2014/09/28

【私撰名馬物語#34】サカモトデュラブ

―交流新時代の幕開けを告げた"みちのくの韋駄天"の生涯―


文章の初っ端から読み手の方々にとってはどうでもいいであろうことをまず書き殴る。今回のサブタイトルの選定には非常に頭を悩まされた。「あの」サカモトデュラブを扱うのだから、月並みながらもとりあえず"韋駄天"という単語は入れたい。でも、晩年高知に移籍したことと、冠の"サカモト"に引っ掛けて「交流新時代の幕明けぜよ!」的な土佐の坂本龍馬テイストの文句にするのも捨て難い(教授ネタは膨らませ辛いので却下)。さあ、どうするか…と足りない頭を捻り続けた結果、折衷案と言うよりも中途半端な一文へと落ち着いた。いや、サブタイトルは毎回適当なようでそれなりに頑張って考えてるんですよ。

と言うわけで、今回の主人公には来週の半ばに行われる東京盃にちなみ、1999年の東京盃を逃げ切ったサカモトデュラブを据えさせていただいた。彼は重賞1勝という実績以上に高い知名度を今でも誇る競走馬だが、その現役生活の全容については意外と知られていないのではないだろうか、と思う。個人的にも是非書きたかった1頭だ。しかし、中央所属歴の無い純然たる地方馬故に、彼の実像を伝える資料は限られてくる。結果、どこかで見たことのあるような情報ばかりで、ただ着順を羅列してるだけ感の強い文章になってしまったのは、どうかご容赦いただきたい。

サカモトデュラブは1993年生まれ。中央の馬で言うとフサイチコンコルドやダンスインザダーク、エアグルーヴらと同期に当たる。父のデュラブは彼が3歳(旧馬齢表記)でデビューした1995年の新種牡馬で英GⅡ馬であるが、初年度産駒の数は30頭にも満たず、同期のスラヴィックやユーワフォルテなどよりも少なかった。その中からこのサカモトデュラブがまず先陣を切って活躍し、GⅠに昇格したばかりのフェブラリーSを制したシンコウウインディが出たのだから立派の一語に尽きる。後々には南関東四冠馬のトーシンブリザードが生み出され、同馬が活躍した2001年には140頭を超える繁殖牝馬に種付けするほどの人気種牡馬となった。母のサリアシンゲキは「日の丸特攻隊」ことサクラシンゲキの娘。サカモトデュラブはその2番仔(初仔は馬名未登録)で、一つ下の半妹のサカモトサクラ(父プルラリズム)は岩手競馬版のオークスであるひまわり賞を勝つなど6勝を挙げている。母父サクラシンゲキ、母母父アローエクスプレスと重ねられた血統は日本の快速馬の歴史そのものと言えそうだ。

後に韋駄天じみた快速馬としてならしたサカモトデュラブだけに、若駒時代にも何か異能を示すようなエピソードが残っていそうなものに思える。だが、岩手所属時代の彼の馬主だった高橋正氏が言うには「首が短くてどん詰まりでとても走るとは思えなかった」とのことで、大して目立った存在でも無かったという。それに加えて血統的にも目を引くところが無く、毛色もマーキングの無いただの鹿毛のサカモトデュラブは、2歳時にセリに上場されるも主取りとなってしまった。生産者側がその結果を受けて「安くするから買ってくれ」と懇願したことにより高橋氏の所有馬となった、という話が伝わっているくらい、若い頃の彼は取るに足らない存在であり、全く期待されていなかったのだ。なお、冠名の"サカモト"は農家を営む高橋氏が代々受け継いでいた屋号に由来している。

そんな吹けば飛ぶような馬だったサカモトデュラブも、やがて1995年には3歳となった。公営岩手・水沢の伊藤和厩舎に所属した彼は、同年6月に水沢競馬場のJRA認定競走(ダート850m)にてデビュー。初戦は当地の中堅ジョッキーである関本浩司騎手が跨り、52秒5の好タイムで4馬身差の逃げ切り勝ちを収めた。続く7月のビギナーズC(盛岡ダート1100m)も楽に逃げ切り、3戦目の若駒賞(盛岡ダート1420m)も関本騎手の手綱に応えて押し切り3連勝。このように早くから非凡なスピードを見せたサカモトデュラブの実力を中央競馬で発揮させるべく、陣営は新潟のダリア賞(芝1200m)へと遠征させることにした。

1995年と言えば、笠松のライデンリーダーとベッスルキングに足利のハシノタイユウが中央競馬のトライアルで好走し、それぞれクラシックに挑んだ言わば「交流元年」である。また、北海道・岩手・新潟の3地域において3歳認定競走が創設されたことも、日本の競馬における中央地方交流の風穴となった。これは要するに、認定競走を勝ち上がれば中央の特別指定交流競走に出走出来るということだ。ダリア賞はその特別指定交流競走の一つであり、来たる新潟3歳S(当時は右回りの芝1200m)にコマを進めるために、サカモトデュラブは何としてでも連対する必要があった。

サカモトデュラブは速かった。スタートが絶品と言うよりもその直後の二の脚が異様なほどに速く、芝砂関係無くどのレースでも楽に先手を奪うことが出来たのだ。ダリア賞でも当時素質を評価されていたマイネオリーブ(3戦2勝・新潟3歳Sで2着の後故障し引退)相手にハナを奪い、440kgそこそこの馬体で風を切りビュンビュン飛ばした。その結果、直線でバテてマイネオリーブに5馬身差つけられた2着に屈するも、後の中央オープン馬であるマジックシンガーや東京3歳優駿牝馬を制す公営新潟のハイフレンドムーンには先着した。これにより新潟3歳Sへの出走権を得たサカモトデュラブは予定通り同重賞に出走。7番人気ながらもタヤスダビンチの3着に健闘して見せた。ちなみにダリア賞での鞍上は田中勝春騎手で、新潟3歳Sでの鞍上が柴田善臣騎手であった。

その速さは雑誌"優駿"において「驚異的なスピード」と評されたほど。故に将来が有望視されたが、彼には大きな弱点があった。端的に言えば、彼にはその速さをマイル以上の距離で活かすだけの持久力が無かった。その上直線の坂や左回りも苦手としており、したがって1996年に新装開店した「オーロパーク」こと盛岡競馬場のコースも向かないわけだ。地元に戻ったサカモトデュラブは水沢や盛岡にてコンスタントに走ったが、悲しいことに岩手競馬には1400m以下の距離の上級レースがほとんど無く、やむなく水沢のマイル戦や苦手な盛岡のレースを走らざるを得なかった。そのくせ遠征した福島3歳Sでは2ハロン目が10秒2という超ハイラップを刻みつつ5着に粘ってしまうのだからタチが悪い。岩手競馬での同期には中央のきんもくせい特別でユノペンタゴンらを下したテツノジョージがおり、世代のレベルは決して低くなかった。中央で好走を続け一躍名を高めたサカモトデュラブだが、地元では彼ら相手に分の悪い競馬ばかり。当時の岩手最強馬であるトウケイニセイや時にそれを食う走りを見せるモリユウプリンス、中央から移籍して来たヘイセイシルバーといった辺りの後継者たる活躍が期待されながらも、その期待になかなか応えられずに3歳~4歳時の彼はくすぶり続けた。

やがて4歳のシーズンを14戦2勝という成績で終えた彼は、出始めの「岩手期待の快速馬」的存在から、その馬名により「デュラブの代表産駒として挙げられるだけの存在」へと次第に変貌を遂げていった。このように地元に埋もれて行こうとする彼の素質を活かすために陣営が取った行動は、"他地区への積極的な遠征"であった。1997年…彼が5歳の年には10戦して結局1勝も出来なかったが、10月の大井の交流GⅡ・東京盃ではカガヤキローマンの2着に踏ん張り全国区の競馬にて久々に本領を発揮。その他、北海道スプリントC5着、根岸S出走(13着)など、彼は頻繁な遠征によって各地に確実に爪跡を残した。一方、盛岡のクラスターCでは10着に惨敗しており、地元とは言えど適性が合わなければ惨敗するという危うさも明示している。

翌1998年も東京盃や北海道スプリントCに出走し、それぞれ人気薄ながら4着、2着と健闘。また、地元の特別戦の早池峰賞(水沢ダート1400m)では約1年7か月ぶりの勝利を挙げた。だが、3歳の頃からフル回転し続ける彼にも徐々に衰えの影は忍び寄りつつあった。1999年は5月のかきつばた賞(盛岡芝1600m)から始動したがシンガリ負けを喫し、次走の北海道スプリントCでは先手すら奪えずやはり最下位に屈した。鞍上の菅原勲騎手は同重賞の後「若い頃のようなテンのスピードが無くなった」とコメント。7月の早池峰賞で1着のバンチャンプから2.8秒離された8着で入線した後出走した8月のみちのく大賞典(盛岡ダート2000m)に至っては6.2秒差のシンガリ負け。勝ったのは当時全盛期を迎えていた一つ年下の"岩手の英雄"メイセイオペラであり、この惨憺たる結果は、完全に"岩手競馬の名物競走馬"の座が新旧交代したことを物語っていた。

彼を管理する伊藤和調教師は、同年9月の東京盃を当時7歳のサカモトデュラブのラストレースにしようと思案していたという。このレースでサカモトデュラブに跨ったのは当時26歳の阿部英俊騎手であった。現在では岩手競馬を代表するジョッキーの1人に成長した彼だが、1999年当時は当地期待の若手の1人に過ぎなかった。この年の東京盃には当初は重賞4勝のワシントンカラーが出走する予定だった。しかし、同馬は直前に屈腱炎を発症し回避。ディフェンディングチャンピオンのカガヤキローマンも脚部不安のためおらず、出走馬中文句なしに実績馬と言えるのは北海道スプリントC勝ちのビーマイナカヤマぐらいなもの。重賞3勝のストーンステッパーはとうに盛りを過ぎており、翌年に川崎記念を制すことになるインテリパワーは如何にも距離不適な感があった。このようにかなりメンツは寂しかったわけだが、当のサカモトデュラブは9番人気と全く評価されておらず、すっかり「もう終わった馬」として扱われていたようである。

ところが、この大井のGⅡにおいてサカモトデュラブは突然復活を遂げてしまう。スタートではやや後手を踏んだものの、持ち前の馬鹿っ速い二の脚ですかさず立て直しストーンステッパーや大井のクリオネーから先手を奪うと、4コーナーですでに4馬身ほどのセーフティリードを作り、ゴール前では中央のビコーミニスターに詰め寄られながらもアタマ差踏ん張り押し切った。交流重賞制覇に阿部騎手は「直線は無我夢中に追いました」と夢見心地で満足気。遠征13回目、そして重賞挑戦16回目にして初のタイトルを大井にてサカモトデュラブは手にしたのであった。伊藤師は「前走で2000mを使ったおかげで馬自身が息の入れ方を覚えたというか、自信がついたんでしょうね。調子が全然変わったんです」と勝利の秘訣を語りつつ、「このレースが最後かなという感じだったのですが、考え直さないといけないですね」と自身の考えを改めた。

3歳時から各地で戦い続け、通算48戦目で遂に栄冠を得たサカモトデュラブ。しかし相変わらず地元岩手には適鞍が無く、陣営はローテーションの構成に苦しんだ。岩手競馬の年末のオールスター戦である桐花賞(水沢ダート2000m)には1999年、2000年と顔見世興行として出走するもどちらも1着馬から10秒を超える大差で惨敗。一方、盛岡のクラスターCにも1996年から5年連続で出走したが全て二桁着順に終わった。2000年に8歳になるととうとう適条件でも惨敗するようになり、前年に制した東京盃においても12着と結果を残せなかった。そして通算63戦目をこなし同年のシーズンを終えた彼は、オフシーズンに岩手から公営高知競馬の甲田守厩舎へと移籍し、心機一転を図ることとなった。

高知での初めの2戦はA級のマイル戦ということもあり、いずれも7秒以上差を付けられてシンガリ負け。この結果では「サカモトデュラブは完全に終わった」と思われても仕方が無かった。だが、賞金の関係で次走でE級に降格すると、距離も短縮されたこともあって勝ち負けになり、年末から正月に掛けて連勝しE級を卒業。3月にはD級も卒業した。C級に入ってからはやや苦戦し勝ったり負けたりが続いたが、2003年5月には新表記10歳にしてB級のレースで勝利を挙げた。しかし、サカモトデュラブの馬生の"新しい夜明け"もここまで。以後は惨敗を繰り返し、通算104戦目の2003年12月のB級C級混合一般戦(10頭立て7着)が正真正銘の最後のレースとなった。2004年1月には地方競馬の登録を抹消され、それ以降の彼の行方は分かっていない。

世間一般のイメージとは違い、普段のサカモトデュラブはいたって大人しい馬であったという。彼が遠征で結果を残せた一因と言えそうだが、それだけに早い時期に乗馬に転向していたら穏やかな最期を迎えられたのでは…と思えなくも無い。したがって、彼の馬生の絶頂と言える東京盃制覇がまさしくターニングポイントであったというのは何と皮肉なことだろうか。日本競馬の交流新時代の幕開けを告げた"みちのくの韋駄天"の最期は土佐藩の坂本龍馬のような壮絶なものではないが、不思議と謎に満ちているという点においては一致している…というのはいささかこじつけが過ぎるかな。

サカモトデュラブ -SAKAMOTO DOULAB-
牡 鹿毛 1993年生 没年不詳
父デュラブ 母サリアシンゲキ 母父サクラシンゲキ
競走成績:地方98戦16勝 中央6戦0勝
主な勝ち鞍:東京盃

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