2014/09/21

【私撰名馬物語#32】ジュサブロー

―名古屋の名伯楽と幻の名騎手が創り上げた一代限りの快作―


2014年の今では秋天への一ステップレースとして埋没してしまった感のあるオールカマー。その上オールカマーをステップに秋天を優勝した馬はグレード制施行以降1頭もいないのだから、ステップレースとしての役割を果たしているかどうかすら怪しい。この際再び"地方競馬招待競走"と銘打って、GⅢ時代のなんでもありのお祭り重賞に戻してしまった方が、JRAの売り上げに貢献できるのではないかと思うのだが、どうだろうか?まあ、「地方馬が総じて弱体化してしまった現状にそぐわない」と言われてしまったらそれまでだが…。

さて、32回目の今回の主人公は一重賞からジャパンCを臨む地方競馬招待競走へと変貌を遂げた1986年のオールカマーの勝ち馬・ジュサブローである。地方競馬の黄金期に東海公営から中央競馬へと乗り込み、並み居る強豪を押しのけてGⅢのタイトルを奪取したジュサブロー。彼を地方代表として中央へ送り出した陣営には秘めたる大望があった。有名人形師の辻村ジュサブロー(現在は辻村寿三郎に改名)から名付けられたこの芦毛の快作を、周囲の人々はどのようにして創り上げたのか?そして、ジュサブローが絶対にジャパンCを勝たねばならなかった理由とは何か?

ジュサブローの故郷は様似のホーセイ牧場(現在のホウセイ牧場)である。1982年に誕生した彼の父はエルバジェ系の芦毛の名種牡馬・シーホーク。母はサウンドトラック産駒の栗毛馬・サウンドレットであった。つまり、ジュサブローの白い毛色は父から受け継いだわけである。重厚でスタミナが豊富なシーホークと、スピードに優れるが淡白な面のあるサウンドトラックの娘を掛け合わせたことについて、ジュサブローのオーナーでホーセイ牧場の場主でもある角田哲男氏は「みんなから大笑いされたが、理屈通りにやってサッパリ走らないから、あえてその理屈に逆らってみた。それがいい結果に出た」と後に述懐している。6歳下の半妹には中山牝馬S3着のカチタガールがおり、彼女の息子のシルクガーディアン(ラジオたんぱ賞)はジュサブローの甥に当たる。

それまでにモンテプリンス・モンテファスト兄弟を生み出していたシーホークの産駒だけに、通常ならジュサブローは中央競馬でデビューしてもおかしくは無い血統と言える。だが、若駒時代の彼は致命的に脚元が弱く、それが原因で中央の厩舎では受け入れてもらえなかったのだそうだ。そんな不憫な彼を最初に受け入れたのが名古屋の則武秀夫厩舎であった(ただし、文献によっては所属歴を省略されている場合あり)。こうして晴れてジュサブローは競走馬としてのスタートラインに立ったわけだが、デビュー前の能力検定では暴れまくって騎手を振り落すほど気性が荒く、全く持って手に負えなかったらしい。ちなみに、オーナーの角田哲男氏は名古屋の名調教師として知られる角田輝也師の父親であり、ジュサブローの活躍は角田師が名古屋にて厩舎を開業するきっかけの一つになったという。

紆余曲折を経てなんとか能検をパスしたジュサブローは、1984年11月に名古屋競馬場でデビューしたが、初戦・2戦目(共にダート800m)は3着に終わった。負けたとは言えデビュー2戦は如何にも距離不足を感じさせる内容であり、3戦目はダート1300mに距離を延ばし4馬身差で快勝。3歳(旧馬齢表記)時は以上の3戦1勝の戦績で終えている。

この3戦目でジュサブローに跨ったのが、当時「不世出の天才ジョッキー」と謳われていた坂本敏美騎手であった。坂本騎手は師匠の安達小八調教師から「坂本は空間を走る」と称賛され、同時期に笠松に所属していた安藤勝己騎手が「天才」と評したほどの素晴らしい騎乗技術を持ったジョッキーだ。この1984年当時の坂本騎手の勝率は3割をゆうに超え、翌1985年にはそれに加え連対率約7割という半ば化け物じみた成績を残している。初勝利を挙げた後、則武厩舎から安達厩舎へと転厩したジュサブローは、坂本騎手とのコンビで1985年5月の復帰戦から3連勝を果たした。いずれも中団からコーナーで進出し、直線先頭に立って後続を突き放すという危なげない内容であり、オールカマーで見せた彼の勝ちパターンの原形を坂本騎手は形作ったのだった。管理する安達師も名古屋を代表する名伯楽として知られており、それまで幾度と無く東海公営のリーディングトレーナーに輝いていた。このように、ジュサブローは非常に周りの人間たちに十分すぎるほど恵まれていたのだと言えよう。名伯楽と天才騎手に育まれ、若きジュサブローは地力を確実に付けていった。

ところが、6月のレース以後休養に出たジュサブローが同年9月に戦線に復帰すると、そこに坂本騎手の姿は無かった。決して乗り捨てられたわけでは無い。実は、坂本騎手の騎手生命を絶つような大事故が7月に名古屋競馬場で発生していたのだ。

1985年7月19日、名古屋競馬の第8レースでのこと。坂本騎手はハイセイヒメという馬に騎乗していたのだが、レース中に同馬が4角にて心臓麻痺を起こし転倒。同時にバランスを崩し落馬した坂本騎手は馬の下敷きとなった。この事故による頚椎損傷のため首から下が不随となってしまい、彼は騎手として再起不能となり職を失った。後に残ったのは通算8897戦2483勝という偉大すぎる数字のみであった。坂本騎手自身が失ったものは数限りなくあるだろうが、所属する名古屋競馬にとってもあまりに大きすぎる損失と言えた。それにも関わらず、名古屋市から彼に提示された補償金は僅か100万円であったという。

恩人である坂本騎手の身に起きたこの悲劇を、ジュサブローは安達師と共に二人三脚で乗り越えていった。彼の鞍上には新たに鈴木純児騎手が迎えられた。鈴木騎手は坂本騎手の後を継ぐという重責を負ったわけだが、9月の復帰緒戦は5着に終わり、10月の2戦目も2着と不完全燃焼な結果に苦しんだ。だが、それ以後のジュサブローは日の出の勢いで勝ちまくった。4歳のシーズンを8戦5勝で終え、翌1986年1月には特別戦を制覇。次走で5着に敗れた後の2月のバレンタイン特別から8月末の東海クラウンまで実に7連勝を飾り、ジュサブローは瞬く間に東海公営のトップへと駆け上がっていった。こうして地元のトップホースとなった彼が次に挑んだのは、9月の中央競馬のGⅢ・オールカマーであった。前述の通り、オールカマーはこの年から地方競馬招待競走として新装開店していた。そしてオールカマーはジャパンCへの地方代表馬選抜レースとしての役割も与えられていたのだった。坂本騎手の志を受け継ぎ、ジュサブローを中央の檜舞台へと上げた安達師は、出走馬の顔ぶれを見た途端に「まず負けないだろう」と呟いたという。この自信は5月の東海桜花賞(中京芝2000m)で芝を経験していたことも作用したのであろうが、この年のオールカマーは地方の強豪揃い。そんな状況下でこれほどの自信を内に秘めていた師は、"中央の魅力"と"坂本騎手の幻影"に半ば憑りつかれていたのかも知れない。

では、このオールカマーのメンツを1頭ずつ見ていこう。1枠1番は中央のビンゴチムール。目黒記念勝ちがありGⅠ2着の経験もある実績馬だ。2枠2番は岩手出身でオールカマー当時は大井所属の"砂の怪物"カウンテスアップ。通算33戦25勝に加え川崎記念連覇などビッグタイトルを積み上げている。3枠3番の中央のロンスパークは前走の鳴尾記念を勝っていたが、休み明けのため低評価に甘んじていた。4枠4番の中央のラウンドボウルは同年春の日経賞で2着に食い込み、春天でハナを切って逃げた馬(結果は9着)だ。5枠5番も中央のシンボリカール。条件クラスからの上昇馬で、前走の七夕賞は1番人気(7着)だった。6枠6番は公営荒尾のカンテツオー。これが曲者で通算成績は36戦32勝(34戦32勝とする文献もあるが、恐らくは中央時代の2戦を含んでいないのであろう)と字面はカウンテスアップ以上だが、勝ち星のほとんどがレベルの低い紀三井寺競馬で挙げたものであり、中央競馬では苦戦するだろうというのが大方の見方であった。6枠7番がジュサブローで、7枠8番は大井の大物・テツノカチドキ。鞍上は「鉄人」こと佐々木竹見騎手。7枠9番のガルダンは前走の関東盃を完勝し翌年のオールカマーでは2着に入った大井所属馬。鞍上はロッキータイガーでお馴染みの桑島孝春騎手。8枠10番のミヤシロファミリーは額面は中央所属馬だが、実はこのレースが中央緒戦の元岩手所属馬。4歳時には不来方賞などを制している。そして最後に8枠11番の中央馬・スーパーグラサード。重賞2勝馬である(詳しくはこのブログの第17話を参照)。

以上のように、開放元年のオールカマーはまさにお祭りレースの様相を呈していた。1番人気に推されたのはテツノカチドキで単勝オッズは2.9倍。以下、シンボリカールが4.8倍、カウンテスアップが6.3倍、ガルダンが8倍ちょうどと続き、ジュサブローは8.4倍の5番人気に甘んじていた。強豪が揃い厳しい戦いが予想されたとは言え、ジャパンCに出るためには地方馬最先着を何とか果たさなければならない。

鈴木騎手は「着を拾いに行くような競馬はしたくなかった」とレース後言った。その言葉通りに彼はジュサブローの自らの勝つセオリーにのっとった競馬をした。逃げたのは的場文男騎手とカウンテスアップ。それをカンテツオーやラウンドボウル、スーパーグラサードが追い掛けた。前を行く地方馬2騎を見つつ、テツノカチドキ、ガルダン、ジュサブローらは後方に付けた。向正面で動いたのは鈴木騎手。3コーナーを前にジュサブローが先頭に立ち、食い下がるカウンテスアップ。沸き上がるスタンド。他馬も抵抗し4コーナーでは一団となったように見えたが、直線で鈴木騎手がムチを振るうとジュサブローの独走となった。内からラウンドボウルが頑張るも差は全く縮まらない。そしてゴール。2着のラウンドボウルに3馬身半差つけ、ジュサブローが先頭で駆け抜けた。中山の坂上に白い馬体が躍った。

見事に力を出し切り、中央で栄冠を掴んだジュサブローは、堂々たる"ジャパンC出走予定馬"として10月に中京のゴールド争覇(芝2000m)へ出走した。言わばここは壮行レースだったわけだが、得意のひとマクりにより2分1秒7のタイムで完勝。勇躍ジャパンCへとコマを進めた。

安達師は懸命にジュサブローを仕上げた。この頃の師は人と会うたびに「ジャパンC、ジャパンC」と口走ったという。全精力を注ぎこみ、究極の仕上げを施して安達師はジュサブローを東京競馬場へと送り出した。完全にジャパンCを勝つということに憑りつかれていた安達師だが、それには深い理由があった。

実は、この時安達師の肺は癌細胞に蝕まれていた。東海公営にて名声を欲しいままにしてきた彼が、人生最後の勝負として選んだのが、中央のGⅠ…ジャパンCへの挑戦だったのだ。シンザンやコダマの主戦騎手であった栗田勝騎手と旧知の仲だという彼の思いは、1986年当時すでにこの世にいなかった栗田騎手と中央競馬に対するコンプレックスにも似たようなものだったのかも知れない。オールカマー後のインタビューで安達師は「強い馬が(全国の)どこからでもやってきてぶつかり合う。こんないい機会が出来たことに感謝している」と言い、深々と頭を下げた。これこそがオールカマーでの門戸開放の意義であり、同時に当時中央と地方の垣根が高かったことを端的に表していよう。ともかく、師が鬼気迫る様子で仕上げたジュサブローは、本番のジャパンCで堂々の5番人気に推されたのだった。

1984年にカツラギエースが逃げ切りで歴史を変え、翌1985年にはシンボリルドルフが横綱相撲を演じたジャパンC。それらの影響もあって、「日本馬でも勝てる」という雰囲気が当時確かにあったという。なるほど、1番人気は秋の天皇賞をレコードで制したサクラユタカオーだ。2番人気には前走の富士Sを楽勝したニュージーランドのアワウェイバリースターが、3番人気には「鉄の女」ことフランスのトリプティクが推されていたとは言え、僅差でミホシンザンとジュサブローがこれに次ぐ評価を得ていたのを見ると、日本馬はいささか過大評価を受けていたとすら思える。加えて前年のジャパンCで船橋のロッキータイガーが2着に健闘していることを考えると、「"ジュサブローのアタマ"があってもいいじゃないか」という威勢の良い声が上がっても、決しておかしくは無かった。

しかし、この大事な局面でジュサブローは弱点である気の悪さを見せてしまう。スタート直後の一完歩をスムーズに出られず、引っ掛かるジュサブローを鈴木騎手は制御できない。「…坂本!」とスタンドの安達師は堪らずそこにいるはずの無い天才騎手の名を呼んだ。彼のあり得ない呻きは、「あの天才ならジュサブローを上手く操りジャパンCを勝たせることが出来るのに」という諦念にも似た心の叫びであった。結果、直線を向いて先頭に立とうとする場面がありながらも、最後に力尽き7着という結果に終わり、4馬身ほど前で繰り広げられたジュピターアイランドとアレミロードの叩き合いを彼らは恨めし気に眺めた。

これから書く「ジャパンC以降のジュサブロー」は蛇足かも知れない。でも書かせていただく。12月の東海ゴールドC(7着)を最後にジュサブローは安達師の手を離れ、美浦の藤原敏文厩舎へと移籍した。その後1987年春に彼は中央で2戦したが、内訳はオープン特別のマーチS(中山芝2200m)で3着、GⅡの日経賞で2着と勝てずじまい。日経賞では前年度代表馬のダイナガリバーをアタマ差競り落としたが、その5馬身も前にミホシンザンがいた。この結果を受けて陣営は高松宮杯へと照準を絞るも、調教中に骨折。休養後、同年10月に帰厩し年内の復帰を目指したが、今度は浅屈腱炎を発症。再び休養に出てしまった。やがて1988年5月に復帰断念・引退の運びとなり、種牡馬になるために彼は生まれ故郷のホウセイ牧場へと帰って行った。

引退したジュサブローにはシーホークの後継種牡馬として自身の無念を晴らすような産駒の出現が期待され、種牡馬2年目以降しばらくはホウセイ牧場の全繁殖牝馬の3分の1ほどに種付けするなど、大きなバックアップを受けた。だが、これらの牝馬から生まれた仔馬たちは思いの外走らず、馬主でホウセイ牧場の場主でもある角田氏の思いは実らなかった。こうして不遇をかこったまま、2000年7月に彼は死亡した。享年19。肢体不随の坂本敏美元騎手が失意のうちにこの世を去ったのは、この8年後。こちらは享年57。そして正確な時期は不明だが、あのオールカマーの数年後に安達小八調教師が肺癌のため同じく60歳前後の若さで身罷っている。たくさんの"if"を抱えた3つの馬生と人生が、このように年を置いて飛び飛びに幕を閉じたのだった。

ジュサブロー -JUSABURO-
牡 芦毛 1982年生 2000年死亡
父シーホーク 母サウンドレット 母父サウンドトラック
競走成績:地方22戦15勝 中央4戦1勝
主な勝ち鞍:オールカマー

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