2014/09/25

【私撰名馬物語#33】ダイゼンシルバー

―マイルの両巨頭に挑戦状を叩きつけたルドルフ世代のホープ―


2007年に芝2400mへと施行距離が延長されたため、本番の菊花賞とより密接な関係を持つようになったGⅡ・神戸新聞杯。ここ3年の勝ち馬が全て菊の大輪を咲かせるなどトライアルレースとしてはかなり優秀であり、距離延長は競馬会の英断と言えると思う。今年のメンツのレベルも低くは無く、ここを順当に制した実績馬や、ちょっとだけ足りなかったが3000mという距離に問題無い血統の馬は本番でも買い目に入れなければなるまい。欲を言えば、関東馬のゴールドアクターはここに出てきてもらいたかったと思っているのだが、本番で人気が高騰しづらくなると思えばシメシメと言ったところか。

京都新聞杯が春に移行して久しい。かつては菊花賞のトライアルと言えば京都新聞杯であり、"前哨戦の前哨戦"たる神戸新聞杯には菊への優先出走権を手渡す役割すら無かった時代もあった。今回の主人公にはその時代…神戸新聞杯がまだ芝2000mのGⅢとして施行されていた頃の1984年の勝ち馬であるダイゼンシルバーを据えたいと思う。シンボリルドルフ世代の重賞ウイナーの1頭として知られる彼だが、結局"皇帝"とはあいまみえること無く独自路線を進むことを選んでいる。神戸新聞杯馬が故障などの理由無しに菊花賞に出走しなかった例は非常に少なく、グレード制以降だとこの馬以外では1987年のマックスビューティと2002年のシンボリクリスエス、そして2008年のディープスカイのみではないかと思われる(しかもマックスビューティは牝馬だ)。ダイゼンシルバーは血統面から見れば3000mの距離でもなんとかなると言えたかも知れないが、ある致命的な欠点により菊を断念せざるを得なかった。その欠点とは?そして菊を断念した後の彼の行く末は?

1981年、浦河の藪田誠期氏の牧場にてダイゼンシルバーは誕生した。母のホースメンリンダーはフォルティノの娘で、現役時代は公営南関東にて11勝を挙げクイーン賞で2着のある活躍馬だが、繁殖牝馬としては不受胎が多く、ダイゼンシルバーを産む数年前に別の牧場から同牧場へと転地して来た。これは「環境を変えれば良い影響が出るかも」という考えからの判断である。藪田誠期氏の牧場は当時繁殖牝馬が3頭しかいない非常に小規模な牧場であったが、この転地療法が功を奏し1980年にはコインドシルバーの仔を産んだ。同馬は長じてリムジンと名付けられ、馬っぷりの良さから期待されたが脚元が弱く大成しなかった。リムジンの全弟のダイゼンシルバーは兄と比べると見栄えはしなかったという。なお、ホースメンリンダーは後にサーペンフロとの間にモガミプレジデントを儲けている。モガミプレジデントは2戦1勝で引退した後種牡馬入りし、オープン特別を2勝し短距離路線で活躍したザゴールドの父となった。

「シルバー」と言っても真っ黒な青鹿毛馬だったダイゼンシルバーの馬主の大塚弘美氏は、明石のアナゴ料理の老舗として知られた株式会社大善(現在は倒産)の社長である。「ダイゼン」を冠す競走馬と言えば1980年生まれのダイゼンキングが知られている。トウショウボーイ産駒の同馬は1982年の阪神3歳S(旧馬齢表記)でニホンピロウイナーを破った期待馬であったが、故障もあり不完全燃焼のまま引退した。ダイゼンシルバーとダイゼンキングには血縁関係は無く生産牧場も別とは言えど、同馬主で同じ栗東の中村好夫厩舎の所属馬。前者には後者の如き活躍が当時期待されていたことだろう。

1983年9月のデビュー戦(阪神芝1200m)では田原成貴騎手を乗せ初陣を飾り、2戦目こそ7着に敗れたが笹針明けの翌年1月の白梅賞(京都芝1400m)ではロングレザー(ローズS勝ち)の2着、そして2月の寒桜賞(京都芝1200m)を5馬身差で制し2勝目と、早くから才気ほとばしる走りを見せていたダイゼンシルバー。前述の通り血統的にはクラシックの距離も問題無い馬であったので、今後を臨んで寒桜賞後連闘で中京の重賞・きさらぎ賞(芝1800m)へとコマを進めた。ところが、13頭立ての5番人気の支持を受けたこの重賞で彼は大きな弱点を露呈する。出負け気味のスタートから1コーナー過ぎで完全に引っ掛かり、手綱を取った南井克巳騎手が「抑えきれない手応えだった」とコメントしたほどの暴走によりハイペースを作り出してしまい結局7着に惨敗。勝ったゴールドウェイの後塵を拝した。この失態で彼は距離に見切りを付けられ、以後マイルを中心に走ることになった。

きさらぎ賞から中1週で出走したヒヤシンス賞(阪神芝1600m)を7馬身ちぎり捨て、3月のオープン特別のすみれ賞(阪神芝1600m)ではニシノライデンの2着。マイルでの安定した結果に自らの活路を見出したかのように思えたが、好事魔多し。その後膝を骨折し6ヶ月の休養に入ってしまった。彼が休養している間には関東馬のシンボリルドルフが盤石の強さでクラシック二冠を制し、一応のライバルであったビゼンニシキや西の大将のニシノライデンらを蹴散らしていた。また、マイル路線(路線と言うほど整備はされていなかったが)では皐月賞5着のニッポースワローがニュージーランドTを制し(後に故障)、関西には重賞2勝のキタヤマザクラという大物が存在していた。よく一つ上のミスターシービー世代よりレベルが低かったと揶揄されることがあるこの世代だが、それなりにコマは揃っていたと言えよう。

やがて休養から戻って来たダイゼンシルバーは9月の準オープン特別・日本中央競馬会創立30周年記念(阪神芝1600m)に田原騎手と共に出走し、古馬相手に1分33秒8のコースレコードを叩き出して完勝。オープン入りを果たした。この勝利を受け、中村師は「スワンS→マイルチャンピオンシップ」というローテーションを取ることを選択したのだが、馬主の意向もあって迷った末にスワンS前に9月末のGⅢ・神戸新聞杯(阪神芝2000m)を挟むことになった。2000mは初めての距離とは言え、充実期を迎えた愛馬に中村師は不安を感じてはいなかった。

前走の朝日チャレンジCで古馬相手に3着のエーコーフレンチ、ダービー5着のニシノライデン、きさらぎ賞馬のゴールドウェイと、当時苦境に立たされていた関西勢の上位陣が揃って顔を見せていた神戸新聞杯。そんなメンバーの中でも前走レコード勝ちの新星・ダイゼンシルバーは1番人気に支持されていた。鞍上に肩のケガのため休養に入っていた田原騎手に代わって、テン乗りの猿橋重利騎手が据えられていたという点に少々不安はあった。だが、相手はシンボリルドルフにまるで歯が立たなかった西の二流馬たちである。ここで負けては男がすたるというものだ。

13頭立ての大外枠を引いた白いメンコのダイゼンシルバーは、外へ向かって弾けるようにスタートを切った。最初のコーナーへ向かって各馬は一目散に走り出したが、彼はきさらぎ賞の時のように引っ掛かり気味に飛び出して先手を奪う。2番手にシンガリ人気のオサイチフォンテン、ニシノライデンがそれに続き、ゴールドウェイやエーコーフレンチは後方に付けた。向正面でダイゼンシルバーはある程度落ち着き、結果マイペースでの逃げを打てたのは幸いであった。最終コーナーで内ラチ沿いの省エネコースを周り彼はゴールへとただ駆けていく。そして直線。離れた大外からニシノライデンが突っ込んで来たものの、逃げ込みを図るダイゼンシルバーは内から二の脚を使ってもう一度伸びる。後の"斜行王"ニシノライデンはやはり外へとヨレ気味に走り、結局これが勝負の決め手となった。最後はアップアップになってはいたが、1番人気のダイゼンシルバーがニシノライデンをアタマ差抑え込んだ。3馬身差の3着には追い込んだエーコーフレンチ。ゴールドウェイは伸び切れず6着までという結果だった。

夢にまで見た初重賞タイトルをダイゼンシルバーはガッチリ掴んだ。僅差の勝利とは言え、神戸新聞杯での勝利は菊では無くマイル路線で天下を取るための通過点。中村師も菊への迷いはあったようだが、「(脚勢に)余裕が無かった」とコメントし、猿橋騎手も同様の言説をぶった。神戸新聞杯の裏の中山開催ではセントライト記念が行われており、春二冠馬のシンボリルドルフがオンワードカメルン以下を一蹴していた。彼にはとても敵わないかも知れない。だがしかし、適距離のマイルに行けばてっぺんに行ける馬…中村師はそう計算していたことだろう。

当時の短距離路線を牛耳っていたビッグ2と言えばニホンピロウイナーとハッピープログレスだ。旧表記5歳のニホンピロウイナーは自在性のある脚質で前年暮れのCBC賞や同年の朝日チャレンジCなどを制しており、短距離王者への階段を着実に昇っていた。ダイゼンキングに敗れ辛酸を嘗めた若駒の頃と比べると別馬のようであった。片やハッピープログレスはニホンピロウイナーが休養中の春に短距離三冠(スプリンターズS、京王杯スプリングC、安田記念)を制した7歳馬。もっともビッグ2とは言えど、直接対決にてハッピープログレスはニホンピロウイナーに二度に渡って完敗していたので力の差は歴然としていた。他の有力馬としては、前年の桜花賞馬のシャダイソフィアや、マイル路線にとらばーゆ(死語)して来たビゼンニシキなどが挙げられよう。復活を図るぶっ飛び野郎・ロングヒエン(マイラーズC勝ち)も健在だ。この1984年に幾分整備された短距離路線はなかなかに多士済々であった。

順調に行けばダイゼンシルバーは彼らと10月末のスワンSでぶつかるはずだったが、レースの直前に右前深管骨瘤を発症し出走を取り消す憂き目に遭ってしまった。同重賞ではニホンピロウイナーが7馬身差のワンマンショーを演じ、大きく離れた2着にシャダイソフィア、3着に休み明けのハッピープログレスが入っていた。一方、ダイゼンシルバーと同じく菊花賞を捨てて出走していたビゼンニシキはレース中に右前浅屈腱を断裂してしまい、競走能力を喪失。ロングヒエンに至っては3コーナーでやはり右前脚を粉砕骨折し、予後不良と診断された。2頭の快速馬が再起不能に追い込まれたスワンSは新王者・ニホンピロウイナーの強さばかりが目立つレースとなった。

このようにあまり万全とは言えない臨戦過程を経て、ダイゼンシルバーは本番の第1回マイルチャンピオンシップへとやって来た。単勝1番人気に推されたのは当然ニホンピロウイナーであったものの、この若きマイル界のホープは離れた2番人気の支持を得ていた。もっとも、複勝や連複(現在の枠連)の人気ではハッピープログレスの方がダイゼンシルバーより上だったので、この高評価は馬券的な軸としての評価というよりも、もっぱら"若き新チャンプの誕生"を期待する評価であったのだろう。前走で手綱を取った猿橋騎手は愛しのシャダイソフィアに、田原騎手は古豪・ハッピープログレスに騎乗したため、ダイゼンシルバーの鞍上はやはりテン乗りの西浦勝一騎手へと乗り替わっていた。西浦騎手は翌週のジャパンCにて快挙を達成することになるのだが、それについてはまた別の機会に書くことにしよう。

レース前にまずアクシデント。スタート前にダイゼンシルバーが落鉄しゲート入りを嫌ったため、発走時刻が10分ほど遅れたというものだ。単枠指定の2枠3番を引いたニホンピロウイナーは出負け気味のスタートを切ったが、即座にダッシュし前目に付けた。翻って6枠11番のダイゼンシルバーは中団より後ろの位置取り。これは戦略家として名を馳せた西浦騎手の作戦だったのか否か。直線に入ると内を通ってニホンピロウイナーが抜け出し外のハッピープログレスとの追い比べになったが、内の勢いが勝り半馬身差でゴールイン。ダイゼンシルバーは勝負が終わった頃に追い込んで来て3着という結果に終わった。初GⅠで3着という着順は一見悪くないかも知れないが、内容は完敗と言えた。マイルの両巨頭の壁は想像以上に高かったようだ。

古馬になってからのダイゼンシルバーは脚部不安に悩まされ、5歳時に丸1年の休養明けで出走したマイルチャンピオンシップで9着に敗れたのが唯一の戦歴となっている。同レースは前年と同じく2枠3番のニホンピロウイナーが制し、これも同じく6枠(10番)を引いたダイゼンシルバーは直線で内を突いて一瞬伸びかけたもののそこまでだった。その後は一戦もする事無く、復帰叶わず1987年2月に彼は登録を抹消された。

引退後は浦河の東部種馬センター(イーストスタッドの前身)で種牡馬入りし、種馬としては同じく長らく故障に苦しんだ先輩のダイゼンキングと同期デビューとなった。初年度はあまり牝馬が集まらなかったが、産まれた仔馬の出来が良く評判を呼び、2年目以降は初年度の2倍以上の数の牝馬に種付けするほどの人気を得た。しかし、種牡馬3年目までの産駒からは活躍馬は出ず、1994年に5頭種付けしたのを最後に廃用になってしまった。後に1997年の千葉S(準オープン)を勝ったマイネルタクト(4年目の産駒)が出たが焼け石に水であった。廃用後の彼の行方はようとして知れない。ちなみに、ダイゼンキングの方は1995年にやはり廃用になった後去勢され、2002年まで生存していたという。片やダイゼンキングは自家種牡馬中心の生産を試みていることで知られる小野瀬晃司牧場で供用されていたという点が老後に繋がったのかも知れないが、同馬はダイゼンシルバー以上に種馬としてダメダメだっただけに、両馬の後先についてはいささか釈然としない感もある。

ダイゼンシルバー -DAIZEN SILVER-
牡 青鹿毛 1981年生 1994年用途変更
父コインドシルバー 母ホースメンリンダー 母父フォルティノ
競走成績:中央11戦5勝
主な勝ち鞍:神戸新聞杯

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