2014/06/20

【私撰名馬物語#20】ケイワンバイキング

―・K-1全盛期にピークを迎えた青森生まれのラストサムライ―


今回の記事はケイワンバイキングが主人公だから、馬名にちなんで日本の格闘技団体・イベントの現状についてちょっと書いてみようか。とは言っても、私はそっち方面の知識がまるで無いので、素人の聞きかじり情報が話題の中心となってしまうのはご了承いただきたい。

私が小さい頃はまだプロレスのテレビ中継が昼間に放送されていたし、バラエティ番組やCMなどでレスラーや格闘家を見かける機会も多かった。それらのうち特に人気があったのはK-1の選手たちだった。マイク・ベルナルドやピーター・アーツ、アーネスト・ホーストに佐竹雅昭といった面々は私を含めた一般ピープルにも知名度があり、当時ブラウン管の中で見かけない日は無かったほどであった。中でも「かかと落とし」で知られたアンディ・フグの人気は絶大で、日清食品「強麺」のCMでのお茶目な姿は未だに記憶に残っているし、今でも「ゴーメンナサイヨー、ゴーメンナサイヨー」のフレーズが頭の中でリフレインすることがたまにある。

1990年代に隆盛を誇ったK-1ブームがやがて終焉を迎えたのは個人的には「野獣」ことボブ・サップが期待されながらもコケたのが大きかったのかなと思っているが(この辺り格闘技ファンの方にツッコまれそうだな)、兎にも角にも現在はプロレス&格闘技冬の時代である。ボクシングも亀田三兄弟ブームが賛否両論を呼びつつ終わると再び世間の話題に上らなくなってしまい、村田諒太のプロ入りも起死回生の一打とはならずなかなか苦戦しているようだ。インターネットの発達により選手や主催団体の裏の情報が容易に流れるようになったこの時代、虚構と誇張に頼る部分が元々大きかったこの分野のスーパースター像を新たに創り出すのは簡単なことでは無いのであろう。時代はいわゆるひとつの"転換期"に来ていると言えるのかも知れない。

"K-1"を名に冠する(語源は違うだろうが)ケイワンバイキングをK-1戦士に例えるならば誰が相応しいだろうか、としばし考えてみた。が、セン馬で青森産馬の彼を男らしい異国の格闘家たちに準えるという行為自体やや無理があるかなぁ、という身も蓋も無い結論に達するに至ってしまった。でも強いて言えば、強いて言えば…うろ覚えだが青森県産の牡(セン)馬として最後に中央重賞を勝ったのが確か彼なので(牝馬ではタムロチェリー、地方交流重賞ではエスプリシーズが勝っているはず)、"青森生まれのラストサムライ"ということで生前"青い目のサムライ"の異名を取ったアンディ・フグかな。アンディ・フグが白血病のため身罷った2000年という年は、ケイワンバイキングにとっても栄光から転落へと向かう節目の年となったわけだが、それについては後述するとして。まずは1998年の函館スプリントSの覇者・ケイワンバイキングの誉れ高き歴史について書かせていただくことにしよう。

格闘技イベントのK-1が誕生した年である1993年に、ケイワンバイキングは元気よく産声を上げた。出身牧場は青森県上北郡東北町の東北牧場である。東北牧場からは後に1999年の秋華賞2着馬のクロックワークが送り出されたが、同馬が誕生した年を最後にしばらく生産部門を止めていた。それから数年後に生産を再開したようであるが、以前と比べるとかなり規模を縮小している模様だ(生産再開後の代表生産馬はみちのく大賞典勝ちのトーホクキング)。ケイワンバイキングの父はブラッシンググルーム直仔のアイシーグルーム。同馬はアメリカ産のGⅢ馬で、本邦輸入後は一貫して青森で供用され、中京記念などローカル重賞を3勝したイナズマタカオーなどを生み出した。母のロランジェリーは現役時代にはフランスの準重賞を2勝しており、1989年に東北牧場によって輸入される前にはBCスプリント勝ちのカードマニア(父コックスリッジ)を産んでいる。要するに世界的な名繁殖牝馬なのだが、東北牧場から放出されてからは各牧場を転々とし、最後は転売不明になってしまったらしい。母の父のジェイオートビンはネヴァーベンドの直仔で、スワップスSにてシアトルスルーを16馬身ぶっちぎった快速馬として知られる。

上記の様にケイワンバイキングは青森産馬としてはかなりの良血馬であったのだが、幼駒時代にトモに水がたまる病気に罹り、全身麻酔を施すほど大掛かりな手術を受けるなど、すくすく順調に育ったとは言い難かった。その上母譲りの気性の激しさ(半兄のカードマニアもセン馬である)から牧場の従業員を度々困らすような問題児であったらしい。それらの事情も重なってデビューは遅れてしまい、1996年4月の4歳(旧馬齢表記)未勝利戦が初陣となった。このレースは中山ダート1200mという条件で、既走馬相手に2番人気に支持されたが4着に敗れた。勝ち上がったのはデビュー4戦目の未勝利戦。時期は6月で条件は新馬戦と一緒であった。横山賀一騎手を鞍上に逃げて8馬身ぶっちぎるというスピード感満点の内容であり、勢いを駆って出走した7月の昇級戦でも2番人気に推されたが5着に敗退。この敗戦に、管理する美浦の奥平真治調教師は同馬に去勢手術を施すことを決断。こうして睾丸を失いセン馬となったケイワンバイキングはしばらく放牧に出された。

去勢手術の効果は関係者曰く「目に見えて良くなった」ほどであったとのこと。それを証明するかのように1997年1月の復帰戦(中山ダート1200m)を完勝すると、900万下クラスに昇級後も安定して好走を続けた。そして、初めての芝レースとなった6月の平場900万下条件戦(東京芝1600m)を横山典弘騎手を乗せて差し切り、降級後の飯豊特別(新潟芝1400m)も好タイムで快勝し準オープンに昇級。準オープンクラスでは3戦連続で2着に終わるなど足踏みが続いたが、翌1998年1月の初富士S(中山芝1600m)と2月のアメジストS(東京芝1400m)をそれぞれ57.5kg・58.5kgの重ハンデを背負いながらも勝ち遂にオープン入りを果たした。芝転向後は後方から差す作戦を取ることが多かったが、3月の東風S(中山芝1600m)では一転して逃げの戦法に出て、後の天皇賞馬のオフサイドトラップに2馬身半の差をつけて逃げ切っている。デビュー以来掲示板を外したのは1度だけ。常に安定した走りを見せ続ける6歳セン馬が迎えた春だった。

初めての重賞挑戦は4月のGⅢ・ダービー卿チャレンジTだった。同重賞では3連勝の勢いを買われて1番人気の支持を受けたが、直線の坂で失速し2番人気のブラックホークに差されて1.3/4馬身差の2着に終わった。続く5月のGⅠ・高松宮記念にも出走したが、慣れない遠征で馬体重を大きく減らしたことも響き5着まで。実力は高く評価されながらも、重賞タイトルには手が届かないまま三度目の正直として出走したのが7月のGⅢ・函館スプリントSであった。

この年の函館スプリントSには芝1200mの日本レコードホルダーであるエイシンバーリンも駒を進めていたが、近走勝ち星が無いためか2番人気に甘んじた。休み明けで順調さを欠くダンディコマンドや、芝ではパンチ力に欠けるシャドウクリークとスーパーナカヤマが人気になるようなメンバーということもあって、充実期の中にあり絶好の条件に恵まれたケイワンバイキングは単勝2.4倍の1番人気と重賞獲りへのお膳立ては整っていた。後はそれまで時折見せていた2着癖さえ発動しなければ勝てるはずであり、暮れ(当時は12月に開催)のスプリンターズSを目標にしていることを考えれば、負けるわけにはいかなかった。

エイシンバーリンとスーパーナカヤマの快速コンビがいの一番に飛び出したが、ケイワンバイキングも好スタートを切り2頭の後ろを追走した。流れ自体は追い込み馬に向いた速い流れだ。その厳しい流れに飲み込まれて、4コーナーでスーパーナカヤマが失速しやがて馬群へと消えていくと、7歳牝馬のエイシンバーリンが敢然と先頭に立った。しかし、ケイワンバイキングの鞍上の横山典弘騎手の手応えは想像以上に楽なものであった。息を切らしながらも粘り込みを図るエイシンバーリンであったが、外からケイワンバイキングが馬体を併せ難無く先頭に。そしてそのまま押し切った。3着には道中シンガリに待機していたサンライズアトラスが突っ込んだものの、エイシンバーリンとの差は1馬身、ケイワンバイキングとの差は3馬身あった。こうしてケイワンバイキングは真夏のスプリント戦を文句無しの完勝で制したのである。

兄のカードマニアは旧8歳で全盛期を迎え、BCスプリントを制した。こうした血統背景を鑑みれば、6歳で重賞勝ちを収めたケイワンバイキングに期待が集まるのは当然のことであった。結局、1998年の秋はスプリンターズS9着など不完全燃焼で終わってしまったのだが、翌年4月のダービー卿チャレンジTを3番人気でまんまと逃げ切り重賞2勝目を飾っている。この7歳セン馬を再び勝利へと導いたのは横山典弘騎手の実兄である横山賀一騎手だった。横山ブラザーズに等しく幸福をもたらしたケイワンバイキングは、続く京王杯スプリングCでもグラスワンダーと0.2秒差の3着に頑張り、老いてなお盛んなところを見せた。怪物と僅差の勝負が出来た。さあ、勇躍安田記念へ…「衰えを感じさせないどころか、さらに力をつけているように思える」と奥平師に言わしめた老兵が奈落の底へと落ちることになったのは、レース後のアクシデントがきっかけであった。

右第3中足骨骨折、これが京王杯後の彼に下された診断である。間も無く手術は行われた。その当時は「競走能力に支障は出ないだろう」とやや楽観視されていたのだが、2001年4月に2年の時を経てターフへと帰って来た彼には、もうレースを勝つような力は残されていなかったのである。復帰後の13戦中10戦は2桁着順に惨敗。その上掲示板にはただの一度も載れなかった。2003年3月のオーシャンSで16頭立ての16着に敗れた彼は、4月には障害未勝利戦に出走し障害入りを果たしたが、1着馬に10秒1も離される惨敗を喫し頓挫。その4月中に競走馬登録を抹消された。旧表記11歳、新表記10歳まで走り続けた彼は、引退後は功労馬として故郷の東北牧場へと迎え入れられたという。セン馬故に子孫を残すことのできない彼にとってはベストな余生であったことだろう。だが、競走馬のふるさと案内所の同牧場のページには現在は名前が無く(以前は載っていたらしい)、功労馬繋養展示事業の助成金も受けていないようなので、今でも彼が当地で元気に暮らしているかどうかは判然としない。

と、ここまで書いてはみたけれど、やっぱり一介の重賞2勝馬であるケイワンバイキングを大スターのアンディ・フグに例えるのは無茶だな、とちょっと後悔していたりもする。裏付けの無いアイディアだけで突っ走った代償がこれだよ!でも、ケイワンバイキングの馬生における活躍の波はK-1の盛り上がりと幾分連動していると言えなくも無い…かなぁ?どんなに成績の安定した馬でも、アクシデントひとつで凡馬へと変わってしまうことはあるし、どんなに人気のあるコンテンツでも、常にその人気を維持し続けることが出来るとは限らない。諸行無常・万物流転の世の理を表しているのが、ケイワンバイキングの生涯であり、アンディ・フグの生涯でもあり、そしてK-1の歴史なのだ…と一応格好をつけてみた。無理矢理だなぁ。そんな芯の無い文章ばかり書いているとフグにかかと落とし喰らうぞ。

ケイワンバイキング -KEIWAN VIKING-
セン 鹿毛 1993年生
父アイシーグルーム 母ロランジェリー 母父J.O.Tobin
競走成績:中央平地43戦9勝 障害1戦0勝
主な勝ち鞍:ダービー卿チャレンジT 函館スプリントS

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