手。ノーザンテースト産駒とマグニテュード産駒。そして27年連続重賞制覇の名伯楽と、坂路の鬼にしてスパルタの風。何もかもが対照的な2頭の強豪が、GⅡにて出遭ってしまった。

スプリングS。1番人気に推されたのは、若き天才の騎乗馬であった。彼らは競馬ファンの信頼を勝ち取ることに成功し、3歳チャンピオンの危うい天下に異を唱え、ファッキンポーズで自信満々に反旗を翻した。だが、勝ったのは2番人気の地味な中年騎手の馬だった。2着馬との差、ゆうに7馬身。その2着馬はノーザンコンダクトでは無かった。初めて経験する中山の重馬場が堪えたのか、後方でもがき続けた彼は、結果勝ち馬から20馬身ほど離された11着に沈んだ。新馬戦から積み上げてきたファンの信頼が、一瞬でパチンとはじけた。

後のことは書くまでも無いかも知れない。書かない方が綺麗に物語が終わるからだ。でも競馬とは汚いものであるから私は綴ってしまう。許しておくれ。

中山の荒れ馬場を嫌って皐月賞を回避したノーザンコンダクトであったが、5月半ばに右前脚の屈腱炎が判明し、長期休養に入ってしまう。関係者の尽力もあり、翌1993年4月の陽春S(阪神芝1600m)にて幸い復帰が叶ったものの、9着惨敗。それから間も無く屈腱炎が再発し、早々と引退が決まった。

不本意な引退の後、父の血を受け継ぐことは出来ず彼は乗馬に転用され、苫小牧のノーザンホースパークに繋養されたと言われる。Web上には00年代前半まで目撃情報が散見されるが、最近の動向は全く触れられておらず、2015年現在の消息は不明と言わざるを得ない。

あのラジオたんぱ杯3歳Sから24年が経過した。のべ4戦の手綱を取った岡騎手は1993年1月に落馬事故に見舞われ、件の共同通信杯の日……2月16日が命日となった。初重賞の喜びを分かち合った藤田騎手は、喧嘩別れのような形で今年秋にJRAと袂を別ち、ムチを置いた。伊藤師は2000年に定年引退後、怪しげな競馬情報会社の広告塔の座に就いた。心ある競馬ファンに「あれだけ成功した調教師でも……」と嘆かせた師も、今はもう故人である。ノーザンコンダクト自身について話題に上ることも、今やほとんど無いと言っても良い。彼の記憶は、新表記で26歳を迎えたミホノブルボンの英雄譚に付随した取るに足らないこぼれ話としてのみ、命脈を保っているのだろうか。一瞬だけベラボーに強かったあの細身の栗毛が、競馬ファンの心を大いに惑わすことなど、もう二度と無いのだろうなぁ。競馬は記憶と虚像のスポーツ。したがって皆に忘れ去られたら、そこで試合終了である。

ノーザンコンダクト -NORTHERN CONDUCT-
牡 栗毛 1989年生 没年不詳
父ノーザンテースト 母アトラクト 母父Blushing Groom
競走成績:中央7戦3勝
主な勝ち鞍:ラジオたんぱ杯3歳S

2015/12/16

【私撰名馬物語#59】キタサンテイオー

―不世出の大歌手と名伯楽、それぞれの邂逅と栄華と花道と―


公営船橋競馬の名伯楽、いや近年の地方競馬全体を代表する名伯楽であった川島正行調教師がこの世を去ってから、もう2度目の暮れを迎えようとしている。月日が過ぎるのは早い、とただただ感嘆するばかりだ。

川島師の偉大さをわかりやすい形で説明すると、「アジュディミツオー、フリオーソの南関二大巨頭を育てる」「地方所属馬初のドバイ遠征を敢行」「東京ダービー5勝」「通算勝率2割6分4厘」「川島再生工場」「ヒゲ」……いや、拙い言語で説明するのは野暮というものだろう。とにかく、1990年の厩舎開業以来驚異的な成績を残し続け、“川島軍団一人勝ち”の牙城を10年単位で築き上げたことは驚嘆に値する。彼の遺産は息子の川島正一師や、弟子の山下貴之師(元騎手)などに分散されて受け継がれる模様だが、果たして今後船橋……南関競馬の勢力図はどのように変貌を遂げるのか、注視していく必要がある。

話題を転換する。すっかり冷え込んだこの年の瀬の空気を暖めるビッグイベントと言えば、競馬界では有馬記念、また歌謡界では紅白歌合戦が挙げられよう。そして2つのイベントを結びつけるキーマンが、今年度はしっかりと存在する。他でも無い、北島三郎御大である。長年紅白をシメてきた御大に、悲願のGⅠタイトルを献上した菊花賞馬・キタサンブラックが、来たる暮れにはグランプリに出走するのだ。揃った面子にもよるが、恐らく同馬はクラシックに引き続き単穴~連下評価という気楽な立場で、大きな一発を狙うことになるのではないだろうか。だが穴人気とは言えども、キタサンブラックはれっきとしたクラシックホースだ。それなりにカッコをつけないと金看板に傷がつくというもの。ここは是非、同馬に“菊花賞馬らしい立派な走り”を望みたい。紅白大トリ男・北島三郎が唄い上げる「まつり」が、中山競馬場から船橋法典駅とららぽーとにまで響き渡る様子。それこそが、“不世出の大歌手”が歩み踏みしめた競馬道における真の花道と呼べるのではないか。

冒頭で述べた故・川島正行師の軌跡、して有馬記念での北島三郎御大の花道。一見関係無いように見えるこの二巨人だが、地方競馬の事情に詳しい方ならもうご存知であろう。実はこの2人は“熱い絆”によって結ばれていた、という話はこぼれ話扱いにするには役不足というものか。何はともあれ、今回ご紹介する馬は、北島三郎氏所有(馬主名義は(有)大野商事)のキタサンテイオーである。1992年12月の全日本3歳優駿(旧馬齢表記)などを制した彼は、創生期の川島厩舎が全国区のスターダムへとのし上がる原動力となり、北島氏率いるキタサン軍団が中央競馬に根を張るための布石となった。やがて力余った彼は川島厩舎を飛び出し、よりレベルの高い世界へと飛び立つため翼を広げようとするのだが……舞台背景から年の暮れにピッタリと思われる名馬・キタサンテイオーの物語を、これから粛々と綴っていきたい。

キタサンテイオー自身の話をする前に、まずは川島師と北島氏の出逢いについて書こう。話は1980年に遡る。

今となってはあまり語られないが、川島正行調教師の前職は騎手である。1947年9月に千葉県で生まれ、1964年に公営船橋の騎手試験をパスしジョッキーとなった川島師は、以後20余年間馬乗り稼業を勤め上げた。通算で786勝を挙げ、船橋のリーディングジョッキーに輝いたこともある。あのロッキータイガーに羽田盃と東京ダービーで騎乗したのも彼である(いずれも惜敗)。中堅以上一流未満の騎手であった。師匠の林正夫調教師の下、歓喜と辛苦両方を味わった騎手生活。デビュー以来16年ほど忍耐強く頑張ったが、なかなか師匠に実力を認められなかった。ようやく一人立ち……つまり「もう一人前」と関係者に声に出して言われたのが、三十路をとうに過ぎた頃。そのきっかけが、浦和のアラブ重賞・シルバーCを歌手の北島三郎氏が所有するエリモミサキで制したことであった。

北島三郎氏の持ち馬の名が襟裳岬というのもどこか妙ちきりんな話だが、それは脇に置いといて。愛馬をハナ差で重賞制覇に導いた川島騎手(当時)に、北島氏は「もう彼も一人前だね」と労いの声を掛け、大いに喜んだ。この勝利は北島氏にとって、馬主としての初めての重賞勝ちであった。これが縁となり、以降御両人はまるで義兄弟のように仲睦まじく付き合ったという。林師も川島騎手の腕をようやく認め、一人前の証として翡翠の指輪と時計と着物をプレゼントした。後々も川島師は、この記念の指輪を初心を忘れないために競馬場に行く度に着用したというが、式典出席時の立派な袴がこの時の着物と同じ代物であったかどうかは定かで無い。

話が脱線した。1980年の北島氏との邂逅を経て、1987年に40歳でムチを置いた川島騎手は、下って1990年より船橋競馬場にて厩舎を開業した。一国一城の主となったのだ。腕っ節と鼻っ柱の強い彼が調教師免許を取得し、厩舎を開業するまでには組合と一悶着も二悶着もあったというが、ややこしい事態を収拾したのもまさしく北島氏の一声であった。もちろん川島師も血が滲むほど努力した。彼が中央競馬の境勝太郎調教師を通じて、故障馬の勉強・研究をしたのもこの頃である。これらの経験は存外すぐに実を結び、初めは5馬房しかなかった川島厩舎は躍進と拡大の一途をたどることとなる。

川島師がキタサンテイオーの母・キタサンクインと出逢ったのは、同馬がまだ幼駒だった頃である。三石の牧場を訪れた北島氏と騎手時代の川島師は、ロジンスキーの娘である“パーセントの1984”を見初めたのだという。父ロジンスキーは当時数多くいたニジンスキー直仔の種牡馬の中でもパワータイプ、且つ三流の種牡馬であった。恐らくは、母のパーセントが現役時北島氏の妻の名義で走ったことに起因しているのだろう。兎にも角にも、やがてキタサンクインは川崎でデビューし、東京プリンセス賞3着、戸塚記念5着などそれなりの活躍を見せた。引退後同馬は片岡禹雄氏の下で繁殖入り。そして川島厩舎開業の年、1990年の4月に生を享けたのがキタサンテイオーである。鹿毛馬のキタサンテイオーの父はミルリーフ直仔の英GⅡ馬・サウスアトランティック。当時は種牡馬・ミルジョージ全盛の世の中。言うなれば流行の血筋だ。

母と同様に北島三郎氏(名義は(有)大野商事)の持ち馬となり、長じて船橋の川島正行厩舎に預けられたキタサンテイオー。1992年8月の新馬戦(船橋ダート1000m)を逃げて6馬身差で勝利し初陣を飾ると、千二に距離が延びた9月&10月の特別戦も勝利。この3戦の鞍上は、いずれも36歳で脂の乗り切った船橋の名手・石崎隆之騎手であった。

この石崎隆之騎手は、後の1994年にワールドスーパージョッキーズシリーズで優勝し、その3年後に施行されたGⅡ・東海ウインターSをアブクマポーロで制したことで中央競馬にも名を轟かせた。アブクマポーロとのコンビはその後も継続され、東京大賞典や帝王賞などダートのビッグタイトルを次々と奪取した。また、無敗の南関東四冠馬・トーシンブリザードとのコンビでも著名である。実子の石崎駿騎手がほぼ一人立ちし、本人も還暦を迎えんとする2015年現在では乗鞍がかなり減っており、1日1鞍だけヒョイと乗って帰る日々が続いているが、90年代には今も現役バリバリの大井所属の的場文男騎手と火花を散らし鎬を削っていた。須田茂、佐々木竹見、高橋三郎、桑島孝春、そして的場文男らと共に、間違いなく歴代の南関東公営を代表するジョッキーに名を連ねる存在であろう。

さて、デビュー以来無傷の3連勝を危なげなく飾ったキタサンテイオーであるが、続く4戦目にして初めて当地の重賞に挑戦することとなった。11月の平和賞(船橋ダート1600m)である。距離はマイルに延びたが、地元開催ということもあって、8頭立てで単勝オッズは1.4倍と圧倒的な支持を得た。結果はというと、同じく船橋所属のプレザントが大逃げを打つ中、離れた3番手で楽に追走。4コーナー手前で石崎騎手が仕掛けると抜群の反応を見せ、粘りこみを図るプレザントをゴール前で計ったように半馬身だけ差し切った。これで土つかずの4連勝。川島師が後に刻む濃い歴史の最初の1ページとなる、何とも見事な重賞初制覇であった。

ところが、連勝街道を驀進するキタサンテイオーの前に強敵が立ち塞がる。大井のブルーファミリーの登場である。その当時本邦ではまだ珍しかったミスタープロスペクター直仔のテューターを父に持つ同馬は、地元の新馬戦と特別戦をやはり危なげなく完勝。父は不肖の5戦未勝利馬だが、世界的大種牡馬の父父と母父のマルゼンスキーより天性のスピードを受け継いだ快速牡馬であった。

2頭が雌雄を決したのは12月初めの大井重賞・青雲賞。平和賞と同様にマイルで行われた同レースでキタサンテイオーは1番人気に支持されたが、石崎騎手から乗り替わった佐藤隆騎手と共に臨んだものの、逃げるブルーファミリーを捕まえ切れず2着に終わった。この敗戦にさしもの川島師も「相手が強かった」とお手上げ状態。レースぶりは上手かっただけに、勝ったブルーファミリーの強さが誇示されるだけの内容となってしまった。

5戦4勝2着1回、うち重賞1勝とほぼパーフェクトな戦績を挙げながらも、管理する川島師はさらなるビッグタイトルを求めた。伝統の全国交流重賞・全日本3歳優駿(川崎ダート1600m)こそが、師が最初に奪取を図ったタイトルである。日時は12月22日。その2日前、中央競馬では持ち込み馬のニシノフラワーがスプリンターズSを制していた。血統の過渡期、また騎手や調教師の過渡期でもあった1992年、前年に斃死したサウスアトランティックの息子であるキタサンテイオーが、公営3歳馬の頂点に立つべく、同重賞へとコマを進めて来た。川島・北島両氏の黄金タッグにとって、初めての山場となった舞台と言えるだろう。

しかし、全国交流重賞と一応名はついていたものの、この年の全日本3歳優駿に北海道勢以外の他地区馬の参戦は皆無だった。その北海道勢は北海道3歳優駿勝ちのスイートビクトリアと、同レースにて人気を集めながらもシンガリ負けを喫したジュライスリーの2頭。前者に圧倒的な凄みは感じられず、後者には如何にも距離不安が付きまとった。対する南関東勢は風車ムチの桑島孝春騎手が操るプレザント、そして南関のトップジョッキー・石崎騎手に手が戻ったキタサンテイオーと、船橋勢が上位人気を占めた。石崎騎手はこの重賞を過去4回制しており、まさしく盤石の体制であった。大井のブルーファミリーは不参戦。したがってキタサンテイオー、ここは負けられない。

まず逃げを打ったのは、テンの速さには自信があるキャリア豊富な道営馬・ジュライスリーだった。鞍上の角川秀樹騎手が誇らしげに行き切らんとハナを切ったが、すぐ後ろからプレザントやキタサンテイオーが突っつく展開となり、まったく息が入らない苦しい逃げに。スイートビクトリアは道中最後方から行ったが、3コーナーでの行き脚はあまりよろしく無い。

4コーナー手前で逃げ馬が一杯になり最初に脱落。追い掛けていたプレザントが並ぶ間もなく交わし、やがて先頭に立った。桑島騎手は砂の深いインを嫌い、外目へと持ち出した。そこにあえて内目からやって来たのが石崎騎手とキタサンテイオーだ。平和賞で見せつけた“並んでからの強さ”を彼はここで嫌というほど発揮し、外のプレザントと競り合いの末、ゴール板を前にして3/4馬身ほど抜け出た。2着馬から5馬身離された3着には後方から伸びたスイートビクトリアが入った。

川島師が思い描いていた青写真通りに、公営3歳馬の頂点に立ったキタサンテイオー。川島師自身の「芝でもやれる馬」という助言に心を動かされた北島氏によって、4歳になった彼は中央競馬……美浦の嶋田功厩舎へと移籍し、皐月賞に端緒とする中央牡馬クラシック制覇へ向けて調教されることになった。同父のミルジョージと比べて産駒に芝馬の多いサウスアトランティックの息子。血統的には芝は全くと言って良いほど問題が無い。全日本3歳優駿の勝ちタイムには多少疑問符が付いたものの(ひと月前に同条件で開催された全日本アラブ争覇の勝ち馬・マルシンヴィラーゴのタイムよりも1秒9も遅かった)、その頃放送されたフジテレビの深夜の競馬番組において、「今年のダービー馬はキタサンテイオー!」と威勢よく指名されるなど、話題性も十分(?)であった。

ところが、中央緒戦と目されていたスプリングSを前に、彼は左前トウ骨遠位端に骨膜が出るアクシデントに見舞われてしまう。それ故に中央御披露目は白紙となり、彼は先の見えない長い長い休養に入った。遅れに遅れた中央緒戦は、なんと全日本3歳優駿から約1年7ヶ月後の1994年7月、新潟のオープン特別・朱鷺S(芝1400m)にまでズレ込んだ。すでに彼は5歳馬。これじゃあ話題性もへったくれもあったものでは無い。中舘英二騎手が跨った同レースでは前々で頑張り、勝ったメジロカンムリと僅差の2着に好走し、一応の格好はつけて見せた。しかし、続くGⅢ・関屋記念では2番人気に推されながらも、完全に長期ブランクからの2走ボケにハマり、行きっぷり悪く5着に敗退。朱鷺Sで乗っかりかけた中央のスター街道から、この敗戦で見事に取り残されてしまった。

鳴り物入りで移籍したはずのキタサンテイオーが中央で七転八倒している間に、古巣の川島厩舎は「川島再生工場」として名声を高めていた。不肖の公営3歳チャンプと物々交換だと言わんばかりに、壊れて捨てられてきた中央の上級条件馬のモガミキッカやサクラハイスピードが、腕利きの川島師によって見事に立ち直り、南関東の大レースを次々と奪取したのである。見事な活躍ではあったが、これでは厩舎を飛び出したキタサンテイオーは立つ瀬が無い。おまけにかつてのライバル・プレザントは東京ダービー馬となり、ブルーファミリーは堂々の南関二冠馬だ。これじゃあ恩師や旧友たちに合わせる顔が無い。弱ったなぁ。さらにキタサン軍団には新たにキタサンサイレンスという期待馬が……もう勘弁してくれぇ!

関屋記念以降、キタサンテイオーは慢性の脚部不安故に休み休み使われながら9歳まで16戦したが、結局準オープンの阿武隈S(福島ダート1700m)で挙げた1勝のみに留まった。1996年のGⅡ・フェブラリーSでは、2つ年下の全日本3歳優駿馬・ヒカリルーファス(12着)と激しい先行争いを演じ公営ファンをぬか喜びさせたものの、案の定共倒れとなり13着に惨敗。確かにスピードは非凡なものを持っており、芝適性もそこそこあったが粘り腰に欠け、何より万全な状態での出走が叶わなかったのは痛かった。晩年は筆まめな谷中公一騎手とコンビを組みオープンクラスで戦ったが、白星を上げることは遂に出来ず、1998年7月の朱鷺Sで7着に屈してから1ヶ月ほど後に登録を抹消された。引退後の道行きは「乗馬」とアナウンスされたが、その後の消息はまるで聞こえてこない。1992年度公営3歳チャンプ・キタサンテイオーは、こうして花の中央競馬でヨレヨレくたくたになるまで負け続けた後、行方知れずとなった。

だが、彼の母であるキタサンクインは、その後も長男に負けずとも劣らずの駿馬を産み続けた。4歳下の半弟のキタサンフドー(父サクラホクトオー)は小倉3歳Sで2着、デイリー杯3歳Sで3着と非凡な才能を見せ、最終的に1億円超の賞金を稼ぎ上げた。また、1998年生まれのキタサンチャンネル(父ヘクタープロテクター)はニュージーランドTで岩手の星・ネイティヴハートを完封しGⅡ制覇。さらに、1999年生まれのキタサンヒボタン(父フジキセキ)は極めて非凡な才能を持っていた。最終的に彼女はGⅢ1勝(ファンタジーS)止まりに終わったが、7戦5勝の戦績を残し最後の最後まで底を見せなかった。キタサンクインは2001年に死亡したが、複数頭の後継繁殖牝馬を残しており、牝系はしばらく安泰であろう。キタサン兄弟の長男坊は軍団の捨て石となり、不遇をかこったままその消息を絶ったものの、これだけ下の兄弟が活躍すれば兄貴の苦労も報われた、と言えるのではないだろうか。

キタサンテイオー -KITASAN TEIO-
牡 鹿毛 1990年生 没年不詳
父サウスアトランティック 母キタサンクイン 母父ロジンスキー
競走成績:地方6戦5勝 中央18戦1勝
主な勝ち鞍:全日本3歳優駿 平和賞

2015/11/19

【私撰名馬物語#58】ヘッドシップ

―忘れられかけていた穴男の、実に“らしい”初重賞制覇―


高山太郎、というジョッキーの名をあなたは覚えているだろうか。美浦・佐藤全弘厩舎所属(後年フリーに)。1994年3月デビューだから、現役の騎手でいうと吉田豊や幸英明らと同期になる。関東の大穴ジョッキーとしてデビュー以来3年ほどの間異彩を放っていたので、ある程度キャリアの長い馬券ファンなら記憶に残っているかも知れない。ポジションとしては現役の大庭和弥に近いような気もするが、イン突きを身上とする古風な佇まいの大庭と比べて、より現代的且つやんちゃな騎手という印象が高山にはあった。何しろ、活躍が顕著だった当時出版されたある書籍に「プリクラの達人」なんて記述があったほどである。うーん、現代っ子ですなぁ。

そんな特異な存在であったはずの高山だが、後発の活きの良い若手騎手を押し退けるほどの活躍は出来ず、時代が21世紀を迎える頃にはかなり影が薄くなっていた。これには師匠の佐藤全師の成績が低迷したことも影響しているだろう。高山は以後も細々と騎手稼業を続けたものの、やがて2010年1月に34歳の若さで鞭を置いている。結局は、デビュー年の25勝がキャリアハイとなってしまったわけだ。同じく穴騎手として頭角を現し、長い低迷期を経て近年再び小ブレイクしている中谷雄太のように、器用に立ち回れば何とかなったかも知れない。それも調教助手に転身した今ではたられば話に過ぎないわけだが。

今回ご紹介するヘッドシップは、2000年10月に施行されたGⅢ・カブトヤマ記念の勝ち馬である。そしてそのカブトヤマ記念は、高山騎手が生涯で唯一手にした重賞タイトルでもある。時代の流れによって廃止の憂き目に遭ったカブトヤマ記念。同重賞の長い歴史の末頃に誕生した、最も“らしい”勝ち馬がこのヘッドシップであり、実に“らしい”勝利ジョッキーが高山太郎騎手、その人であったのだ。

ヘッドシップの故郷は静内の稗田牧場である。同牧場は去る1996年にラフィアンの岡田繁幸氏に買収され、マイネル&コスモ(&ウイン)軍団の一施設・コスモヴューファームと名を変えている。1959年の秋の天皇賞と有馬記念を連勝したガーネツトをかつて生み出した名門も、ファミリーの長老格たる稗田敏男調教師が1995年に定年を迎えたのが影響したか、マイネル軍団の進撃に屈す形となったようだ。1994年4月に誕生した栗毛の牡馬のヘッドシップは、結果的に斜陽の稗田牧場の末期を飾る活躍馬となった。

通算戦績は62戦して5勝。そして唯一のビッグタイトルはマル父重賞のカブトヤマ記念と、数多い歴代中央重賞勝ち馬の中でも、地味さにかけては一二を争う存在と呼べるヘッドシップ。だが、意外にも彼の血統は客観的に見てそう悪いものでは無く、むしろ「内国産のエリート」に近い。父はノーザンテーストの最優良後継種牡馬として名高いアンバーシャダイ。母のヒダクロスは現役時に重賞入着歴のある馬であり、繁殖としても中央で9戦5勝・毎日王冠3着などの戦績を残し種牡馬入りしたボールドノースマン(父ノーアテンション)をすでに産んでいた。他にもオープン特別勝ちのあるコクサイクラウン(父リィフォー)や、サファイヤS3着のテンザンタカネ(父ノノアルコ)を出していたヒダクロスは、19歳(旧馬齢表記)の春に14頭目の仔としてヘッドシップを産み落としたのであった。父がアンバーシャダイで母父がファバージという血統は、2015年の今振り返ってみると古風な印象を受ける。しかしSS旋風が吹き荒れる前夜の1994年当時としては、そこまで時代遅れというわけでも無いであろう。

まさしく白眉と呼べる血統通りに、牧場に居た頃のヘッドシップは「同世代の中では目立つ存在でした。細身で背が高いという感じでしたが、綺麗な線をしていて、雰囲気のある馬でした(稗田牧場・稗田雅巳氏:談)」となかなか評判が高かったという。2歳時の育成の段階に入る時期にケガをしてしまったというが、幸いにも致命傷には至らず、美浦の佐藤全弘厩舎の所属馬として1996年の8月にデビュー。オーナーは(株)テンジンである。

入厩当初から佐藤全師の期待も高かったというが、3歳時のヘッドシップは芝で8戦して勝ち星無し、5着が最高着順と全く振るわなかった。佐藤全師の弟子である高山太郎騎手も4度乗ったものの、結果は全て2桁着順に終わっている。4歳になってからも逃げたり追い込んだりダートを試したりと、陣営は試行錯誤を繰り返したもののなかなか勝てない。体質的なひ弱さと、母に由来する気ムラさ。これらのウィークポイントが、素質ある彼の初勝利をますます遠のかせた。ようやく初日が出たのは1997年5月の4歳未勝利戦(東京芝1800m)。7番人気を裏切っての初勝利であり、パートナーはベテランの坂井千明騎手であった。ここまで13戦を要したが、遅咲きのアンバーシャダイの息子で優秀なバックボーンを誇るだけに、将来大化けする目も未だ否定できなかったはずである。

同期で同じ馬主が所有するワシントンカラーは、1997年春時点ですでにGⅢ・クリスタルCなどを制す活躍を見せていた。名門・松山康久厩舎と中堅以下の佐藤全弘厩舎、マル外の芦毛馬とマル父の栗毛馬、そして重賞ウイナーと最下級条件馬。2頭の世間的な評判の隔たりはあまりに大きかった。それでもコツコツと走り2勝目を目指したヘッドシップであったが、なかなか成績は上向かない。初勝利以降10戦0勝で4歳のシーズンを終えると、冬季の休養を経て1998年4月より戦線に復帰した。道中どこからでも動けるという脚質の器用さは魅力的。しかし、十分に時計の掛かる馬場で上がりの掛かる展開で無いと上位進出すら困難であり、ダートも上手くは無かった。

「わからない馬なんだよ。調教でね、やっとこっちの気持ちが通じるようになったぞって喜ばしてくれるんだけどさ、レースになって、よしっ、ここからだと追いたいんだが、ヤーメタっていう感じで真剣にならないんだ。勝つのが嫌いみたいなんだな」

4歳春の初勝利からほぼ一貫して主戦を務めた坂井騎手はこう語っている。結局2勝目を挙げたのは6歳秋の蔵王特別(福島芝2600m)でのこと。早め先頭から押し切るという強い勝ち方ではあったが、タイムは2分52秒4と非常に遅かった。それもそのはず、この1999年秋の福島開催は極め付けの荒れ馬場の下で施行され、開催最終日の福島記念(勝ち馬はポートブライアンズ)の勝ちタイムは2分4秒6と、同じく極悪馬場だった前年の同重賞よりもさらにコンマ6秒遅かったのである。「晩秋の福島開催と言えば極悪馬場」、という印象を未だに抱く筆者だが、近年の福島は馬場が綺麗になり過ぎて少々物悲しさすら感じている今日この頃である。

さて、厩舎一押しの期待馬であったヘッドシップも、2000年を迎え旧馬齢表記で7歳馬となった。すでにデビュー5年目のシーズンながら、未だ500万下条件を抜け出せずにいた彼だったのだが、同年5月に2勝目と同じ条件で3勝目を挙げたあたりから俄然やる気を出し始めた。

「何がどうって、はっきりは言えないんだけどね。やっと勝たねばいかんと思ってきたみたいなんだ。さすがに考えてくれたんじゃないの、7歳になって(坂井騎手:談)」

たとえ高齢であろうとも、競走馬という生き物はきっかけさえあれば短い期間で一変するものだ。900万下条件への昇級戦では惨敗を喫したが、同年9月末の九十九里特別(中山芝2500m)を坂井騎手の好判断でハナ差勝ち。体質的にもパンとして良化が窺えたヘッドシップは、勢いに乗って10月の父内国産限定GⅢ・カブトヤマ記念(福島芝1800m)に格上挑戦した。これまでの4勝のうち2勝は福島競馬場で挙げた勝利であり、休み明けでの1戦以外9戦全てで掲示板に載るなど、福島の水はヘッドシップにとって馴染み深い。与えられたハンデが50kgと軽量だったことから、鞍上は当時49歳の坂井騎手から26歳の高山騎手にスイッチした。男7歳ヘッドシップ、通算53戦目での、嬉し恥ずかし重賞初挑戦である。

ミレニアムイヤー、13頭立てのカブトヤマ記念。注目は目黒記念勝ちがあり、前年暮れのグランプリであわやの競馬を見せた8歳牡馬のゴーイングスズカ……というよりその鞍上の芹沢純一騎手であった。何しろ、同騎手は1993年以来カブトヤマ記念に5回騎乗し、全て2着という珍記録を持っていたのである。実績断然のゴーイングスズカに騎乗して雪辱を期す芹沢騎手。しかし、愛馬に課せられたハンデはメンバー中最も重い57.5kg。「ハンデ頭が勝てない(1982年のジュウジアローまで遡る)」カブトヤマ記念としては非常に縁起が悪かった。そんなファンの半信半疑な思いが、単勝オッズ3.9倍に表れていると言えよう。一方、7歳秋にしてようやく本格化したヘッドシップは、福島巧者&ハンデ50kgの好条件でありながらも、単勝18.5倍の9番人気に過ぎない。この評価には、鞍上の高山騎手が今まで重賞で馬券に絡んだことすら無い、という点も影響していたのであろう。

良発表ながらも、まるでダート並みの荒れ馬場。この悪条件でハナを切ったのはランフォーエバー産駒のショーザランニングであった。前半1000mが1分1秒8と、先頭を行く同馬と大西直宏騎手は絶妙なペースを刻む。しかし、1番人気のゴーイングスズカと4番人気のメジロサンドラが好位から早め先頭の競馬を試みたため、荒れ馬場を押し切るパワーと急流を乗り切るスタミナが共に欠けている逃げ馬は堪らず4コーナーで脱落。直線入口でレースは先行馬2頭の争いの様相を呈した。

ゴーイングスズカはダイナガリバーの仔、そしてメジロサンドラはメジロマックイーンの娘である。揃いも揃ってパワー&スタミナが十分な血統だ。福島の短い直線において、実績も実力もある2頭は必死に粘り込みを図った。やがてメジロサンドラが失速し、ゴーイングスズカが芹沢騎手の夢を乗せて(?)先頭に立ったが、荒れ馬場を考慮して高山騎手が終始外を回していたヘッドシップが、残り100mというところで大外から一気に突っ込んできた。やがて態勢は一変。ゴール板を過ぎる頃には外のヘッドシップが3/4馬身ほど前に出ていた。8歳のGⅡ馬を、7歳の条件馬が凌駕してしまった瞬間であった。

福島競馬の面白さ、加えてハンデ戦の妙というものを嫌というほど見せつけた一戦となった。初重賞制覇の高山騎手は、「自分自身にとっても初めての重賞ですから、本当に嬉しいです」と感無量の様子。ルーキーイヤーにある程度脚光を浴びながらも、今や下位騎手の立場に追い込まれていた高山騎手。溜まりに溜まった鬱憤を、福島の地にて彼は最高の形で晴らすことが出来たのだった。アジュディケーターで制した1995年の京成杯3歳S以来に重賞奪取が叶った佐藤全師も、「高山も上手く乗りました」と愛弟子を手放しで称賛した。13頭中9番人気でのローカルGⅢ制覇は、かつて穴男として人気を博した高山騎手にとって、最も“らしい”戴冠の条件であったと言えよう。

7歳でカブトヤマ記念を見事制覇した後、余勢を駆って福島記念に出走したヘッドシップであったが、ゴーイングスズカの逆襲に遭い4着に敗れた。とは言え、ハンデ53kgで真っ向勝負の末に4着、という内容だったので、悲観すべき結果では無い。したがって中央場所ならともかく、時計の掛かるローカル重賞ならまだまだ活躍が見込めたはずであった。しかしすでにお釣りは残っていなかったようで、この福島シリーズ以降8走したものの、掲示板にすらただの1度も載れず、加えてシンガリは3回と不振を極めてしまい、2002年2月のオープン特別・白富士S(14頭立ての14着)を最後にヘッドシップは登録を抹消された。

引退後は東京都世田谷区の馬事公苑で乗馬として長らく供用され、その後山梨県立北杜高等学校馬術部へと移っている。2015年現在も乗馬登録が残っているので、未だ健在ということで間違いあるまい。一方、ヘッドシップの恩師である佐藤全弘調教師は定年まで10年残しながらも、成績低迷により2013年1月に廃業。重賞制覇のパートナーだった高山太郎騎手も前述したようにすでに騎手を辞めている。また、同馬主のワシントンカラーは引退後種牡馬入りしたものの鳴かず飛ばず。して同馬は現在消息不明という。「一寸先は闇」とはよく言うが、競馬界における後先というものは本当に予測のつかないもの、と私は思わずにはいられない。福島の秋空の下、極め付けの荒れ馬場を突っ切って、デビュー53戦目にして初めて重賞タイトルを得たヘッドシップは、今後どんな道行きを辿り、どのような驚異を見せてくれるのであろうか?

ヘッドシップ -HEADSHIP-
牡 栗毛 1994年生
父アンバーシャダイ 母ヒダクロス 母父ファバージ
競走成績:中央62戦5勝
主な勝ち鞍:カブトヤマ記念