2014/05/22

【私撰名馬物語#8】ノアノハコブネ

―一介の珍名馬が打ち立てた方舟伝説―


ノアノハコブネは1982年に浦河の名門・荻伏牧場で生まれた。父はタニノムーティエとのライバル物語で知られる快速馬・アローエクスプレス。母はプロント産駒のユトリロであった。ノアノハコブネの半姉にはオープン特別を2勝したウメノフーリン(2001年に道営三冠を達成したミヤマエンデバーの母)がいるが、ノアノハコブネを産み落として以降のユトリロは10年以上も不受胎や流産が続き、1頭の仔も送り出す事無くついに1993年には用途変更になってしまったという。その父のプロントはプリンスローズ~プリンスビオ系の輸入種牡馬で、直仔は淡白なスピード馬が多かったが、母の父としてはスノーエンデバーやハッピィーギネスなど味のある遅咲き馬をよく出した。某騎手ゲームでお馴染みの障害馬・リターンエースの母父もプロントである。

80年代当時としては水準以上の血統馬であったノアノハコブネだが、化骨の生育がやや遅く、その上育成時代に左の口に外傷を受けるなど、恵まれた幼駒時代を送ったとは言い難かった。しかし、母を現役時代に管理していた田中好雄調教師の息子である田中良平調教師に牧場で見初められた彼女は、同師と懇意にしていた小田切有一氏に紹介され同氏の所有馬となることが出来た。"ノアノハコブネ"という馬名は言うまでも無く旧約聖書のノアの方舟の伝説に由来しているが、「当時劣勢だった関西勢の救世主になって欲しい」という意味が込められているのだという。

発育の遅さから入厩の時期は3歳(旧馬齢表記)の11月にずれ込み、デビュー戦も後のクラシックホースとしては異例の遅さとなる明け4歳の1月末の京都開催になった。満を持してのダートでのデビューとなったが、1700mを音無秀孝騎手と共に文句のつけようのない内容で駆け抜け、新馬勝ちを収めることが出来た。半姉のウメノフーリンが前年のオークスで2番人気(8着)になるなど活躍していたこともあり、なかなかに馬格があって1戦1勝の未知の魅力を秘めていたノアノハコブネは桜花賞候補として一躍注目された。当時の"優駿"に掲載されていた岡田繁幸氏や佐藤伝二氏(伝説の馬喰として知られる)らの座談会においても桜花賞候補12傑の最後の1頭に数えられている。

しかし、デビュー勝ち後の彼女の戦績は冴えなかった。2戦目の梅花賞(京都芝1600m)では音無騎手が事故のため急遽ピンチヒッターとして飯田明弘騎手が鞍上に迎えられたが、出遅れてクビ差の2着に敗れてしまった。続く3月の初雛賞(阪神芝1600m)でも出遅れてしまい道中最後方からの競馬となり、直線で他馬をゴボウ抜きにしたものの4着までという結果に終わる。この2戦で手綱を取った飯田騎手は「強い馬だがハミをとらない。しかも終始遊んで、外々へ逃げていく」と彼女の幼さを呆れ気味に語りサジを投げた。

それでも陣営は桜花賞出走に拘りノアノハコブネを4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)に出したが、彼女はここでも出遅れてハミをとろうとせず、鞍上に帰って来た音無騎手に反抗し続けエルプスの8着という結果に終わった。これで事実上桜花賞への道が閉ざされてしまった。無茶なローテーションを歩んだこともあり、馬体重はデビュー時の476kgから22kg減の454kgにまで減っていた。彼女の弱点である出遅れ癖やハミ受けの悪さは、育成時代の外傷が由来だった、と後に田中良平師は述懐している。ともかく、桜花賞を悪あがきの末断念した陣営はノアノハコブネを忘れな草賞に出走させたが、またもや出遅れてしまい4着まで。今度はオークス出走まで危うくなってしまったのだった。

1985年4月の末のこと、田中師はノアノハコブネを京都開催の平場ダート1800m戦に出走させた。この選択について同師はオークス後のインタビューで「確勝を期すために雨が降っても影響が少ないダート戦に出走させた」と語っている(ここまでの芝4戦は全てやや重~不良馬場で行われていた)。そしてダート戦出走の決断は吉と出た。同レースで1番人気に支持されたノアノハコブネは、出遅れることも無く危なげの無い勝利を収めたのだ。この時点での馬体重は456kgとやや下げ止まり、当時はフルゲート28頭だったオークスへの出走が叶った彼女に対し、田中師は馬体の回復にただ全力を傾けた。

2勝目から間も無くして東上し決戦の地・府中へと入ったノアノハコブネは、見る見るうちに状態が良くなっていった。彼女の具合を見た田中師は親しい記者に「ひょっとしたらひょっとするかも」と思わずこぼしたというが、そんな一言を本気にするような競馬記者は記者の資質に疑問符が付くのではないか、というほど彼女の挑戦は傍目から見て無謀であった。この年のオークスは混戦が伝えられており、1番手評価のミスタテガミは重賞未勝利の桜花賞3着馬。血統的にもスピード型のドン産駒と2400mがベストとは言えず、手綱を取る"オークス男"嶋田功騎手が頼みという雰囲気であった。その上2番人気の桜花賞馬・エルプスはミスタテガミに輪を掛けたスピードタイプの逃げ馬であり、3番人気のラッキーオカメもトウショウボーイ産駒で距離が怪しい上に重賞勝ち無し。距離が持つ、と断言できそうな人気馬は早熟で知られるナカミ一族のお嬢・ナカミアンゼリカしかいなかった。ナカミアンゼリカの鞍上はその年の日本ダービーの直後に入院し、肝臓癌のため急逝することになる中島啓之騎手。当時数少ない通算700勝ジョッキーもこの頃にはすでに肝臓全体を癌細胞が蝕んでおり、文字通り決死の覚悟でのオークス参戦であった。

だが、いかに混戦と言えどもノアノハコブネを買うための材料はほとんど無かったとハッキリ言える。オープン未勝利、芝未勝利、血統的に距離が怪しいの三重苦。その上鞍上の音無騎手は騎手生活7年目で通算100勝どころか50勝がやっとの三流騎手で、当年の5月までの勝ち星も2勝と強調材料はまったく無い。ちなみにその2勝はどちらもノアノハコブネで挙げたものである。強いて言えば音無騎手が田中師や馬主の小田切氏と懇意にしていることが買い材料と言えたのかも知れないが(それまで音無騎手が挙げた重賞4勝は全てミスラディカルで挙げたもの)、そんな"絆"は非情極まりない勝負の世界ではプラスには必ずしもなり得なかった。28頭立ての21番人気、それが彼女に下された戦前の評価であった。

最終追い切りの朝、田中師は「それは、いい競馬して欲しいとは思うけど、勝ち負けの競馬までは無理やろ」と記者陣に冷静に語っていた。そして迎えたオークスの日。天気は晴れ、芝は良馬場。陣営にとっては願っても無い条件となった。馬体は幾分回復し、+2kgの458kg。若き牝馬たちの闘いの極みへ向かって、ノアノハコブネと音無騎手は舟を漕ぎ出した。

レースを引っ張ったのはトライアルを勝ったユキノローズ。エルプスはフケの影響もあり思うようにダッシュが付かず番手での競馬となった。先行争いは激化し、前半1000mは1分0秒5とこの時期の牝馬限定戦としては厳しい流れに。前が必死にやり合う中、ノアノハコブネは28頭中26番手をマイペースで進んだ。出遅れはやらかさなかったが、常識的に考えてこの位置からでは届くわけが無い。田原成貴騎手とイブキバレリーナが大きく馬群から離されてシンガリを進んでいたので、実質的にはほぼ道中最後方であった。

しかし、直線に入るとノアノハコブネの馬体が大外から躍る。早めに仕掛けて前で必死に粘るナカミアンゼリカやミスタテガミが坂を真っ先に登るが、上がり39秒台の脚色で苦しくなって外へ外へとよれていく。エルプスはすでに圏外。決死の走りを見せる彼らをあざ笑うかのように、さらに外から音無騎手とノアノハコブネがやって来た。そしてその刹那、中島騎手の覚悟を、音無騎手の辛抱が上回った。最後はナカミアンゼリカに1.1/4馬身差つけて、ノアノハコブネがトップでゴール板を駆け抜けた。新たな神話が誕生した瞬間だった。

田中師は「番狂わせ、なんてマスコミは言ってますが、とんでもないですよ。考えてもごらんなさい。新馬を勝ってすぐに、桜花賞候補と評判になった馬じゃないですか。これでもうマスコミの方々もハコブネを忘れないでしょう」と皮肉を交えながら喜びを語り、音無騎手は「クラシックは乗れるだけでも嬉しいのに、勝ってしまうとは正直夢のようですね」と無欲の勝利をアピールしながらいかつい赤ら顔を綻ばせた。田中師、音無騎手、小田切氏の三者にとってこれが初のGⅠ制覇。その記念すべき勝利が21番人気・単勝6270円の忘れられない一発となった。余談だが、当時の"優駿"にオークスのプレゼンターだった歌手の石川ひとみと音無騎手とのツーショットが掲載されているのだけれど、二人の風貌のコントラストが物凄い(笑)。

こうして神話を打ち立て生ける伝説となったノアノハコブネだったが、笹針を打たれて放牧に出されるも1985年の猛暑の夏を上手く越すことが出来ず熱発を起こし、その影響もあってか秋2戦は精彩を欠いた。前哨戦のローズSでは14頭立ての11着、本番のエリザベス女王杯(当時は4歳牝馬限定戦)でも12着と言う結果に終わった彼女は、当時は暮れの関西のオールスター戦的な位置付けだった阪神大賞典に出走。しかし、通算10戦目となった同重賞の1コーナーで腰の骨を折って競走を中止した末に、あえなく安楽死処分となってしまった。折れた骨が血管を突き破り出血が激しく、痛がり苦しんだ末に悶絶するほどの重傷であったという。

ノアノハコブネの一代記は意外な形で唐突に終わりを迎えた。しかし、小田切有一氏は彼女のことを忘れる事無く、後に所有した良血馬にアララットサン(ノアの方舟が流れ着いた山とされる)と名付けることで彼女を弔った。田中良平師も翌1986年のオークスにおいてユウミロクで2着するなどその後も活躍し、1994年に肝不全のため64歳で急逝するまで小田切氏との関係を保ち続けた。そして、音無秀孝騎手はやがて音無秀孝調教師となり、小田切氏とタッグを組みオレハマッテルゼで高松宮記念を制すなど一流調教師として活躍している。故・中島騎手しかり、死した者は記憶を残し、遺された者はそれを脈々と伝承するのだ。ノアノハコブネの神話は、彼らによって今後も受け継がれるはずだ。

ノアノハコブネ -NOAH NO HAKOBUNE-
牝 鹿毛 1982年生 1985年死亡
父アローエクスプレス 母ユトリロ 母父プロント
競走成績:中央10戦3勝
主な勝ち鞍:オークス

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