2014/06/26

【私撰名馬物語#23】アワパラゴン

―障害界の模範的ニュースターが生まれ故郷にて草を食むまで―


ライブドアブログ移籍第1弾となる今回は障害馬を取り上げる。1997年の東京障害特別(秋)の勝ち馬であるこのアワパラゴンは、並み居る障害馬の中でもトップクラスの知名度を誇る馬という印象があるので(引退から15年ほどを経た今となってはそうでも無いか?)、埋もれた名馬の掘り起こしを何よりも重んじる当ブログには不適格な1頭と言えるかも知れない。でも、実際問題として普通の障害重賞1勝馬では以前取り上げたメジロライデン並に起伏に富んだ生涯を送った馬でも無い限り記事にしづらいんだよね…。そんなどうにもヘタレな事情もあって、正真正銘の障害界の名馬であるアワパラゴンを取り上げることに相成ったわけだ。なんかごめんね。

当ブログの一応の名目は「週末に行われる中央競馬の重賞の過去の勝ち馬を顕彰する」というものであるが、以前の記事で述べたように筆者自身があまり障害競走についての知識を持ち合わせていないため、障害重賞はスルーすることが多々ある。それと同じ理由から地方交流重賞もスルーしてしまうこともあるのだが、もし「どうしてもこの馬について書いて欲しい!」という方がいらっしゃったら出来る限り対応させていただくので、その場合は何かしらの方法でリクエストしてもらいたい(前身のブログでリクエストをいただいたカバリエリエースについては資料がほぼ揃ったので来年のクイーンCの週にて必ず取り上げさせていただきます!)。よろしくお願いします。

アワパラゴンは1991年5月24日に静内の岡田牧場で生まれた。彼の父のモーニングフローリックはエルバジェ系の米GⅢ馬。エルバジェ系はスタミナに富んでいることで知られるが、同馬は母方の影響が強いのかバンブーメモリーやキングフローリック(GⅡ時代のスプリンターズSを勝った)を送り出すなど短距離馬を中心に出した。その一方で菊花賞4着馬のメグロアサヒやエメラルドS(芝2500mのオープン特別)勝ちのオンワードレニエなどのステイヤーも生み出しており、現役当時の種牡馬事典ではよく「得体の知れない種牡馬」と評されていた。母のダイナギャラクシーはノーザンテースト産駒で現役時代は中央未勝利。アワパラゴン以外には大物と言える産駒はおらず、社台由来の牝系出身ながらも近親に重賞ウイナーは少ない。京成杯勝ちのマイティーフォースや新潟2歳Sを勝ったゴールドアグリがいる程度である。

後に名障害馬と謳われたアワパラゴンであるが、当たり前の話だが初めは平地競走を走っていた。栗東の松元茂樹厩舎に所属し1993年10月の京都開催の3歳(旧馬齢表記)新馬戦(芝1400m)でデビュー。初戦はフィールドボンバーの4着に終わったが、1ハロン距離が延びた折り返しの新馬戦を勝ち上がった。初勝利のパートナーは若き日の四位洋文騎手であった。11月にはその勢いのままGⅡのデイリー杯3歳S(京都芝1400m)に挑戦。同重賞では15頭立ての最低人気だったが積極的な競馬でボディーガードの6着に頑張った。ちなみに3着のナリタブライアンとは0.2秒差だ。続くオープン特別の中京3歳S(中京芝1800)でも4着に健闘したが、その後骨折し6ヶ月の休養を余儀なくされた。このアクシデントさえ無かったら、もしかするとクラシック戦線に乗っていたのかも知れない。

やがて翌1994年の6月に復帰したが自己条件で数戦足踏みが続き、2勝目は9月に挙げた。ここで陣営は菊花賞を意識したのか、格上挑戦で準オープンの嵐山S(芝3000m)に出走したが、同い年の素質馬・ノーザンポラリスの6着に敗退。その後トウ骨骨膜の不安から1年以上の休養に入り、1995年11月に復帰したものの結果は冴えなかった。この休養の間に実は障害練習をしていたらしく、障害馬として大成したのにはこれが大きかったとも言えるか。だが、当時は気分転換という意味合いが強かったそうで、松元師も復帰後すぐに障害入りさせる気は無かったようである。

そんな微妙な状況下に置かれていたアワパラゴンだが、復帰してしばらくは成績が低迷したことから再び障害入りの話が持ち上がった。松元師は後にユウフヨウホウやギルデッドエージ(共に中山大障害勝ち)を育てた他、GⅠ馬のウインクリューガーを障害入りさせたように障害への思い入れが強い調教師であった。それ故に、まだ若いが長めの距離で実績を残していたアワパラゴンを障害入りさせるというのも十分合点がいく話だ。ところが、「障害の前に芝の長いところを使ってみよう(松元師:談)」ということで使った1996年1月の小倉の500万下条件戦(芝2600m)をレコードで勝ってしまうのである。続く皿倉山特別(小倉芝2600m)も勝って、連勝の勢いのまま3月にはGⅡの阪神大賞典に挑戦。ここはさすがに相手が強く、ナリタブライアンとマヤノトップガンの歴史的な叩き合いから大きく離された8着に終わったが、4月のオープン特別・大阪城Sから3戦連続で僅差の2着に健闘。そして6月のジューンS(東京芝2400m)を岡部幸雄騎手を背に逃げ切って見せた。

長距離にて非凡な素質を開花させ、準オープンの安定勢力としてここまで活躍していた彼だが、同年の10月に放牧より帰って来てからは低迷が続いた。そして、1997年2月の甲南Sで最下位に敗れたのを最後に遂に障害入りすることになった。入障試験を1回でパスした彼は、4月の京都開催で障害デビューした。

入障初戦はたまたま国際障害騎手招待競走だったため、イギリスのブレンダン・パウエル騎手が騎乗した。「何故アワパラゴンの障害初戦に主戦騎手の林満明騎手が乗らなかったのか(林騎手はエイユーダンボーに騎乗)」と後に疑問を呈された同レースにはこんな逸話がある。初めこのレースにアワパラゴンは補欠馬として登録されていたらしいのだが、パウエル騎手の乗り馬が直前で突然回避することになり、その馬の代わりとして急遽アワパラゴンがパウエル騎手を乗せて出走することになったのだという。言わばアクシデントから始まったアワパラゴンの障害キャリアであるが、今現在まで名障害馬として名前が残るほどの実り豊かな結果が彼を待っていたのだ。

4月の障害未勝利戦は中団から徐々に進出する競馬で2着を5馬身ちぎり捨て勝利した。障害2戦目は東京の400万下条件戦だったが、林騎手の手綱に応えて大差ぶっちぎりレコード勝ち。2連勝を飾った。続く阪神のオープン戦でも障害重賞2勝のネーハイジャパンに大差つけて逃げ切り勝ちを収め、一躍「大物障害馬誕生か」と騒がれることに。ギリギリまで踏み切るのを待って障害をジャンプするため、やや跳びが低くて危なっかしいという弱点はあったが、反面スピードに乗って跳ぶことが出来、何より平地の脚が素晴らしかった。3連勝の後石川県の温泉に放牧されたアワパラゴンは、リフレッシュして入厩後9月の阪神障害S(秋)に出走。ここは手薄なメンツだったこともあって単勝1.2倍の圧倒的支持を受け7馬身差で圧勝した。これで無傷の障害レース4連勝。

今時はあまり聞かないが、障害で連勝後"斤量の洗礼"に遭ってやがて勝てなくなっていくパターンにハマる障害馬はかつて多かった。件のアワパラゴンは10月の東京障害特別(秋)で初めてその洗礼を受けている。1999年の障害グレード制施行後はJGⅢの"東京オータムジャンプ"と名を変え、2009年に春へと施行時期を移行されて"東京ジャンプS"に新装開店した同重賞。この年はアワパラゴンの他に前述のネーハイジャパンや、飛越上手な9歳馬ケイティタイガー、4歳馬のニケスピリット(次走はなんと菊花賞)などが出走していたが、63kgを背負いながらもアワパラゴンは1.4倍の1番人気に支持された。デビュー時からあまり変化の無い450kgそこそこの馬格で63kgはかなり厳しかったようで、障害を跳ぶ際に林騎手が気合を付けないと脚が上がらないなど厳しい戦いを余儀なくされている。だが、1周目のスタンド前でゆっくりと先頭に立ったアワパラゴンは、それを追い掛けるネーハイジャパンとの一騎打ちに持ち込み最後は3馬身差つけて重賞連勝。林騎手は「今日は無理かなとも思いましたが、ネーハイジャパンに並ばれてからまた頑張ってくれました」と喜んだ。

6連勝が懸かった11月の京都大障害(秋)は賞金別定戦ということもあり、斤量は59kgとかなり楽になった。メンバーも前走と大差無く、単勝オッズは1.1倍。当然のことながら圧勝が期待された。だが、ここでアワパラゴンは疲れからか意外な苦戦を強いられる。スタートで出遅れて障害ではバランスを崩し、いつもの逃げっぷりが見られず道中は3番手からの競馬に。逃げるケイティタイガーらを見る競馬となったが、最後の直線に入ってもなかなか差を詰められない。ゴールまであと少しというところでようやく前の2頭を抜き去り、最後はケイティタイガーに3/4馬身差つけてなんとか勝利したが、意外な苦戦と飛越の低さから12月の中山大障害(秋)を使わずにリフレッシュ放牧に出されることになった。それから間も無くして右前第一指骨の骨折が判明。幸いにも骨折の程度は軽かったため、翌1998年4月の中山大障害(春)へ向けて必死の調整がなされた。ちなみに回避した中山大障害はケイティタイガーが制したが、1997年度のJRA賞最優秀障害馬の座は同馬や当時の障害最強馬・ポレールを抑えてアワパラゴンが勝ち取った。林満明騎手も年間18勝で最多障害勝利騎手の座を射止めている。

1年間での"障害主要4場グランドスラム(1年でどころか生涯においても過去に達成馬はいない)"達成は逃したが、翌春の中山大障害を獲得すれば偉業はとりあえず達成出来る。そして陣営がアワパラゴンの復帰戦に選択したのは、なんと3月の平地GⅡ・日経賞であった。これは障害路線に斤量的に適当なステップレースが無いことから選ばれたのだが、同重賞では当然のことながら12着と惨敗を喫した。だが、勝ったのはもう1頭の障害帰りのテンジンショウグンだったというのは皮肉か。日経賞を叩いて中山大障害へと予定通りコマを進めたが、低い飛越が災いし転倒・競走中止の憂き目に遭い、偉業達成の夢はひとまず潰えた。それ以後は精彩を欠き、同年秋に復帰したものの平場オープン戦を2走していずれも敗退。復帰2戦目のレース中に故障し、引退した。結局障害転向2戦目から最終戦まで林騎手が添い遂げる結果になった。引退後は生まれ故郷の岡田牧場へと帰り、功労馬(実質はアテ馬らしい)として過ごしているという。今年で旧表記24歳になる。

平地では平凡な準オープン馬だったアワパラゴンが、天才障害馬として名を馳せ引退後故郷で草を食む身分に落ち着くことが出来たのは松元師の英断のおかげだろう。彼のような障害重賞馬の老後は必ずしも明るいものとは言えないことが多いが、そもそも彼らは障害入りしていなかったら束の間の栄誉を得ることも無く、とっくに消息不明になっているような身分の馬が大半である。一部の暇な競馬ファンは感情的な障害廃止論を唱える前に、一介の競走馬の老後について深く考えることが必要であろう。"私たちの模範”ことアワパラゴンは、文字通り障害馬の生涯モデルの模範である、と言えなくも無さそうだ。

※2016年2月18日追記:今年1月25日に繋養先の新ひだか市の岡田牧場にて死亡したとのこと。ご冥福をお祈り申し上げます。

アワパラゴン -OUR PARAGON-
牡 栗毛 1991年生 2016年死亡
父モーニングフローリック 母ダイナギャラクシー 母父ノーザンテースト
競走成績:中央平地31戦5勝 障害9戦6勝
主な勝ち鞍:京都大障害(秋) 阪神障害S(秋) 東京障害特別(秋)

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