2014/10/19

【私撰名馬物語#40】プロメイド

―一敗地に塗れ、泥に塗れた明和のお嬢が行き着いた地はやはり福島―


結局、題材として選んだのはブゼンキャンドルでもティコティコタックでもブラックエンブレムでも無く、カブトヤマ記念でした。いや、3頭のうちどれかを書いても別に良かったんだけれども、何か予定調和的すぎる気がしてしまって…と言うわけで廃止重賞に逃げてみました。今が旬の秋華賞ネタをみすみす見逃して自ら三振を選択する辺り、さすがと言ったところ。来週の菊花賞の回はちゃんと候補を前向きに検討しているので許してね。

話題とアタマを積極的に切り替えていきましょう。「ローカルの福島×マル父限定×秋のGⅠシリーズの真裏で開催」と施行条件が特殊であるが故に、カブトヤマ記念の歴代の覇者は実に味わい深いメンツだ。ヒダカハヤト、アイオーユー、テイエムオオアラシといった90年代の勝ち馬たちは比較的書きやすそうだし、メイショウキング、ユウミロク、モガミチャンピオンらの80年代組もエピソードが適度に詰まっている。今回はその80年代組の中から1984年に同重賞を制したプロメイドを主役に据えることにした。プロメイド、と書いてみたところでどのくらいの人数の読者が馬名をご存知なのか怪しいが(確かウイニングポスト8に登場しているはずなので若干知名度は上がったか?)、POGにてデビュー前の若駒に期待を懸ける時のような新鮮な気持ちで是非お読みいただきたいと思う。この馬が噛めば噛むほど味が出る、美味しい1頭であることは筆者が保証しよう。

プロメイドは1980年生まれ。したがって牡馬で言えばミスターシービーらと同期で、牝馬で言うとダイナカールやシャダイソフィアなどと同い年である。彼女が生まれた新冠の明和牧場は当時の大牧場の一つで、凱旋門賞馬のサンサンの輸入に成功した他、種牡馬時代のハイセイコーを繋養したことでも知られる。同牧場の代表生産馬としては1977年、78年とスプリンターズSを連覇した快速持込馬・メイワキミコや、1980年の皐月賞馬・ハワイアンイメージがいるが、プロメイドはそれらの半妹に当たる牧場期待の良血馬であった。父のマルゼンスキーの活躍についてはもはや紹介するまでもあるまい。ちなみにマルゼンスキーが内国産種牡馬扱いとなり、その産駒がカブトヤマ記念に代表される父内国産馬限定競走に出走できるようになったのは1984年からである。

よく言われたような「マルゼンスキーの牝駒は走らなかった」という話は事実であって、牡駒からサクラチヨノオーやホリスキーなどのクラシックホースが出たのと比べると、牝駒は数頭のGⅢウイナーと桜花賞2着のホクトビーナスが代表格とどうにも見劣りした。もっとも、このプロメイドはそんな父の2世代目の産駒に当たるため、誕生時には牝駒劣勢の風評などまだ無かったことだろうが。彼女の幼少期について明和牧場の田原口貞忠場長が言うには「人に対しては大人しいため扱いやすい馬だが、他の馬に対してはキツく闘争心が強かった。追い運動ではいつも先頭を走り決して抜かせず、馬体も同期の中では上位にランクされるほど良く期待は大きかった」とのこと。新馬戦時の馬体重は470kgと当時の牝馬にしては立派であり、加えて世代屈指の良血と来れば評判になるのも当たり前と言えよう。彼女の馬体は黒っぽく、それが立派な馬格と相まって見る者に迫力を感じさせた。

明るい幼少期を経て、ハワイアンイメージと同様に(株)大関がオーナーとなったプロメイドは、やはり兄と同じく美浦の鈴木勝太郎厩舎に入り、1982年7月の新潟開催の3歳(旧馬齢表記)新馬戦にてデビューした。鈴木厩舎所属の増沢末夫騎手が跨ったデビュー戦では1番人気に支持されるも、後の天皇賞馬であるギャロップダイナに差し切られ2着までという結果に終わっている。初戦は敗れたものの将来を悲観するほどの内容では無く、折り返しの新馬戦を9馬身差で逃げ切り初勝利を挙げた後、返す刀で出走した9月のカンナ賞(中山芝1200m)ではヨシノエデン(後の芝1600mの日本レコードホルダー)以下を一蹴し1分9秒4の2歳レコードで制して2連勝。ちなみにカンナ賞の馬場状態は稍重で、取り立てて時計の出る馬場というわけでも無かったのだから価値は高い。このようにデビュー3戦の内容が濃く、血統面からの評判も高い彼女は翌年春の桜花賞候補との評判を取った。

ここまで順風満帆な馬生を送っていたプロメイド。ところが、3ヶ月の休み明けで出走した12月の3歳牝馬S(中山芝1600m)にてダイナカールの3着に完敗したことで、彼女の生涯の歯車は少しずつ狂い始めてしまう。1982年当時は現在の阪神ジュベナイルフィリーズのような3歳牝馬の大目標が無く、東西の交流もまだまだ乏しかった時代。ということで関東の3歳牝馬はオープン特別の3歳牝馬Sに出走するか、朝日杯3歳Sで牡馬に挑むかの選択肢しか無かったわけだ(なお、同年の朝日杯3歳Sに出た牝馬は11着の元道営所属馬・モミジビューティーのみ)。その3歳牝馬Sは休み明けという言い訳が利くからまだ良かったのだが、翌1983年1月末の重賞・クイーンC(東京芝1600m)において11番人気のダスゲニーの大駆けに遭い2着に敗れたのは痛かった。スタート直後にチズブエに絡まれたとは言え、単騎で平均ペースの楽な逃げに持ち込んだだけに、後方一気のダスゲニーに4馬身差付けられての完敗は何とも情けない。さしもの増沢騎手も「勝った馬とは脚色が違ったね」とお手上げ状態だったこの一戦によって、「関東期待の桜花賞有力候補」との評判にも幾分陰りが見え始めた。

それでも、クイーンCではダイナカール(5着)に先着したことを考えれば、十歩ほど譲って良いレースをしたと言えたのかも知れない。だが、関西初見参となった報知杯4歳牝馬特別(阪神芝1400m)で再びダスゲニーに負けたどころか、13着と初の大敗を喫したのはやはり痛すぎた。レースの1ヶ月ほど前に御年70の鈴木師が直々に栗東入りし、万全な状態に整えた結果がこれである。スタートで出遅れての結果とは言えど、陣営の落胆たるや半端なものでは無かったことだろう。この惨憺たる敗戦でプロメイドの評価は暴落。やがて迎えた桜花賞での単勝人気は31.7倍の12番人気と、ほとんどファンに無視された存在と成り果てたのだった。

当時の桜花賞のコースは現在よりもさらに外枠の不利が顕著であり、22頭中21番の枠を引いてしまったプロメイドは如何にも厳しいように思えた。ところが、空模様が満開の桜を散らすほどの雨となったのが吉と出て、彼女は低評価に反発し思わぬ好走を見せている。レース前に上位人気の一角であるメジロハイネが的場均騎手を振り落して放馬し外枠発走に。続いてプロメイドが落鉄して発送時刻が13分遅れるというアクシデントに見舞われながらも、泥田馬場の中を兄のハワイアンイメージの皐月賞のように軽やかに駆け抜け、勝ったシャダイソフィアと0.5秒差の4着に頑張ったのだった。増沢騎手は「道悪は上手いのですんなりと好位に付けられたが、何しろ外枠が堪えた」と愛馬の健闘を讃えつつ悔しがった。1番人気のダイナカールは3着でお騒がせのメジロハイネは7着。そして重賞連勝のダスゲニーは雨に泣き10着に敗れた。

桜花賞で4着に健闘した後のプロメイドはもっぱら短中距離路線を歩んだ。オークスには出走せず次走として陣営が選んだのは兄が制したラジオたんぱ賞。同重賞では主戦の増沢騎手がウメノシンオーに乗ったため、小島太騎手と共に兄妹制覇を目論んだが、ちぐはぐな競馬で10頭立ての最下位に沈んでいる。秋は2戦して共に馬券に絡めず、翌1984年もコンスタントに走ったがGⅢ・中山牝馬Sでメジロハイネの3着に入ったのが最高となかなか結果が出ない。調教では走るということでダート戦にも出てみたものの良績には結びつかず、半ば八方塞がりの状態で出走したのが1984年10月のGⅢ・カブトヤマ記念(福島芝1800m)であった。

前述したように、このカブトヤマ記念に持込馬のマルゼンスキーの仔が出走可能となったのは同年からである。手薄な父内国産馬限定重賞に「スーパーカー」ことマルゼンスキーの仔が出走するともなれば人気を集めそうなものだが、蓋を開けてみればプロメイドは11頭立ての最低人気に過ぎなかった。その上、出走したレースの大半で手綱を取った増沢騎手がトップハンデ57kgを背負うセイコーリマンに乗るため、51kgのハンデに恵まれたプロメイドには丸10年も重賞勝ちが無い吉沢宗一騎手(現在はテレビ東京のウイニング競馬の解説者としてお馴染み)が跨ることになった。人気上位陣も30年を経た今では名前すら知られていない馬ばかりで、裏開催のGⅢらしくお寒いメンツが揃ったとは言えど、普通に考えてこの条件下で勝ちはどうにも望み辛い。

だが、この日の馬場状態はよりによって重馬場。思い起こせばかつて4着に食い込んだ桜花賞は不良馬場で、3着に入った中山牝馬Sも重馬場だ。メジロルーベンスの速い逃げを好位の内で追走した重巧者のプロメイドは、3コーナーで馬場の良い外へと持ち出すと先に抜け出したアローコンコルドを交わして一気に突き抜け、大外から差を詰めたアンドレアモンを尻目に黒い馬体が2馬身半差でゴールイン。約2年1か月ぶりの勝利、そして重賞初制覇を最低人気で飾ったのであった。アンドレアモンが7番人気だったこともあり、連複(現在の枠連)は5890円と高配当になった。

1974年10月の福島大賞典以来10年ぶりの重賞制覇を果たした吉沢騎手は「人気も無いし、気楽に乗れたのが良かったような気がしますね」と無欲の勝利であることをアピール。一方、2頭出しの鈴木師は「展開ひとつでどうにでも転ぶと思っていたよ」と何とも老獪であった。4歳以来一敗地に塗れ続けた"明和のお嬢"が、兄と同様に福島競馬場において、しかも重馬場で息を吹き返したのはまさしく血の成せる業としか思えない。後にダート路線で勝ちまくったアンドレアモンが2着に来るような条件なのだから、力の必要な馬場であったことには疑いが無いだろう。そんな馬場条件にて重巧者のハワイアンイメージの妹で、かつて将来を嘱望された天才少女であったプロメイドは、見事に蘇った。

流れ流れて行き着いた福島でGⅢを勝ち、重賞ウイナーの仲間入りを果たしたプロメイド。しかし、カブトヤマ記念以後の成績は冴えなかった。同年11月から12月に掛けて福島記念と愛知杯を連戦したもののいずれも着外に終わり、翌1985年も現役を続けたがダートの準オープン戦のバレンタインSで2着に入ったのが光る程度。そして同年4月の爽春賞のレース中に心房細動を発症し、6.1秒差のシンガリ負けを喫してからしばらくして彼女は競走馬登録を抹消された。偉大なる兄や姉と比べると明らかに見劣りするが、随所でこのファミリーの一員らしい活躍を見せた現役生活であった。

現役引退後のプロメイドは生まれ故郷の明和牧場にて繁殖牝馬として繋養された。初年度のお相手は中堅種牡馬のミシシッピアンで、1987年に誕生した牡駒は後にプロメイドスターと名付けられた。ところが、それから間もない翌1988年の4月18日にプロメイドは死亡している。彼女の死亡時の状況について詳しくは伝わっていないが、種付けシーズン中の逝去だけにそれに関連した事故があったのかも知れない。かくして彼女は1頭だけの産駒を遺して逝ったわけだが、遺されたプロメイドスターは母と同様に鈴木勝太郎厩舎に所属するもデビュー叶わず登録を抹消されており、現在プロメイドの血を受け継ぐ馬は存在しない。姉のメイワキミコが古傷を抱えながらも8頭の産駒を遺して天寿を全うし、今も牝系が繋がっているのと比べると彼女の不幸さは一段と際立ってしまう。BMSとしても優秀なマルゼンスキーを父に持つ彼女が、もしまともに産駒を遺していたら、果たしてどれほどの成功を収めたのだろうか?

プロメイド -PRO MADE-
牝 黒鹿毛 1980年生 1988年死亡
父マルゼンスキー 母ハワイアンドーン 母父カウアイキング
競走成績:中央25戦3勝
主な勝ち鞍:カブトヤマ記念

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