2014/09/17

【私撰名馬物語#31】ヒサコーボンバー

―放蕩親父の渾身の一発は夏が似合う芦毛の名ジャンパー―


"サンキョーショウリ"という馬名をあなたは聞いたことがあるだろうか?ご存知で無くても恥じる必要は全く無い。15年前から彼は「誰?」な存在であったのだから。

早速答えを明かそう。サンキョーショウリは1983年生まれのリイフォー産駒の牡馬である。彼は1988年から種牡馬として数シーズンほど働き、20頭ほどの産駒を儲けた末に廃用となった。現役時代の彼は公営川崎所属のしがない2勝馬であり、抜群の好馬体だったわけでも、秘めたる素質を評価されたわけでも無かった。ただ、母親が1969年の桜花賞馬のヒデコトブキであるということだけが彼のセールスポイントで、引退後の道行きもそれが幸いしたのだろう。

運良く種牡馬入りを果たしたとは言えど、この程度の成績ではマーケットへの訴求性にいかにも欠けており、初年度の産駒は同郷で一つ年下のユキノサクラとの娘が1頭、それだけ。常識的に考えれば、彼は頼みの一粒種も大して走らずに、いずれ記憶の彼方へと消えていくはずの馬だったのだ。

ところが、その一人娘のユキノジェンヌが中央競馬にて特別戦を勝つなど2勝を挙げ、オープン特別で3着に入る活躍を見せた。昨今ディープインパクトやキングカメハメハの産駒ばかりを追っている輩には分からないだろうが、このクラスの種牡馬の仔が中央で2勝を挙げオープンでも馬券に絡んだともなればマイナー趣味の血統マニアの血が騒ぐ。この活躍により"放蕩親父"サンキョーショウリの価値が生産界でも見直され、1992年の種付け頭数は14頭にまで増えた。このままユキノジェンヌの快進撃が続けば、父親の地位もしばらく安泰となったのであろうが…その後彼女は故障がちとなり思うような成績を残せず、サンキョーショウリ産駒の二の矢もとんと出なかった。そして翌1993年10月にサンキョーショウリはお払い箱となり、用途変更以降の彼の行方は知る由も無い。

今回の主人公は1999年の阪神ジャンプSの勝ち馬であるヒサコーボンバーだ。1993年生まれの彼の父は何を隠そうその不肖の種牡馬・サンキョーショウリである。ヒサコーボンバーが誕生して数ヶ月後に父親は廃用の憂き目に遭い、息子の快進撃が始まった頃にはユキノジェンヌでのプチ・フィーバーもすっかり忘れ去られていた。要するに、それなりにキャリアある競馬ファンにも「誰?」と問われるような存在となっていたわけだ。そんな父の名を中央重賞勝ち馬の父として歴史に刻んだヒサコーボンバーは、まさしく孝行息子以外の何者でも無いだろう。本稿では実力も華もあった芦毛の名ジャンパー・ヒサコーボンバーの生涯を、現役当時の文献等を参考に振り返っていきたい。

ヒサコーボンバーの故郷は浦河の村中磯市牧場である。母のフミノイメージは中央で1勝を挙げたダンサーズイメージ産駒。その母に何故サンキョーショウリを付けたのかと言うと、生産者の村中磯市氏が言うには「母親の繁殖入りが種付けシーズンの終わり間際だったので、チャンスは1回しかないと考えて選んだ種牡馬の中で、一番好条件だったサンキョーショウリを付けることにした」という事情かららしい。翌1993年に誕生した母譲りの芦毛の幼駒は血統的には非常に地味だったが、どことなく走りそうな予感がする馬であったという。ちなみに、母には翌年度もサンキョーショウリが付けられているが、誕生したフミノショウリという名の父似の鹿毛の牡馬は中央未勝利・公営荒尾5勝という結果に終わっている。また、サクラトウコウを付けられて1997年に誕生したジンワラベウタは中央で3勝を挙げ、若草Sで後のダービー馬・アグネスフライトと僅差の2着に健闘するなど活躍した。ジンワラベウタも兄同様に後年障害入りしているが、勝ち星を挙げることは出来なかった。

幼駒時代のヒサコーボンバーは村中氏曰く「何でも2、3回経験すればすぐに覚えてしまう、頭のいい仔だった」という。このように彼は牧場期待の馬ではあったのだが、如何せんサンキョーショウリ産駒というのが足を引っ張り、買い手はなかなかつかなかった。やがて2歳(旧馬齢表記)秋にようやく買い手が決まると、栗東の藤岡範士厩舎に入り調教を施された。デビューは1996年3月の4歳未出走戦(中京ダート1000m)にて迎えている。調教の動きが良かったためか千田輝彦騎手を乗せた同レースでは1番人気に推され、勝てないまでも2着と結果を残した。以後芝砂問わず様々な条件のレースを走り、通算5戦目となる同年5月の3歳未勝利戦(新潟ダート1700m)にてついに初日が出た。初勝利のパートナーは当時は平地専門で騎乗していた植野貴也騎手であった。

初勝利以後はしばらく低迷し、逃げても追い込んでも結果が出ない様子に早くも頭打ちかと思われた。だが、休養明け2戦目の1997年5月の新潟開催にて1年ぶりの勝ち星を挙げると、それ以降はコンスタントに着を拾い続けている。芝だろうがダートだろうが先行して粘り込むレースぶりで小銭を稼ぐ毎日。途中、新規開業の西園正都厩舎へと転厩するとより安定感を増し、1998年7月には公営水沢の交流戦・フレンドリーC(ダート1600m)で3勝目を飾り900万下条件に昇級。続く昇級戦の佐渡S(新潟芝2000m)ではブービー人気ながら2着に健闘と、ひとまず現級に目途が立った。

しかし、佐渡Sで連対を確保した後はどうにも不振が続き、9月の夕月特別にてブービー負けを喫したのを最後に放牧に出された。そして1999年5月、京都競馬場にて戦線復帰を果たした彼の肩書きは"障害馬"になっていた。

障害でのヒサコーボンバーの活躍は目覚ましく、まさに「ただの凡馬」から「水を得た魚」に変身したという表現がピッタリであった。持ち前の要領の良さが活きたのであろう。西園厩舎お馴染みの水色のメンコ(ヒサコーボンバーが着用していたのは俗に言う"パンツメンコ"である)を着けた彼は、スピードに乗った低めの飛越で軽やかに障害コースを駆けた。1999年はいわゆる障害改革元年であり、障害400万下クラスが廃止されている。そのため、障害未勝利戦を勝った馬はいきなりオープンクラスのライバルと戦わねばならなかった。ヒサコーボンバーは障害未勝利戦を北沢伸也騎手の手綱で制した後、オープン戦で5着、2着と一旦クラスの壁にぶつかったが、4戦目を2番手からの競馬で押し切ると、豊国ジャンプS(小倉障害2900m)をレコードタイムで制覇。続く阪神のオープン戦(障害3140m)ではベテランジャンパーのシャンパンファイト以下を実に5.2秒(単純計算で約30馬身差)ぶっちぎり、やはりレコードで完勝した。1999年秋当時、阪神や小倉の障害コースでヒサコーボンバーに勝てる馬は恐らく存在しなかっただろう。まさにサンキョーショウリという名のとんびがヒサコーボンバーという名の鷹を産んだ、ということだ。

そんな彼の馬生のハイライトは、5.2秒ぶっちぎったオープン戦から中1週で出走したJGⅢ・阪神ジャンプSだろうか。戦前の評価は単勝オッズ1.4倍と圧倒的なもので、同じく障害戦3連勝中のエイシンワンサイド(4.2倍)以下に差をつけていた。レースはマルブツジャンプの逃げを鞍上の牧田和弥騎手と共に4番手から見る展開となり、最終障害を飛越した後キッチリ逃げ馬を捕捉して最後は2馬身差つけて見せた。関西現役最強ジャンパーに、グレード別定戦の60kgの斤量は楽過ぎたと言えよう。着差以上に楽な競馬であった。

重賞制覇後のヒサコーボンバーは以前よりも"季節労働者"の性格を強め、残念なことに休養を重ねるうちに飛越の安定感を落としていった。それでも、2001年7月の小倉サマージャンプでは高田潤騎手とのコンビで早め先頭の競馬から重賞を再び奪取している。このレースでは終盤で一旦ロングランニングに交わされたが、同馬が着地でバランスを崩すとその隙を突いて再び先頭に立ち、結局3馬身差振り切るという味な競馬で白星を得た。これは後の"西の障害の雄"高田騎手初の重賞タイトルでもあった。なお、翌年の同重賞でも旧表記10歳の老体に鞭を打ち頑張ったが、ギフテッドクラウンのレコード勝ちの前に2.7秒差の2着に敗退。この後新潟ジャンプSへ向けての調教中に右前繋靭帯炎を発症し、症状の程度と高齢を考慮し引退が決まった(ただし、この措置には彼のオーナーである久富勘助氏が業務上過失致死傷の疑いで逮捕されたことが少なからず関わっているとする説もある)。

これほどの名ジャンパーでありながらも、ヒサコーボンバーが日本の障害レースの最高峰の中山大障害(≒中山グランドジャンプ)に出走する機会は一度も訪れなかった。ちなみに前哨戦のペガサスジャンプSには出走しているので(2002年)、中山の障害コースが未経験というわけでは無いのだが、同レースで8着に敗れたことから陣営に「中山の障害は合わない」という意識が生まれたのかも知れない。あるいは、同馬の「暖かくなってくると働き、冷え込んでくると休む」というサイクルに時期が合わなかった、ということも考えられる(これについては根拠は無い)。ともかく、こうして西の稀代のスピードジャンパーは、東の障害コースでその実力を示すことの無いまま競馬場を去ることになった。

引退後は同馬を久富氏と共同で所有していた吉永フヂ氏の縁で、鹿児島県鹿屋市の吉永育成場にて乗馬となった。そして時代は下って2012年に同市内の春山豊作氏の元へ移動し、2013年8月に死亡した。不肖の父の血を広めることは出来なかったが、多くのファンに芦毛のジャンパーとしての勇姿を存分に見せつけて、彼は逝った。

ヒサコーボンバー -HISAKO BOMBER-
牡 芦毛 1993年生 2013年死亡
父サンキョーショウリ 母フミノイメージ 母父ダンサーズイメージ
競走成績:中央平地24戦2勝 障害18戦7勝 地方6戦1勝
主な勝ち鞍:阪神ジャンプS 小倉サマージャンプ

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