2014/05/05

【私撰名馬物語#1】タケノコマヨシ

―粉雪の舞う季節を越え、ひと夏越えて萌芽する―


1980年代後半の競馬ブーム期を彩った1頭にフレッシュボイスがいる。かつて関西テレビの競馬部門のエースであった杉本清アナウンサーに「雪はやんだ!フレッシュボイス1着!」と言わしめた末脚自慢の関西馬だ。天候をも左右してしまうかのような末脚を見せた彼の姿は、西の古参競馬ファンの脳裏に今も焼き付いている。地味な血統故に種牡馬としては不遇だったが、それはご愛敬と言ったところだろう。

例の「雪はやんだ!」のフレーズが杉本アナの口から飛び出したのは1986年春の毎日杯でのこと。「馬群を切り裂く」という表現がピッタリの伸び脚で突っ込んで来るフレッシュボイスの走りにはいつ見ても唸らされるものがある。後に自身の著書で杉本アナは回顧しているのだが、実はレース後も雪は降り続いており全くやんでいなかったというのは有名な話だ。しかし、フレッシュボイスの走りの衝撃を表現するフレーズとしてこれ以上の存在は無い。「しかしビックリだ!これはゼッケン番号6番、サンドピアリスに間違いない!」や「そして内からスルスルと5枠、アンブローシアか?違う、違う!プリンセススキーの方だ!」など、1980年代後半の杉本アナの感性の素晴らしさは神がかり的なところがあり、実況アナウンサーとして正に全盛期を迎えていた。年寄りの愚痴のような物言いで申し訳無いが、最近の競馬実況アナウンサーたちの中に全盛期の杉本アナに比肩するような"自然な表現力"を持った者は存在しないだろう。競馬中継には場違いなポエマーはゴマンといるだろうが。

その毎日杯でフレッシュボイスの引き立て役と化してしまったのがタケノコマヨシだ。彼はフレッシュボイスと同様に芝の中距離で末に懸けるタイプの馬だったのだが、同レースでは格の違いを見せつけられてしまった。2頭はよく似たタイプではあったものの、アローエクスプレス産駒のタケノコマヨシはフィリップオブスペイン産駒で重上手のフレッシュボイスとは違い、大跳び故にパンパンの良馬場が得意な馬であった。言わばフレッシュボイスの下位互換のような存在と言えるのかも知れない。オグリキャップの中央デビュー戦として知られるペガサスSで1番人気に支持されながらもあえなく撃破されたラガーブラックという馬がいるが、"東上最終便"毎日杯後に東上するも本番では二桁着順を繰り返し歯が立たなかったタケノコマヨシも、彼のように「名馬の引き立て役」としてファンの心に残る馬になる可能性があった。

だが、彼は後に同じ阪神芝2000mの舞台で見事にリベンジを果たすのである。夏を越えてパワーアップし菊花賞トライアルの神戸新聞杯で見せた彼の末脚は、フレッシュボイスのそれを見事に凌駕していた。「混沌とした1986年の菊花賞戦線に断を下すのはこの馬か」…春の負け犬はこのレースを境に毛並みの良い名犬へと変身を遂げた。しかし、菊の大輪を咲かせんと意気込んだ彼の前には高い高い障壁がそびえ立っていたのである。その障壁とは…?

タケノコマヨシの父は前述の通り往年の快速馬アローエクスプレス。母の名はミョウガミネといい、1980年のオークスでケイキロクの3着に入った活躍馬であった。母の父は名種牡馬シーホークであり、母母父はアサヒエンペラーらの母の父として知られるタマナー。父に足りないスタミナを補完するという意図(あるいは母に足りないスピードを補完するという意図)が見られる配合から生まれたというわけだ。アローエクスプレスはグレイソヴリン系の種牡馬であるが、後に輸入されるトニービン等とは違い距離への融通性はあまり無かった。また、活躍馬に牝駒が多いという特徴があり、有力な後継種牡馬も長らく登場しなかった。

ハギノトップレディ・ハギノカムイオー姉弟で一時代を築いた伊藤修司厩舎に所属したタケノコマヨシは、3歳(旧馬齢表記)秋にデビューするも中京競馬場で行われたデビュー戦では出遅れてシンガリに敗れてしまう。デビュー3戦は芝を使うも芽が出ず、目先を変えて出走したダート1800mの未勝利戦を大マクりをかまし4馬身差で初勝利。鞍上は伊藤師の娘婿である伊藤清章騎手であった。昇級戦の呉竹賞(京都D1800)も5馬身差で制したタケノコマヨシは、続いて出走した重賞のきさらぎ賞でフミノアプローズの2着に健闘。そして件の毎日杯へと歩を進めたのであった。

毎日杯では前走の内容が評価されて1番人気…と言うよりは、メンバー中唯一の重賞勝ち馬であるフレッシュボイスがその短距離血統故に2000mの距離を不安視されたことから押し出された1番人気と言った感じ。横殴りの雪が降りしきる中行われた同レース、蓋を開けてみればフレッシュボイスの独演会であった。道中で脚を溜めに溜めたフレッシュボイスは直線で一気に突き抜け、2着のタケノコマヨシとはゴール前では3馬身半の差がついていた。

確かに圧巻のレースぶりではあったのだが、レース後にフレッシュボイスを取り巻いた声はポジティヴなものばかりだったとは言い難い。1986年当時の競馬界は今とは逆に東高西低の時代。手薄なメンツの毎日杯を圧勝したぐらいでは評価は上がらない。毎日杯の低レベルさを証明するかのように、タケノコマヨシは中2週で出走した中山のスプリングSで5着に敗れた。そのスプリングSだって東の横綱どころか大関すらいないお寒いメンバーのトライアルだ。いくら重馬場だったからと言っても、せめて馬券圏内には来ないと本番では話にならない。

迎えた皐月賞。1番人気に支持されたのは無敗馬ながらもやはり距離が不安視され続けイマイチ評価の上がらないダイシンフブキ。1番人気とは言え単勝オッズは3.3倍というあたりに半信半疑のファンの思いが表れている。2番人気には共同通信杯を勝つも中間順調さを欠いていたダイナガリバーが推され、フレッシュボイスは4番人気。タケノコマヨシは14番人気に過ぎなかった。結果はと言うと、終始器用に立ち回った5番人気のダイナコスモスが凱歌を上げ、フレッシュボイスは2着。ダイシンフブキは骨折し7着に敗れ、タケノコマヨシはと言うと馬群の後ろをついてきただけの13着に惨敗。この時点ではフレッシュボイスとは埋めがたい能力差があった。

二冠目のダービーでも23頭立ての18着に敗れたタケノコマヨシは失意のうちに休養に入ってしまう。ところが、夏に十分に休養を取ったのが功を奏すことになる。秋緒戦の神戸新聞杯、6番人気の評価を受けたタケノコマヨシは、1番人気のフレッシュボイスにきさらぎ賞馬フミノアプローズ、夏の上がり馬カツタイフウオーに牝馬代表スーパーショット&ポットテスコレディといったあたりをまとめて粉砕。一躍西の菊花賞候補に推されてしまうのである。続いて返す刀で京都に見参したタケノコマヨシは、当時は菊花賞のトライアルレースとして秋に施行されていた京都新聞杯をやはり完勝してしまう。ここで下した相手はかなりの大物揃い。ダービー馬のダイナガリバーに、西の大将ラグビーボール、スプリングS勝ちのサニーライトといった面々を撫で斬りにしたのだから、評価が上がらないはずがない。トライアルを連勝したタケノコマヨシはラグビーボールと肩を並べ、西の菊花賞候補の筆頭としてマスコミによって名を挙げられるようになった。

そんな彼の前に立ち塞がった壁は、距離の壁であった。当時の「優駿」で伊藤騎手が「シーホークが頼り」と苦しげに語ったように、末が斬れ過ぎるタケノコマヨシの走りは明らかにその父アローエクスプレスの影響が強く、影響が微塵も見られない母の父のステイヤー種牡馬シーホークに対して神頼みにも似た思いを鞍上とファンは抱いていたのである。もっとも、シーホークを母の父に持つ馬が長距離向きに出やすいかと言うと必ずしもそうとは言えず、マイスーパーマン(関屋記念など重賞2勝)のような短距離馬も出していたりするのだが…それはともかく、11月の大一番・菊花賞で彼の資質はハッキリとわかった。

前半1000m1分3秒3というスローで流れる中、後方待機策を取った2番人気のタケノコマヨシと伊藤騎手。このスローペースは距離を考えれば朗報かも知れないが、追い込み馬であることを考えれば痛し痒しだ。結局、4コーナーでそこそこの位置につけることが出来た彼らだったが、直線伸びを欠きなだれ込むだけの5着に終わった。勝ったのは6番人気のメジロデュレン。2着にはダイナガリバーが頑張った。いずれもステイヤーの血を受け継いだ競走馬であり、父の血が強すぎてシーホークのタフな血が付け焼き刃に過ぎないタケノコマヨシにとって、夢にまで見た栄光のゴールはあまりに遠かったのだ。

菊花賞以後、タケノコマヨシは負け続けた。翌年緒戦の大阪杯で3着に入ったのは良かったが、春の大目標である宝塚記念では9着に終わり、その後は掲示板にすら1度(1987年の朝日チャレンジCで3着)だけしか載れなかった。主戦の伊藤清章騎手が離婚し義父の伊藤修司師と絶縁してしまい、鞍上から離れたのも痛かった。そして1989年秋、1年以上戦線から離れていたタケノコマヨシは登録を抹消され、三石で種牡馬になった。

種牡馬としては1歳下で同父のニホンピロマーチ(ダービー3着)と同期になったが、同馬と比べてタケノコマヨシの評価は低かった。重賞勝ちこそ無いがスターロッチの末裔で近親も豪華絢爛なニホンピロマーチは初年度から30頭以上の牝馬を集め、一方平凡な牝系出身のタケノコマヨシは10頭そこそこと期待薄。そして産駒の見栄えが悪かったのか、産駒がデビューする前の1992年の暮れにタケノコマヨシは早々と廃用になってしまった。遺された産駒から活躍馬が出ることも無く、わずかにサンエイオリーブという牝駒が繁殖入りしただけでその血も今では絶えているようだ。"第二のリードワンダー(同父の成功種牡馬・シヨノロマンらの父)"になることは叶わなかったが、重賞1勝馬ながら日高の諸牧場のバックアップを受け初年度から51頭の牝馬を集めたリードワンダーとは始めから勝負が付いていたと言えそうだ。もっとも、前途洋々だったはずのニホンピロマーチもまるで活躍馬を出せずに数年後に後を追うように廃用になっているが。

かつては菊花賞の最重要トライアルと言われ、多くの優駿達が勝ちどきを挙げ菊花賞へ駒を進めていった京都新聞杯も、今ではダービーへの東上最終便へと様変わりしてしまった。タケノコマヨシの名も今では埋もれてしまい、安田記念を勝ったフレッシュボイスのように名馬として語られることもほとんど無くなっている。そんな彼のような"埋もれた名馬"の記憶をネット上に留めるために、私はこのブログを開設した。以後、極めてマイペースで記事をアップして行こうと思うが、どうかお付き合いいただきたい。

タケノコマヨシ -TAKENO KOMAYOSHI-
牡 黒鹿毛 1983年生 1992年用途変更
父アローエクスプレス 母ミョウガミネ 母父シーホーク
競走成績:中央23戦4勝
主な勝ち鞍:京都新聞杯 神戸新聞杯

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