2014/10/22

【私撰名馬物語#41】ハシハーミット

―浦河の老隠者が遠き日に咲かせた菊の大輪―


菊花賞。それは穴党が血統表と格闘せざるを得なくなるGⅠである。近年の勝ち馬で言えば、スリーロールスやらデルタブルース辺りのダンスインザダーク産駒たちは戦前から実績以上の人気を集め、見事に血統派の期待に応えて見せている。逆に短距離血統の人気馬たちは大抵は人気より下の着順に甘んじがちではあるが、例えば2002年の3着馬・メガスターダムの大健闘はにわか血統馬券師たちにとって非常に衝撃的な出来事だったし、1997年のマチカネフクキタルの激走は当時巷で囁かれていた「スローペース症候群」なる新語を裏付けるという意味で意義深かったと言える。つまり、単純な血統的な距離への適性だけでは勝負は決まらず、様々なファクターによって近代競馬の競走は形成されているということ…言わば"レースの妙"をこの菊花賞は体現しているというわけだ。

その菊花賞の回の主人公として、私は1979年の勝ち馬であるハシハーミットを据えた。阪神競馬場にて彼が菊の大輪を咲かせてからすでに35年を経た今、あえて彼について書くことに意味があるのかと問われれば、「偶然手持ちの資料がそれなりに揃っていたから書くことにした」と答える他無いのだけれど(笑)。血統面から見たハシハーミットは、所々光るものを持ってはいたがサラ系の末裔でありお世辞にも良血とは言えない。その上、父親は1979年当時すでに23歳(旧馬齢表記)のロートル種馬で、生産牧場は浦河の小牧場だ。そんな平凡な背景の下に生まれた仔馬が長じて菊花賞を奪取してしまうことこそが"レースの妙"であり、"競馬の妙"なのだろう…と無理矢理冒頭の文と話を繋げたところで、山もあれば谷もある第41話目のハシハーミット物語を綴り始めたいと思う。

トウショウボーイやテンポイントらがクラシックで激戦を繰り広げた1976年、ハシハーミットは浦河の榊原敏夫牧場にて生を享けた。彼の父は宝塚記念勝ちのハマノパレードや天皇賞2着のライトワールドなどを出したテューダーペリオッド、母はシンザンの娘のシンホープである。シンホープの母のイスタンホープはいわゆるサラ系で、そのまた母であるイースタオーはニュージーランドからの輸入馬であった。サラ系の活躍馬は最近ではめっきり見掛けなくなったが、1970年代にはまだまだ大レースを勝つような馬も存在していた。なお、ハシハーミット自身はサラ系では無く、その母の代から純然たるサラブレッドとして正式に認められている。

ハシハーミットの「ハシ」は彼のオーナーである(株)シンザンクラブが使用していた冠名である。(株)シンザンクラブはその名の通り五冠馬・シンザンを所有していた橋元幸吉氏の一族が運営する法人であり、所有馬の生産者の欄にはそのシンザン縁の谷川牧場や、同じく縁の深い内藤繁春調教師が設立した優駿牧場の名がよく見られる。そして、ハシハーミットの母親のシンホープはシンザンの記念すべき初産駒ということで、出生時にはマスコミによって相当クローズアップされたという。現役時代は東海公営の一線級で活躍し、一時は中央入りの話が持ち上がったほどだったというが、レース中の事故で左目を失明してしまったために引退。その後榊原敏夫牧場で繁殖入りを果たした。

シンホープが1974年に産んだ初仔(父ヘンリーヒギンズ)は結局競走馬になれず、「シングン(シンザン産駒初の重賞ウイナー)の配合にヒントを得た」ということで、すでに実績十分だったテューダーペリオッドを種付けしたところ、なかなか見所のある牡馬が生まれた。この馬は後にハシペリオッドと名付けられ、栗東の内藤繁春厩舎に所属し3歳時に2勝を挙げたが、1978年6月の中京競馬場でのレース中に骨折。結果安楽死処分の憂き目に遭っている。そしてハシペリオッドの出来の良さに味を占めた榊原敏夫氏が、次年度も同じ配合を試して誕生した栗毛の牡馬が、かのハシハーミットである(血統名:シンモアー)。母によく似た流星を額に携えていた彼だが、誕生時は小さくて見栄えがしなかった。しかし、当歳の秋口から2歳時に掛けてガラリと馬っぷりが良くなり、榊原氏と旧知の仲である谷川牧場の谷川弘一郎氏に品評会にて祝福されるほどであったという。

2歳になったハシハーミットは谷川氏が運営する育成牧場へと送られた。育成牧場での調教は相当にハードなものであったが、彼はその調教に耐え抜き確実に力を付けていった。やがて3歳の春に育成牧場での生活を終えた彼は、兄と同じく内藤厩舎へと入厩。栗東トレーニングセンターにおいて内藤師流のハードトレーニングを施された後、1978年9月の3歳新馬戦(阪神芝1200m)でデビューした。デビュー戦は柴田光陽騎手が跨り、中団から脚を伸ばしたものの3着に終わった。続く折り返しの新馬戦をハナ差で勝ち上がったが、間も無く骨瘤が出たため2ヶ月半の休養を余儀なくされている。

休養を経て12月の阪神3歳Sで復帰するも、さすがにここは相手が強く後方ママで7頭立ての7着に沈んだ。同重賞を制したのは田島良保騎手が駆るタマモアサヒであった。次走の中京3歳Sでも10頭立ての8着に終わった後、柴田騎手から当時気鋭の若手であった河内洋騎手にスイッチ。すると1月の福寿草特別にて自己条件を卒業し、2月の重賞・きさらぎ賞(中京芝1800m)でもネーハイジェットの4着に入った。続いて連闘で挑んだ4歳S(京都芝1600m)での3着を挟み、3月初めには再び重賞に挑戦。それが初重賞制覇となった毎日杯(阪神芝2000m)である。

1970年代はまだまだ東高西低の時代。それ故に例年の毎日杯はあまり良いメンツが揃わない傾向にあったのだが、この年は後の宝塚記念馬・テルテンリュウや、同年夏に4歳馬ながら高松宮杯を制すネーハイジェットなど、関西の強豪たちが揃った。そんな中、河内騎手が乗るハシハーミットは2頭に割って入る2番人気に推され、レースでは中団から直線で一気の伸びを見せて前を行くネーハイジェットを差し切ってみせた。これで9戦3勝。いわゆる「西の秘密兵器」として東上便の搭乗チケットを得たわけだ。

ところが、この1979年の毎日杯に限っては見事に勝利を収めたハシハーミットの名よりも、その遥か後方で落馬したある有名ジョッキーの名ばかりが人々の記憶として残っている。6番人気のマリージョーイに騎乗していた福永洋一騎手である。

西の名門・武田文吾厩舎所属のジョッキーとして1968年に19歳でデビューした福永騎手は、初年度から関西新人賞を獲得し、3年目にはリーディングジョッキーの座を射止めた。その後も順調に勝ち星を積み重ね、大レースにおいても1971年の菊花賞をニホンピロムーテーで、翌1972年の秋の天皇賞をヤマニンウエーブで制覇。そして1970年代半ばには「気まぐれジョージ」ことエリモジョージと出会い、1976年の春の天皇賞と1978年の宝塚記念を制し競馬場を沸かせた。落馬事故に巻き込まれた1979年もそれまでリーディングトップを独走し、2割を超える勝率と4割近い連対率を残していた。もし、事故が無ければ1970年以来の10年連続リーディングは確実であったことだろう。

この事故の概要について書くと、直線入口で福永騎手の前を行く馬が落馬。そしてマリージョーイの脚がその馬に接触し、大きくバランスを崩したマリージョーイから福永騎手が落ち、結果舌を噛み切るなどの重傷を負ってしまった、というものである。事故後、騎手として再起不能に追い込まれた福永氏だが、高知競馬の福永洋一記念のプレゼンターとして登場するなど、最近でも時折ファンに姿を見せている。息子の福永祐一騎手の活躍ぶりについては今更書くまでも無いだろう。

福永騎手の一件によりややミソが付いた感もあったハシハーミットの毎日杯制覇だが、陣営は予定通り彼を東上させて3月25日のスプリングSに登録した。関東での鞍上には馬事公苑の騎手課程にて福永騎手と同期生だった岡部幸雄騎手が据えられた。だが、3歳チャンプのビンゴガルーに弥生賞馬のリキアイオー、その他カツラノハイセイコやニホンピロポリシーといった西の強豪が轡を並べた同重賞はどうにも家賃が高く、自分の競馬をさせてもらえずにブービーの9着と惨敗。続く本番の皐月賞も後方から伸びを欠いてビンゴガルーの11着と完敗し、さらに右前飛節炎を起こしたため日本ダービーを断念して休養に入った。ちなみに彼不在のダービーはカツラノハイセイコが伏兵のリンドプルバンをハナ差制し、父ハイセイコーの無念を晴らしている。

1979年9月9日、この日中京の平場オープン戦にてハシハーミットは復帰を果たした。同レースには、条件戦3連勝を含む5戦4勝の成績を誇る同厩同馬主のハシクランツと揃って出走したものの、ハシハーミットは6着、ハシクランツは差のある3着と共に結果を残せずに終わった。叩き2走目の朝日チャレンジC(中京芝2000m)でも8着となかなか調子は上向かなかったが、10月の京都大賞典(中京芝2400m)では古馬相手に奮闘し、早め早めの競馬で天皇賞馬のテンメイとアタマ差の2着に善戦。古馬とは多少斤量差があったとは言えどこの好走は大きく、自身が叩き良化型であることを証明すると共に実力の高さも示す結果となった。こうしてハシハーミットは昇り調子で本番の菊花賞へと挑めたわけだが、通算出走数の中央競馬記録を後に樹立する内藤師の方針が彼に適していたのは間違いあるまい。

この年の菊花賞は京都競馬場ではなく阪神競馬場で行われた唯一の菊花賞である。名物の"淀の坂越え"が無い仁川の一冠を掴み取るべく、皐月賞馬で単枠指定のビンゴガルーやダービー2着のリンドプルバンをはじめとした4歳の駿馬たちが阪神に大集合した。春に大車輪の活躍を見せたリキアイオーや、ダービー馬・カツラノハイセイコやネーハイジェットにテルテンリュウらの関西勢は様々な事情により不在であったが、それらに成り代わって夏を越え上昇して来たトウショウイレブンやファインドラゴン、復活を期すニチドウタローなどが名を連ねており、それなりにメンツは揃っていた。そんな中、シンザンクラブ&内藤厩舎2頭出しの一角であるハシハーミットは前走の内容が評価されて5番人気に推された。神戸新聞杯・京都新聞杯と続けて完敗した僚馬のハシクランツ(11番人気)と比べれば評価は幾分高いと言えたが、単勝2倍台の人気を得ていたビンゴガルーや、2番手評価のリンドプルバンと比較すると実績面でいかにも見劣りするのは否めない。その上、前日から降り続いた雨により馬場状態は重に悪化しており、蹄が他馬と比べてかなり大きいハシハーミットにとって、それは如何にも不利な条件なように思えた。

伊藤清章騎手とハヤテアズマがまず先手を奪い、1周目の直線から2コーナーで大分馬群を突き放した逃げを打った。小島太騎手が駆る人気のビンゴガルーは先団に付けて、リンドプルバンは後方。ハシハーミットも同じような位置だ。平均ペースで淡々と流れたレースにおいてまず動いたのは、なんとビンゴガルーだった。バックストレートで小島騎手がグラスを外すと、内を周ってグングン上昇していく。やがてそのままの勢いで逃げ馬を捕まえて先頭に立った。実況の杉本清アナウンサーが叫ぶ。「早いのか、これでいいのか、小島太。これでいいのか、ショウリで逃した大輪を、今度はこのビンゴガルーで見事に獲るか!」誰の目にも明らかな3コーナーでの早仕掛けに観客もどよめいた。はやる気持ちを抑えきれないビンゴガルーの内をすくうのは青い帽子で人気薄のハシクランツ。そして外から同じ勝負服で黄色い帽子の河内洋&ハシハーミットがジワーッとマクっていく。4コーナー時点でリンドプルバンはまだ後方で厳しい。直線に入ると小島騎手がムチを振るいビンゴガルーを奮い立たせんとしたが、外のハシハーミットの方が明らかに手応えは良い。仁川の坂の無い直線の半ばでとうとうハシハーミットが先頭に立ち、皐月賞馬は早仕掛けの反動か急激に失速。代わってハシクランツが外に持ち出して2番手に上がる。数秒後そのままの態勢でゴールイン。結局ハシハーミットが3馬身差で余裕を持って勝利を収め、2着にはハシクランツが入った。史上初の"二輪咲きの菊"が花開いた瞬間だった。

長い忍従の末、実りの秋についに大輪の花を咲かせたハシハーミット。彼と大健闘のハシクランツが菊花賞で取った戦法は、管理する内藤師の「クランツは最短距離を周れ」「ハーミットは中団に付けて、3コーナーは外を周って上がって来い」という指示通りのものであった。河内騎手はこれで牡馬クラシック初制覇となり、後にアグネスフライト、アグネスタキオンで一冠ずつ奪取し三冠ジョッキーになる布石になった。

ハシハーミット&ハシクランツは同厩同馬主というだけでなく、母の父がシンザンであることも同じ。まさにゴールデンコンビ誕生と言えたわけだが、菊花賞以降の2頭の運命はハッキリと明暗を分けている。片やハシクランツは大阪杯や鳴尾記念を勝ち、5歳秋にはアメリカ遠征を決行するなど9歳まで元気に走り続けた。一方のハシハーミットは菊花賞の後蹄が欠ける病気に罹り休養中に屈腱炎も発症。2年もの長期休養に入ってしまった。長い長い療養の末、関係者の尽力により7歳にして道営の手島健児厩舎に転入しやっと戦線復帰。当初は当地の女傑・シバフィルドーを特別戦で負かすなど、「さすが菊花賞馬」という走りを見せつけていたが、8歳の夏を越えると急激に調子を落とし、その後の3戦は全て惨敗した。8歳秋に出走した道営記念でも当時の道営最強馬のハッピシルバー相手に良いところが無かった。そして1984年5月の大平原賞で8頭立てのシンガリに敗れたのが最後のレースとなり、しばらく経ってからハシハーミットは地方競馬の登録を抹消された。

引退後は新冠の太平洋ナショナルスタッドで種牡馬入りしたが、血統の地味さと菊花賞制覇から時間が経ち過ぎたことからまるで人気が出ず、1年で種牡馬を引退し生まれ故郷の浦河の榊原敏夫牧場へと帰っていった。故郷では場長やその家族に非常に大事にされ、遠き日の栄光を思いつつ穏やかな隠遁生活を過ごした。時代は下って1998年8月、あの菊花賞から20年目の夏にハシハーミットは静かに息を引き取った。死因は老衰であった。

彼が持つ「ハーミット」という名は英語では「hermit」と綴り、隠者を意味するという。華やかな前半生とは裏腹に後半生は故郷に籠って世捨て人のようにひっそりと生きた彼にとって、その名はピッタリ合っていると言えるのかも知れない。ちなみに内藤繁春調教師が隠者として暮らすことを嫌い、69歳で調教師の定年を前にして騎手免許試験受験を決行し世間を騒がせたのはハシハーミットの死から2年以上が経過した2000年10月のこと。オグリキャップブーム以降の比較的若いファンにとって、内藤師は「あっと驚く」ダイユウサクとこの"事件"によってのみ知られている存在だろうか。痩せぎすで神経質に見えるルックスからは想像もつかないようなチャレンジ精神を持っていた内藤師も、今では故人となってしまった。

ハシハーミット -HASHI HERMIT-
牡 栗毛 1976年生 1998年死亡
父テューダーペリオッド 母シンホープ 母父シンザン
競走成績:中央15戦4勝 地方7戦2勝
主な勝ち鞍:菊花賞 毎日杯

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