2014/05/28

【私撰名馬物語#11】メジロライデン

―苦労人パーマーの息子もまた苦労人―


このブログをご覧いただいている皆さんは十分ご承知のことだろうが、6月1日には3歳馬の頂点を決定する日本ダービーが開催される。今年のダービーは例年のそれと比べるとやや盛り上がりに欠ける印象はあるが、それでもイスラボニータやレッドリヴェールらの頑張り如何によっては話題を呼ぶ可能性もあるだろう。「ダービーはチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまで分からない」である。

ふた昔ほど前の映画の名文句を無駄に使用してしまってごめんなさい。唐突だがここで個人的な泣き言を書かせてもらいたい。実を言うと、このブログ的には日本ダービーの回は"死に回"なのだ。第1回のタケノコマヨシの回で表明したように、このブログのコンセプトは「"埋もれた名馬"の記憶をネット上に留める」というものなので、そもそも歴代の勝ち馬に"埋もれた名馬"が少ないダービーの回は非常に書きづらい。

ある程度Web慣れしている競馬ファンならご存知かも知れないが、日本の名馬物語系Webサイトには"サラブレッド列伝&本紀(執筆:ぺ天使氏)"という言わば不滅の金字塔が存在する。もうこんな場で名前を出すことすら憚られるような大物だ。そんな大物に畏れ多くも対抗意識を燃やしている私は、出来るだけ同サイトの題材と被らない様にネタをチョイスしている。だが、日本ダービーはそうはいかない。ごく最近の馬か、グレード制以前の馬以外の"イケてないダービー馬(須田鷹雄氏風な呼び名)"は偉大なる先人である同サイトが網羅してしまっているのである。つまり、どうしても被らない様に馬を選定するとなると、「ロジユニとかもう嫌と言うほどネタにされてるやん!」とか「テイトオーって誰だよ古すぎ(笑)」という非難を浴びるような茨の道を歩まざるを得ないのだ。これは厳しい。

というわけで、連載第12回目の日本ダービーの回は幾分テンション低めにお送りすることになると思う。とりあえずロジユニヴァースとテイトオーを扱わないことは確定として(テイトオーは末路が悲しすぎるし…)、さてどの馬にするかなぁ…。

で、だ。今回は第11回目にして初めて障害戦を中心に走った馬をご紹介させていただく(ちなみに全60話ほどを数えた前身のブログでも扱ったことが無い)。2002年の京都ハイジャンプの勝ち馬であるメジロライデンが今日の主人公だ。なお、あらかじめ断らせていただくが、筆者は障害レースについて非常に疎いので("襷コース"という単語の意味を知らないほどである)、今回はいつも以上に"ただ着順を羅列してるだけ感"が強くなってしまうことをご容赦いただきたい。

2011年5月に競馬界から撤退したかつての名門・メジロ牧場。メジロライデンは馬名から想像がつくように同牧場の生産馬であり、持ち馬であった。彼の父は1992年の東西グランプリを共に人気薄で逃げ切ったメジロパーマーである。引退後、メジロサンマン~メジロイーグルという日本独自のサイアーラインを1頭で受け継いだ彼だったが、種牡馬としてはあまり人気が出ず、平地重賞馬や後継種牡馬を生み出すことの無いまま2012年に死亡した。1996年生まれのメジロライデンはそんな父が遺した唯一の重賞馬であり、パーマーファンの希望の星であった。母のメジロハリアーは"気まぐれジョージ"の異名を取った1970年代の活躍馬・エリモジョージの娘で、中央3勝馬。母の兄弟には高松宮杯などを制したメジロモンスニーや、その威光で種牡馬となったメジロエドワーズ(不出走)がいる。現役当時にしても完全に時代遅れな感があったメジロライデンの血統だが、これを活躍させるのだからメジロ牧場の気骨は大したものである。メジロ牧場生まれの同期にはメジロダーリングやメジロロンザン、メジロサンドラなどがいる。

長じて父と同じ栗東の大久保正陽厩舎に入厩したメジロライデンは、1999年の1月の4歳(旧馬齢表記)未勝利戦で初陣を迎えた。ダート1200mで経験馬が相手という明らかに不適・不利な条件で、鞍上にオリビエ・ペリエ騎手を配されて16頭立ての9番人気に推されたところを見るに、調教の動きはそこそこ良かったのかも知れない。が、後方ままの13着に敗退。続く2戦目は芝2200mの4歳新馬戦(この頃はいわゆる"折り返しの新馬戦"が存在した)と当時にしてもかなり異色のローテを歩むも、中団からコーナーで置かれて9頭立ての8着に惨敗してしまい、ソエが出たこともあって放牧に出されることになった。

長期休養中に彼は去勢され、父の貴重な血を遺すという重要な任務を解かれている。復帰戦は同年10月の福島開催のダート1700mの未勝利戦だったが、大久保厩舎所属の藤井正輝騎手を乗せて13頭立てのシンガリに沈んだ。これが5.7秒差の大惨敗だったこともあり、3戦で平地に見切りをつけられたメジロライデンは障害に転向。11月の末に早々と障害デビューするも、見せ場無く9頭立ての6着に敗れる。しかし、障害2戦目では4着と着実に力をつけると、年明けの障害未勝利戦を7番人気で勝ち上がって見せた。2着は平地オープン馬のマジックシンガーだったから価値の高い1勝である。そして2月の淀ジャンプSでも最終障害でトモをぶつけるアクシデントがありながらも3着に健闘。この時点で彼はまだ旧5歳馬ということもあって、障害馬としての未来は明るく前途は洋々なように思えた。

だが、父のファンの期待が重圧となったかメジロライデンはオープンで頭打ちになってしまう。5月のJGⅢ・京都ジャンプS(当時は京都ハイジャンプと同重賞の施行時期が逆だった)で落馬・競走中止したのを皮切りに、馬券に絡むどころか掲示板にも7戦連続で載れずじまい。7戦目の障害オープン戦(2001年4月)でテン乗りの佐伯清久騎手を落としたのを最後に、陣営は今度は障害に見切りをつけて彼を平地へと再転向させている。

父のメジロパーマーは旧3歳時にはすでにオープンで活躍しており、早くから非凡な素質を見せていたが、やがて頭打ちとなり5歳秋に障害へ転向。しかし、「障害をナメて飛ぶところがある」という弱点からわずか2戦で平地へと舞い戻ることに。その後山田泰誠騎手と出会うと見違えるように強くなり、6歳で宝塚記念と有馬記念を制した。大久保師をはじめとしたメジロライデン陣営は父パーマーのサクセスストーリーの再現を彼に託したのかも知れない。ここまで平地で3戦して全て惨敗を喫していた彼だったが、障害でトモが鍛えられたのが功を奏したのか陣営の期待に応えて父を彷彿とさせる走りを見せることになる。

彼の馬生の新たなスタートは2001年5月の梁川特別(福島芝2000m)にて切られた。このレースを村山明騎手の手綱で11番人気で逃げ切って見せると、続く平場500万下条件戦(中京芝2500m)も横綱相撲でクビ差勝ち。ここで陣営は鞍上を村山騎手から父の恩人である山田騎手へとスイッチ。中1週で出走した函館の500万下条件戦(芝2600m)ではタニノデスティニー(一時期は菊花賞の隠し玉と言われた)に差されて2着に敗れたが、同条件の横津岳特別を余裕を持って逃げ切り、わずか2ヶ月足らずの間に4戦3勝の成績を挙げることに成功したのであった。私を含めたはぐれ競馬ファンは、当時の彼の活躍に「これは父の再現か」と色めき立った。

ところが、彼の快進撃はここまでであった。休み明けで出走した11月の昇級戦では村山騎手に手が戻ったが、逃げることすら出来ず14頭立ての12着に完敗。ここは休養明けと距離不足(芝1800m)が敗因かと思われたが、叩き2戦目の天竜川特別(中京芝2500m)でもやはり逃げを打てず差のある6着に敗れ、彼に対するファンの期待はたちまち萎んでいった。6歳(以後新表記)となった2002年は武豊騎手や当時は笠松に所属していた川原正一騎手、そして岩手の名手・菅原勲騎手などが入れ替わり立ち替わり騎乗したが、9戦して勝ち星を挙げられなかった。

特に、同年8月の阿寒湖特別(札幌芝2600m)のレースぶりはショックだった。中館英二騎手を背に2番手から競馬を進め、4角で先頭に立つという勝ちパターンに持ち込みながらも、デビュー3戦目の3歳の牝馬に軽々と交わされ最後は5馬身差ちぎられてしまったのだ。3つ年上のセン馬を余裕の笑みで弄んだ彼女の名はファインモーション。当時売り出し中の世界的良血馬であり、後にGⅠを2勝する高目のオンナだ。このレースを見た当時中学生の私は、天才と凡才の努力では埋め難い差をひしひしと感じたのであった。私の人生観を決定付けたレースと言えるかも知れない。

2002年10月の鳴滝特別(京都芝2400m)で5着に敗れたのを最後に、メジロライデンは障害へと再々転向することになった。そして、歓喜の瞬間は転向2戦目で早くも訪れた。11月のJGⅡ・京都ハイジャンプ。このレースに嘉堂信雄騎手を乗せて出走した彼は、8頭立ての6番人気ながらも最終障害後に一気にスパートし、平地1000万下仕込みの脚で2着のマンボノリズムを5馬身差ちぎり捨て優勝したのだ。"関西障害界のドン"嘉堂騎手ここにあり、そしてパーマーの仔ここにありのレースぶりに、一度は落胆した私もわずかに溜飲を下げた。

新表記6歳での初重賞勝ちとなったが、障害界の中で言えばまだまだメジロライデンは若かった。それだけに、彼にはJGⅠを奪取するような活躍が期待されたのだが、彼が再び重賞タイトルを手にすることはついに無かった。それでも、7歳の暮れには障害オープン特別のイルミネーションジャンプSを勝ち、続く中山大障害でもブランディスの3着に食い込むなど、順調な活躍とは言えないまでも時折気を吐いた。イルミネーションジャンプSで下した相手は同年春の中山グランドジャンプを制し最優秀障害馬に選ばれたビッグテーストだから、レースの格以上に価値のある勝利と言えよう。

2005年3月の阪神スプリングジャンプで9着に敗れたのを最後にしばらく戦列を離れたメジロライデンは、やがて同年の7月に競走馬登録を抹消された。彼が制した2002年の京都ハイジャンプは、結果的には2006年で定年を迎えた大久保正陽師最後の重賞タイトルとなった。現役時は色々と毀誉褒貶の激しい人物であった同師だが、パーマーの仔で重賞を手にしたのはさぞかし嬉しかったことであろう。もし、メジロライデンにタマがあったら引退後メジロ牧場が種牡馬入りさせていたかも知れないが、残念なことにあるべきものが取られていたので乗馬となった。今は乗馬クラブのクレイン東京にいるという彼は(乗馬名はライデン)、時々乗馬の大会にも参加しており、新表記で18歳となった今でも意気盛んだという。

メジロライデン -MEJIRO RAIDEN-
セン 鹿毛 1996年生
父メジロパーマー 母メジロハリアー 母父エリモジョージ
競走成績:中央平地20戦3勝 障害25戦3勝
主な勝ち鞍:京都ハイジャンプ

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