2014/10/04

【私撰名馬物語#36】シンウルフ

―"九州産の帝王"はやがて神様に、そして死して仏様になった―


"廃止重賞シリーズ"の一篇も無事書き終わり、今度はいよいよGⅠ・スプリンターズSの勝ち馬について振り返ってみたいと思う。GⅠとしてのスプリンターズSの歴史はあまり長いとは言えず、1984年のグレード制施行時はGⅢであり、1987年からはGⅡ、そしてバンブーメモリーが制覇した1990年にGⅠに昇格している。

GⅠ昇格後の勝ち馬たちはさすがに名馬揃いだが、GⅡ・GⅢ時代の6年間の勝ち馬にはなかなか味わい深い名も多い。ハッピープログレスにダイナアクトレスといった比較的知名度の高い馬たちが勝ち名乗りを上げている反面、マルタカストームやキングフローリックなど現在となっては忘れ去られてしまった馬たちも勝ち馬として名を連ねているのだ。

では、グレード制以前のスプリンターズSの勝ち馬は一体どんなメンツだったのだろうか?タケシバオーが制した1969年(この年に限り"英国フェア開催記念"の名で施行された)の頃は専業スプリンターがほぼいなかったとされる時代。それ故にレースの格も高くなかったようだが、翌年には「伝説の美少女」として知られる桜花賞馬のタマミが勝ち、以後サクライワイとメイワキミコという当時のトップスプリンターが連覇し、「日の丸特攻隊」サクラシンゲキや「金襴緞子」ブロケードが適距離で実力を見せつけるなど、"スプリント路線の最高峰"の名に恥じない馬たちが勝つようになった。とは言え、グレード制以前はまだまだ短距離路線が形になっておらず、スプリント路線の頂を制して以降は適距離の目標が無く錆びついたり、サクラシンゲキのようにチャンピオンディスタンスに果敢に挑んで玉砕したりと、スプリンターにとって不遇な時代であったことには変わりが無いようである。

今回の主人公であるシンウルフは、グレード制施行直前の1983年のスプリンターズSを制覇した馬だ。彼は現役時代の活躍よりも、種牡馬としての個性的な活躍によって人々に記憶されている競走馬と言えるだろう。何しろ彼の供用地の近くで馬産を営む生産者たちは、皆彼を「神様」と称したというのだから凄い。ハッピープログレスやニホンピロウイナーが登場する前、言うなれば"スプリンターの夜明け前"に、白い馬体を躍動させてスピード感溢れる走りを披露したシンウルフ。高い実力を持ちながらも生きた時代故にやや不遇な現役生活を送った彼は、どのような道を辿って種牡馬となり、如何にして生産者たちに「神様」と呼ばれるに至ったのだろうか?

門別の下河辺牧場にて1979年に生を享けたシンウルフ。彼の父はニジンスキー産駒のラッキーソブリンで、母はフォルティノ産駒の中央2勝馬・スノーショットである。ラッキーソブリンはヨーロッパで15戦して1勝を挙げた程度の馬だったが、その1勝が英ダービーの前哨戦でGⅡのダンテSであり、愛ダービーでも2着に入るなど一応は現地の一線級で走った馬だった。種牡馬としては初年度にシンウルフを出した他、ロングハヤブサとラッキーゲランという2頭の阪神3歳S勝ち馬や、日本ダービー2着のスズマッハを送り出すなど1980年代の上級種牡馬として活躍。1990年代に入ると徐々に衰えを見せたが、母父としてショウナンカンプやコスモドリームを出しており、現在でも活躍馬の血統表で名を見かけることが頻繁にある。母のスノーショットは福島の芝1000mの条件でレコード勝ちを収めたことがある馬。その母の健宝(競走名:ケンホウ)は1962年の桜花賞馬であり、母系は遠くフロリースカップに遡る下河辺牧場が誇る名牝系である。いとこにはダート王・ナリタハヤブサがいる。

フォルティノに由来する母の芦毛をしっかりと受け継ぎ、父母両方の初年度産駒として期待されて誕生したシンウルフであるが、初仔だったためか2歳(旧馬齢表記)までは成長が遅れ気味で、同年代の馬たちよりも幾分小さかったのだという。その上サク癖(いわゆる"グイッポ"で、馬栓棒などに上歯を当てて空気を飲み込む癖のこと)があったため、対策として前歯を6本抜かなければならないなど関係者は手を焼いたそうだ。それだけにデビューは遅れ、1982年5月の4歳未勝利戦にまでずれ込んでいる。だが、成長するとなかなか立派な馬格を誇るようになり、デビュー時の馬体重は488kgと当時としてはかなり大柄であった。

栗東の松元省一厩舎の所属馬として京都の千二のダート戦にて彼はデビューしたが、初戦は先行するも粘り切れず4着に終わった。2戦目の2着を挟み、初勝利は6月の未勝利戦(中京ダート1600m)で挙げている。ここまで一貫して飯田明弘騎手が手綱を取り続けた。

と、ここまでは平凡な1勝馬に過ぎなかったものの、続く7月のえのき賞(中京芝1200m)から彼の快進撃が始まるわけだ。このえのき賞を初芝ながら1分9秒フラットという好タイムで逃げ切ると、次走の800万下条件戦の西脇特別(阪神芝1200m)も早め先頭の競馬で押し切った。そして1300万下条件特別の短距離S(京都芝1200m)を京都芝1200mのレコードタイムで制し、瞬く間にオープン入りを果たしたのだった。ここまでデビュー3ヶ月ちょっとで通算6戦4勝。母譲りだったのは毛色だけでは無く、その非凡なスピードも同様に受け継いでいたのである。

"テレビ馬"という言葉が存在した当時のこと、この手の馬が菊花賞に挑んでもそれほどおかしくは無かった。だが結局菊の大輪には目もくれず、松元師はシンウルフに適した条件を見極めに掛かった。秋は11月の平場オープン戦から始動し、マイルと千八を1戦ずつ使っている。しかし、マイル戦は9着、千八戦はペースに恵まれながらも2着と勝ち星は挙げられなかった。ここまでの戦績の外貌は一見して「怒涛の勢いでオープン入りするもやや頭打ちになった4歳馬」といった感じ。とは言えスプリンターとしての評価は高かったようで、12月の重賞・CBC賞(中京芝1200m)では1番人気に支持された。同年春のスプリンターズSを制していたブロケードが出走していたこの重賞では強豪相手に先手を奪えず、結果伏兵・ハッピープログレスの4着に終わり彼の4歳秋は終わった。

1982年度の"優駿"誌のフリーハンデでは52kgを与えられ、菊花賞3着のマサヒコボーイや、「1180mのスペシャリスト」の異名を取ったCBC賞3着のゲイルスポートと同じランクに位置付けられた。これは5歳のハッピープログレスとも同ランクで、ノンタイトルの4歳のスプリンターとしては最高レベルの評価と言えよう。とは言え、当時の短距離路線の女横綱たる関東馬のブロケードは57kgを与えられており、かなり評価に差があったことは事実だ。

自らのスプリンターとしての評判をさらに高めるべく、シンウルフは翌1983年2月の淀短距離S(京都芝1200m)に出走した。このレースでは今までの飯田騎手に代えて安田隆行騎手が鞍上に据えられたが、好発から楽に逃げ切り見事5勝目を挙げている。この勝利で弾みをつけ、シンウルフは同月末のスプリンターズSに関西代表として出走するため中山競馬場へと乗り込んだ。

前年のブロケードとサクラシンゲキのような路線の強豪を欠いていた1983年のスプリンターズS。1番人気にはゲイルスポートが推され、次いで芝1200mで1分8秒8の持ちタイムを誇るイクエヒカル、そしてシンウルフが続いた。関西からの参戦はシンウルフの他に無く、まさに孤独な戦いとなったわけだが、長距離輸送に耐えた馬体は充実期を迎え白く輝いていた。何よりこれからスプリンターとして大きく羽ばたかんとする上で、シンウルフは春の大目標を落とすわけにはいかなかったのだ。

レースが始まり、まず飛び出したのは例によってゲイルスポートであった。前半3ハロンが33秒4という現代でも通じるレベルの高速ラップを刻み逃げまくる同馬を、飯田騎手が騎乗するシンウルフはピタリと2番手で追走する。ハナを切らなくてもある程度競馬が出来ることは彼の強みであった。一方のイクエヒカルは馬群で揉まれ気の悪さを露呈していた。千二の一瞬の勝負でこれは致命的だ。4コーナーを周って直線に入ってもゲイルスポートの勢いは衰えを見せなかったが、ラスト1ハロンというところで毎度のお馴染みの強烈な失速を見せてしまう。代わって先頭に立ったのはシンウルフ。中山の坂で一気の伸びを見せる彼をキヨヒダカやステイードといった関東勢が追い掛けるも、結局振り切られゴール板を関西の芦毛馬がトップで駆け抜けた。ゲイルスポートは毎度の伝統芸で4着に屈し、イクエヒカルは伸びを欠き7着に沈んだ。

こうして大目標を難無く手中に収め、春のベストスプリンターとして君臨したシンウルフ。ところが、スプリンターズSを制した後笹針を打たれ調整している際に左第一指骨を骨折。結果、5歳の充実期を棒に振ってしまった。復帰が叶ったのは1984年の8月になってからで、実に1年半近くの長い休養明けであった。復帰戦の北九州記念は千八と言うこともありブービーに惨敗。結果は残念であったが、元々叩いて良くなるタイプという意識を持っていた陣営は将来を悲観していなかった。

だが、彼が休養している間に棲家である短距離路線は以前と全く様変わりしていた。グレード制の施行と共に路線の整備が行われ、それに呼応するようにニホンピロウイナーとハッピープログレスの両巨頭が頭角を現したのだ。彼らをよく知らない旧時代のスプリンターであるシンウルフは同年10月のGⅡ・スワンSにて2頭と激突したが、成す術無く1着のニホンピロウイナーから2.8秒離された8着に沈んだ。そして12月のGⅢ・CBC賞でもハッピープログレスにやられて11着に敗れ、浦島太郎と化したシンウルフの天下は完全に終了した。以後は1985年2月の淀短距離Sで弱いメンツ相手に平凡なタイムで勝ち星を挙げただけに留まり、同年8月には障害戦も走るも結果を残せず、失意の彼はやがて公営新潟競馬へと流れて行った。当地では年内に2戦し1勝を挙げたようだが(詳細は不明)、翌1986年は8戦して未勝利、3着が最高と言う結果に甘んじ重賞では通用しなかった。力が落ちたことも大きいだろうし、ダートも長めの距離も不適だったのであろう。

引退後は九州馬主界の重鎮である「カシノ」の柏木務氏に請われ、鹿児島県の柏木牧場で繋養された。2014年の今でもそうだが、馬産の中心地である北海道から遠く離れた九州で種牡馬をやるということは、言葉は悪いが"都落ち"の印象を持たれやすい。九州の牧場は全体的に土地が狭く、土壌も痩せているという風評が伝統的にある。そのせいか育った馬も小ぶりに出やすく活躍しづらいため、九州産馬は北海道産馬と比べてワンランク下に見られがちだ。過去に「新聞を読める馬」と称されたクセ馬・カブトシローや、二冠馬のヒカルイマイに天皇賞馬のアイフル、そして前述のハッピープログレスなどが九州で繋養されたが、ポツポツとは活躍馬を出せても風評を覆すには至らなかった。

ところが、このシンウルフにとっては九州行きが僥倖となった。20万円という種付け料の安さもあり、種牡馬初年度から常に30頭を超える繁殖牝馬を集める人気ぶり。やがて1990年に産駒がデビューすると、いきなりひまわり賞(九州産馬限定のオープン特別競走)をカノヤウルフが制し、翌年の同レースもカシノコウエイが勝って連覇。また、3年目の産駒からは準オープン戦2勝のカノヤミノリ(ちなみに北九州市制30周年記念で前回のアルファキュートを下したのはこの馬)が飛び出し、九州産の枠を超えた活躍ぶりを見せている。他の産駒には霧島賞(九州産馬の天皇賞と称される条件戦)を連覇したウイニングヒロオーなどがおり、毎年のひまわり賞はまるで"シンウルフ産駒の大運動会"のようであった。産駒はとにかく芝向きの軽さがあり、仕上がりも早かった。その反面大物感に欠けるきらいがあり、距離に限界があって平坦専門の産駒も多かったが、阪神芝2000mの準オープン戦を勝ったカノヤミノリのように配合次第では距離や坂もこなした。

このように産駒が九州産馬限定戦で圧倒的な強さを見せた「九州産の帝王」シンウルフは、いつしか九州の生産者たちから「神様」と呼称されるようになったという。彼らからすれば、安い種付料と引き換えに高額な中央競馬の賞金を稼がせてくれるシンウルフは、まさに神に近い存在であったということだろう。だが、このご利益絶大なカミサマは、1994年の9月に肺に水が溜まったことが原因で突然お隠れになってしまったのだった。享年16。彼がこの世を去った後にも、1996年のひまわり賞を制したカシノリュウセイや、1995年の小倉3歳Sで直線先頭に立ちあわやのシーンを作り出した(結局8着)ホワイトシャンスが活躍し、九州の生産者を一層嘆かせた。シンウルフの死後、所有者の柏木氏や有志によって柏木牧場の一角に立派な馬頭観音が建てられたそうだ。西鉄ライオンズの稲尾和久ばりに九州の人々から「神様」と呼ばれ敬われた彼は、現在では立派な仏様となり九州産馬や人間たちを見守っている。そんなシンウルフの名も、彼の死と入れ替わりになって九州の地に降り立った種牡馬・マークオブディスティンクションの台頭に伴い、今やすっかり馴染みの薄いものとなってしまったのは何とも寂しいことである。

シンウルフ -SHIN WOLF-
牡 芦毛 1979年生 1994年死亡
父ラッキーソブリン 母スノーショット 母父フォルティノ
競走成績:中央平地22戦7勝 障害1戦0勝 地方10戦1勝
主な勝ち鞍:スプリンターズS

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