2014/06/29

【私撰名馬物語#24】ナオキ

―艱難辛苦を乗り越え、史上唯一の宝塚記念母仔制覇を達成―


競馬界において古くからよく言われていることだが、宝塚記念は「なかなかビッグタイトルが獲れない馬のためのGⅠ童貞卒業レース」という側面が確かにある。グレード制以後の勝ち馬でざっと思いつくだけでも、

1985年:スズカコバン
1987年:スズパレード
1991年:メジロライアン
1997年:マーベラスサンデー
1998年:サイレンススズカ
2001年:メイショウドトウ
2002年:ダンツフレーム
2010年:ナカヤマフェスタ

こんなに該当しそうな馬が存在する。それに、単純に春のグランプリで初GⅠ制覇という馬ならダンツシアトルやエイシンデピュティなども該当するわけだ。レースとしての性格は本当にハッキリしている。

となれば今年勝つであろう馬はあの馬だ。ウインバリアシオン、彼が勝つに決まってる。宝塚記念の歴史に照らし合わせてみれば、それは明白だ。

いきなり根拠の無い自信をさらけ出しつつ始まった今回の記事。その流れで主人公に据えたのは1975年の宝塚記念の覇者・ナオキである。ナオキは1969年生まれなので、24回目にして初めて1960年代に生まれた競走馬を扱うことになったわけだが、えらく古い馬でありながらも彼の馬生は物語性に富んでおり、若いファンにとってはかえって新鮮なのではないかとすら思う(と言うかそうであってもらいたい)。馬主肝煎りの名血を受け継ぎながらも、1970年代当時の長距離偏重の距離体系故にビッグタイトルに恵まれなかったナオキ。それに関連した彼の哀しみや、偉大な母との絆を上手く表現できれば良いなぁ。

ナオキは1969年4月25日に三石の大塚牧場で誕生した。大塚牧場と言えば後にオサイチジョージやヒシミラクルを生み出すなど宝塚記念と縁の深い老舗の名門牧場だ。父はザボス系の名スプリンター・サウンドトラック。サウンドトラックと同系の種牡馬には近いところでは同父のサミーデイヴィス、別の分枝ではマタドアやスカイマスターがおり、彼らは概して淡白なスピードに優れていた。父自身は、持ち込み馬で1966年の弥生賞などを制したタマシュウホウの活躍が呼び水となり同年11月にアイルランドから輸入され、本邦ではナオキの他にロングエース(1972年の日本ダービー馬)らの半兄で1970年の阪神3歳Sを制したロングワンや、1972年に3戦3勝で朝日杯3歳Sを勝つも故障で無敗のまま引退したレッドイーグルなどを出し1983年に死亡した。ナオキの母は1964年の阪神3歳Sと1966年の宝塚記念を共にレコードで制した女傑・エイトクラウンである。彼女は幾分小柄であったが気が強く、賢くて動きも素軽い牝馬であったという。母の父はシンザンなどの父として知られる名種牡馬のヒンドスタンであり、ナオキがある程度距離が持ったのも母や母父の影響であると思われる。エイトクラウンは1973年にクラウンピラード(父ダイハード)という牡馬を産んだが、彼も1977年の春秋の天皇賞で連続して2着に入るなど活躍し種牡馬入りを果たしている。要するに、ナオキの血統的な資質や価値は相当なものであったということだ。

母のエイトクラウンは1967年の春に繁殖入りしたが、初仔(双仔であった)を流産したため、2番仔のナオキが初めて世に出た産駒となった。"ナオキ"というシンプルな馬名は母のオーナーでもあった愛知トヨタ自動車の社長の山口昇氏の娘婿である山口直樹氏の名前に由来している。また、母のエイトクラウンや半弟のクラウンピラードらの馬名はトヨタ自動車が当時出していた車名から取られたものである。ナオキは仔馬時代から歩様のしなやかさを誇り、胴長でトモのしっかりした馬であった。だが、長じて母と同じ栗東の田中康三厩舎に入ったが調教では全く動かず、終生のパートナーとなる佐々木昭次騎手(母エイトクラウンで阪神3歳Sを制した天神乗りがトレードマークの騎手)も「この調子ではオープンまでいけるかどうか」と落胆したという。

1971年8月、函館の新馬戦(芝1000m)でナオキはデビューの日を迎えた。鞍上は母の恩人の佐々木騎手で、10頭立ての3番人気に推されたが、当のナオキは走る気が無く後方から追い通しの競馬となり9着に終わった。10月に出走したデビュー2戦目も似たような競馬で5着に敗れた後、管骨にヒビが入り10ヶ月半の長期休養に入ってしまう。この故障で春クラシックへの道を事実上閉ざされたわけだが、2戦して馬券にも絡めないような戦績ではいくら良血馬であってもクラシックどころの話ではないだろう。

1969年生まれの牡馬たち…言い換えれば1972年クラシック世代は「関西三強世代」と呼ばれていた。1冠目の皐月賞はサラ系のランドプリンスが制し、日本ダービーは武邦彦騎手に操られたロングエースが勝った。春二冠では無冠に終わった持ち込み馬のタイテエムを加えてこの3頭が言わば三強となり、春クラシックは彼らを中心に回ったわけだが、他にも菊花賞と有馬記念を連勝するイシノヒカルや、"悲運の快速馬"として名高いハマノパレード、そしてナオキの様にクラシックは故障で棒に振ったものの、古馬になってから大活躍を遂げたタニノチカラといった連中がこの世代の厚みを示している。また、中山大障害4連覇のグランドマーチスや、1973年の有馬記念でハイセイコー&タニノチカラを完封したストロングエイトも同世代である。4歳春に雌伏の時を過ごしたナオキだが、後に良血を開花させ彼らと肩を並べるほどに活躍することになる。しかし、この時点ではまだ彼の秘められた素質に気づいた者は存在していなかった。胴長で頭でっかちな風貌を持ち、攻め馬ではまるで動かないというおとぼけキャラではそれも仕方が無いか。

夏競馬が最盛期を迎えていた1972年8月の小倉開催。この舞台でナオキはようやく復帰することが出来た。彼の馬体重は復帰前の480kgそこそこから510kgにまで増えており、フィジカル面の成長は明白であった。復帰戦は前で競馬し3着と言う結果であったものの、そこから中1週で出走したデビュー4戦目を楽に逃げ切り初勝利を飾った。長い休養を経て肉体面だけで無く精神面も大きく成長したナオキは、10月にはダート戦で2勝目を挙げると、特別戦での3着を挟んで11月から12月に掛けて中京の条件戦を2連勝。これで通算成績を8戦4勝とすると、翌1973年の2月には平場オープン戦(中京芝1600m)を7頭立てのブービー人気ながらも1分36秒5のレコードで逃げ切り3連勝。田中師曰く「これでナオキ流の競馬を完成させた」のだという。その1ヶ月後には勢いを駆って重賞の中京記念(中京芝2000m)に出走。単勝6番人気と戦前の評価は今一つだったが、大外枠から一気にハナを奪い、鞍上の佐々木騎手はここからスローペースに落とした逃げを披露。先頭のまま直線に至ると、シングン以下の追撃を完封し初重賞制覇を果たした。斤量は53kgとやや恵まれた条件下での勝利ではあったが、4連勝のナオキが充実期にあることは間違いが無かった。

後に「史上最強世代」と謳われた1972年クラシック世代だが、三冠を分け合ったランドプリンス、ロングエース、イシノヒカルといった面々がいずれも不振や故障に見舞われたこともあり、1973年春時点での世代の大将格は「無冠の貴公子」ことタイテエムに移り変っていた。そんな状況下にあって、一介のローカル重賞馬であるナオキは春の天皇賞にて同期のタイテエムに挑戦すべく、当時は春天の前哨戦であった鳴尾記念(阪神芝2400m)にコマを進めた。レースでは逃げ馬を前に行かせて2番手からの競馬となったが、戦前囁かれた距離不安に負けじと粘り込みを図りシンザンミサキの2着に踏ん張った。「これである程度長丁場への目途が立った」と見た陣営は予定通り大一番の天皇賞にナオキを送り込んだ。1番人気のタイテエムが泥でメンコを真っ黒にしながら突っ込んで優勝し、杉本清アナウンサーに「無冠の貴公子に春が訪れます」と言わしめたこのレースで、ナオキは正攻法の競馬で4着に粘り実力を示した。佐々木騎手は「負けたけどこのメンバーで4着は立派」と胸を張った。

初挑戦の1973年春の天皇賞では完敗を喫したナオキであったが、それ以後しばらくは適距離である中距離路線をひた走った。同年5月の平場オープン戦(阪神芝1600m)をレコードで逃げ切ると、6月には宝塚記念に出走。しかし、この時点では母仔制覇はならず、同じく中距離で快速を誇ったハマノパレードの逃げ足に屈し3着に終わった。宝塚記念の後は休養に充て、夏を順調に越えたナオキはオープン2戦を叩いて秋の天皇賞(当時は3200m)に挑んだがタニノチカラの6着に敗れ、暮れの有馬記念でも6着と秋は不完全燃焼であった。これらの結果により「ナオキはどうでもいいレースでは強いが大一番ではイマイチ勝負弱い馬」という世間の評価が徐々に固まっていった。翌1974年正月の金杯・西(京都芝2000m)では3度目のレコード勝ちを収めたが、その評価が変わることは無かった。そうこうしているうちに骨膜炎を発症した彼は、十分に脂の乗った6歳の季節に9ヶ月の休養を余儀なくされた。

ナオキが3度目の天皇賞挑戦を目指して休養からカムバックしたのは10月のこと。淀の復帰戦は4着に終わり、叩き2戦目の秋の天皇賞では17頭立ての13番人気と完全に見限られていた。そして低評価に反発することも無く好位からバテて15着に大敗すると、暮れの有馬記念には出ず休養に入り1974年のシーズンを終えた。傍目から見ればもう限界と思われても仕方が無かった。

1975年の時点ですでに明け7歳。何事にも淡白なサウンドトラックの仔であるという血統背景を鑑みれば再起の道は無いように思われた。だが、前年の秋天で初の二桁着順に敗れたことでかえって厄が落ちたのか、ナオキは7歳にして再度充実期を迎えることになる。復活の手始めに2月の中京のオープン戦を珍しく追い込んで完勝すると、3月の中京記念では一転して逃げの競馬で2年ぶり2度目の制覇を果たし、これで中京では6戦6勝。中京記念での勝利に気を良くした田中師は4度目の天皇賞挑戦を企てた。そして出走した3月30日の鳴尾記念。トップハンデ59.5kgの酷量を背負ったナオキであったが、そんな条件を物ともせず先行抜け出しの横綱相撲でメジロジゾウ以下を一蹴し2400mの距離を遂に克服して見せた。勝ちタイムは2分27秒1で、通算4度目のレコード勝ちであった。ナオキは完全に復活したどころか、進化していたのだ。

3連勝の狂い咲きの勢いでナオキは再び天皇賞へと挑んだ。2年前にタイテエムの4着に踏ん張った舞台は、前年の二冠馬キタノカチドキとハイセイコー&タケホープと同期のステイヤー・イチフジイサミがいざ主演を張らんと戦前から覇を競っていた。誇り高き"最強世代の生き残り"であるナオキは6番人気に過ぎず、その評価は「もうサウンドトラックの仔は天皇賞に出て来るな」と言わんばかりのものに見えた。そのような厳しい視線を浴びながらも、"4度目の正直"を果たすためにナオキは果敢に先行したが、結局は勝ったイチフジイサミから3秒離された8着と完敗を喫した。「いつになく引っかかって折り合いがつかなかった(佐々木騎手:談)」年を重ねて進化したとは言えど、やはりナオキにとって3200mの舞台は鬼門であった。

そんな彼が遂に栄冠を勝ち取った1975年の宝塚記念。この春のグランプリはファン投票1位と2位のキタノカチドキやタニノチカラが欠場し、重賞未勝利のニホンピロセダンが1番人気に推されるという手薄なメンバーで行われた。ナオキは2番人気であったが、スタートから積極的にハナを奪い逃げを打つと、そこから一気にスローにペースを落として2着のモアーキャッスルに影も踏まさずに2馬身半の差をつけて逃げ切った。レースは実に楽な逃げ切り勝ち。しかし、それまでのいささか厳し過ぎる道程を考えれば感慨深い勝利であった。これで母エイトクラウンとの母仔制覇が達成され、それから39年の時を経た2014年現在も、同記録は宝塚記念の歴史上唯一の快記録として輝き続けている。

これで種牡馬になるための婿入り道具は得た。後は花道を飾るだけで、それに相応しい舞台はまさしく秋の盾だろう。歓喜の宝塚記念の後、返す刀で出走した高松宮杯(中京芝2000m)において中京初黒星を喫したナオキは秋2戦も凡走。好調期から一転して悪い流れのまま11月に5度目の天皇賞挑戦を果たした。1941年秋の帝室御賞典(現在の天皇賞)を制した名騎手で名伯楽の田中康三調教師にとって、調教師としての天皇賞制覇は宿願であった。だが、生憎にも雨が降り続き不良馬場となった府中の芝。良馬場でこそ快速の持ち味が活きるナオキは、最後の最後までツイていなかった。そして、スタートで後手を踏んだ彼は中団からの競馬となり、"重の鬼"フジノパーシアと大崎昭一騎手が高らかに凱歌を上げたのを後方から眺めながら7番手でゴールインした。このレース中に左後脚を骨折したナオキは、5回挑んだ天皇賞でただの一度も馬券に絡むこと無く、静かに競馬場を去った。通算30戦13勝。才能のある、しかし純然たる中距離馬であるが故に、彼は悲運の名馬と化した。なお、彼の天皇賞制覇の夢は弟のクラウンピラードに受け継がれたのだが、テンポイントやホクトボーイに阻まれ結局悲願達成はならなかった。

引退後はシンジケートが組まれて種牡馬となり、故郷の大塚牧場で供用された。だが、のべ200頭ほどの産駒を送り出しながらも中央重賞を制したのは1985年のカブトヤマ記念を制したチェリーテスコ1頭とどうにもうだつが上がらず、1983年にはシンジケートが解散。同年の秋に宮城県加美町の薬莱軽種トレーニングセンターへと移った。薬莱山の中腹にある風光明媚なこの牧場で、年老いたナオキはのんびりと種牡馬生活を継続していた。だが1990年5月5日、久しぶりの種付けの最中に心臓発作を発症。周囲の人間が手当てする間も無く彼は息を引き取った。享年22歳。周囲の思惑を時には裏切り、時には応えて見せた名中距離馬・ナオキ。幾多の艱難辛苦を乗り越えてグランプリホースとなった彼の最期は、あまりに唐突で呆気の無いものだった。

ナオキ -NAOKI-
牡 栗毛 1969年生 1990年死亡
父サウンドトラック 母エイトクラウン 母父ヒンドスタン
競走成績:中央30戦13勝
主な勝ち鞍:宝塚記念 鳴尾記念 中京記念(2回) 金杯(西)

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