2014/08/27

【私撰名馬物語#26】トウショウフェノマ

―気鋭のSS勢に敗れ去った天馬の早熟な遺児―


第25回の執筆以後、いよいよ受験体制に入るためこのブログの更新を控えていたのだけれど、そろそろ新作を繰り出さなければ忘れ去られてしまうな、と思い立ち書くことにした。言わばリハビリみたいなもので、いつも以上に乱筆乱文になってしまうかも知れないがどうかご容赦いただきたい。

今週末の中央重賞は3つ。土曜日の新潟ジャンプSに日曜日の新潟2歳SとキーンランドCというラインナップだ。それらのうち題材にしやすそうなのを選定するとすれば、平地重賞で歴史がそこそこ長い新潟2歳Sということになろうか。というわけで、26回目の今回は旧馬齢表記時代の1994年の新潟3歳Sの勝ち馬であるトウショウフェノマについて書かせていただく。このトウショウフェノマは実績の割に小ネタが豊富な馬で、引退後の行方もハッキリしているという点が題材にする決め手となった。つい先日死亡した1986年の勝ち馬のクールハートにしようかなとも思ったが、資料が今一歩足りないため断念せざるを得なかったという事情がある。80年代の「優駿」を集めるのは結構苦労するからね。

トウショウフェノマは1992年生まれの牡馬である。彼は静内の名門・トウショウ牧場で当時16歳(旧馬齢表記)のポリートウショウによって産み落とされた。ポリートウショウはスピード豊かな牝馬で、3歳時に蓑田早人騎手とのコンビでレコード勝ちを含む3勝を挙げ、朝日杯3歳Sでは1番人気に推されたがリンドタイヨーの4着まで。4歳になってからクイーンCを制すも、大一番のオークス・エリザベス女王杯ではそれぞれケイキロクの15着とハギノトップレディの19着に大敗した。重賞勝ち馬故に繁殖牝馬としても当然のように期待されたが、産駒は仕上がり早でクズは少ないが大物感に欠けるきらいがあり、共同通信杯3着のトウショウサルー(父トウショウボーイ)やアイビーS勝ちのトウショウバレット(父ニゾン)を出す程度の成績に留まっていた。いとこにはヌエボトウショウ&トウショウアンドレ姉弟がおり、ビバドンナを祖とするトウショウ牧場ゆかりの牝系出身である。

今一つ煮え切らない母に、1984年生まれのドナトウショウ(中央3勝)以来8年ぶりに"天馬"トウショウボーイを種付けして生まれたのがトウショウフェノマだ。だが、彼が誕生してから4ヶ月経たないうちに父が蹄葉炎によってこの世を去ってしまった。天馬の死後、支柱を失ったトウショウ牧場は長い長いスランプへと陥るのだが、それはそれとして。期せずして父無し仔となったトウショウフェノマは、"最後から2番目の世代"の一員として名血を繋いでいく使命と、母にまつわる風評を打破するための切り札として美浦の尾形充弘厩舎に入り、虎視眈々とデビューの日を待った。

やがて迎えた1994年7月の新馬戦。舞台は改修前の旧新潟競馬場であった。緒戦は単勝1.4倍の圧倒的1番人気に応える形で2着のマイネルリベロをマッチレースの末クビ差制した。着差は僅差であったが、芝1200mで1分10秒3という時計はなかなかのもので、大して追っていないことも考えれば余裕の勝利と言えた。鞍上は田中勝春騎手。

空前の冷夏のため各地で平成米騒動が勃発した前年と打って変わって1994年の夏は猛暑となり、日本中で水不足が相次ぐほどであった。尾形師はそれを案じ、「屋根の高い美浦の馬房の方が少しでも暑さを凌ぎやすいかと思い(尾形師:談)」一度新潟から美浦へと戻され調整を施されてから9月初めのGⅢ・新潟3歳S(当時は芝1200m)へと挑むこととなった。直前の追い切りでも気合の乗った良い動きを見せたトウショウフェノマは、小倉の新馬戦をレコードで逃げ切り新潟に乗り込んで来た西の牝馬のワンダーピアリスを、東の大将としていざ迎え撃たんと、田中騎手と共に新潟の芝に立った。単勝人気はワンダーピアリスの2.4倍に対し3.6倍とやや甘く見られていたのだが、地の利はこちらにあり、大物感の差も歴然としていた。

ゲートが開いた瞬間、2枠2番の黒い帽子が1馬身ほど出遅れた。トウショウフェノマだった。トウショウ牧場の志村吉男氏はこの時点で一度諦めたと後に語っている。確かに1200mという短い距離で出遅れは致命傷に近い。しかし、トウショウフェノマはモノが違った。3コーナーを前にして外を通ってグングン上昇すると、右回りのコーナーを周って好位勢に取り付き直線ではドカンと弾けた。最後はサンデーサイレンス産駒のノースショアーに2馬身半差つけての完勝であった。ワンダーピアリスはさらに1.3/4馬身遅れて3着に終わった。

出負けから道中で脚を使いながらも楽に勝つという、2馬身半差という着差以上に強い内容。田中騎手は「大物感たっぷりで、クラシックを意識させられました。これからが楽しみです」と将来への展望を高らかに語った。その言葉に呼応するかのように尾形師は「朝日杯3歳Sまで充電期間に充てます」と先を見据えたローテーションを宣言。こうしてトウショウフェノマは本番まで雌伏の時間を過ごしたのだった。

白いハミ吊りを着けた風貌や破天荒なレースぶりは、同父で1983年のクラシック三冠馬であるミスターシービーを彷彿とさせた。それだけにクラシック候補としての周囲の期待は高かったのだが、反面母の産駒が概して早熟傾向にあったため、「クラシックを勝つほどの底力は無いのではないか」という声も当時から確かに存在していた。折しもこの1994年はサンデーサイレンスの産駒がデビューした年であり、キタサンサイレンスやヤマニンアリーナらが先鞭をつけ、フジキセキという超大物候補が登場するわけだ。以後10年ほど続くことになるSSら輸入種牡馬優勢の時代。言うなれば"外寇"に対する最後の砦となるべき馬が、トウショウフェノマだったのだ。

とびっきりの盛夏から月日を経て季節は冬の12月になり、中山競馬場で朝日杯3歳Sが開催された。この年の朝日杯は2戦2勝の馬が5頭揃い上位人気を独占するという難儀だが非常にワクワクする一戦となった。当然、1番人気は後に「幻の三冠馬」と呼ばれるフジキセキだったのだが、2番人気の外国産馬・スキーキャプテンや3番人気のトウショウフェノマの大物感もなかなかのもので、4,5番手評価のコクトジュリアンやマイティーフォースのそれを凌駕していた。

だが、白熱のレース後にマスコミによって与えられた評価は勝ったフジキセキが抜きん出た。直線で早めに抜け出しを図るコクトジュリアンを楽々捉えたフジキセキは、後方から突っ込んで来たスキーキャプテンをクビ差抑えて優勝。SS産駒初のGⅠ制覇を飾ったのだった。片やトウショウフェノマは馬群でもがき差のある5着に終わり、4着のマイティーフォースの影すら踏めなかった。こうして3歳チャンピオン決定戦は終わり、翌年の春クラシック絵巻はSS勢によって一色に塗りつぶされていくのである。

とは言え、トウショウフェノマにとって朝日杯はぶっつけ参戦。言い訳は十分にできる。今振り返ってみれば、彼の馬生のターニングポイントは年明けのGⅢ・京成杯(中山芝1600m)であったと言えよう。ひいらぎ賞連対組 VS 朝日杯4・5着組のガチンコバトルが繰り広げられるはずだったこのレース。トウショウフェノマは2番人気に推されていたのだが、向正面で田中騎手が故障を発症したと判断して馬を止め競走中止。勝ったマイティーフォースと明暗を分けた。ところが、レース後の精密検査では幸か不幸か異常なしという結果が出た。田中勝春騎手が自主的に馬を止めた事象はこれまでにも幾度となくあったように記憶している。馬思いの彼の性格が出ているとも言えるが、トウショウフェノマにとってはこれがケチのつけ始めになってしまった。

続く弥生賞では重馬場の影響もあってか、勝ったフジキセキから1秒以上離された6着に終わった。そしてフジキセキが戦線離脱し本命不在となった皐月賞は直前になって脚部不安が出て出走取消の憂き目に遭い、5月のGⅡ・NHK杯もベストな状態に無く7着敗退。そして日本ダービー10着、ラジオたんぱ賞8着、秋野S12着と敗戦を重ねた後、再び脚部不安のため休養に入った。古馬になってからは的場均騎手と共に2戦したがいずれも馬券に絡めず、結局脚部不安が癒えることは無かった。やがて6歳秋に競走馬登録を抹消されたトウショウフェノマは、生まれ故郷のトウショウ牧場へと帰り仔馬たちのトレーニングパートナーを務めることとなった。

母同様に大輪を咲かせること無くターフを去ったトウショウフェノマ。種牡馬として父の血を広げることも出来ず、故郷で第二の馬生を歩んでいた。その後引退から2年ほどが経ってから、里親によって養われるいわゆる"フォスターホース"として千葉県香取市の乗馬倶楽部イグレットに譲り渡されたようで、2014年の今も当地で健在だという。当地の関係者には「自由人」と称されており、まさに悠悠自適の余生を送っているとのことだ。

※2016年8月19日追記:今日の午後4時半ごろ、繋養先の千葉県香取市の乗馬クラブイグレットにて死亡したとのこと。ご冥福をお祈り申し上げます。

トウショウフェノマ -TOSHO PHENOMA-
牡 鹿毛 1992年生 2016年死亡
父トウショウボーイ 母ポリートウショウ 母父ダンディルート
競走成績:中央11戦2勝
主な勝ち鞍:新潟3歳S

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