2014/09/09

【私撰名馬物語#29】クラウンシチー

―褐色の愚弟は金色の賢兄をどこまでも追い掛けた―


9月のオータムHの寄贈賞が京成杯というのは正直未だに違和感がある。"京王杯オータムH"と今でもしばしば言い掛けるのだ。今年は新潟で施行されるので余計にアレだが、先立って行われた関屋記念の結果との関連性に注目しながら購入する馬券の検討を進めたいところだ。

2年前にレオアクティブが叩き出したスーパーレコードの例を出すまでも無く、京成杯オータムHの歴史は好時計の歴史であることは明白と言えよう。そもそもこの重賞が1984年に施行条件が中山芝1600mに変更されてから実に5回もマイルの日本レコードが飛び出しているのだから凄い。ヨシノエデンが1分33秒の壁を突き破ってから30年、本邦のサラブレッドのスピードは進化し続けているが、近い将来に1マイル1分30秒という新たな時計の壁を破るとしたら舞台はこのレースになるのかも知れない。

このように時計勝負になりやすいことで著名な京成杯オータムHであるが、まだ"京成杯"が"京王杯"だった頃の1996年の勝ちタイムは良馬場にも関わらず1分35秒0と、当時にしても遅めの時計となっている(ちなみに、この勝ちタイムは1984年以降の同重賞で最も遅い)。これは福島競馬場の改修工事に伴う中山代替開催が同年夏に施行されたために、例年よりも芝が傷んだことが要因として挙げられるものの、あまり名誉なものとは言えない。事情を知らない人間に低レベルなレースと取られかねない勝ちタイムを出した馬。彼こそが第41回京王杯オータムHの覇者・クラウンシチーである。

クラウンシチーの6歳上の半兄はあの悲運の金髪・ゴールドシチーだ。四白流星尾花栗毛の派手な容姿で知られ、阪神3歳S(旧馬齢表記)制覇、皐月賞&菊花賞でサクラスターオーの2着と実力も兼ね備えていたゴールドシチーだが、関西の3歳馬の頂点に立って以降は結局勝ち星を挙げられず、それが響いて種牡馬になれなかった。そして引退から間も無くして乗馬の訓練中に事故死している。この長兄だけでなく他の兄姉もなかなか優秀で、1990年のオークス4着馬・ビクトリヤシチーや、1995年のCBC賞3着馬・プラチナシチーが代表として挙げられようか。さらに近親にはダートGⅠを9勝したエスポワールシチーなどがおり、四代母で1955年のオークス馬であるヒロイチを祖とするファミリーはシチー軍団の屋台骨的存在となっている。

母親のイタリアンシチーはクラウンシチーを産んだ40日後に死亡した。華やかさと暗さを併せ持った長兄のゴールドシチーはヴァイスリーガル産駒で、1990年に生まれた末っ子のクラウンシチーはマルゼンスキーの仔である。クラウンシチーはゴールドシチーとは違って地味な黒っぽい鹿毛の馬であり、生後間も無く母が死んだため乳母のお世話になるなど、その生い立ちも決して恵まれたものでは無かった。だが、故郷の門別・田中茂邦牧場のドル箱血統を背景に持って生まれ、馬格もあったためか幼駒時代の期待は高かったという。

やがて兄姉たちと同様に友駿ホースクラブの持ち馬となったクラウンシチーは、いわゆる"無料提供馬"としてクラブの会員たちに無料で総口数8000口を配布された。このシステムは同クラブ独特のものである。無料で配られた、と言っても決して期待されていなかったわけでは無く、今でも友駿ではそこそこの良血馬がこのシステムに組み込まれているらしい。なお筆名から誤解されそうだが、筆者は友駿ホースクラブの回し者でも、会員でも無いことを一応断っておく。

ほどなくしてクラウンシチーは美浦の奥平真治厩舎に入り、1992年11月の東京開催でデビューした。初戦2着から折り返しの新馬戦を難無く勝ち上がり、兄の果たせなかったクラシック獲りを目指して1勝馬条件を戦ったが、500kg近い大型馬故の不器用さが災いし、4戦して3着が最高という結果に終わる。悪いことは重なってその後骨折。これが結構重度な故障だったらしく、翌1993年2月のレースを最後に長い長い休養に入ってしまった。ナリタタイシン、ウイニングチケット、そしてビワハヤヒデが三冠を分け合った1993年の三強クラシックに、彼は参加することすら出来なかった。

大型で脚元が弱いというマルゼンスキー産駒の特徴を、このクラウンシチーはしっかりと受け継いでいたわけだ。しかし、1994年11月に競馬場に1年9ヶ月ぶりに帰って来た彼は、それ以降実にコンスタントに走った。復帰してしばらくは脚元を考えてか比較的負担の少ないダート戦を使われたが、1995年8月の新潟開催の条件戦から芝を使い始め、同年10月から11月に掛けて横山典弘騎手とのコンビで2連勝。翌1996年1月には900万下条件を卒業し、4月の準オープン戦・府中S(東京芝1600m)で5勝目を挙げた。そして6月の安達太良S(中山芝1800m)をコースレコードで勝ち、7歳にしてついにオープン入りを果たした。このレースで手綱を取ったのはテン乗りの柴田善臣騎手で、2着馬は後のGⅠ馬・グルメフロンティアだった。

もう7歳馬とは言えど、休養期間が長かったためかクラウンシチーの馬体は4歳馬の様に若々しかった。1996年8月のGⅢ・関屋記念(新潟芝1600m)。25戦目にしてここで初めて重賞に挑んだ彼だったが、2番人気ながら先行退の5着に終わった。敗因について後に奥平師は「装鞍所でイレ込むなど万全で無く、道中のマークも厳しかった」と語っている。こうして"重賞の洗礼"を受け一敗地に塗れた後、通算26戦目として迎えたのが9月の京王杯オータムHであった。

同重賞の1番人気は適距離に戻して復活を期すダービー5着馬・サクラスピードオーで、2番人気はNHKマイルC4着のマル外・ヤシマキャプテン。当のクラウンシチーはそれに続く評価を得ていたが、もっぱら人気の両4歳馬が主役と目されていた。だが、結果は古馬が上位を独占した。出負けして6歳牝馬のトウホーケリーの逃げを道中ほぼ最後方から追い掛けたクラウンシチーが、4コーナーで鞍上の柴田騎手のゴーサインに応えて外から進出すると、好位から抜け出しを図る6歳牡馬・ビコーアルファーを直線で外からキッチリ差し切って見せたのだ。サクラスピードオーは荒れ馬場に伸びあぐねて5着に終わり、ヤシマキャプテンは出遅れが響き5着馬とハナ差の6着という結果だった。柴田騎手は「デキの良さが最後の伸びにつながったんでしょう」と勝因を語り、奥平師は「アイルランドTをステップにマイルCSを目指す」と、遅ればせながら初重賞制覇を果たした7歳の良血馬をGⅠに参戦させるとぶち上げた。

兄のゴールドシチーはGⅠ馬とは言えど、重賞は1勝だけ。地味な歩みを続け愚弟扱いだったクラウンシチーだが、これで重賞タイトル数の上では並んだわけだ。京王杯オータムH以後、"重賞馬"クラウンシチーは9歳一杯まで27戦を走ったが、GⅠでは同年11月のマイルチャンピオンシップで12着、翌1997年6月の安田記念で18着(最下位)、そして10月の天皇賞では13着と頭数合わせにしかなれなかった。だが、1997年7月の七夕賞ではあわやの競馬でマイネルブリッジの2着に入り、前年度の覇者として出走した9月の京王杯オータムHでも3着に頑張るなどGⅢならある程度走った。やがて1999年の1月に彼は引退したが、最終的に獲得賞金は総額2億円を超え、ゴールドシチーのそれを3000万円ほど上回っている。高山太郎騎手や菊沢隆徳騎手、おまけに武豊騎手(1戦のみ)など様々な騎手が彼に跨ったが、柴田善臣騎手が乗った時は決して掲示板を外さなかったという事実は覚えておきたい。

賢兄を出遅れ気味のスタートからひたすらに追い掛け、形の上では追い越した愚弟は、1998年12月のクリスマスS(5着)を最後に競馬場を去り、間も無くして美浦トレーニングセンター乗馬苑で乗馬となった。それ以降の彼は住処を転々とし、やがて2007年の2月に福島県で死亡したという。享年18。「スーパーカー」と呼ばれ長らく生ける伝説として輝き続けた父や、夭逝し伝説となった兄とは対照的に、弟は自身の現役時代のキャラクターを守り静かに、そしてひっそりと召された。

クラウンシチー -CROWN CITY-
牡 鹿毛 1990年生 2007年死亡
父マルゼンスキー 母イタリアンシチー 母父テスコボーイ
競走成績:中央53戦7勝
主な勝ち鞍:京王杯オータムH

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