2014/09/15

【私撰名馬物語#30】ストロングカイザー

―晩夏の越後に消え失せた日陰の皇帝―


関東の菊花賞トライアルと言えばセントライト記念だ。古くはシンボリルドルフやメリーナイス、近年ではナカヤマフェスタにフェノーメノと、東の強豪たちがこの重賞を勝って西下、あるいは天皇賞へと歩みを進めている。

上記のように超GⅠ級の馬たちが勝ち馬として名を連ねている反面、"主な勝ち鞍:セントライト記念"で終わるようなある意味味わい深い競走馬たちもセントライト記念の歴史に同じく名を刻んでいる。90年代半ば~2000年頃は特にその傾向が顕著だ。そして、今回ご紹介する1991年の同重賞の勝ち馬であるストロングカイザーは、もしかしたらシンボリルドルフ以来重きをなしていたセントライト記念の存在意義を粉々に破壊した馬かも知れない。伝統の重賞を自らの一発で骨抜きにした彼は、果たしてどのような競走馬であったのだろうか?

ストロングカイザーは1988年生まれの黒鹿毛の牡馬である。父のホリスキーは"スーパーカー"マルゼンスキーが最初に送り出したクラシックホースで菊花賞馬だ。同馬の産駒はパワフルで先行力のあるタイプが多く、急坂のある中山に強い馬をよく出した。ユキノサンライズやシンホリスキーといったあたりはその典型と言えよう。母のダンフリースシチーはアローエクスプレス産駒で現役時代は中央に所属するも不出走のまま繁殖入りしている。4代母は皐月賞やオークスを制した名牝・トキツカゼで、遠縁にはその仔であるオートキツ(日本ダービー)やオンワードゼア(天皇賞・有馬記念)などがいるものの、兄弟や近親に活躍馬はおらず現在母のラインを受け継ぐ馬も存在しない。

生まれ故郷の門別の若山文利牧場にいた頃は「ホリ」と呼ばれていたというストロングカイザー。同牧場はかなり規模が小さく、それまでの生産馬は未勝利戦を勝つのがやっとだったらしい。血統的にもそれほど強調材料があるとは言えないこともあり、1990年10月に出走した福島の3歳(旧馬齢表記)新馬戦(芝1200m)での単勝オッズは56.0倍と評価はかなり低かった。このレースでは後のGⅢ馬のブルーベイブリッジにはちぎられたものの、何とか4着を確保し実力を示している。管理する美浦の元石孝昭調教師は新馬戦で適性を見抜いたのか、2走目は距離を延ばして芝1700mのレースを使い、鞍上に"鉄人"増沢末夫騎手を据えた。この決断が功を奏し、デビュー2戦目を6馬身ぶっちぎって初勝利を挙げたストロングカイザーは、年明けの若竹賞(中山芝2000m)も2着以下に4馬身差つけて押し切り、一躍"東の実力馬"として4歳戦線に名乗りを上げることとなった。

前走の勝ちっぷりから、続くジュニアC(中山芝2000m)では単勝1.5倍の圧倒的評価を得たが、4角で他馬と接触し騎手が落馬・競走中止する憂き目に遭ってしまう。中山の芝中距離という条件はストロングカイザーにとってベストに近かっただけに、この敗戦は痛かった。これでツキが落ちたか、重賞初挑戦となった次走の共同通信杯4歳Sではイイデセゾンの豪脚の前に成す術無く7着に沈み、3月の毎日杯(京都芝1800m)でも「力は出し切ったけど、この結果(増沢騎手:談)」の3着と結果を残せずに終わってしまった。共同通信杯はともかく、かなり手薄なメンツの毎日杯で完敗したのは彼の評価を大きく下げる一因となった。

毎日杯の時点で馬体重は456kgと、デビュー戦から34kgも減っていた。元石師曰く「春はイレ込みが激しくて、カイバもろくに食べなかった」のが影響したのか、当時はオープン特別だったダービートライアルの青葉賞でもレオダーバンの11着と惨敗と、なかなか収得賞金を追加できない。ダービー当日の"断念ダービー”こと駒草賞こそクビ差で辛勝したが、6月末のラジオたんぱ賞では前走で下したはずのツインターボのハイラップの逃げを捕まえ切れず5着に敗退。"皇帝"の息子であるトウカイテイオーが二冠をぶっこ抜く中、黒い馬体の"日陰の皇帝"はなかなか煮え切らないまま1991年春のシーズンを終えた。

夏は厩舎にて調整が続けられたが、この年の夏は暑さが穏やかだったこともあり上手に季節を越すことが出来た。復帰戦にはGⅡのセントライト記念が選ばれた。ダービー2着馬のレオダーバンという強敵はいたが、元石師はそれなりに自信を持っていたようだ。しかし直前の追い切りでは全く動かず、騎乗する増沢騎手はその内容に「やはり一息入っていて少し重いのか」と疑念を抱いてしまう。ひと夏を越えて気性は大人になり馬体重もある程度回復していたとは言えど、彼にとって重賞の壁はなかなか厚いように思われた。

やがてセントライト記念の日がやって来た。圧倒的1番人気には単枠指定(なお、この重賞を最後に単枠指定制度は廃止された)のレオダーバンが推され、その単勝オッズは1.3倍。2番手評価のアサキチが8.1倍だから偏り具合の凄まじさが分かるだろう。当のストロングカイザーは34.6倍の8番人気。彼が一度下したはずのツインターボは9.9倍だから相当ナメられていたと言える。もっとも、その感想はレースの結果を知っているからこそのものとも言えそうだが…。

レースは大方の予想通り大崎昭一騎手とツインターボの逃げから始まり、ストロングカイザーは内を周って4番手からそれを見る形に持ち込んだ。その動きは素軽く、増沢騎手の疑念を払拭するには十分なものであった。人気のレオダーバンは岡部幸雄騎手と共に中団から悠然と構え、アサキチは出遅れてしまいシンガリから逆転を目指す。ラジオたんぱ賞でツインターボの逃げにやられていたこともあり、増沢騎手は「逃げ馬をぴったりマークしつつ深追いしない」という戦法を取った。そして彼の目算は見事に当たった。4コーナーを過ぎ直線に入ってもツインターボの脚色は衰えず、レオダーバンは外から追い込みを図るものの届きそうに無い。増沢騎手とストロングカイザーは直線でツインターボに体を寄せていくと、叩き合いに持ち込みゴール前で粘る逃げ馬を交わし1着。ついに重賞制覇を飾った。クビの差で2着のツインターボからさらにクビ差の3着にはレオダーバンが入り、4着のブリザードはレオダーバンから4馬身離されていた。アサキチは伸び切れず6着。

増沢&大崎&岡部の3ベテランの叩き合いの結果往年の鉄人に凱歌が上がり、枠連は単枠指定のレオダーバンが飛んだこともあって6670円の高配当となった。元石師は「レース前からレオダーバン以外の馬には負けないと思っていたが、まさか勝つとは思わなかったよ」と語り、増沢騎手は「ひと夏越してだいぶ大人になって来たのが今回のレースでも窺えたので、これからが楽しみになったね」と今後への期待を覗かせた。

普通なら、このセントライト記念での勝利に関係者は菊花賞への抱負を語るというのが真っ当なコメントと言えるだろう。だが、ストロングカイザー陣営は全く菊への色気を出さずに「古馬GⅠで活躍できたら…」と語っている。何故彼らはストロングカイザーで菊花賞を目指すと明言しなかったのだろうか?ホリスキー産駒のマル父だから外国産馬なわけが無いし、単に距離に不安があるからでも無い。実は、ストロングカイザーはクラシック登録がなされていなかったのである。

かのオグリキャップが涙を飲み、テイエムオペラオーが追加登録に笑ったクラシック登録制度だが、1991年当時には追加登録制度がまだ無かった。したがって、若駒の頃に登録が無い馬はどんなに強かろうがクラシックには出走出来なかったのだ。なお、翌年のセントライト記念はセン馬のレガシーワールドが制しており、2年連続で勝ち馬に菊花賞への出走資格が無いという異常事態が起こっているのだが、それはまた別の話だ。

こうして菊の大輪をチラリと拝むことすら出来ずに古馬GⅠ路線へと向かうことになったストロングカイザー。しかし、凱歌を上げたセントライト記念の直後に彼は左前脚の靭帯を故障し、結果長期休養に入ってしまったのだった。休養中にレオダーバンが菊花賞を制し、翌年春には彼のことを知りつくした増沢騎手が調教師に転身するため引退していた。1年3ヶ月という長い休養期間を経て1993年1月のアメリカジョッキークラブCで彼は復帰を果たしたものの、当たり前だが鞍上にかつての相棒の姿は無く、代わって当時25歳の柴田善臣騎手がちょこんと座っていた。復帰後のレース内容は悲惨そのもので、7戦したが好位退の競馬を繰り返し一度も掲示板に載れずじまい。不振続きの彼はやがて剥離骨折を発症し、再び9ヶ月半の休養に入ることになった。

満身創痍の体で7歳になり、休養が明けて出走した1994年4月の谷川岳S(新潟芝1600m)で14頭立ての11着に敗れたストロングカイザーは、同レースを最後に中央競馬の登録を抹消され公営新潟競馬の佐藤忠雄厩舎へ転厩した。次いで1994年7月に三条競馬場のA1特別で再スタートを切ったものの、不慣れなダート戦が堪えて9頭立ての8着に終わっている。転厩緒戦は惨敗という結果だったが、佐藤師は「ダート下手なのかと思うと、実際の走りはそうでも無い」と希望を捨てず、積極的にレースを使いストロングカイザーの脚を慣らしていった。5戦、10戦、15戦とキャリアを積んでいくうちに砂にも慣れ始め、勝てないまでも特別戦で3着を度々拾うまでに回復。重賞で地元の強豪相手では分が悪かったが、特別戦ではそれなりに頑張った。中央での激戦から離れ、ようやく越後に安住の地を得た…年齢を重ねた彼はそう安堵の溜息を漏らしていたかも知れない。

ところが、彼のキャリアは8歳を迎えた1995年の9月に突然終焉を迎えることになる。再デビュー19戦目、三条競馬場で行われたA1特別の長月特別。公営新潟での主戦である大枝幹也騎手がいつものように跨ったこのレースの着順欄には、ただ"競走中止"とだけある。そして彼の出走履歴はここで途絶えている。文献によっては「レース後、予後不良になった」とあるこの長月特別で、ストロングカイザーの競走生命は無慈悲にも絶たれた。中央時代からひたすら日陰の道を歩み続けた黒き皇帝は、こうして晩夏の越後に立ち上る陽炎となり、やがて人知れず完全に消え失せた。

ストロングカイザー -STRONG KAISER-
牡 黒鹿毛 1988年生 1995年死亡
父ホリスキー 母ダンフリースシチー 母父アローエクスプレス
競走成績:中央19戦4勝 地方19戦0勝
主な勝ち鞍:セントライト記念

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