2014/05/06

【私撰名馬物語#2】ブリリアントロード

―意外性の男、被災地に生きる―


実に不思議な馬だった。掴み所が無いと言うか。

一昔前のブライアンズタイム産駒と言えば、「パワフルで叩いて良くなり大舞台に極めて強い」というハッキリとしたカラーがあった。ナリタブライアンやマヤノトップガン、シルクジャスティスらが築き上げたカラーだ。もちろん、全ての産駒がこの特色を受け継いでいたわけでは無いが、ある程度のレベルに達した産駒は八割方こんなタイプに出ていた。

ブリリアントロードは鬼っ子だった。ブライアンズタイム×ノーザンテースト牝馬と言う早田と社台の折衷配合からは1999年の中山牝馬Sでメジロドーベルを食ったナリタルナパークや、重馬場のエリザベス女王杯を制したレインボーダリア、そして"ブライアンズタイム最後の大物"との呼び声高いスカイディグニティが生み出されている。いずれの馬もGⅠでの連対経験があり、勝負強い配合と言えるだろう。しかし、当のブリリアントロードは長らくハンディキャップホースと呼ばれておりハンデ戦と平坦コースが得意で、その上比較的左回りを苦手としていた。重賞2勝馬ながら、GⅠ出走歴は1回しか無い(1999年のマイルチャンピオンシップ9着)。重賞2勝はいずれも新潟コースでの勝利であり、「新潟を愛した男」と呼べなくも無いが、勝ったのは改修前の右回り時代の話で左回りの新コースでは精彩を欠いた。時折思い出したかのようにダートの交流重賞に出ては好走し、「ダートもイケるクチ」と評価され晩年は公営岩手競馬に移籍し再起を図ったが結局復活しなかった。「期待も裏切るし、予想も裏切る馬」、それが彼の体に刷り込まれたカラーだった。

振り返ってみれば、そのカラーは実は主戦騎手を務めていた山田和広という男の特色だったのかも知れないが、競馬において走るのは馬だ。そんな何とも不思議な馬であるブリリアントロードを、初回のタケノコマヨシに続いてご紹介させていただくことにする。

1995年5月21日に新冠の大栄牧場で生を享け、栗東の坪正直厩舎の管理馬としてデビューしたブリリアントロード。4歳(旧馬齢表記)の3月という遅い時期のダートの新馬戦を4角先頭の競馬で完勝し、2戦目は中京芝2000mのフリージア賞を使われたがマクり女王ラティールの前に歯が立たず、新馬勝ち後は5連敗。これがサンデーサイレンス産駒だったら見限られているところだが、さすがにブライアンズタイムの仔。使い込まれて強くなる。また、6月から函館競馬場に滞在しレースを重ねたことで徐々に気性面の成長が見られるようになったのも大きかった。函館2戦目となる6月28日の500万下条件戦を道中最後方からのマクりで制すと、中1週で出走した昇級戦のSTV杯を2位入線からの繰り上がりでモノにして連勝。そして一足跳びで格上挑戦のオープン特別・UHB杯をメンバー最軽量48kgのハンデを味方につけ、2着のスノーエンデバーをハナ差制し3連勝を飾る充実ぶりを見せた。ちなみにUHB杯では48kgの恵量故にデビュー以来主戦を務めていた山田和広騎手が騎乗できず、田面木博公騎手に乗り替わっている(同様のケースは翌年の函館記念を50kgのハンデを背負い制したジョービッグバンにおいても発生している)。

函館シリーズで3連勝したことで一躍"菊花賞への隠し玉"と呼ばれるようになったブリリアントロードは、勇躍中央場所に乗り込み神戸新聞杯に出て来たもののカネトシガバナーの7着に終わる。続く京都新聞杯も同期の豪華メンバーに阻まれ6着に敗れてしまい、陣営は菊花賞を断念。当時は芝1800mの条件で行われていた京阪杯へと照準を合わせる。そして、この選択が吉と出た。同レースで52kgの軽ハンデをもらったブリリアントロードは、スイスイと先行しブラボーグリーンの2着に食い込んで見せたのだった。幾分良い形で1998年のシーズンを終えた彼は、翌年正月の京都金杯(当時は芝2000m)でも53kgのハンデでヒカリサーメットの2着に入り、ハンデ重賞と直線が平坦な京都コースへの適性を示したのである。

GⅢで連続して連対し収得賞金を積み上げたともなれば、普通ならいよいよ上級重賞へと挑戦し更なる高みを目指すというのが人情だろう。しかし、ブリリアントロードの陣営はその手を選ばずひたすらにハンデ重賞へ出走し続けた。京都金杯2着の勢いで出走した日経新春杯ではハンデが53kgの据え置きという好条件だったものの、昨年の天皇賞馬メジロブライトに屈し9着敗退。次走の中京記念(芝2000m)でも7着に敗れ、小倉大賞典(この年は中京で開催)では生涯初の二桁着順となる14着惨敗を喫してしまった。そして、年明け5戦目となる5月の新潟大賞典ではローカル重賞の割に好メンバーが揃ったこともあって14頭立ての最低人気にまで評価を落としてしまっていた。

それでも陣営は前2走の敗因を左回りの条件に見出し、ファンの評価ほど期待を下げてはいなかった。1999年当時の新潟競馬場はまだ右回りで、直線も改修後ほどは長く無かったのである。坪師はメンバーを見渡しスローペースになると見越して先行策を山田騎手に指示した。前走前々走より1kg軽い53kgのハンデも好条件と言えた。レースはポートブライアンズの大逃げを道中3番手から見るというおあつらえ向きの展開になり、3コーナーで進出を開始すると直線入口で先頭に立ちゴール前で大外から強襲したエリモソルジャーを完封し重賞初制覇を成し遂げた。山田騎手は通算200勝を重賞で飾り、「二重の喜びです」と語った。

この重賞勝ちは陣営にとっては勿論喜ばしいものだったが、同時にマスコミやファンによって"ハンディキャップホース"のレッテルを貼られるための格好の材料にもなった。それを払拭するためには別定戦、あるいは重ハンデでの勝利が必要である。そしてその機会は訪れた。同年8月の新潟記念だ。屈腱炎からの復活の期待が懸かっていた8歳馬のホッカイルソーらの56.5kgに次ぐ56kgのハンデを背負ったブリリアントロードは、歓喜の新潟大賞典と同様に逃げ馬を見る位置取りを試み、終始好位から競馬を進めて直線で馬群を突き放し、2着のホッカイルソーに2馬身差をつけ完勝して見せた。この勝利でブリリアントロードは「新潟の水が合う馬」というキャラ付けを受け入れると共に、「軽ハンデの時だけ注意すべき馬」というレッテルを払拭することに成功したのだった。坪師・山田騎手の師弟コンビは異口同音にこの重賞勝ちの価値の高さを語り、王道路線への挑戦を口にした。旧新潟競馬場最後の新潟記念を制したブリリアントロードと言う馬の偏屈な物語は、ここで一応の完成を見たのである。

その後のブリリアントロードだが、ファンや陣営の期待に十分応えた成績を残したとは言い難い。それでも重賞2着5回・3着3回の実績はそれなりに誇れるものであろう。2000年9月の朝日チャレンジCでは坂と58kgの重斤量を克服し2着に食い込み、時折思い出したかのように使われた交流重賞でも度々馬券に絡んだ。2003年6月のオープン特別・大沼S(函館D1700m)ではブービー人気ながらも54kgの恵量を生かし、当時交流重賞路線の強豪としてならしていたプリエミネンスを下し約3年10ヶ月ぶりの美酒に酔うなど、時たま"らしさ"を見せることも忘れなかった。そんな彼も寄る年波には勝てず限界が見え、2003年一杯で中央競馬を去り公営岩手競馬に移籍した。その頃の岩手競馬には同期の快速馬トキオパーフェクトらも在籍していた。言わば、98世代の老雄たちが岩手では未だしのぎを削っていたのだ。しかし、当地の一流騎手が繰り返し跨ったものの地元の強豪相手には分が悪く勝ち星を挙げることは出来なかった。そして、2005年6月のみちのく大賞典で7.6秒差のシンガリ負けを喫したのを最後に彼は地方競馬の登録も抹消され、7年以上にも渡る現役生活に別れを告げた。

引退後は福島県南相馬市の牧場で繋養され、相馬野馬追に参加するなど第二の馬生でも活躍を見せていたが、2011年の大震災の影響で一時北海道へ疎開し、現在は再び南相馬へと戻ったようである。今年で新表記19歳になるが、現役時代に合計73戦をこなしたタフな彼なら震災を乗り越えた今も元気にしているに違いない。

※2016年2月18日追記:今年の2月2日に繋養先の南相馬市のホシファームにて死亡したとのこと。ご冥福をお祈り申し上げます。

ブリリアントロード -BRILLIANT ROAD-
牡 鹿毛 1995年生 2016年死亡
父ブライアンズタイム 母マリーテイスティ 母父ノーザンテースト
競走成績:中央52戦7勝 地方21戦0勝
主な勝ち鞍:新潟記念 新潟大賞典

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