2014/06/24

【私撰名馬物語#22】ロッキータイガー

―皇帝ルドルフにマジでメンチ切った"南関のロッキー"―


今週の水曜日に大井競馬場にて行われる交流GⅠ・帝王賞。出走表を見た限りでは恐らくはコパノリッキー、ニホンピロアワーズ、ワンダーアキュートの三つ巴の争いになるのかな、という印象だ。地方馬にもどうにか頑張ってもらいたいが、期待のサミットストーンが挫石のため無念の回避。他は兵庫のオオエライジンがなんとか掲示板に載れるかどうかというレベルで、馬券云々の望みを託すには厳しいだろう。2010年のフリオーソ以来4年ぶりの地方馬による王座奪還は非常に難しそうだ。

で、今回取り上げるのはその帝王賞の勝ち馬である。初めは2001年のマキバスナイパーや1994年のスタビライザーを候補に選定したのだが、前者だと5回連続で90年代生まれの競走馬が題材になってしまうためバラエティ感や多様性を重んじる当ブログとしてはあまりよろしくない(笑)。それに後者に関しては単純に紙媒体の資料を全く所有していないために、Web上によくある"戦績を羅列してコメントをチョロっと付けただけの無味乾燥な名馬列伝"になることを懸念して回避した(こんな私にも一応矜持があるのだ)。そこで80年代以前に生まれた帝王賞馬のリストを眺めてみたところ、「テツノカチドキとかチャンピオンスターとかロッキータイガーの生涯をまとめた文章って意外とネットに転がってないよな」ということに気付いた。3頭とも南関東の超強豪ではあるが、イマドキの競馬ファンはあまり知らないであろう競走馬だ。今回はその中から1985年の帝王賞馬で、同年のジャパンCでシンボリルドルフの2着に入る大健闘を見せたロッキータイガーについて書かせていただきたい。なお、ロッキータイガーの地方競馬での登録上の表記は"ロツキータイガー"であるが、当ブログでは実際の発音に即した表記を選び一貫して"ロッキータイガー"と表記することにする。

1981年生まれのロッキータイガーの父はミルリーフ直仔の名種牡馬・ミルジョージで、母は公営で3勝(詳細は不明)を挙げたロッキーハーバである。ミルジョージは現役時代はさしたる成績を残していないが、中村畜産の中村和夫氏によって日本へ導入されると初年度から地方重賞馬を複数産出。そして2年目の産駒からロッキータイガーという大ホームランをかっ飛ばした。その後の活躍は皆さんがご存知の通り。本邦におけるミルリーフ系ブームの火付け役となったが、後継種牡馬はいずれも不振で父系を拡げることは出来ずに2007年に死亡している。母の父のシーカーはシカンブル直仔のフランス産馬だが、現役時代は1戦未勝利で種牡馬としてもこれと言った産駒は出せずに死亡した、牝系は有馬記念を制したリードホーユーや、NHK杯勝ちのマイネルブリッジらと同系になる。

ロッキータイガーが新冠の松浦牧場にて誕生すると、すぐに公営船橋競馬の泉孝調教師が牧場へやって来た。何でも、母の馬主の関係で同師の元へ入厩することが初めから決まっていたのだという。小柄でバネが強いが気性の激しいミルジョージ産駒らしい馬であるロッキータイガーに、泉師は期待を懸けた。やがて3歳(旧馬齢表記)となった1983年の9月に船橋でデビューした彼だったが、初戦は4頭立ての2着に終わり、続く2戦目は3着という結果であった。

長じても450kgにも満たない小柄な馬であった彼は妙な癖を持っていた。いわゆる"船揺すり"である。彼は馬房にいる時も頻繁に体を左右に揺すって体力を消耗してしまいがちで、泉師もこれには頭を悩ませた。人間だったら挙動不審と受け取られかねない悪癖ではあったが、反面パドックで実際の馬格以上に体を大きく見せる効用もあったようだ。それに加えて尻っぱねや出遅れに立ち上がったりと派手な所作を随所で見せていた彼は、"困った馬"として周囲の評判になると共に"華のある馬"という評価も得ていた。

初勝利の舞台は11月の大井であった。しかし、3戦目を勝ち上がった後も勝ったり負けたりが続き、素質が開花するのは通算8戦目の雲取賞を待たねばならなかった。それまで騎乗していた古市修二騎手から南関東随一の名手である桑島孝春騎手へと乗り替わった同レースでは、後方一気の競馬を見せて差し切り勝ちを収めた。この勝利により勇躍南関東三冠路線へと挑むこととなったロッキータイガー。だが、当時の公営南関東のレベルは伊達では無かった。彼が当地のクラシックを奪取するためには立ちはだかる2つの壁を乗り越えなければならなかったのである。

双璧の1頭目は浦和所属のキングハイセイコー、2頭目は大井のステートジャガーであった。馬名の通りハイセイコーを父に持つキングハイセイコーは三冠初戦の羽田盃まで10戦9勝。前走の黒潮盃で3着に敗れ初めて土が付いたのだが、大スターの父と同じ高橋三郎騎手を主戦とする彼は走り方まで父そっくりであり、「東京ダービーはこの馬」との呼び声が高かった。そのキングハイセイコーを黒潮盃で負かしたのがステートジャガーだ。こちらは5戦して負け知らずのサンシャインボーイ産駒で、スピード豊かなタイプの逃げ馬として知られていた。この2頭にロッキータイガーを加えた3頭が1984年の南関東三冠路線の三強であったわけだが、戦前の評判ではロッキータイガーは2頭と比べて1枚落ちといったところ。その上頼みの桑島騎手が先約があって乗れず、川島正行騎手に乗り替わりとなってしまったのは痛かった。

5月の羽田盃(大井ダート2000m)は戦前の評判通りにキングハイセイコーとステートジャガーのマッチレースとなり、結果キングハイセイコーに軍配が上がった。ロッキータイガーは末を伸ばしたものの及ばず3着に敗れた。そして二冠目となる6月の東京ダービー(大井ダート2400m)。キングハイセイコーが単勝1.2倍の圧倒的1番人気となり、レースでは激しくなった先行争いを好位待機で眺めた同馬が早めに先頭に立って押し切った。1馬身半差の2着にはロッキータイガーが頑張り、ステートジャガーはバテて離れた3着という結果であった(この後公営東海へ移籍)。残る一冠は11月の東京王冠賞(大井ダート2600m)。浦和初の東京ダービー馬に春二冠で力の差を見せつけられたロッキーがどう挑むのか…三冠阻止へ向けて思案した陣営は夏を休養に充てた。

1984年10月のいちょう賞で桑島騎手と再びコンビを組んだロッキータイガーは、休み明けながらも労せず復帰戦を飾った。続く東京王冠賞には二冠馬キングハイセイコーがコマを進めていたが臨戦過程は順調とは言えず、鞍上も百戦錬磨の高橋三郎騎手が騎乗停止中のため赤嶺本浩騎手へと乗り替わりとなるなど不安点は多く、三冠奪取には黄色信号が灯っていたようだ。そしてレース結果はそれらを裏付けるものであった。2番人気のロッキータイガーは桑島騎手と共に2600mの距離をスイスイと走り、前を行くキングハイセイコーを難無く交わして2馬身半の差をつけ完勝。最後の一冠を手にしたのであった。桑島騎手は夏以降のロッキータイガーの調教を泉師からすべて任されており、名手と名馬の二人三脚の勝利と言えた。

こうしてキングハイセイコーを降して東京王冠賞馬となったロッキータイガー。そこからの勢いはまさに破竹であった。暮れの東京大賞典を回避して翌1985年1月の報知グランプリC(船橋ダート1800m)にまず出走。この地元の顔見世興行で大人気ない競馬を見せてトムカウント以下を圧倒し3連勝を飾ると、続く金盃(大井ダート2000m)も制して4連勝。3月のダイオライト記念(船橋ダート2400m)では公営岩手から18戦16勝の戦績を引っ提げて南関東へ移籍し前走の川崎記念を制したカウンテスアップと激突し、直線でびっしりと叩き合った末にアタマ差で辛くも勝利し5連勝を達成した。これで名実共に南関東の現役最強馬となったロッキータイガーは、当時は4月に行われていた帝王賞(大井ダート2800m)へ王者として出走した。

この年の帝王賞はわずか6頭立てであったが、その6頭がそれぞれ実績馬であり非常に面白いレースとなった。そんな中、王者ロッキータイガーは1枠1番に入り、単勝1.7倍の1番人気に支持された。2枠2番には前年の東京大賞典の覇者であるテツノカチドキ、3枠3番には前述のカウンテスアップ、4枠4番には公営東海でステートジャガーを3戦に渡って下したマツノセイザンが入っていた。外の2頭も実績馬だ。5枠5番のスズユウは前年の帝王賞馬で4年前に東京ダービーを制した8歳馬。そして6枠6番のトムカウントは前年のNTV盃の勝ち馬で、翌1986年の帝王賞を10番人気で制し石崎隆之騎手に栄冠をもたらすことになる馬である。帝王賞は翌年から2000mに短縮されているので、これが最後の長丁場の帝王賞となったわけだが、そんな舞台でもロッキータイガーは強かった。スローペースの流れを道中最後方から追い掛ける展開となりながらも、泥んこ馬場を3コーナーで一気にマクりスパート。直線に至ると楽な手応えでカウンテスアップ以下を子供扱いにし、最後は1馬身半差で勝利した。"南関のロッキー"が南関東を完全に制圧し、6連勝で不滅のチャンピオンへと上り詰めた瞬間であった。

ボクシングの世界で日本のチャンピオンがやがて世界タイトルマッチへと挑むかのように、南関のチャンピオンであるロッキータイガーも中央制圧を目指してジャパンCへの出走を目論んだ。帝王賞後2戦続けて3着に敗れ人気を裏切った彼だったが、1985年当時ジャパンCへの地方招待馬の選考会的な役割を果たしていた10月31日の東京記念(大井ダート2400m)をテツノカチドキとのマッチレースの末アタマ差制し、中央の大舞台への切符を無事掴んだ。余談だが、この東京記念でロッキータイガーが背負った斤量は59kg、対してテツノカチドキのそれは60.5kgと2頭には1.5㎏のハンデ差があり、後に「テツノカチドキがジャパンCに出ていたらロッキータイガー以上の大仕事を成し遂げたはず」という論者を生み出す結果になっている。ともかく、この僅差の勝利によりロッキータイガーは中央最強馬のシンボリルドルフに挑むための権利を得たわけだ。

かつてのライバルであるステートジャガーは同年中央に移籍し、サンケイ大阪杯でミスターシービーを破る活躍を見せていた。が、宝塚記念で4着に敗れた後、ある騒動に巻き込まれてその後は1走も出来ないまま競馬場を去った。片やキングハイセイコーも同様に中央に移籍した後、安田記念や札幌記念(当時はダート戦)に挑むなどチャレンジ精神旺盛なところを見せていたのだが結局勝ち星は挙げられずに終わっている。いずれも中央挑戦が苦い結果に終わった1984年南関クラシック世代の駿馬たちのプライドを保つために、ロッキータイガーはジャパンCへと挑んだ。

11月24日、雨のジャパンC。地方からの挑戦者足るロッキータイガーは府中輸送後環境が変わってかなりナーバスになっていたこともあり、馬体重を前走から11kgも減らしていた。彼の姿は過酷な減量により痩せ細ったボクサーのようで、元々小柄だった馬体がさらに小さく見えたという。対して"皇帝"ことシンボリルドルフは充実しており、その姿はまるで近世ヨーロッパの絵画から飛び出したような優雅なものであった。そんな厳しい条件下でも鞍上の桑島騎手は冷静に"勝利への最短距離"を分析した。「ロッキータイガーは府中みたいな広いコースの方が性に合っているみたいだ」「最終コーナーは多少大回りになっても仮柵が取れて芝が荒れていないコースを通るつもり」単勝の人気は15頭立ての11番人気と低いものであったが、桑島騎手はロッキータイガーの力を信じ、道中後方待機から直線で末脚を爆発させるという自分のスタイルを貫き通すことを心に誓っていた。

柴田政人騎手が操るウインザーノットが逃げを打ったが、イギリスのゴールドアンドアイボリーやフランスのバリトゥが激しく先手を奪い合う流れとなった。戦前妙に落ち着き払っていたロッキータイガーは最後方から馬群を追走する。桑島騎手との折り合いは抜群についていた。前を行く日本馬が苦しくなって直線へと至ると、今度は内からニュージーランドのザフィルバートが抜け出して先頭に立った。しかしそれを難無く交わした馬が1頭。シンボリルドルフだ。やっぱりルドルフが突き抜けるのか…世の穴党たちが溜息を吐いた瞬間、外から一気に伸びて来る馬がいた。ムチをブンブン振り回し(いわゆる水車ムチ)、長あぶみから繰り出される独特だが凄みのあるフォームでロッキータイガーに跨った桑島騎手が追いまくる。子供のようにただ夢中になって追いまくった桑島騎手だが、どこまで行ってもどんなに頑張っても皇帝には追いつけなかった。1.3/4馬身差の2着。日本史上最強馬シンボリルドルフとの差はそれだけであったが、負けは負け。堂々たる挑戦者の"南関のロッキー"は、"日本のロッキー"、そして"世界のロッキー"には遂になれなかったのだ。

ジャパンCでまさかの大健闘を見せたロッキータイガーは、南関東に帰ってからも王者としての活躍が期待された。だが、その後彼は結局1勝も出来ない不振に陥ってしまった。12月の東京大賞典では老雄・スズユウの逆襲に遭い2着に終わり、翌1986年は4戦未勝利。8月の関東盃でガルダンの7着に屈した後故障を発症した彼は、1987年の春から新冠で種牡馬になった。ミルジョージの後継種牡馬として、そして皇帝に喧嘩を売った地方の雄として活躍が期待されたが、中央どころか地方ですら重賞ウイナーを出す事も無く1996年に種牡馬を引退。以後は故郷の松浦牧場で功労馬として余生を過ごし、2007年の4月2日に老衰のため死亡した。享年27。あの帝王賞から丸22年、父ミルジョージに6ヶ月ほど先立っての死だった。それから3年後の春、相棒だった桑島孝春騎手が通算4713勝の成績を残して55歳でムチを置いている。

ロッキータイガー -ROCKY TIGER-
牡 黒鹿毛 1981年生 2007年死亡
父ミルジョージ 母ロッキーハーバ 母父シーカー
競走成績:地方24戦10勝 中央1戦0勝
主な勝ち鞍:帝王賞 東京王冠賞 ダイオライト記念 東京記念 他

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