2014/05/12

【私撰名馬物語#4】カーネギーダイアン

―ミレニアム・ダービーは遥か遠くになりにけり―


競走馬の血統をかじったことがあって、それを少しでも競馬予想へ役立てようとしたことがある方なら、これから私が申し上げる所感についてシンパシーを感じていただけることと思う…いや、ちょっと考えの偏った競馬ファンしか共感しないかもなぁ。とりあえずその所感とやらを単刀直入に言うと、「クラシック路線に乗っかりそうなサドラーズウェルズ系の馬を見るとワクワクする」ということである。

そもそも、フレンチグローリーやオールドヴィックらが失敗していた一昔前は「サドラーズウェルズ系の馬は日本の芝に合わない」と言われていたのだけれど、そんな風評をテイエムオペラオーが見事に打ち破ってから、メイショウサムソンやホットシークレット、あるいはホオキパウェーブにアドマイヤモナークといった馬たちが日本の芝で見事に実績を積み上げてきたわけだ。彼らは総じて時計が掛かり気味な芝に強く、スタミナが豊富で我慢強い。その反面、軽い芝や上がりの速い競馬だと脆さを見せる傾向にあったのだが、同系統の競走馬の大きな特長として何より忘れてはならないのは成長力の高さだろう。テイエムオペラオーとメイショウサムソンという二大巨頭はいずれも早い時期から活躍し、古馬になっても急速に衰えること無く走り続けた。要するに、3歳のある時期からフルパワーのまま古馬まで突っ走ることが多いこの系統の駿馬を見ると、覚醒したステイヤーに抱きがちな「どこまで強くなるのか」という思いと、ピークの長い競走馬に対して感じるような安心感を容易に得られるということなのだ。やんわりと納得していただけただろうか?ちなみに、あえて名前を挙げなかったロゴタイプは機動力に富んだ言わば「ニュータイプなサドラー系」だと個人的に思っているので、朝日杯を勝った時もあんまりワクワクしなかったし今も正直言って好きではない。

カーネギーダイアンという馬がいた。彼は1997年生まれの牡馬で、エアシャカール&アグネスフライト世代に当たる。約15年以上のキャリアがある競馬ファンの方なら覚えているであろう馬名であるが、若いファンは聞いたことも無いという方が大半だろう。彼の成績表を引退から10年以上が経過した今見返してみるとその平凡さに驚くし、凡百の重賞ウイナーたちと大差無いということに一種のノスタルジーすら感じてしまう。要するに、私は彼の虚像に惑わされていたということだ。彼はミレニアムイヤーのダービー候補だった。デビュー2連勝の内容が素晴らしく、下した相手が評判馬だったためだ。

そして彼の虚像が必要以上に大きくなった最大の理由として挙げられるのが彼がカーネギー産駒であったことだろう。カーネギーはサドラーズウェルズの直仔で凱旋門賞馬であるが、1999年当時は社台グループ期待の新種牡馬として先達であるオペラハウス級の活躍が期待されていたし、早々に重賞連対馬(ピサノガルボ)を出して前途は洋々であった。血統背景が実力を見誤らせるケースは今までも数多く存在してきた。だが、飛び切りの良血馬というわけでも無いカーネギーダイアンがまだ重賞も勝って無い段階でダービー候補の一番手に挙げられていたという事実は、かつて存在したカーネギーの種牡馬としてのバブル期を思い起こさせると共に、サドラーズウェルズ系の魔力を実感させるのには十分なサンプルと言えよう。

カーネギーダイアンは社台グループのノーザンファームで産まれた。同牧場からは前年にダービー馬のアドマイヤベガが送り出されており、その偉大なるダービー馬とカーネギーダイアンは牧場にいた頃の所属厩舎が一緒であったという。彼は中背ながら、全体的に小ぶりな産駒が多かったというカーネギーの子供たちの中では大柄な部類に入っていた。しかし、馬格以上に大きく見せる彼のバランスの良い馬体は未来の活躍を期待させるには十分なものであった。やがて栗東の名伯楽・松田博資調教師にスカウトされた彼は、社台系列のノーザンホースパークで育成された後、札幌開催でのデビューを目指し同競馬場へ入厩してきた。

脚元の弱さから育成の段階ではあまり順調に乗り込めず、その影響から入厩後も調教の時計がなかなか詰まらなかったこともあり、結局札幌開催ではデビュー出来ないままカーネギーダイアンは栗東へと移った。松田師は10月の京都開催の開幕週でのデビューを目指したが、栗東においても一向に時計は詰まらず動きも良くならなかった。だが、京都芝1600mでのデビュー戦の内容は素晴らしかった。後に赤松賞を制し、「東のオークス候補」と騒がれた良血馬・サマーベイブを並ぶ間もなく差し切り、メンバー中で唯一上がり3ハロン34秒台の末脚を使って初勝利を飾ったのだ。この勝ちっぷりに無名の馬主(樋口稔和氏)の持ち馬である彼に対しての注目度はグンと高まった。

そして、返す刀で出走した黄菊賞(京都芝1800m)の内容は新馬戦を上回るものだった。人気こそオークス馬の仔で新馬戦をぶっちぎって来たチョウカイウエストに譲ったものの、藤田伸二騎手に操られ道中6番手から再び34秒台の上がりを使い最後は2着馬に4馬身差つける独壇場っぷり。勝ちタイムも1分47秒5と当時の3歳(旧馬齢表記)馬離れしたものであった。多少のズブさも垣間見られたが、その末脚の破壊力は見る者を魅了した。この連勝に気を良くした松田師は暮れのGⅠ・朝日杯へと照準を定め、最優秀3歳牡馬のタイトル獲得へ向けてカーネギーダイアンと関係者は走り出した。まさに順風満帆であり、同年の皐月賞を制したテイエムオペラオーに次ぐサドラーズウェルズ系の二の矢としての期待も十分であった。

ところが、朝日杯3歳Sの1週前の調教中にアクシデントは発生した。虫の居所が悪かったのか突然暴れだしたカーネギーダイアンは調教助手を振り落すと、空馬のままトレセン中を走り回ってしまったのであった、やがて厩舎へと戻って来た彼は傷だらけで、とても数日後のレースに出走できる状態では無かった。怪我の具合はかなり悪かったようで、朝日杯を回避した後の見通しも白紙となり、茫然としたまま関係者は年を越さねばならなかった。

不幸中の幸いと言えようか、放牧されること無く厩舎で月日を過ごしたカーネギーダイアンは体質が強くなり、3歳時にたびたび見られたスクミの症状が消え失せていた。2月には傷も癒え、クラシック出走へ向けて松田師は調教を開始した。本番の皐月賞から逆算して2月26日のアーリントンCでの復帰がベストだと師は判断し、師曰く「今回は叩き台のつもり」でカーネギーダイアンは同重賞へと歩を進めた。

馬体は+8kgと仕上がっていたが、臨戦過程が悪く調教の絶対量が不足していたこともあり、アーリントンCでは4番人気の9着に沈んだ。松田師は「ああいう負け方も覚悟はしていた。結果については全く気になりません」と強気を崩さず、カーネギーダイアンをスプリングSへと出走させたが変わり身無く伸びを欠き6着に終わる。この敗戦に松田師は皐月賞出走を諦めざるを得ず、日本ダービーへと目標を定め直した。2戦叩かれたカーネギーダイアンは、休養で落ちた筋肉も戻り馬体も張りを取り戻していた。そんな彼に今最も必要なものは、何よりも勝利だ。勝つことによって失った自信も取り戻せるし、ダービーへの出走も楽になる。陣営がダービー出走へのステップレースとして選択したのは、春の東京開催2週目のGⅢ・青葉賞だった。

ダービーの大事な前哨戦ながらも、この年の青葉賞のメンバーは手薄と言えた。そんな面子の中で、カーネギーダイアンは3歳時の実績が評価され1番人気に支持されたのであった。2400mどころか2000mすら経験が無い馬と言えど、奥行きある血統背景から距離は問題無いと判断されたのだ。そして、彼は勝った。2番人気で逃げ粘る岡部幸雄騎乗のタニノソルクバーノを、白いシャドーロールのカーネギーダイアンは余裕を持って差し切り重賞初制覇。2分28秒2という勝ちタイムにやや不満はあったが、評判馬の復活に低調な同年の牡馬クラシックを断ずるような予感がさせられた。京都新聞杯勝ちのアグネスフライト、プリンシパルS勝ちのトーホウシデンといった新興勢力と並び称された"大安"の名を持つ彼は、皐月賞組に対して剣を構え藤田騎手と共に"仏滅ダービー"という4歳馬の戦場へと向かっていった。

2000年5月28日、日本ダービー。逃げを打った青葉賞2着のタニノソルクバーノを、同レース3着のマイネルブラウが向正面で交わし先頭に立つ展開。彼らが作り出した前半1000m59秒2のハイペースは、6番手に控えた4番人気のカーネギーダイアンのスタミナを確実に削り取っていった。いかにスタミナ十分なカーネギー産駒と言えど、このペースは堪えた。直線坂下で先行勢が次々と脱落する中、彼は馬群でもがき続ける。共に道中後方待機の策を取っていたアグネスフライトとエアシャカールの2頭で勝敗は決した。栄冠への道が絶たれた瞬間だった。ダービー7着、その着順は凡百の競走馬では得られない着順だが、名馬となるべき馬が経験してはならない着順でもあった。

誇り高きカーネギーダイアンにとって、ダービー以後の成績は恥辱と言えよう。東京開催のラジオたんぱ賞で1番人気に支持されながらも6着に沈んだ後、蹄の病気のため休養に入った彼であったが、1年以上にも及ぶ長期休養から復帰するとかつてのダービー候補は一介の準オープン馬になっていた。そして仕切り直して捲土重来を期したものの、戦線復帰後3戦していずれも着外に終わると再び休養に入り、そのまま競馬場へと帰ってくることは無かったのだ。仏滅ダービーから約3年後の2003年6月に競走馬登録を抹消された彼は「ヤマハリゾートつま恋で乗馬になる」とアナウンスされた。しかし、2004年8月に流星社から発行された"「あの馬は今?」ガイド2004-2005"には記載されておらず、同施設で繋養された事実があるかどうかは不明と言わざるを得ない。下ること2008年、広島の乗馬クラブでカーネギーダイアンはこの世を去ったという。父であるカーネギー(2012年死亡)に先立つという、不孝な死であった。

カーネギーダイアン -CARNEGIE DAIAN-
牡 黒鹿毛 1997年生 2008年死亡
父カーネギー 母テイブンエンジェル 母父Mr. Prospector
競走成績:中央10戦3勝
主な勝ち鞍:青葉賞

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