2014/06/07

【私撰名馬物語#15】スイートネイティブ

―イーハトーブで生を享けた最後の中央重賞ウイナー―


安田記念が、今年ももう来るのだなぁ。冒頭から間の抜けた一言を呟いてしまったが、今の私の心境をこれほどまでに的確に表した呟きもそうは無いだろう。月日の流れは早い。そして、年を重ねるに連れて流れはますます急になっていく。この2014年もいよいよ始まったかと思えば、もう折り返しの6月だ。春を総括する宝塚記念も、後3週間ほどでやって来る。ああ、老いたくはないが楽しみだ。

昨年秋から覚醒した感があるジャスタウェイが、まず間違い無く1番人気に支持されるであろう。だが、同馬はいわゆる”マイルの専門家”では無い上に、鞍上が想定外のあのお方。ジャスタウェイには2戦騎乗して2連対しているとは言えど、連対2回は共に2着である。騎手に特に拘りの無い筆者でも(イマドキの競馬ファンはみんな騎手ネタが好きだよね)、果たして勝ち切れるのか?という疑問を覚えずにはいられない。しかも、今の府中の偏りのある馬場も逆風になりそうと来たもんだ。これでは穴党の私はちょっとアタマでは買いづらい。ではどの馬を買うか…このブログは予想ブログでは無いのでハッキリとは書かないが、とりあえず「予報通り雨が降ったら前走復活したあの元3歳ベストマイラーで」とほのめかしておく。あの馬、デビュー当初には重馬場専用機だと思い込まされたぐらい力のいる馬場は得意だし、枠も向くと思うよ。なお、ハズれても苦情は受け付けません。

今日ご紹介する馬はその安田記念を今から32年前…1982年に制したスイートネイティブである。グレード制以前の安田記念は一介のハンディキャップ重賞であり、1982年当時の1着賞金は3100万円と、夏のオールスター戦だった頃の高松宮杯の3900万円より安いどころか、1週前に施行されていた宝塚記念(6500万円)の半分にも満たないほどであった。要するに、賞金面から見るととてもGⅠ格のレースとは言えず、下位GⅡ程度の評価しか与えられていなかったというわけなのだ。そんな重賞なので、歴代の勝ち馬の中には明らかにハンデや展開、あるいは馬場の恩恵で勝てただけという感じの馬もちらほら見受けられる。1979年の勝ち馬のロイヤルシンザンはその後1勝も出来ず、最後は条件戦でシンガリ負けを喫して引退しているし、翌年の覇者であるブルーアレツに至っては条件戦で競走を中止したのが出走歴の最後の項となっている(恐らくは予後不良になってしまったのだろう)。後者は如何にも52kgの斤量と重馬場が向いたタイプに思えるので、元々重賞級の器では無かったのかも知れない。ともかく、遅咲きの女傑としてならしたスイートネイティブが今ではほとんど忘れ去られた存在となっているのは、単にグレード制以前の勝ち馬だからというわけでは無く、当時の安田記念の格の低さも影響しているのでは無いかと思う。

1977年生まれのスイートネイティブの出身地は岩手県九戸郡洋野町のシンボリ牧場である。この地域はいわゆる”平成の大合併”以前は種市町と呼ばれていた。ドラマ「あまちゃん」で福士蒼汰が演じた登場人物の名前の由来になり、印象的な劇中歌である「南部ダイバー」の発祥の地が種市町その町なのだ。岩手県は古くから馬産地として知られ、戦前には小岩井農場が千葉県の下総御料牧場と共に日本の馬産を牽引していたが、終戦後GHQの命令により競走馬の生産を禁止されてからは岩手の馬産は著しく衰えを見せた。種市のシンボリ牧場でも生産は現在ではほとんど行われず、育成専用の牧場となっているようだ。そして私が知る限り、スイートネイティブ以後に岩手産馬で中央重賞を勝った馬はいない(反例をご存知の方はご一報下さい)。かの宮沢賢治が”イーハトーブ”と名付けた理想郷で誕生した最後の名馬が、彼女である。トウケイニセイにメイセイオペラにトーホウエンペラー、そしてユキノビジンやトウカイポイントにネイティヴハートといった岩手競馬出身の名馬たちとはまた違ったロマンが感じられよう。

父は言わずと知れた大種牡馬・パーソロン。母のスイートフランスはイクスクルーシヴネイティヴ産駒の輸入繁殖牝馬だ。スイートネイティブは母の2番仔に当たり、同牝系からはセイウンスカイなどが飛び出している。言うなれば、当時としてはかなりモダンな血統背景を持っていた彼女だが、繁殖としてそれを活かしきれなかったのは少々残念であった(詳しくは後述)。

幼少期から牝馬らしからぬ風格があったといい、”ミスター競馬”こと美浦の野平祐二厩舎に預けられたのも納得がいく馬であったようだ。しかし、デビューの時期は遅くなり1980年2月の4歳(旧馬齢表記)新馬戦にまでずれ込んでいる。デビュー戦は芝のマイル戦だったが、郷原洋行騎手を乗せ2着に2馬身差つけて難無く勝ち上がった。2戦目の昇級戦こそ不良馬場で勝ち馬に積極策を取られて2着に敗れたが、4月の4歳S(中山芝1800m)を5馬身差で圧勝し、デビューから2ヶ月足らずで一躍オークス候補へとのし上がった。だが、さぁこれからというところで不幸にも脚部不安を発症してしまい(骨折とする文献もある)、大事な4歳の春を棒に振ってしまった。

こうして夏を治療に充てたスイートネイティブは、10月になってから東京の平場オープン戦(芝1800m)にて復帰を果たした。不良馬場で行われたこのレースには同年暮れに有馬記念を制すホウヨウボーイや、名バイプレイヤーとして知られたメジロファントム、そして”白い稲妻”ことシービークロスが集い、5頭立てながらも好メンバーとなった。そんな面子を向こうに回しながらも、スイートネイティブは堂々たるレースぶりでホウヨウボーイ以下を完封し復帰戦を飾って見せたのだった。後々まで「ホウヨウボーイを下した女」という枕詞が彼女について回ることになったが、それは良いことであったのか否か。このレースが評価されて、初めての遠征(そして生涯唯一の関西圏でのレース出走)となった11月のエリザベス女王杯(当時は4歳牝馬限定の芝2400m戦)では重賞未勝利馬ながら4番人気に推された。しかし、道中中団からやや伸びを欠き6着に敗退。勝ったのは桜花賞馬のハギノトップレディだった。大舞台で初めて掲示板を逃したスイートネイティブは、暮れのクリスマスS(中山芝2200m)をクビ差で勝って面目を保ちシーズンを終えた。

翌1981年、5歳になった彼女は3月の中山記念から始動した。年度代表馬にまで出世したホウヨウボーイと、前年の皐月賞馬のハワイアンイメージが人気を分け合った同重賞において、スイートネイティブは単勝4番人気の支持を受けた。だが、結果はと言うと3番人気のキタノリキオーが勝利を収め、ホウヨウボーイは窮屈な競馬となり2着まで。ハワイアンイメージは差のある5着に終わり、スイートネイティブは鋭い脚は使ったものの3着のサーペンプリンスとハナ差の4着に敗れている。馬券圏外に敗れたとは言えど、重賞で一流牡馬相手に僅差の競馬が出来たのは収穫であり、次走のアルゼンチン共和国杯(当時は3月施行の中山2500m)ではサーペンプリンスに次ぐ2番人気に推された。ところが、ここで彼女はある弱点を露呈してしまう。郷原騎手と共に終始戦局を有利に進め、残り100mというところまで人気馬同士のマッチレースの様相を呈していたが、ゴール前で急に失速しスタミナ自慢のウエスタンジェットとダービー2着のリンドプルバンの強襲に遭い4着に敗れてしまったのだった。この敗戦に陣営も懲りたのか、以後スイートネイティブは一貫してマイル~中距離路線を歩むことになった。5月のオープン特別で1番人気の3着に敗れた後、再び脚部不安を発症した(これも骨折説あり)彼女は、以後9ヶ月ほどを休養期間に充て、1981年のシーズンを3戦未勝利で終えている。

やがて充実の、女盛りの6歳期がやって来た。1982年2月の準オープン戦を快勝し、再び3月の中山記念へ。モンテプリンスやブロケード、サンエイソロンら当時の強豪が轡を並べた同重賞ではエイティトウショウの6着に屈したが、レース後軽い脚部不安が出て千葉のシンボリ牧場本場へと放牧に出された後の充実ぶりは素晴らしかった。いわゆる”外厩制度”の先駆者として知られていたシンボリ牧場の和田共弘氏は、牧場でスイートネイティブを仕上げた後、来たる6月の安田記念を前にして野平師に自信のほどをこう語った。「祐ちゃん、完璧に馬を造った。今度負けたら、君の手腕が疑われるよ」もちろん、スピードシンボリからシンボリルドルフへと馬を通して受け継がれた二人の仲だから、負けてどうなるというわけでは無く単なる軽口だったのだろうが。安田記念での鞍上はテン乗りの岡部幸雄騎手であった。騎手時代から国際派として知られた野平師がよく目を掛けていたという岡部騎手もまた、すでに数回渡米歴のある国際派ジョッキーであった。和田・野平・岡部の黄金のトライアングルが、この安田記念で遂に形成された。

当時はまだハンデ戦だった安田記念だが、牝馬ながらトップハンデの57kgを背負った昨年の桜花賞馬・ブロケードと、中山記念や京王杯スプリングHで3着の実績がある牡馬で、前走のオープン特別を完勝したハンデ56.5kgのイースタンジョイが揃って人気になった。その他は二流・三流馬が大半とややお寒い面子の中で、これがデビュー12戦目のスイートネイティブは6番人気に過ぎなかった。これは後の成績を考えると低い評価と言えたかも知れないが、重賞未勝利でハンデは54kgと決して軽くなかったことを考えると、妥当な評価とも言えたか。

中野渡清一騎手が5歳牝馬のシュンシゲでハナを奪った。それを「金襴緞子の」ブロケードが追い掛けて淡々とした緩みの無い流れになり、中団から競馬を進めたスイートネイティブにとっては有利な展開となった。やがて直線に向くとブロケードが力強く伸びてシュンシゲを交わして先頭に。しかし、坂下から猛然とスイートネイティブが加速し、外からブロケードに並びかけ見事に斬って捨てた。最後は1馬身の差をつけてゴールイン。岡部騎手に導かれて初重賞制覇を果たした。去る5月30日にはホウヨウボーイが胃破裂のため死亡しており、かつて下した歴史的名馬に対して天国への餞別を贈る形となった。

6歳馬ながらもこれでようやく重賞勝ち馬となったスイートネイティブは、続いて福島の七夕賞に出走した。ハンデは56kgと一流馬並の条件だったが、直線であっさりと抜け出して猛然と突っ込んで来たサーペンプリンスを半馬身抑え優勝。重賞連勝を飾っている。夏場はこれにてお休みとなり、秋に復帰した彼女は10月の牝馬東京タイムズ杯(現・府中牝馬S)にV3を狙って出走。同重賞には骨折のためクラシック不出走ながら4歳牝馬最強との呼び声が高かったビクトリアクラウンも歩を進めており、スイートネイティブの岡部騎手が「向こうは4歳同士で戦って来た馬。こっちは牡馬の一線級に揉まれているんだ。伊達に年は取ってないよ」とやると、ビクトリアクラウンの嶋田功騎手は「古馬が強い?4歳には上昇という強味があるんだ。まあ見てください」と戦前から一騎打ちの様相となった。レースはこの舌戦通りに2頭の争いとなり、好位から競馬を進めたスイートネイティブが後方から追い込んだビクトリアクラウンを1.1/4馬身抑え込み優勝した。これで重賞3連勝。気を良くした陣営は次走に第2回ジャパンCを選択し、牝馬ながら日本馬中1番人気(15頭立ての7番人気)に推されたが、4歳馬のハーフアイストやオールアロングといった外寇の前に成す術無く11着に大敗。7歳となった翌年も現役を続けたが春に骨折し、門別のシンボリ牧場で繁殖入りした。

当然のことながら繁殖牝馬としても大きな期待を懸けられた彼女だったが、モガミとの初仔のジュネーブシンボリが当時はオープン特別だった青葉賞でデビューする(1番人気の4着)など話題を集めた以外にはこれといった産駒を出すことは無かった。それどころか、体質面によるものかはたまた気性によるものなのか、競走馬になることすら出来なかった産駒も多かったようだ。彼女が繁殖として大成できなかった最大の理由は、シンボリ牧場の斜陽期に繁殖入りしてしまったことだろう。盛りの過ぎたモガミや、大失敗種牡馬エンペリー、期待ほどは成功しなかったダンスホールなど、当時のシンボリ牧場お馴染みのラインナップを毎年付けられたことこそが彼女の一番の不幸であったのだと思う。やがて1994年3月に最後の仔を産み落してから間も無くして彼女は死亡した。これほどの名牝でありながらも、死の瞬間の詳細については伝わっていない。1991年生まれのスイートタラゴン(父モガミ)が彼女の後継繁殖牝馬となったが、クリスタルC2着のシンボリスナイパー以外に中央で勝ち上がった産駒はおらず、今では牝系も絶えてしまったようである。近親に1998年のクラシック二冠馬・セイウンスカイがいるように、スイートネイティブの血統は決して時代遅れでは無かった。それだけに婿の選別に失敗し、後世に血を繋げなかったのは非常に残念なことだ。

スイートネイティブ -SWEET NATIVE-
牝 鹿毛 1977年生 1994年死亡
父パーソロン 母スイートフランス 母父Exclusive Native
競走成績:中央15戦8勝
主な勝ち鞍:安田記念 牝馬東京タイムズ杯 七夕賞

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