2014/05/30

【私撰名馬物語#12】バンブーアトラス

―名馬リボーの末裔がダービーで魅せた一世一代の激走―


さて、ダービーだ。今回の題材については先週末からじっくりと思案した結果、「"埋もれたダービー馬"を発掘するのは困難だから、グレード制以前の小ネタが比較的豊富なダービー馬を書こう」という考えに達した。そこで思いついたのが1982年の日本ダービー馬・バンブーアトラスだ。人間関係の浪花節話が好きなファンにとって、あるいは某ゲームから入ったファンにとっても印象深いであろう彼だが、出来るだけ様々な観点から書き、その実像を浮かび上がらせていこうと思っている。メジャーな馬について書くのはあんまり気が進まないが、10年後もネット上に名馬物語の底本として残り続けられるような記事が書ければ良いなぁ。

1979年生まれのバンブーアトラスはよく知られているようにリボー直系の競走馬である。競馬評論家の田端到・加藤栄両氏がよく仰るように、リボー系は「大舞台において無類の強さを誇る系統」として著名だが、実はリボー直系で日本ダービーを勝った競走馬はバンブーアトラスただ1頭なのだ。むしろリボー直仔のグロースタークのクロスを持つ2002年のダービー馬・タニノギムレットのように、ゴリゴリのリボー系よりも多少薄目に入っているような馬の方が府中の2400mでキレ負けしない印象がある。だが、真打のタップダンスシチーの失敗もあって、今後日本でリボー直系が蘇る可能性はどうも低そうだ。

バンブーアトラスの父のジムフレンチは前述のグロースタークの仔で、現役時代にはサンタアニタダ―ビー(米GⅠ)を制し米クラシックでも健闘するなど28戦9勝の成績を残した。初年度からダービー馬を送り出すなど、種牡馬としても幸先の良いスタートを切ったジムフレンチだったが、その後GⅠ(級)馬を送り出す事は無く1993年に廃用になってしまった。母のバンブーシザラはテスコボーイ産駒の中央6勝馬で、その半兄にはスワンSなど重賞2勝を挙げたファストバンブー(父サムタイム)がいる。テスコボーイはスピードに富んだ血統だがスタミナ型の血統との和合性も高く、父としては天皇賞馬・ホクトボーイ(母父バステッド)が、母父としてはダービー馬のアイネスフウジン(父シーホーク)や天皇賞馬のクシロキング(父ダイアトム)らがそれを示している。

ここで出生上のこぼれ話を。バンブーアトラス誕生前年の春、つまり1978年の種付けシーズンに最初にバンブーシザラと交配されたのは実はクライムカイザー・イットーらの父として知られる名種牡馬・ヴェンチアであった。ところが、ヴェンチアは検査の結果高齢のため子種が無いことが判明し、その代わりに連れてこられたのが当時売り出し中の種牡馬・ラディガと同父で1つ年上の新種牡馬・ジムフレンチだったのだという。要するに、ジムフレンチは二重の意味で代役だったわけだが、このピンチヒッターがダービーを勝つような大ホームランを放つのだから本当に馬産は分からない。余談だが、種無し&用無しとなったヴェンチアは翌年哀れにも屠殺されてしまい、その事実を知った競馬ファンたちが抗議行動を展開したという、十数年前のファーディナンド騒動を思い起こさせるような逸話がある。

浦河のバンブー牧場で生まれたバンブーアトラスは、小さい頃から馬体のバランスが良く、非常に垢抜けた感じの馬であったという。だが、性格的にはよく言えば素直、悪く言えば平凡であったこともあり、馬主サイドに取り立てて期待されていたということも無かったらしい。そんな幼駒時代の彼の姿がバンブー牧場で働く人々の脳裏に強く焼き付いたのは、2歳秋(旧馬齢表記)に遭ったあるアクシデントが原因である。そのアクシデントとは、股関節脱臼であった。周囲の人間たちは笹針を打ったり注射を打ったり電気治療を施したりと最善を尽くしたが、結局全快には至らず歩様にぎこちなさが残ってしまった。デビューが危ぶまれるほどの重症を負ったわけだが、結局はダメ元で牧場主の竹田春夫氏の父である竹田辰一氏が所有して走らせることになった。

このため仕上がりは大幅に遅れたが、関係者の尽力により徐々に症状は安定し、3歳になったバンブーアトラスは栗東の布施正厩舎に入厩することが出来た。デビュー戦は1981年10月の京都開催の新馬戦。芝1200mという条件のこのレースに布施厩舎所属の岩元市三騎手と挑んだ彼だったが、如何せん血統的に距離不足な感は否めず5番人気の3着に終わった。だが、直線での力強い伸び脚に、岩元騎手は彼が1979年の高松宮杯を制したネーハイジェット(同じく岩元騎手が主戦だった)以上の名馬になる手応えを感じたという。なお、新馬戦の後腰に不安が出たこともあり4ヶ月の休養に入っている。この"不安"は重度のものだったらしく、レース後はふらついて馬運車に乗れない程だったそうだ。

立て直しを図って、針治療や電気治療が施された彼が戦線に復帰したのは翌1982年の1月31日のこと。中京の4歳未勝利戦(ダート1600m)を1番人気に応えて完勝した彼は、続く2月のつくし賞(中京芝1800m)でも不良馬場に負けずに快走を見せて2連勝を飾った。3月のあすなろ賞(中京芝1800m)では2着に敗れたが、4月のれんげ賞(阪神芝1400m)を差して勝ち上がり3勝目。ここまで芝で挙げた2勝はどちらも不良馬場でのものだったため、"道悪巧者"の風評が立ったが、竹田春夫氏は「必ずしも重が上手いというわけでは無く、下が渋っている時は気を使いながら走っている。むしろ良馬場が良い、と我々は信じていました」とダービー後のインタビューで語っている。ここまで5戦は全て岩元騎手が手綱を取った。

この年の牡馬クラシック路線の話題をさらったのは、何と言っても関西のハギノカムイオーであった。二冠牝馬・ハギノトップレディの半弟で、当歳時に1億8500万円という当時のセリ市の史上最高額で落札された同馬は、新馬戦からスプリングSまでスピードに任せた走りで3連勝。「さすが黄金の馬」と名声を高めた。しかし、本番の皐月賞ではゲイルスポートに絡まれて16着に大敗。関東の大将・アズマハンターが同馬を尻目に高らかに凱歌を上げた。ちなみに、朝日杯馬のホクトフラッグや弥生賞馬のサルノキングは骨折のため春を棒に振り(後者はそのまま引退)、西の3歳チャンプ・リードエーティやシンザン記念勝ちのシルクテンザンオー、毎日杯勝ちのエリモローラに京成杯3歳S勝ちのイーストボーイといった辺りも軒並み故障のため皐月賞やダービーを前に姿を消していた。

皐月賞には出られずも手堅く3勝目を挙げたバンブーアトラスは、5月のNHK杯(東京芝2000m)へ向けて東上した。しかし、当時はまだまだ東高西低の時代。重賞出走歴も無い一介の関西馬に注目が集まるわけも無く、16頭立ての12番人気と評価は低かった。1番人気は皐月賞馬のアズマハンターで、2番人気は皐月賞惨敗からの巻き返しを狙うハギノカムイオー。他にも皐月賞2着のワカテンザンや、関西のぶっ飛び快速馬・ロングヒエンなどが出走表に名を連ねており、こんな豪華なメンツではバンブーアトラスはとても勝負にならないだろうと思われた。結果は勝ったアスワンから3馬身差の6着。完敗と言えば完敗であったが、跨った岩元騎手は「4コーナーで不利があり、終わったかと思ったのに追ってまた伸びた。あれが無ければ勝ち負けだった」と強気にコメント。これがダービーへの伏線となった。人気のアズマハンターは2着、ハギノカムイオーは12着に敗れた。そしてアスワンとカムイオーはそれぞれ骨折と疲労のため戦列を離れ、3着のアサカシルバー共々あえなく"1982サバイバル・ダービーロード"の餌食になっている。

今からちょうど32年前の1982年5月30日、日本ダービー。曇り空の東京競馬場に28頭の精鋭が集った。1番人気には単枠指定のアズマハンターが当然のように支持され、離れた2番人気にはNHK杯5着から挑むワカテンザンが推されていた。以下、ロングヒエン、トウショウペガサスと続き、6枠17番・緑の帽子のバンブーアトラスは単勝18.4倍の7番人気であった。

28頭がゲートに入り、さあスタートというところで、人気の一角であるロングヒエンがゲートを飛び出してフライング。いかに名の知れた快速馬と言えども、フライングは反則である。その罰として外枠発走(30番)となったロングヒエンであったが、スタートが切られると大外からハナを奪いビュンビュン逃げた。アズマハンターはやや立ち遅れ気味のスタートとなり、道中後方から2番手と絶望的な位置取りになってしまった。前半1000mが59秒6というロングヒエンが作り出したハイペースを、バンブーアトラスは岩元騎手に導かれて5番手で追走した。いわゆるダービーポジションだ。

4コーナーでロングヒエンが一杯となり、内目からハシローディー、そして外からバンブーアトラスが並びかけた。ワカテンザンも経済コースを通って詰め寄って来る。そして直線。坂下で岩元騎手がムチを一発くれると、500kgの褐色馬・バンブーアトラスは弾けるように抜け出し先頭に立った。そこに430kgのワカテンザンがやって来て2頭の叩き合いに。いい勝負に見えた2頭だが、「ウチのは馬力がある。並んだら負けませんよ(竹田春夫氏)」と終始優勢に戦局を進めたのは外のバンブーアトラスの方だった。後方からアズマハンターがようやく猛追したがワカテンザンに3馬身届かず、第49代日本ダービー馬の座はバンブーアトラスが得たのであった。岩元騎手は「デビュー以来最高の出来でした」と納得の勝利。勝ちタイムは2分26秒5と1979年のカツラノハイセイコのタイムをコンマ8秒上回るダービーレコード。一世一代の快走をダービーの舞台で魅せたバンブーアトラスは、苦労人・岩元市三を男にした。

岩元市三騎手は鹿児島県の生まれで、中学校を卒業後に大阪の花屋の店員になった。しかし、就職後4年が経過したある日のこと、花屋の社長の息子に連れられて行った園田競馬場で彼は競馬と出会ってしまう。「とにかく、騎手が格好良く見えた。背が小さくて得をする職業を目の前にして、僕は"コレや"と思った」岩元騎手の身長は152cmに過ぎず、日常の労働においても不便を感じるほどであった。そして、園田での出会いが彼を騎手の世界へと導いた。やがて28歳にして布施厩舎からデビューした彼は、ネーハイジェットやラフオンテースなど乗り馬に恵まれ、人柄の良さから師匠にも好かれその養子となった。バンブーアトラスでダービージョッキーとなった時、彼は34歳。騎手としてまさに脂が乗っていた時期であった。

夏を栗東の厩舎で過ごしたバンブーアトラスは、夏負けも無く良好な状態で10月の神戸新聞杯(阪神芝2000m)へと出走することが出来た。馬体は幾分太かったが、ほぼ直線だけの競馬でハギノカムイオーの3着に突っ込み実力を示した。タケホープ以来のダービーと菊の二冠馬が誕生するに違いない…そう思ったファンは多かったという。だが、異変はゴールインの直後に発生した。突然下馬する岩元騎手。そしてそれを心配そうに見つめるスタンドのファンたち…デビュー8戦目にしてついに脚元の爆弾が爆発してしまったのであった。左第一指骨剥離骨折及び繋靭帯不全断裂、再起不能。布施師は即刻登録抹消を決断した。

バンブーアトラスは翌1983年から荻伏種馬場で種牡馬入りした。ダービーを勝ちながらも未完の大器といった趣のある成績と、馬格の良さが人気を集め、初年度からコンスタントに50頭以上の牝馬を集めることが出来た。翌年生まれたストロングレディーが抽選馬ながらも1987年のクイーンSを勝ち、3年目の産駒からは菊花賞馬・バンブービギンが飛び出した。父バンブーアトラスが断念した菊花賞を制した彼だったが、慢性的な脚元の弱さから菊花賞後は一戦も出来ず、主戦の南井克巳騎手を大いに嘆かせた。その後も重賞4勝のエルカーサリバーや、愛知杯勝ちのバンブーマリアッチなどを送りだし内国産種牡馬の雄として君臨。産駒はリボー系らしいパワフルで持続力のある走りをする馬が多かったが、その反面バンブーゲネシス(マーチS)など素質がありながらも脚元に泣く産駒もまた多かった。

そんなバンブーアトラスがゲームファンに名を売った要因となったのが、1997年に発売されたプレイステーション版"ダービースタリオン"である。このゲームではいわゆる「バンダン配合」が最強馬の配合として流行し、バンブーアトラス×ダンチヒ(ダンジグ)牝馬という配合から生まれた馬がダビスタマガジンなどの公式大会を蹂躙した。現実の世界では1997年の時点ではすでに種牡馬としての勢いに陰りが見え始めていたバンブーアトラスだったが、ゲームの世界では大種牡馬と化していたのだ。余談であるが、実際に「バンダン配合」が試みられた馬は1頭だけ存在する。1998年生まれのエイシンタイトルがそれだ。リーチザクラウンらの近親に当たるなかなかの血統馬だが、現実はゲームのようにはいかず中央で2戦して共に2桁着順という成績に終わっている。

時代は下って2003年1月8日、バンブーアトラスは蹄葉炎のため死亡した。享年25歳。愛息で唯一のGⅠ勝ち産駒であるバンブービギンは種牡馬としては鳴かず飛ばずに終わり、2012年に旧27歳で死亡している。バンブービギンやバンブーパッション(コーラルS)が去った今では、産駒最後の中央勝ち馬であるスズノミヤビオーが九州で種牡馬入りして何とかサイアーラインを保っているという情勢だ。このバンブーアトラスのダービー制覇こそが"テイエム"でお馴染みの竹園正繼氏と岩元市三現調教師の縁を取り持ち、やがてテイエムオペラオーの誕生と絶対王政へ話は繋がっていくのだが、それはまた別の話である。

バンブーアトラス -BAMBOO ATLAS-
牡 鹿毛 1979年生 2003年死亡
父ジムフレンチ 母バンブーシザラ 母父テスコボーイ
競走成績:中央8戦4勝
主な勝ち鞍:日本ダービー

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