2014/05/14

【私撰名馬物語#5】リンドホシ

―"オグリにちぎられた男"の慎ましい生涯―


タケノコマヨシの項でもわずかに触れたが、1988年のシンザン記念を勝ったラガーブラックが不幸な馬であった、という意見に対して同意していただけるベテラン競馬ファンは多いに違いない。もし現役時に寺山修司が存命であったならば同氏によって一稿を設けられそうなほど、ラガーブラックの没落っぷりはドラマティックだ。東海公営から彗星の如く現れた黄金の卵であるオグリキャップがひよこの段階をすっ飛ばしてコケコッコーといきなり高らかに鳴いたペガサスSで、完膚なきまでに叩きのめされたラガーブラックの馬生は、怒涛の4連勝の盛運から一変し引退まで衰運の一途を辿り続けたのだ。オグリキャップが運に恵まれた馬であったかどうかについては人によって意見が分かれるだろうが、徳に溢れたエネルギッシュな馬であったことは確かだろう。

長じて不世出のアイドルホースとなったオグリが出世街道を歩む上で犠牲となった競走馬たちはラガーブラックをはじめゴマンといるが、相手にはならなかったもののその後も健気に頑張りオープン級で活躍した馬も実は存在している。その代表格が今日ご紹介するリンドホシだ。彼は4歳(旧馬齢表記)の初夏に中央重賞3連勝中のオグリとぶつかり、見事にぶっちぎられ涙を飲んでいる。オグリの生涯をなぞったビデオによく出て来るあのニュージーランドT4歳Sの2着馬が彼なのだ。しかし、この屈辱にも彼はへこたれずに頑張った。そしてその努力が実り、古馬になってから見事に重賞タイトルを手にすることになったというわけだ。本稿では、「オグリにぶっちぎられた馬」という顔だけでなく、リンドホシの1頭の独立した競走馬としての一面を出来るだけ描いていきたいと思う。では、始めよう。

1985年生まれのリンドホシの父は当時盛んに輸入されていたフェアウェイ系の種牡馬の1頭であるサンディクリークだ。アイルランドで生まれ当地でGⅠ勝ちを含む5戦2勝の成績を残した同種牡馬だが、日本での種牡馬成績はパッとせずリンドホシ以外には中央重賞ウイナーを出せなかった。母のハセカツマは中央1勝馬でその甥には菊花賞馬・レオダーバンが、姪には1987年のフラワーCを制したハセベルテックスがいる。ビューチフルドリーマー系の末裔で古臭いが実力あるファミリーの一員であるが、リンドホシの兄弟にはこれと言った馬はいない。母の父のミステリーはパーソロンの全兄に当たる。

生産牧場の小倉牧場の場主である小倉義夫氏曰く「馬っぷりは結構良かった」というリンドホシは、旧3歳になってから美浦の佐藤林次郎厩舎に預けられ1987年の7月の新潟開催でデビューした。ここでは8頭立ての6番人気に過ぎなかったが、中団から脚を伸ばしアイノマーチの3着に食い込むというまずまずの滑り出しを見せた。アイノマーチは後にオープン特別を2勝する快速牝馬であり、完成度を鑑みても敗戦は仕方が無かったと言えそうだ。同馬には敵わなかったもののリンドホシの実力は確かだったようで、折り返しの新馬戦を増沢末夫騎手の手綱で難無く勝ち上がっている。

リンドホシは確かに早くからスピードを評価されていた馬ではあったが、大きな弱点を抱えた馬でもあった。まず、脚元が弱かった。初勝利を挙げた後にソエが出て4ヶ月半ほどの休養を余儀なくされ、復帰戦では体調がイマイチながらも2着に入り実力を示したのだが、今度は裂蹄のため2ヶ月半休み1988年3月に復帰。中京開催の芝1200m戦を叩き2戦目で勝ち上がりオープン入りを果たした。この裂蹄が曲者で、寒い時期はひづめが割れてしまいレースを使う所ではなかったそうで、春先もまともに追いきれないままレースに出走せざるを得なかったのだという。それでも暖かくなるにつれて使い込めるようになり、5月の菖蒲特別(東京芝1400m)でも2着に入った。そして短距離での性能を高く評価された状態で、あのニュージーランドT4歳Sに臨んだのだった。

アイビートウコウとハヤブサモンが作り出した前半34秒フラットの速い流れを、リンドホシは後方から追走した。展開は彼にとってベストだった。しかし、日の出の勢いのオグリは役者が違った。リンドホシより幾分前でレースを進めていたオグリキャップは、4コーナーを回る頃には余裕の手応えで先頭に立ち、直線の坂に入った辺りで鞍上の河内洋騎手が仕掛けるとビュンと加速した。後ろから差して来た3番人気リンドホシや2番人気のトマムも必死に追い掛けるが、差は縮まるどころかますます広がっていく。そしてゴール。着差は優に7馬身あった。オグリキャップのワンマンショーに、リンドホシやトマムは脇を固めるどころか出演すら許されなかったのだ。

同レース2着のリンドホシが3着馬のトマムよりいくらか恵まれていた点として挙げられるのは、後の成績であろう。リベンジする機会すら無く次走のラジオたんぱ賞(7着)限りで馬場を去ったトマムに対し、リンドホシは再びオグリキャップに挑戦するチャンスを与えられている。それも2度。詳しくは後述する。

"ニュージーランドTショック"にも負けずに、リンドホシはオープンクラスの実力馬であり続けた。トマムと共に"残念NZT"よろしく出走したラジオたんぱ賞ではタカラフラッシュに屈し2着に敗れたが、1800でもやれるところは見せた。秋は2戦して共に着外に敗れ頭打ちかと思われたところで、日本列島に再び寒い冬がやって来た。年が明けても裂蹄のため満足に調教を積めない状況が続く中、佐藤師は一計を案じた。それまでの削蹄方法を改め、蹄鉄を普通のものから半分の長さの半鉄に替えたのだ。これにより体の重心の塩梅が良くなったのか思い切り調教が積めるようになり、目に見えて調子が上向いていった。そして、1989年3月のマーチS(当時は中山芝1600mのオープン特別)でケープポイントとアタマ差の2着に食い込みクラスの目途が立つと、次走のGⅡ・京王杯スプリングCでは7番人気ながら的場均騎手の頑張りに応え中団から鋭く抜け出し重賞初制覇を果たしたのだった。やや重の芝で勝ちタイムが1分23秒1と時計の掛かる条件も向いたが、2着のウィニングスマイルやパッシングショット(3着)にホクトヘリオス(4着)といった強豪たちを抑え込んだことは同馬にとって大きな自信となった…はずだった。

だが、それまで実に堅実だったリンドホシはこの重賞勝ちを境にすっかりムラ馬に変貌を遂げてしまったのだ。京王杯を勝って勇躍挑んだ安田記念では2番人気に推されながらも、道中2番手から先行馬総崩れの流れに巻き込まれて10着に沈んだ。続くエプソムCでこそ不良馬場も向き2着に入ったものの、夏・秋は2戦してともに4着に敗れている。その秋の1戦とは、マティリアルが奇跡の復活を果たすもその代償を払うかのようにレース後身罷ったことで知られる京王杯オータムHだった。こうして競馬ブーム期のスターホース時代を細々と生きたリンドホシは、1990年の安田記念で再びオグリキャップに挑んでいる。単勝1.4倍の人気芦毛馬と、56.1倍の凡庸な栗毛馬の再会。天才と凡才の邂逅から2年を経て、GⅠの舞台でまた相見えることが出来たのは、リンドホシにとって幸運であったのか、もしくは不運であったのか。結果は8着に終わったが、オグリのスーパーレコード達成に立ち会えたことはある意味僥倖であったと言えるのかも知れない。ちなみに、同年秋の天皇賞でも2頭は矛を交えたが、オグリは本調子で無く6着、リンドホシは衆寡敵せず14着と惨敗を喫している。

1990年暮れのスプリンターズSでバンブーメモリーの3着に健闘し、翌年の同レースでも強烈な脚を使いダイイチルビーの4着に突っ込むなど、決してリンドホシは無能な馬では無かった。だが、アテにしずらい気性と展開に左右されやすい脚質は如何ともし難かったのだ。結局6歳6月のオープン特別・パラダイスSが最後の勝ち星となり、1992年のスプリンターズSで後方待機から全く伸びずシンガリ負けを喫した後、リンドホシは登録を抹消された。引退後の彼の動向についてはまったく不明である。華々しく引退の花道を飾り北海道へと帰ったオグリキャップはおろか、オーナーに愛され故郷の宮城県で種牡馬入りし産駒を残したトマムとも明暗を分ける形となってしまった。オグリ世代の最後の戦士・リンドホシ。彼は長い戦いを終えた後何を想い、どこへ向かったのか?その問いの答えが判明する日は、恐らくは来ないだろう。

リンドホシ -LINDO HOSHI-
牡 栗毛 1985年生 没年不詳
父サンディクリーク 母ハセカツマ 母父ミステリー
競走成績:中央47戦4勝
主な勝ち鞍:京王杯スプリングC

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