2014/10/13

【私撰名馬物語#38】ニホンピロジュピタ

―オーロパークに覇を唱え"砂のオペラオー"になるはずが…―


今年の南部杯のメンツは正直言って酷い。ベストウォーリアが中央勢の大将格と来れば、地元期待の成長株のコミュニティでもとは言わないが、岩手移籍後ぶっちぎりの圧勝劇を演じ続けているナムラタイタンならば十分勝負になると読むのは果たして間違っているのだろうか。確かに臨戦過程はベストとは言えないし、中央勢が飛車角落ちのメンツとは言えど、去るシアンモア記念と比べると相手は段違いに強い。それに岩手プロパーの競走馬では無いという点も推すのに及び腰になり得る要素であることは否定出来ない。だが、久方ぶりに岩手所属馬が南部杯の人気の一角を占めそうだという事実は、地方競馬の明るい話題として大いに喧伝されるべきだとも思う。馬券的にも面白そうだしね。

上の文章からの流れだと、この南部杯の回の主人公はトウケイニセイとメイセイオペラ、そしてトーホウエンペラーといった岩手勢の中から選定しそうなものだが、今回はあえて彼らからは選ばなかった。ついでに言えばグレートホープでも無い。ニホンピロジュピタ。「みちのくの軍神」ことメイセイオペラの馬生の歯車が狂い始めた裏で南部杯を制した彼こそが、第38回の主人公である。欧州で華々しい活躍を遂げた後輸入され、日本でスタッドインしたオペラハウスの初年度産駒として先陣を切った彼が、芝からダートへと主戦場を変えながらのし上がっていく様を、現役当時発行された紙媒体の資料を参考にして振り返っていきたい。

ニホンピロジュピタは1995年生まれで、いわゆる"98世代"の1頭。父は前述の通りサドラーズウェルズ直仔のキングジョージ勝ち馬・オペラハウス。母はブレイヴェストローマン産駒の中央3勝馬・ニホンピロクリアである。半兄にはマイラーズCとCBC賞を制したニホンピロプリンス(父ニホンピロウイナー)がおり、半姉のニホンピロポリーナからはダート短距離重賞を5勝したニホンピロサートや、2010年の小倉記念を制したニホンピロレガーロなどが出ている。言わばニホンピロ軍団の基幹且つ主力となっているファミリーである。オペラハウスの産駒は概して芝馬に出ているが、ニホンピロジュピタは母方の影響が強かったのかダート向きのパワータイプに出たようだ。オペラハウス×ブレイヴェストローマン牝馬という配合はなかなか相性が良く、目黒記念勝ちのオペラシチーと公営南関東の東京王冠賞を制したオペラハットがその代表馬として挙げられよう。ネヴァーベンドの入った繁殖牝馬にサドラーズウェルズ系の種牡馬を掛け合わせる手法はヨーロッパでもよく採られている。

兄たちと同様に浦河の橋爪松夫牧場で誕生した黒っぽい鹿毛馬のニホンピロジュピタは、長じるとやはり上の兄弟と同じように栗東の目野哲也厩舎へと入った。この兄弟が何故目野厩舎に所属するようになったかというと、ランフォザドリームなどを育てた田中耕太郎調教師がニホンピロプリンスを目野師に紹介した縁によるらしい。兄のニホンピロプリンスは非常に気性が悪く、癇性の強い馬であったが、弟のニホンピロジュピタは父が換わったためか素直でカイバをよく食べる馬だったという。デビュー戦は1997年8月の札幌開催にて迎え、7番人気ながら芝1000mを先行し直線でトウショウコナン以下の追撃をアタマ差抑えて新馬勝ちを飾っている。鞍上は兄のマイラーズC勝ちの時にパートナーを務めていた小林徹弥騎手であった。

新馬戦で勝利を収めた後、中1週で出走したオープン特別のクローバー賞では1番人気に推されるも5着に終わり、さらに中1週で挑んだコスモス賞でも5着に屈した。だが9月のGⅢ・札幌3歳S(旧馬齢表記)では先行した前3走とは打って変わって差す競馬を試み、8番人気の3着に健闘。勝ったアイアムザプリンスには差を付けられたものの、2着のビルドアップリバーとアタマ差の勝負を演じ力を示している。

続くGⅡのデイリー杯3歳Sで初めて武豊騎手が騎乗し、中団から追い込みボールドエンペラーの3着に入った。このように1勝馬の身ながら重賞で健闘を続けたものの、収得賞金が増えない程度の惜敗を繰り返し、京都3歳S4着、翌年3月のアーリントンC8着と相変わらず煮え切らない競馬続き。そして次走の自己条件戦のさわらび賞で6着に敗れた後、ついにニホンピロジュピタは芝に見切りを付けられて初めてダート戦を使われることとなった。

サドラーズウェルズ系の競走馬にありがちな特徴として、「本格化以前は詰めの甘い競馬を繰り返す」というものが挙げられる。同系統の代表格のテイエムオペラオーやメイショウサムソンも、惜敗の連続を乗り越えて高みへとのし上がっていった馬である。このニホンピロジュピタもそのまま芝を使っていたら、強い相手に揉まれ続けた末に重賞の1つぐらいは獲れていたのかも知れない。しかし、手っ取り早くスターダムへと駆け上がるためには、ダートを使うという選択はまさしくベストであったのだろう。1998年4月のダート緒戦を武豊騎手とのコンビで2着に4馬身の差をつけて完勝すると、数ヶ月の休養を挟み8月の札幌開催の自己条件で2着→1着と好成績を残した。陣営はここで好調のニホンピロジュピタを9月のGⅢ・エルムSへと格上挑戦させ、同重賞では古馬相手の厳しいレースとなりながらも、本田騎手とのコンビでタイキシャーロックの3着と善戦。秋以降へ希望を繋ぐ結果を残している。

エルムSで古馬相手に3着と頑張った後、陣営はニホンピロジュピタを当時は秋の中山開催の最終週に行われていたGⅢ・ユニコーンS(ダート1800m)に登録した。同重賞には4歳限定重賞を連勝し、その勢いでここを勝って4歳ダート三冠(中山のユニコーンS、大井のスーパーダートダービー、盛岡のダービーグランプリ)制覇へ向け弾みを付けようとしていたウイングアローが登録しており、同馬が1番人気に推されることは必至であった。それでも、もしニホンピロジュピタが出走していたらロバノパンヤ以下を抑えて2番人気ぐらいにはなっていたことだろう。何しろ、鞍上に想定されていたのは同年春に念願の日本ダービーを制し、天才の名を欲しいままにしていた武豊騎手だったのだから。ところが好事魔多し。直前にニホンピロジュピタは右前踏創を発症してしまい、出走を取り消さざるを得なくなってしまったのだった。ユニコーンSに出走出来ず収得賞金の追加に失敗した事実は、後の彼の馬生に少なからず影を落としている。

このケガでツキが落ちたのか、同年暮れのフェアウェルSから翌1999年2月の北山Sまで4戦したものの、2着3回3着1回といずれも僅差で敗れてしまった。ニホンピロジュピタが自己条件でモタモタしている間に、同い年のウイングアローは4歳ダート三冠のうち2つを奪取し、1998年のJRA賞最優秀ダートホースに選出されていた。また、1月の末には当時中央唯一のダートGⅠであったフェブラリーSを公営岩手所属のメイセイオペラが横綱相撲で制し、前年から引き続き猛威を振るっていた公営船橋のアブクマポーロと共に一時代を築く活躍を見せていたのであった。1999年のダート路線は、前年までのそれとは打って変わって上位拮抗のバトルロイヤルへと突入しつつあったわけである。

やがて時は経ち盛夏を迎えた。そして、雌伏の時間を過ごしていたこのニホンピロジュピタが激戦続きのダート重賞戦線に参戦する日が、遂にやって来たのだ。6月の大沼S(6着)を叩き、降級戦となる7月の津軽海峡特別を小林徹弥騎手の手綱に応え完勝すると、オープン特別のマリーンSもクビ差で制し堂々のオープン入りを果たした。圧巻だったのは次走のエルムSだ。道中は先団を内からうかがいながら競馬を進め、小林騎手のゴーサインに反応し直線で外へと持ち出すと、ダート中距離界の重鎮のオースミジェット以下を5馬身突き放しゴールイン。3連勝での重賞初制覇に目野師は「大沼S以降馬が良くなっていた」と勝因を語った。一方の小林騎手はニホンピロプリンスのマイラーズC以来約3年半ぶり2度目の重賞制覇を見事な形で飾ってみせた。

この頃の古馬ダート路線で暫定的に横綱の座に居たのは帝王賞も制したメイセイオペラであった。好敵手のアブクマポーロが故障し(同年11月に正式に引退が決定)、5歳馬のウイングアローやナリタホマレが順調さを欠き、タイキシャーロックやコンサートボーイといったGⅠ勝ちのある古豪たちが衰え顕著ともなれば、メイセイオペラが一人横綱と目されるのも無理は無い。その他、4歳勢にはオリオンザサンクスという大井所属の無類の快速馬がいたが、秋緒戦の地元重賞・スーパーチャンピオンシップ(スーパーダートダービーの後継重賞)で大ゴケし、やがて圏外へと消えていった。また、同年暮れの東京大賞典で怒涛の5連勝を果たし一気にトップホースの仲間入りを果たすことになるワールドクリークは、10月の時点ではまだ一介の準オープン馬であり、翌年の帝王賞でメイセイオペラに引導を渡すファストフレンドは、よくいる"牝馬交流重賞のヒロイン"の1頭でしか無かった。重賞4連勝中のスノーエンデバーはさくらんぼ記念の後長期休養に入ってしまい、当時のダート界随一のステイヤーのマチカネワラウカドは、前年からの東京大賞典の距離短縮が何とも恨めしかった。

その岩手の英雄・メイセイオペラが10月のマイルチャンピオンシップ南部杯で故郷に凱旋する。当時の東北の競馬ファンにとって、これほど心の温まるニュースも無かったわけだ。だが、結局同馬は右前脚球節炎のため南部杯を回避。当時このケガは軽傷と伝えられたが、その後の同馬の成績を見るに競走能力に少なからず影響を与えたことは間違いないだろう。片やニホンピロジュピタは北山S以来に武豊騎手が鞍上に戻り、万全の状態で当面の目標である南部杯へとコマを進めることが出来た。他の出走馬としては一昨年の桜花賞馬のキョウエイマーチや、休み明けのウイングアロー、故障のメイセイオペラに代わって岩手勢の大将を務めるバンチャンプなどがいたが、彼らを抑えて単勝オッズ1.4倍の圧倒的1番人気の支持を受けたニホンピロジュピタが対峙すべき相手は、もはや己自身であった。

先手を奪ったのは中央の快速熟女・キョウエイマーチ。サクラスピードオーやサカモトデュラブがそれを追い掛け、ニホンピロジュピタは中団のインに付けた。ウイングアローがその後ろから虎視眈々と勝利を狙う中、3コーナーで武騎手が仕掛け青いメンコのニホンピロジュピタが上がっていかんとする。ところが、彼は道中砂を被って行く気を無くしており内でもたつき気味。そこで武騎手は一計を案じ、4コーナーで一気に外へと持ち出し追い出しを図った。直線へ向いてもキョウエイマーチの脚色は衰えを見せなかったが、坂を登りきったところでガクンと減速し、そこをすかさずやる気を取り戻したニホンピロジュピタが一気に交わしそのままゴールイン。2着にはキョウエイマーチが何とか粘り込み、接戦の3着争いはウイングアローが"鉄人"佐々木竹見騎手が駆る川崎のダイヤモンドコアをハナ差制した。

王者たるメイセイオペラが不在とは言え、交流GⅠで強い相手を下したのは事実。交流GⅠ初制覇を果たした武騎手は「本当に馬が充実してきました」と喜びを語り、目野師は12月の浦和記念をステップに王道路線を歩むことを明言した。2000mの距離は初経験だが、走りっぷりや血統面から見ても全く問題は無さそうであった。こうして安定感抜群の末脚で4連勝を飾り、完全に本格化したニホンピロジュピタにもう敵はいないように思えたのだが…。

彼にとって最大最強にして最後の敵は、実は己の脚元に潜んでいたのだ。浦和記念を前にして脚部不安を発症し放牧に出されたニホンピロジュピタは、暮れの東京大賞典にて未だ矛を交わしたことの無い王者・メイセイオペラが失速し、失脚する様をどんな思いで見つめていたのだろうか。やがて翌2000年春に彼は帰厩し、夏の復帰へ向けてじっくりと足慣らしを始めた。同期のウイングアローがフェブラリーSを制したともなれば、"オーロパークの王者"は黙っちゃいられない。一つ年下で同父のテイエムオペラオーは春天を制覇し今や現役最強馬だ。俺も復帰さえすれば…。ところが彼の得も言われぬ焦燥感、そして周囲の大いなる期待感を断ち切るかのように、同年5月9日にこの物語は唐突な幕切れを迎えてしまう。この日は早朝から栗東トレーニングセンターにて乗り込みを行っていたのだが、その最中に故障を発症。診察の結果、右第2趾骨複雑骨折と判明し、手の施しようも無く安楽死の処分が下された。オーロパークに覇を唱え、"砂のオペラオー"にならんと研鑽を積んでいた彼の突然の死を伝える新聞記事は、寂しいことに思いの外小さかった。

ニホンピロジュピタ -NIHON PILLOW JUPITER-
牡 鹿毛 1995年生 2000年死亡
父オペラハウス 母ニホンピロクリア 母父ブレイヴェストローマン
競走成績:中央20戦6勝 地方1戦1勝
主な勝ち鞍:南部杯 エルムS

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