2014/05/26

【私撰名馬物語#10】カミノスミレ

―地味なすみれとワケあり騎手が掴み取った重賞タイトル―


色んな意味で騒がしかった2014年のオークスが終わった。フジの某アナウンサーの迷実況や、レース後にネット上でドッと噴き出た"ハープスター距離不安論(極端に言えば全てのディープ産駒は本質的にマイラー論)"には閉口させられるけれども、日本の競馬が今も変わらず大衆競馬であることがこれによって確認出来たと思えば不思議と悪い気はしない。ハープスター陣営にはこの敗戦にめげずに是非とも凱旋門賞を目標としてもらいたいものだ。

ところで、この手の人気馬がコロッと負けると決まって飛び出すのが"乗り替わり論"なのだが、日本における同様の論議の起源はどの人馬についてのものなのだろうか?筆者が知っている最も古い事例は有名な"アローエクスプレス乗り替わり事件"である。1970年の皐月賞の直前に、このブログの記事でも何度か名が出ている快速馬・アローエクスプレスの鞍上が、それまで主戦だった若手の柴田政人騎手からトップジョッキーの加賀武見騎手へとオーナーの一声でスイッチされた、というのがその概要だ。柴田騎手が悔しさをバネにして騎手として成長するための糧になった事件として、後味の良い話として語られることが多いこの事例。だが、古い文献を色々と当たってみたところ、加賀武見騎手が関わっている同様の事例でさらに時代の古いもの、そして後味のどうもよろしく無いものが見つかったので少々書かせていただきたい。

アサカオーという競走馬をあなたはご存じだろうか?タケシバオー・マーチスと三強を形成したことで知られる1968年の菊花賞馬だ。この馬は加賀武見騎手を主戦騎手としてクラシックを戦った馬だが、実はデビュー当時は別の騎手が騎乗しており、その騎手がクラシック直前まで添っていたという事実はあまり知られていない(ウィキペディアにも一切記述が無い)。伊藤栄騎手。彼こそが、アサカオーの元主戦騎手であり、今回ご紹介するカミノスミレ号で1982年の目黒記念(春・当時は年2回開催)を制したジョッキーである。今ではほとんど忘れ去られてしまった存在と言っても良いであろう同騎手は、元祖三強の一角から降ろされた後、どのような道程を辿ってカミノスミレに巡り合ったのだろうか?これから私が分かる限りのことを記していこうと思う。

カミノスミレは青森県のタケミファームの生産馬である。タケミファームは加賀武見元調教師が騎手時代から同名・同郷の佐々木竹見騎手と共同で所有していたことで知られる牧場で、1989年に旧11歳で中山大障害を制したキョウエイウオリアや、1984年にダイヤモンドSと目黒記念を連勝したダイセキテイなどを出している(ただし、どうやら現存していない模様)。1978年生まれのカミノスミレの父はネアルコ系のステイヤー種牡馬・インディアナ(タケホープ・ベルワイドらの父)。母は中央4勝のカミノコトブキで、その父のフェリオールは寺山修司や山野浩一に「線の細い女性的な種牡馬」とよく揶揄されたファロス直系の種牡馬。ダンテとサヤラジオの全兄弟クロスが成立しているカミノスミレの配合からは前時代的な長距離馬臭がプンプン漂っている。半姉のカミノローラ(父ラバージョン)は七夕賞2着の実績がある馬だが、繁殖牝馬としては成功しなかったようだ。

テンモン・ブロケード・アグネステスコらと同期に当たるカミノスミレは、美浦の名伯楽・中村広調教師の元へと預けられた後、1981年5月の4歳(旧馬齢表記)未勝利戦でひっそりとデビューした。彼女のデビューの舞台はオークス当日の東京競馬場であった。華やかなスポットライトを浴びる同期の牝馬たちを横目に、カミノスミレは13頭立ての7番人気で実に地味なデビュー勝ちを収めている。同レースでパートナーを務めたのは中村広厩舎所属の矢野照正騎手で、デビューから転機となる目黒記念の前走まで彼は鞍上に在り続けた。

彼女のデビュー時の馬体重は420kgそこそこしか無く、成長しても450kgが精一杯。痩躯で脚だけが長い典型的なステイヤー体型であった。生産牧場の千曳鉄男場長も「生まれた頃は痩せていて幅の無い馬だなあと思っていました」と後に語っている。細身のみすぼらしい馬体に白いメンコを着けた姿は、「清楚な美人」と言うよりも「地味で目立たないオンナ」という印象を見る者に覚えさせた。また、彼女が戦った32戦中1番人気に支持されたレースは僅か2つに過ぎなかった。いつも消え入りそうなほど目立たなかったカミノスミレだったが、長距離に出走しだすと次第に秘めたる力を発揮していった。特に府中の長丁場が得意分野だった。

デビュー勝ち後は夏の新潟へ旅立つも、マイルなどの距離が合わず4連敗。失意のうちに中央場所に戻ると、いきなり中山で5馬身差で2勝目を挙げて見せた。これ以後、カミノスミレは一切遠征をせずに関東に引退まで籠り続けている。11月には府中で2走して2勝を挙げ、暮れの中山の準オープン戦・クリスマスS(芝2200m)に出走するも11着に大敗を喫し、翌1982年1月にはアメリカジョッキークラブC(中山2500m)に格上挑戦したが10着に敗退。やや頭打ちとなったところで、陣営は2月の目黒記念(春)へと再び格上挑戦させたのであった。

この目黒記念でカミノスミレの鞍上は矢野騎手から同じ中村広厩舎に所属する伊藤栄騎手へとスイッチされた。突然のスイッチの理由については詳細は不明だが、恐らくはハンデ50kgが影響したのではないかと思われる(伊藤騎手は149cm・44kgと短躯・軽量であった)。

伊藤栄騎手の年度別騎乗成績を見ると、1974年と1981年の間の成績が抜けているのが分かる。実は、伊藤騎手はデビュー9年目の1974年の2月に一度"引退"しているのである。引退の理由は伊藤騎手の実父が胃癌で入院し余命幾ばくも無くなり、実家の牧場を継ぐ決意をしたためだ。こうして思いがけずムチを置き、えりもの牧場主となって競走馬の生産に取り組んだ伊藤騎手であったが、生産に関してはズブの素人であったためか次第に家業は傾いていった。そして1979年5月、ついに彼は牧場を売却し騎手に戻ることを選んだ。当初は道営競馬での復帰を目指したが、家庭のことを考えて中央入りを決意。師匠である中村師に頼み込んだ彼は、まず調教助手として再就職し、やがて1980年12月の新規騎手試験に合格。翌年から中央競馬の騎手として復帰を果たしたのであった。余談だが、テンポイントの最後のレースとなった1978年の日本経済新春杯を制したジンクエイトは伊藤騎手の牧場主時代の生産馬である。

1982年の目黒記念(春)の1番人気馬は重賞2勝のサーペンプリンス。2番人気が前年の菊花賞馬・ミナガワマンナであった。伝統のハンデ重賞に名うてのステイヤーたちが集う中で、準オープン馬のカミノスミレはハンデが最軽量の50kgでありながらも、13頭立てのブービー人気と全く注目されていなかった。しかし、府中4戦3勝3着1回の適性と、秘めたるステイヤーとしての素質が並み居る強豪馬たちに勝った。雨の不良馬場を中団から進出した彼女は、白いメンコを泥でべっとりと汚しながらも直線で一気に抜け出し2着のホクトオウショウに2馬身半差つけて完勝。初重賞制覇を飾ったのであった。伊藤栄騎手は復帰後初重賞タイトルをテン乗りの彼女で手にすることになった。

得意な条件で見事に好走し、一躍重賞馬となったカミノスミレ。しかし、この痩せっぽちの牝馬の重賞勝ちに対しての世間の空気は冷ややかであった。当時の"優駿"にはこう記されている。

「ハンデ戦には、得てしてこのような個性派の馬が勝つ。これも競馬の意外性であり、面白味なのだが、いかなる条件も克服して、アンバーシャダイ、モンテプリンスに次ぐ馬の出現を期待したファンは肩スカシを食わされた感であった」

どこまでも強い馬を欲し、欲張り極まりない世間は彼女の勝利を決して歓迎しなかったし、それどころか「フロック」と呼んで必要以上に蔑んだ。それからというもの彼女は、得意条件ではそれなりに好走するもなかなか勝ち星を挙げられなかった。目黒記念(秋)3着、ステイヤーズS3着の成績は並の牝馬では挙げられないものであるが、勝てなければ歴史に名を刻むことは出来ない。そんな彼女の捲土重来の機会は、1983年の秋に巡って来た。

6歳秋の緒戦に陣営はマイルの牝馬東京タイムス杯(現在の府中牝馬Sに当たる)を選んだが、馬体重が+20kgと明らかに叩き台だったこともあって15頭立てのシンガリに沈んだ。だが、陣営は「これは予定稿だから」と言わんばかりにカミノスミレを秋の天皇賞(当時は芝3200m)に出走させてきたのである。そして、案の定と言うべきか彼女の鞍上に伊藤栄騎手の姿は無く、替わりに故郷のタケミファームの所有者である加賀武見騎手が据えられていた。

中村広厩舎の有力馬の伊藤騎手から加賀騎手への乗り替わりはこれに始まったことでは無い。前述したようにアサカオーの乗り替わりもあったし、アサカオーと同期の牝馬・ブラックバトー(クイーンC勝ち)も1968年の桜花賞を前にして乗り替わりとなっている。要するに、伊藤騎手にとってこの手の乗り替わりは慣れっこだったはずだ。しかし、カミノスミレから降ろされた伊藤騎手はその後重賞に乗る機会すら少なくなり、中村厩舎の衰運と共に勝ち星を徐々に減らしていった。やがてこの天皇賞から下ること10年、1993年に中村師が定年を迎えたのと時を同じくして、伊藤騎手はムチを置いた。通算2621戦268勝。活躍した時代が時代とは言えど、通算勝率は1割を超えており誇るべき成績を残したと思う。だが、引退後の伊藤騎手の動向はほとんど伝わっておらず、現在の居場所はおろか生死についても判然としない(調教助手にはなっていない?)。

とても皮肉なことだが、この秋天での快走こそがカミノスミレの功績について知るための分かりやすい取っ掛かりとなってしまったのは事実である。次走のジャパンCでスタネーラの2着に大健闘し、「日本の競馬にプロミスあり」を知らしめたキョウエイプロミス。彼が直線で坂を登って後続を一気に突き放し、ゴールへと真っ先に飛び込んだ秋天で、12頭立ての11番人気でひっそりと2着に食い込んだのがカミノスミレだったのだ。最後の3200mの秋天において彼女が見せた激走劇は、一部のはぐれ競馬ファンの心を打ち、彼女の名を某競馬読本の1ページに刻むことに寄与したのであった。

府中の長丁場でのみ素晴らしい宝石として輝いたカミノスミレにとって、1984年の中央競馬大改革における秋天の距離短縮は競走馬としての死活問題と言えた。同年も7歳馬ながら現役を続行した彼女だが、目指すべき目標が無くなったこともあってか成績は冴えなかった。1月のダイヤモンドS(中山芝3200m)で2着に入ったのが彼女の連対歴の最後の項であり、その後は馬券に絡むことすら無かったのだ。6月と10月のオープン特別では伊藤騎手とのコンビが復活したものの共に3秒以上差を付けられる惨敗を喫し、"牝馬上手"の嶋田功騎手に手が変わっても成績は好転しなかった。1985年2月の目黒記念。3年前に主役を演じたこの舞台で、伊藤騎手と共に再び彼女は「いざ主演を張らん」と牡馬に挑んだものの、見どころ無くブービーに敗退。それから間も無く彼女は競走馬登録を抹消され繁殖入りした。ところが、日本競馬のスピード化の波にこの前時代的ステイヤーは対応出来なかった。パーフライトやイナリワンなど保手浜オーナーゆかりの種牡馬を毎年宛がわれたが、中央での勝ち馬をただの1頭も出す事無く、2001年に繁殖を引退。やがて2008年に死亡した。旧表記31歳での大往生は目立たないオンナのささやかな意地なのか、どうなのか。

※2014年11月3日追記:伊藤栄騎手は騎手引退した後調教助手と厩務員を歴任し、現在はある競馬情報会社の広告塔の座に就いている模様です。


カミノスミレ -KAMINO SUMIRE-
牝 鹿毛 1978年生 2008年死亡
父インディアナ 母カミノコトブキ 母父フェリオール
競走成績:中央32戦5勝
主な勝ち鞍:目黒記念(春)

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