2014/09/05

【私撰名馬物語#28】ダイナシュペール

―ラフオンテースの再来、小倉に咲き小倉に墜つ。―


多少時間に余裕が出来たので今週2度目の更新をさせていただく。今回は来たる小倉2歳Sにちなみ、30年前の1984年の小倉3歳S(旧馬齢表記)の覇者であるダイナシュペールを主人公に据えることにした。彼女は多くの早熟且つ早枯れの重賞勝ち馬たちと同様に活躍期間が短かったため、当然その活躍を伝える文章の分量は少ない物になる。それだけに今回は出来るだけストーリー性を重視して物語を膨らませて、読者の方にお楽しみいただけるような文章を書くことに努めたつもりだが…果たして。

(以後、旧馬齢表記で統一)

テイエムオペラオーでお馴染みの岩元市三現調教師がまだ30代そこそこで騎手の身分だった頃の1979年。この年の関西圏の3歳戦を彼と1頭の小柄な牝馬が席巻した。彼女こそが父にネヴァーセイダイ直仔のフィルモン、母に中央3勝馬のコマンチを擁するラフオンテースだ。ラフオンテースのデビュー戦での馬体重は400kgにも満たず、一見まるで見栄えのしない普通の鹿毛馬のようだった。だが、7月の小倉開催の新馬戦を逃げて10馬身ぶっちぎると、その勢いのまま10月のデイリー杯3歳Sまで破竹の4連勝。そして、暮れの関西3歳チャンピオン決定戦である阪神3歳Sをもノースガスト(菊花賞)やオペックホース(日本ダービー)といった強豪牡馬を手玉に取る強さで完勝し、デビュー以来手綱を取る岩元騎手に初のGⅠ級レースの栄冠を授けた。

この5戦無敗の牝馬に周囲の人々は牝馬クラシック制覇の期待を懸けた。ところが、4歳になった彼女のフィジカル&メンタルの歯車は次第に狂い始める。脚部不安に加え、4歳緒戦のきさらぎ賞(3着)でのアクシデントをきっかけに他馬を怖がるようになってしまったのであった。大一番の桜花賞でも正真正銘のお嬢様であるハギノトップレディの4着に敗れ去り、オークスは骨瘤が出て断念。秋に復帰が叶うもエリザベス女王杯では5着に終わり、結局5歳夏の金鯱賞まで15連敗を喫した。こうして浦河の小牧場が生んだ"根性娘"の評価は地に落ちたわけだが、デビューの地で第二の故郷とも言える小倉競馬場で彼女は再び輝きを取り戻すことになるのである…。

以上がラフオンテースの前半生である。一昔ほど前の名馬物語では定番とも言えたラフオンテースだが、最近は語られることも少なくなった。そこら辺に一抹の寂しさを感じつつ、今度は彼女と縁のあるもう1頭の牝馬について綴っていきたい。

岩元&布施のコンビの絆は1982年のダービー馬であるバンブーアトラスにより遂に実を結んだ。この1982年の夏には岩元騎手が最後まで添い遂げたラフオンテースが引退している。そんな岩元騎手にとって悲喜交々のメモリアル・イヤーに社台ファームで誕生したのがダイナシュペールである。当時のトップサイヤーのノーザンテーストを父に持つ鹿毛馬の彼女は、やがて成長すると栗東の布施正厩舎へと入厩した。社台レースホース所属の同期にはアドマイヤマックスらの母として知られるダイナシュートらがいたが、牧場での評判はこちらの方が上であったという。

しかし、ダイナシュペールのデビュー戦時の馬体重は394kgに過ぎなかった。その当時「ノーザンテースト産駒は小柄な方が走る」という風評があったというが、これでは如何にも小さすぎる。毀誉褒貶はあったろうが、「小さい馬ほど仕上がりが早い」という競馬界の常識通りに、彼女は1984年8月の小倉開催の新馬戦でデビューすることになった。

岩元騎手が言うには「スタートでちょっともたつくところがある」というダイナシュペールだが、その代わりにスタート後の二の脚が抜群に速く、新馬戦も結局逃げる形となった。そしてそのままの勢いで芝1000mを59秒6のタイムで押し切ってしまった。まだまだ課題の多い勝利ではあったが、9月頭の小倉3歳Sへ向けての好発進に期待は高まった。

小倉3歳Sの前哨戦としてお馴染みのフェニックス賞。同レースはかのラフオンテースのデビュー2戦目のレースでもある。ラフオンテースはこのフェニックス賞をレコードで勝っているが、その時の彼女の馬体重は394kg。なんとダイナシュペールの新馬戦時の馬体重と全く一緒であった。偉大なる厩舎の先輩と同様に小倉でデビュー勝ちを飾ったダイナシュペールは、前年の1983年に不幸にも事故死した先輩の再来となるべく、小倉3歳Sでの勝利を誓ったのである。

1984年9月2日のGⅢ・小倉3歳S。前走と同様に岩元騎手が跨ったダイナシュペールは、並み居る若駒たちを抑えて2.2倍の1番人気に推された。マイスワローの娘でフェニックス賞馬のユーショウスワローが対抗の評価を得ていたが、気性の若いところを随所で見せていたためにあまりファンの信頼を得られていなかった。こうなるとダイナシュペールの敵は自分自身だ。馬体重は386kgとデビュー戦から8kgも減っていた。「小兵だけに揉まれると厳しいのではないか」という声を受けてか、布施調教師は「何が何でも逃げろ」との指示を岩元騎手に与えた。

11頭揃ったスタートとなったが、出ムチを入れてダイナシュペールが先頭に躍り出た。前半3ハロンが34秒3というハイペースでの逃げ。しかし、逃げ馬よりも追い掛けた後続の方がなし崩しに脚を使わされて、3コーナーでは唯一食らいついてきたユーショウスワローとのマッチレースの様相を早くも呈した。逃げる小兵と追う唯一の2勝馬の女同士の争いを決したのは、突然表に出た追う側の気性の甘さであった。4コーナーで外ラチ沿いへ向かって大きくふくれるユーショウスワローを尻目に、前を行くダイナシュペールは晴れ晴れとした空をバックにただ疾走。やがてゴールの瞬間を迎えた。1.1/4馬身離された2着にユーショウスワローが入り、3番手以下はさらに4馬身離されていた。

レース後の岩元騎手と布施師は喜びを語る一方で、異口同音に「カイ食いが細いのが課題。パワーをつけさせたい」と彼女に注文をつけた。岩元騎手は「ラフオンテースは体は小さかったがカイバはよく食べたからね」とも語っている。勝ち時計の1分11秒4はラフオンテースが5年前にフェニックス賞でマークした2歳レコードよりも1秒1も遅い。だが、似通ったプロフィールを持つ先輩に準えて、当時の"優駿"の小倉3歳Sの回顧文はこう締めくくられている。「"天高く馬肥ゆる秋"に向かってラフオンテース二世がどんな成長を見せてくれるか楽しみだ」、と。

続く11月のGⅡ・デイリー杯3歳S(京都芝1400m)。このレースを勝てば"ラフオンテースの再来"という評判をさらに確実なものとすることが出来るはずだった。ところが、2番人気の支持を得ながらもタニノブーケの3着に敗れ、3戦目にして初めて土が付いてしまった。ダイナシュペールより上の着順の2頭は共に牝馬。女同士のレースで負けていてはラフオンテースの域には到底迫れない。4戦目のラジオたんぱ杯3歳牝馬S(GⅢ)でダイナシュペールはデイリー杯の1、2着馬に再び挑んだが、今度はデイリー杯2着馬のニホンピロビッキーの3着に終わってしまう。「西の3歳牝馬ではトップクラス」との評価をもらいながらも夏からの上積みが無く、課題を多く抱えながらダイナシュペールの1984年は終わった。

翌1985年。ダイナシュペールは裂蹄による休養からの復帰緒戦に3月のGⅡ・4歳牝馬特別(西)を選択した。しかしながら、彼女のカイ食いは依然として細く、馬体重はガレにガレて378kgにまで減ってしまった。そしてレースの結果も案の定快速牝馬・エルプスの10着と見るべきところ無く終わり、本番の桜花賞ではさらに4kg減って374kgと出走馬22頭中ダントツの最軽量となった。デビュー以来20kgも減ったガリガリの体では勝負になるわけも無く、レースでは前に行くことすら出来ずシンガリの22着に大敗。勝ったエルプスから3秒離された惨憺たる結果に、陣営は肩を落とす他無かった。こうしてかつて"ラフオンテースの再来"と呼ばれた女は"ラフオンテースの劣化コピー"に身を落とし、オークスを回避して放牧に出された。

約5ヶ月の休養期間を経て、9月のGⅢ・サファイヤS(阪神芝1600m)にて彼女は復帰を果たした。放牧の効果もあり、馬体重は小倉3歳Sの時と同じ386kgに回復していた。ファンももう一度との期待を懸け、3番人気に推されたこのレースで、ダイナシュペールはハイペースの中先行しケイファイヤーの3着に粘り込んで見せた。久々に"らしさ"が垣間見えたようだった。以後、短距離を2戦したがいずれもドン産駒の5歳牡馬のコーリンオーに完敗。だがタイム差は2戦共に1秒以内で収まり、僅かに光明が差した様子のまま4歳のシーズンを終えた。

冒頭で簡潔に綴ったラフオンテース物語はこう続く。1981年7月のオープン特別・小倉日経賞を芝1700mの日本レコードで圧勝したラフオンテースは、次走の北九州記念を57kg、小倉記念では58.5kgの酷量を背負いながらも406kgの小さな体で勝ち切り、小倉の地で完全復活を遂げる。その上、9月の朝日チャレンジC(阪神2000m)をも大外一気の競馬で完勝して4連勝。10月の天皇賞(秋)(東京芝3200m)では前売りの段階で一時1番人気に躍り出るほどであった。しかし、天皇賞以後一線級の牡馬の前に屈し続け6連敗した彼女は、やがて生まれ故郷へと帰ることになり、翌1983年に謎の事故死を遂げてしまうのであった…。

片や1986年に5歳になったダイナシュペールは3月の小倉開催で戦線復帰。「小倉でラフオンテースの奇跡をもう一度」と言わんばかりにオープン特別の関門橋S(芝2000m)に出走した。だが、彼女の鞍上に愛しの岩元騎手の姿はもう無かった。西園正都騎手との新コンビで挑んだ同レースでブービーに敗れた彼女は、続くGⅢの小倉大賞典で16頭立て16番人気の16着に終わり、ほどなくして現役生活を終えた。競走成績は11戦2勝。現役生活中、馬体重が400kgを超えることは遂に一度も無かった。

引退後故郷の社台ファームで繁殖入りした彼女は、最初の数年を生まれ故郷で暮らすことが出来たが、大物を出せなかったためか1990年頃に平取の雅牧場へと譲り渡され、2000年5月に出産から間も無くして死亡するまでを同牧場で過ごした。最後まで直仔から活躍馬は出なかったが、孫の世代からは1998年の日本ダービー準優勝馬・ボールドエンペラーが出ており、牝系は複数の牧場を股にかけてさらに広がりを見せている。ラフオンテースは産駒を1頭も遺せなかっただけに、この点においてだけは大先輩に対して一矢報いた、と言えるのかも知れない。

ダイナシュペール -DYNA SUPER-
牝 鹿毛 1982年生 2000年死亡
父ノーザンテースト 母カレンダーメイド 母父Pampered King
競走成績:中央11戦2勝
主な勝ち鞍:小倉3歳S

0 件のコメント: