2014/06/02

【私撰名馬物語#13】ルーブルアクト

―私の夢は遠く栗東から岩手経由で飛んで…―


ルーブルアクトは1988年生まれの牡馬。高松宮杯勝ちのロンシャンボーイより1つ年上で、同じ浦河のヒダカファームで誕生した。父はニジンスキー直仔のラシアンルーブル。現役時代はイギリスで走ったが、7戦2勝で重賞勝ちは無い。マルゼンスキー・ヤマニンスキーの成功により巻き起こった"ニジンスキーブーム"により輸入された種牡馬の1頭であり、その中でもナグルスキーなどと共に上位の成績を残している。代表産駒はイソノルーブル(オークス)、ラシアンゴールド(帝王賞)など。母のヒダカアクトはかの岡田繁幸氏の実家で生産された牝馬で、ファバージ産駒の中央2勝馬である。小岩井牧場由来の古い牝系出身だが、ルーブルアクトの兄弟や近親にこれといった馬はいないようだ。

ロンシャンボーイと同じなのは出身牧場だけでは無い。所属厩舎が栗東の小原伊佐美厩舎で、主戦が清山宏明騎手。そしてニジンスキー系の逃げ馬というところまで同じだ。違う点と言えば、ロンシャンボーイが初めはダートで好成績を残したのに対し、ルーブルアクトは徹底して芝に拘って使われたという点ぐらいだろうか。清山騎手は騎手生活における重賞4勝のうちこの2頭で3勝を挙げており、2頭とも彼にとって恩人(恩馬?)と言える馬であることは確かだろう。

ルーブルアクトはいわゆるクラブ馬で、当歳時にサンドピアリスなどで知られるユニオンオーナーズクラブによって総額1442万円の100口で募集された。そんなプロフィール故にタフで末永い走りが期待されたが、デビューはタマモクロスの小原厩舎らしく遅めで1991年1月の4歳(旧表記)新馬戦が初陣となった。小原師の門下生で、「デビュー前から期待していた」と後に語っている清山騎手が跨り、2番人気でのデビューとなったが、後の重賞馬・ヤマニンマリーンの6着に敗退。初めて勝ち星を挙げたのはデビュー3戦目の未勝利戦(小倉芝2000m)でのことだった。その後はスムーズに出世し、6月のオープン特別・白百合S(京都芝2000m)を先行差しで快勝すると、8月の小倉記念ではナイスネイチャの4着に踏ん張った。この時点で菊への上がり馬としての評価は十分といった感じであったが、ここで不幸にも屈腱炎を発症。1年以上もの休養を余儀なくされている。

こうしてやむなく放牧に出されたルーブルアクト。かなり重度の症状であったようだが、放牧地で出身牧場でもあるヒダカファームの近藤俊征場主は「もう一度だけでも走らせてやることが出来ないか」と思い、ルーブルアクトに与える飼い葉を減らしてウエイトを落とした。脚に負担を掛けないようにするための施策だ。この試みが功を奏し、脚の具合が徐々に良くなった彼は、1992年12月に何とか競馬場へと帰って来ることが出来た。

阪神の猪名川特別(芝2200)が彼の第二のデビュー戦となった。長期休養中にオープンクラスから900万下クラスへ降級の措置が取られたこともあり、復帰戦から勝負を懸けたいところだったが、ポン駆けはせずブービーの8着に惨敗。それでも徐々に具合が良くなっていき、翌1993年の3月には900万下条件を卒業している。5月には格上挑戦でオープン特別のエメラルドS(阪神芝2500m)へ出走し、清山騎手を背にヒットザマーク(ホーリックスの半弟)以下を完封。堂々たるオープン馬に早々となれた。

これでいよいよ重賞獲りへ…と思われたが、以後6戦して重賞3戦3敗を含む6連敗を喫してしまった。ローカルのオープン特別でこそそこそこ勝負にはなったが、重賞では全く通用せず全て2桁着順に沈んだ。かの1993年の鳴尾記念(当時は芝2500mのGⅡで12月に開催)の前走は11月の福島記念だったが、道中2番手からコーナーでついていけなくなりシンガリに終わっている。要するに明らかに力不足で、てんでオープン馬らしく無かった。それでも鳴尾記念では54㎏のハンデを背負っており、不相応なほど恵まれた条件というわけでも無かった。恐らくは同条件のエメラルドSでの走りが評価されたのだろう。清山騎手が言うには直前の追い切りの調子は良かったという。

改修を経て1992年の暮れにお披露目されて以来、阪神の芝は恐ろしく時計の掛かる馬場となっていた。試しに1993年の宝塚記念のタイムを調べてみると良い。粘り腰はあるが、キレる脚の無いメジロパーマーにとっては願っても無い条件となっていたわけだ。そして、同じくキレないがバテないタイプのルーブルアクトにとっても、この阪神の変な馬場は向いていた。鞍上の清山騎手は「4コーナーで先頭に立てるような、早め早めの競馬が出来れば」と馬場を最大限に活かした乗り方を試みようと密かに企んだ。ちなみに、バテバテ&ズブズブの展開が得意だったルーブルアクトとは違い、ロンシャンボーイはそこそこ上がりの脚が使えるタイプであり、勝った2重賞は共に35秒台の上がりでまとめている。

とは言え、鞍上がいくら作戦を練りに練ったところでそれを試みるための力量が足りなければ作戦倒れになってしまう。この鳴尾記念には後にジャパンCを勝つマーベラスクラウンや、ゴールデンアイ・ヤマニングローバル・シンホリスキー・シャコーグレイドといった歴戦のオープン馬たちが出走していた。盛りを過ぎた馬も多かったが、菊花賞帰りのキングファラオ・タマモハイウェイ・ロイヤルフェローといった活きが良くて若いステイヤーも出走しており、ハンデ戦ながらも決して弱い面子とは言えない。そんなメンバーと競馬をして、果たして易々と先手が奪えるものか…ファンにもそう思われたか、旧6歳馬のルーブルアクトの単勝のオッズは98.7倍で16頭立てのブービー人気と全く評価されていなかった。

ハナを切ったのはシンホリスキーだったが、ルーブルアクトはそれを2番手で気楽に追走することが出来た。シンホリスキーはロンシャンボーイと同じホリスキー産駒で、若い頃は大きな馬体を揺らしながらのケレン味の無い逃げっぷりでスプリングSを勝つなど活躍していたが、6歳になってからは明らかに衰えが感じられた。同い年のルーブルアクトの強みは若い時期を故障で棒に振っていたがための成長力だ。4コーナーで失速する逃げ馬を軽々と交わしたルーブルアクトは、直線を前にして先頭に立つとそのまま粘り込みを図り、ゴール前でマーベラスクラウンに詰め寄られたもののクビ差凌ぎ切り大金星を挙げた。勝ちタイムは良馬場ながら2分36秒3を要し、上がり3ハロンに至っては37秒9も掛かっていた。まさに適性と作戦の勝利であった。

春先に重賞を2勝していた僚馬のロンシャンボーイに続く重賞制覇に、牧場主の近藤氏は「最高の1年でした」と語っている。また、清山騎手は1ヶ月ほど前に結婚したばかりであり、ご祝儀を自らの手で勝ち取った形となった。陣営はこの勝利に兜の緒を締め直し、「もう一つ大きなものを」とGⅠタイトル奪取を目指して再び走り出した。

そんなルーブルアクトと周囲の人々の夢を打ち砕き、諦念へと向かわせたのは、皮肉にも同じ阪神の重賞での出来事が原因であった。1994年2月の京都記念。鳴尾記念の次走(日経新春杯)では逃げを打てずに惨敗していたルーブルアクトは、この年は阪神で開催されることになった同重賞に挑み捲土重来を期した。他に行きそうな馬もおらず、清山騎手を背に軽々と逃げを打った彼であったが、彼以上に軽やかに走り2番手で追走する馬が1頭。それは前年の年度代表馬・ビワハヤヒデであった。白くて顔のデカいビワハヤヒデは直線でルーブルアクトを楽に交わし、阪神の舞台はそのまま年度代表馬の独壇場となった。ビワハヤヒデの7馬身差の2着、それがルーブルアクトに突き付けられた現実だった。このレースも上がりは37秒フラットと彼にとって向いた流れになったのだが、これだけ差を付けられてはどうしようも無かった。自らのレベルを思い知らされた瞬間が、この京都記念のゴールシーンだったのだ。

ビワハヤヒデにちぎられたことで腑抜けになってしまったのか、はたまた実力が足りなかったのか、その後ルーブルアクトは1995年の春まで大きな休みも無く走ったものの馬券にすら絡めなかった。1994年の春天と宝塚記念では共に誇らしげにハナを切って先導役となったが、主役にはなれずそれぞれ7着・14着(最下位)に惨敗。宝塚記念以後は逃げることすらできない競馬が続き、1995年4月のオーストラリアT(京都芝1800m)で11頭立ての9着に敗れたのを最後に、彼は中央競馬を去り公営岩手・水沢の村上昌幸厩舎へ移籍した(ちなみにロンシャンボーイもこの半年ほど後に同厩舎へ転厩している)。ラシアンルーブル産駒にはダート馬も多く、再起を図るためには一見して好条件と言えたかも知れない。しかし、当地では6月に一般戦を1戦してヘイセイシルバーの5着に敗れたという出走履歴しか残っていない。やがて翌1996年にアロースタッドで種牡馬入りを果たした彼は、10年以上も細々と種牡馬生活を続け、カムパネルラという名の中央1勝馬を遺している。そして、歓喜の鳴尾記念から約18年が経過した2011年11月17日、ルーブルアクトは放牧中の事故のためこの世を去った。後半生は現役時代の一口馬主の1人がオーナーとなったらしく、重賞1勝馬としてはかなり恵まれた老後を送ることが出来たようである。

ルーブルアクト -ROUBLES ACT-
牡 鹿毛 1988年生 2011年死亡
父ラシアンルーブル 母ヒダカアクト 母父ファバージ
競走成績:中央38戦6勝 地方1戦0勝
主な勝ち鞍:鳴尾記念

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