2014/10/15

【私撰名馬物語#39】クロカミ

―生粋の大和撫子より慎み深い"青い目の黒髪少女"よ永遠なれ―


コメント欄にて告知した通り、今回は府中牝馬Sにちなんだ名馬をご紹介させていただく。GⅠの秋華賞の回は明日以降に更新する予定だが、秋華賞は1996年創設の比較的歴史の浅いGⅠということもあり、90年代以前の重賞ウイナーを中心にご紹介している当ブログにとっては半ば鬼門である。もし書くとしたら、本命ブゼンキャンドルで対抗がティコティコタック、そして穴としてブラックエンブレム辺りがその題材として予想されるか。古馬開放以前のエリザベス女王杯の勝ち馬を題材とするのもアリっちゃあアリだろう。でも、出来ればそれらはエリ女の回に取っておきたいので…以上、運営上の裏事情でした。

今回の主人公のクロカミは、名種牡馬・カーリアンの娘でアイルランド産馬である。要するに彼女はいわゆるマル外なのだが、同厩の先輩・ジェニュインらと同様に管理する松山康久調教師の提案により、この純和風で趣のある馬名を付けられている。

彼女が4歳(旧馬齢表記)で競走馬としてデビューした1996年は日本の競馬におけるカーリアンブームの最盛期であり、同期同父のフサイチコンコルドが日本ダービーを制覇した他、イブキパーシヴがクイーンCを勝ち、4年前の3歳チャンピオンのエルウェーウィンがアルゼンチン共和国杯にて復活を遂げるなどまさに当たり年と言えた。そもそもこのブームはエルウェーウィンと、彼より1つ年上でマイルチャンピオンシップ勝ちのあるシンコウラブリイの活躍に端を発している。カーリアンは海外でもジェネラス(英・愛ダービー、キングジョージ)など多数のGⅠ勝ち馬を出してはいるが、1年遅れでクールモアスタッドに繋養されたサドラーズウェルズと比較すると現地での評価は幾分低く、ジェネラス以降は種牡馬成績もジリ貧気味になり、2002年度の凱旋門賞馬となったマリエンバードを出すまで牡馬の超大物を送り出せなかった。したがって、日本におけるカーリアンへの高評価は昨今囁かれているような「日本競馬のガラパゴス性」を示していると言っても過言では無かったわけだ。後に前述のジェネラスとマリエンバードに加えて、仏グランクリテリウム馬のテンビーらが本邦輸入と相成ったが、いずれも凡庸な成績に終わり、加えてゼンノエルシド(マイルチャンピオンシップ)も失敗してこのカーリアンブームは一応の終焉を迎えている。

クロカミと同じ1993年生まれのカーリアン産駒には、上記のフサイチコンコルドとイブキパーシヴの他に1995年の最優秀3歳牝馬であるビワハイジや、古馬になってから急成長を遂げ札幌記念など重賞3勝を挙げたダイワカーリアンなどがいる。ダイワカーリアンを除けば、いずれも早咲きの花として現役生活を終えた馬たちである。その中でも当のクロカミは非常に大事にレースを使われ、周囲の英才教育により徐々に力をつけ重賞を制すに至った。現役当時は同父のシンコウラブリイに準えられたと言うが、引退から15年以上が経過した今成績を振り返ってみたところ、彼女の歩んだ道の特異さに気付き思わずハッとしてしまった。詳しくは後述するが、ここではとりあえず「クロカミは本物の大和撫子以上に慎ましいオンナであった」とだけ書かせていただく。

クロカミのプロフィールの生産者欄には"T.Wada"とある。これは、シンボリ牧場代表の故・和田共弘氏が海外にて所有していた繁殖牝馬から産まれた競走馬であることを示しているという。母のミルドは現役時代はフランスで2勝を挙げており、後に日本に持ち込まれ新冠のパカパカファームで繋養されたが、これといった産駒を出せないまま2009年に用途変更となった。母の父のデザートワインはダマスカス直仔の米GⅠ馬であるが、種牡馬としては並の成績に終わっている。

アイルランドにて誕生して日本に輸入された後、クロカミは美浦の松山康久厩舎へと入厩した。彼女の馬主である溝本儀三男氏は、かつて天皇賞馬のトサオーや有馬記念勝ちのフェアーウインを所有していたベテラン馬主。このクロカミが松山厩舎に入ったのも、松山師の父の松山吉三郎調教師がトサオーらを管理していた縁による。また、名義上は同氏が単独でクロカミを所有する形を取っていたが、実際は和田共弘氏の実子である和田孝弘氏が溝本氏と共同で所有していたらしい。この一見していびつな体制は、クロカミの競走馬としてのカラーや行く末を大きく左右することとなった。

真っ黒な青鹿毛で気が強く、カッとなるタイプであったクロカミ。そんな彼女に松山師は"競馬の先生"として岡部幸雄騎手を宛がった。岡部騎手と言えば、あのシンボリルドルフやタイキシャトルにイージーイージーと言いながら英才教育を施した"馬優先主義"のジョッキーの代表格である。流行の血統と粋な名前をバックボーンに持つ彼女は入厩時から大いに期待され、1996年2月のデビュー戦は単勝オッズ1.4倍の支持に応えてハナ差で勝利を収めた。2戦目のあやめ賞(京都芝1400m)ではそのハナ差に泣いたものの、5月の牡丹賞(東京芝1600m)にて2勝目を飾り、以後2戦は凡走したが10月の平場戦(東京芝1400m)で3勝目を挙げている。ここまでの6戦全て1番人気に推され、いずれも岡部騎手が手綱を取った。

続く準オープンのユートピアS(東京芝1400m)では、岡部騎手が同日の菊花賞に出走するロイヤルタッチに乗るため坂井千明騎手へ乗り替わりとなり、結果3着に惜敗。だが、岡部騎手に手が戻った12月のオープン特別・ターコイズS(中山芝1800m)では、51kgのハンデにも恵まれて2着のマジックキスに5馬身差つけ圧勝してみせた。これで正真正銘のオープン馬になったクロカミは、主に関東の競馬ファンや競馬記者たちからその素質を高く評価され、同父のシンコウラブリイに続くような活躍が期待された。

しかし、彼らの大きな期待にクロカミはなかなか応えることが出来なかった。翌1997年の正月のニューイヤーSで1番人気の3着にコケた後、次走のGⅢ・中山牝馬Sでもやはり1番人気の3着に屈した。3月末の韓国馬事会杯(中山芝1800m)こそクビ差で辛勝したものの、新潟に遠征した谷川岳S(新潟芝1600m)では6着に完敗し、春はこれで御役御免。掛かりやすい気性故に距離がこなせず、輸送すると体重を大きく減らすという弱点から使えるレースが限られるのはどうにも痛く、このままでは関東限定のオープン大将に終わりかねなかった。

夏の北海道シリーズを1戦し2着に終わった後、余力を残した状態で美浦に戻ったクロカミは9月のGⅢ・京王杯オータムHへと出走した。函館にてひと夏を越えた彼女は幾分たくましくなり、馬体重もデビュー時の478kgから490kgにまで増えていた。2回目の重賞挑戦となる同レースでは武豊騎手が手綱を取るダンディコマンドが単勝1.4倍の圧倒的1番人気となっていたが、蓋を開けてみれば2番手評価のクロカミが横綱相撲で押し切り重賞初制覇。アタマ差の2着には人気薄のプレストシンボリが入り、大本命のダンディコマンドはブービーに沈んでいる(その後骨折が判明)。

実は、この1997年の夏(北海道から美浦に帰厩した頃)にクロカミを管理する厩務員が突然倒れ、亡くなっていた。したがって、京王杯オータムHは彼の弔い合戦という意味合いがあったのだ。かつてダービー馬のウィナーズサークルを手掛けたという腕利きの彼の死は、その後のクロカミの運命に少なからず影響を与えたと言っても良いかも知れない。

京王杯にて重賞を初めて手にしたクロカミが次に狙ったレースは、当時はまだGⅢだった府中牝馬Sであった。後のエリザベス女王杯馬・エリモシックや、良血の上がり馬であるシングライクトークなどが轡を並べた同重賞。逃げたレインボークイーンを1番人気のクロカミは3番手でスムーズに追い掛ける。エリモシックやシングライクトークが後方待機で逆転を狙う中、直線に入っても鞍上の岡部騎手は全く慌てず手は微動だにしない。そのままの手応えで持ったまま悠々先頭に立つと、必死に食い下がる6歳のエイシンサンサンと8歳のグロリーシャルマンという6枠両馬を尻目に、黄色い帽子と勝負服の5歳馬・クロカミが黒いたてがみをなびかせて真っ先にゴール板を駆け抜けた。

松山師は精神面の成長と調子の良さを勝因として挙げ、岡部騎手は「1戦1戦、教えたことをきちんと覚える馬です」と教育の成果を誇った。西高東低の時代とは言えど、重賞2連勝は並の芸当では無い。恩師の岡部騎手が乗った時はいつもキッチリと成果を残すようになった彼女は、遂に競走生活の絶頂期を迎えた。

彼女の様に秋に重賞を連勝したような馬なら、来たるGⅠに堂々挑戦させるのが常識である…と言うか、それが競馬人の情というものだろう。ところが、松山師は「まだ時期尚早」と言わんばかりに、エリザベス女王杯にもマイルチャンピオンシップにも彼女を登録しなかった。彼女の次走として選定されたレースは、暮れのGⅡ・阪神牝馬特別(阪神芝1600m)であった。

当時の資料を読むと、馬主の弟の溝本紀正氏が「私自身、遠征はかわいそうという思いがあるんです」と京都のGⅠを回避した理由を語っているのが目についた。同氏は「将来は牧場に返さなくてはいけない馬ですから、大事に使っていきたいと思っています」とも語り、シンボリ牧場側とのしがらみによる選択であることを匂わせている。だが、これでは「遠征はかわいそう」と言いながら阪神のレースを使う理由付けが出来ない。ウィキペディアには「確勝を期すため(GⅠを)回避」とあるが、"空き巣狙い"的なレース選択を好む森秀行調教師や小崎憲調教師ならともかく、松山師のレース選択の傾向を鑑みるとあまり納得出来ない。晩年に同師が管理したサウンドオブハート(ちなみに母父はカーリアン)の使われ方などとも乖離している気がするのだ。

先ほど述べたようにクロカミの担当厩務員は夏に亡くなっており、その後の彼女は他の厩務員が持ち回りで管理することになったらしい。京都への遠征を渋った理由はこれか…?とも思ったが、6歳になってからも彼女はそれなりに各所へ遠征を試みており、ピタリとは説明が付かない。結局、GⅠに出さなかった理由については「よくわからない」というのが正直なところである。明確な理由付けが出来ないのは何とも口惜しいが…。

シンボリ勢ではお決まりの短期放牧の後、当時は12月に施行されていた阪神牝馬特別で4歳の春以来久々に関西圏への遠征を決行したクロカミ。しかし、結果は中団から伸びを欠き5着に敗退。5歳のシーズンを苦い形で終えてしまった。それでも、翌年円熟の6歳を迎えてさらなる飛躍が望まれたのだが、重賞2勝で斤量が重くなったこともあって春は惜敗を繰り返し、初めは登録していた安田記念も結局回避。そして秋2戦では馬体重の増減が極端になり、岡部騎手が乗ることも無く掲示板にすら載れずに終わっている。やがて12月の初めに陣営はクロカミの引退を発表した。これも「ターコイズSか阪神牝馬特別を使ってから引退させるのだろう」という世間の風評に背を向けた選択であり、故障が判明したから引退したわけでも無く何とも不可解であった。こうして"慎ましいオンナ"クロカミは結局GⅠに出走することの無いまま競馬場を去った。23戦7勝という一見立派な戦績は、果たして彼女の能力をフルに活かした結果と言えるのかどうか。

引退後のクロカミは予定通り門別のシンボリ牧場で繁殖牝馬として繋養され、生涯で10頭の産駒を残したものの中央1勝馬が最高と、競走馬の母としては期待通りの結果を出せなかった。しかしながら、3番仔のクロウキャニオン(父フレンチデピュティ・中央1勝、兵庫ジュニアグランプリ3着)が繁殖入り後にボレアス(レパードS)とカミノタサハラ(弥生賞)という2頭の重賞ウイナーを産出し、他にもマウントシャスタ(毎日杯2着)やベルキャニオン(共同通信杯2着)にキラウエア(中央5勝)を産むなど大成功。再び競馬ファンにクロカミの名を思い起させることに成功している。クロウキャニオンはまだ牝馬の活躍馬を出していないのが玉にキズではあるものの、2012年、13年とディープインパクト産駒の牝馬を産んでおり、牝系は恐らく安泰であろう。当のクロカミ自身は、10頭目の産駒を産み落とした翌日の2014年2月20日に死亡したとのこと。このアイルランドからやって来た"青い目の黒髪少女"の訃報は大きく世間に伝えられることも無く、現役時代のカラー通りの何とも慎ましい死となった。

クロカミ -KUROKAMI-
牝 青鹿毛 1993年生 2014年死亡
父Caerleon 母ミルド 母父Desert Wine
競走成績:中央23戦7勝
主な勝ち鞍:京王杯オータムH 府中牝馬S

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