2014/10/09

【私撰名馬物語#37】タカラテンリュウ

―"狂気の一族"の長男坊が辿った流転の運命―


当ブログの前身である"おお、モンタヴァルの4×3ですね!"をWeb上に開設したのが昨年11月の初め頃だから、あと1ヶ月ほどで書き始めてから丸1年になる。途中、至って順調に運営されていたブログを自らの気まぐれで潰したり、「受験体制に入る」というのを名目に更新をしばらく止めたりと紆余曲折あったものの、やっとこさ節目の日を迎えることが出来るわけだ。

"モンタヴァル"では確か61話目のヒロノワカコマの回で更新を終了しているので、"私設現代名馬記念館"の39話目にてトータル100話を達成する。人から見ればどうでもいい節目かもしれないし、客観的に見て相変わらず内容が進歩していないと言われても仕方が無いだろう。とは言え、記念すべき第1回目のイナノラバージョンの回などは紙媒体の資料に全く頼らず書いているので、目新しい情報にまるで欠ける内容であったことは事実。それに加えて初めの20話ほどは同様の調子で書いていたことを思い出すと、自分のあまりの無謀・無策さに薄ら寒さすら感じるのである。イナノラバージョンについてはいずれリメイク版を執筆するという形でリベンジしたいところだが、肝心の資料が手に入らなければ同じ轍を踏んでしまいかねないので、正直なところ「絶対に書きます!」という保証は出来ないのが現状だ。

で、今週の日曜日に行われる重賞と言えば、東京競馬場のGⅡ・毎日王冠である。毎度の如く歴代勝ち馬一覧を眺めて題材を決定する作業を行った結果、"モンタヴァル"時代にコメント欄等においてよく話題に上ったタカラテンリュウについて書こうと思い立つに至った。同馬は1983年の毎日王冠の覇者。そしてネタには事欠かない稀代のクセ馬である。故に書くためのモチベーションの維持には苦労しなかったが、彼にまつわるネタをブログ上の一記事にどう凝縮していくのかという点でかなり腐心した。間も無く執筆100話目を迎えんとしながらも、ブロガーとして未熟であり続ける私が、稀代のクセ馬をどう料理したのか…是非ともお読みいただきたい。

タカラテンリュウが誕生したのは今から35年前の1979年のこと。彼の父親はステイヤー種牡馬として知られたインターメゾである。インターメゾは現役時代は英セントレジャーを制した一流馬であり、種牡馬2年目の産駒からTTGの一角であるグリーングラスを出している。それ以後も時折思い出したように活躍馬を送り出し、タカラテンリュウ以降の世代では目黒記念勝ちのミスタールマンが代表産駒と言えよう。母のカバリダナーはタカラテンリュウの故郷でもある門別の賀張中川牧場の生産馬。現役時代は大物食いを得意とし、オークストライアル(2着)でテスコガビーに先着し、京都牝馬特別ではイットーを下して重賞制覇を果たすなど活躍した。その父のパーシアは天皇賞馬・フジノパーシアの父として著名である。

賀張中川牧場が生産・所有したカバリダナーは1977年の春に故郷で繁殖入りし、その翌年カバリエリエース(父ハーディカヌート)という名の鹿毛の牝馬を産んでいる。カバリエリエースは1戦1勝のキャリアで重賞のクイーンCに出走し、最低人気ながらも後のオークス馬であるテンモンを子供扱いにする強さで勝利を収めた。その後もオークストライアルを制すなど切れ味を身上に好成績を収めたが、次走のオークスで大出遅れの結果大惨敗を喫してからは精神的な危うさが表面化してしまい不本意な競馬が続いた。そして4歳(旧馬齢表記)の暮れのダービー卿チャレンジTにてとうとう骨折。哀れにも安楽死処分になってしまった。自身も惨敗が多く危ういタイプであったカバリダナーに長距離に向くインターメゾを付けたのは「ステイヤー、それも大レース向きの馬を(賀張中川牧場・中川重光場主:談)」という期待からの判断であったという。この判断は果たして正しかったのか否か。期待の配合から1979年に誕生した産駒は、母と同じ栗毛の牡馬だった。

この牧場期待の良血馬は、3歳になると美浦の佐々木亜良厩舎に入り調教を積んだ。やがて1981年の10月にデビューしたが芝の初戦は4番人気の7着に敗れ、2戦目のダート1200mの未勝利戦にて初勝利を挙げた。前記の中川氏曰く「牧場にいた頃はどちらかと言えばおとなしい方だった」というタカラテンリュウだが、続くデビュー3戦目の葉牡丹賞(中山芝1600m)にて後々まで語り継がれる"伝説"を築き上げてしまうことになる。

事の顛末はこうだ。デビュー2戦と同様に嶋田功騎手が跨った同年12月の葉牡丹賞での戦前の評価は12頭立ての6番人気であった。ところがゲートが開いた瞬間に立ち上がり、続いて外ラチへ向かって逸走。その後は外ラチ沿いを暴れながらゆっくりと芝コースを周り、結果1着馬から48秒3遅れてシンガリでゴールインしたのだった。故障を発症したわけでもなんでもないのに、芝の1マイルを2分23秒9という脅威のタイムで駆け抜けたタカラテンリュウは、この一件のおかげで悪い意味で有名な存在となってしまった。

これで正気の糸が切れ、血筋に秘めたる狂気が顔を出してしまったのか、葉牡丹賞での失態以降の彼はレースに出走する度に出遅れ続けた。翌1982年は初めダート戦を3走したものの、いずれも出遅れて後方から差を詰めただけに終わった。久々に芝レースに出て来た3月の桜草特別(中山芝2000m)では出遅れながらも直線で大外から一気に伸び、当時の評判馬・ハギノカムイオー相手に3馬身差の2着に善戦したが、ゴール板を過ぎた後にまた外ラチへと突進・激突するという暴れっぷりを披露している。それでも陣営は彼の素質を信じて5月のNHK杯へと格上挑戦させたが、勝ったアスワンから1秒離された9着に敗退。良血馬のダービー出走の夢はこれにて潰えた。

高い能力を垣間見せながらも、気性難がネックとなり不本意な競馬が続いたタカラテンリュウであったが、続く1勝馬クラスの桐花賞(東京芝2000m)と、6月の800万下条件戦のエーデルワイスS(東京芝1400m)を共に好発からの逃げ切りで連勝。「今までの体たらくは何だったのか?」とまで思える突然の変わり身に人々を驚かせた。

こうなると期待されるのが秋の大一番・菊花賞だ。笹針を打たれて夏を休養に充てた彼は、10月初めのセントライト記念を秋緒戦に選んだ。しかし、同重賞では恋女房である嶋田騎手が大井からやって来た怪物候補のホスピタリテイに乗るため、安田富男騎手とコンビを組まざるを得なかった。そして、案の定急造コンビでは力を発揮できず、結果そのホスピタリテイの6着に敗れ収得賞金の追加に失敗。堪らず陣営は準オープンの紅葉H(東京芝2300m)に出走させ、菊への最終切符を奪取せんと企図した。が、逃げは打てたものの3コーナーで心房細動を発症し、先頭から13秒以上離された大敗を喫してしまう。この敗戦で菊花賞への出走は絶望的となったわけだが、それと前後して彼に関するとんでもない記事がある新聞に掲載されたのだった。

「タカラテンリュウの春の2連勝に電気ムチの陰あり」…そんな文字が当時の新聞に躍った。事件の詳細や背後関係については30年以上が経過した今となっては詳らかで無いが、大体の筋はこうである。「タカラテンリュウの酷い出遅れ癖を矯正するために、競馬会の職員がゲートにて触れると電気が流れるムチを使用。それが功を奏したのか、好スタートを決めることが出来た彼は1番人気に応えて連勝を飾った」…もし、2014年の日本の競馬にてこんな事件が起こったら、公正競馬や動物愛護等の観点から大騒動を巻き起こすことだろう。実際、当時の競馬界でも相当話題になったらしいが、筆者が当時の情報を追うために読んだ"優駿"ではあまり触れられていない。"優駿"は日本中央競馬会の子会社が発行元の雑誌だけに、お上に都合の悪い記事は大きくは載せない、ということなのだろうか(ちなみに、1986年5月の阪神競馬場誤審事件の際も"優駿"誌はモノクロページに小さな記事を載せるに留まっている)。

このダーティーな事件の話題を知ってか知らずか、騒動の当事者のタカラテンリュウは11月の準オープン戦を人気に応えて圧勝し堂々のオープン入りを果たした。陣営はこの勢いを駆って彼を翌1983年正月の金杯(東)へと出走させたが、中山の右回りが合わなかったのか2番人気の7着に終わっている。彼が左利き・サウスポーであるという風評は、この頃には陣営の意識にもすっかり定着していた。

そんな名うてのサウスポーの面目躍如の場となったのが、同年2月の東京新聞杯(東京芝2000m)である。それまでの13戦で掲示板を外していないという抜群の安定感を誇っていた6歳牝馬のエイティトウショウが1番人気に支持され、前走の金杯を制したヨロズハピネスが2番人気。当のタカラテンリュウは僅差の3番人気であった。だが、フタを開けてみればタカラテンリュウの独壇場。スローの流れを思い切って逃げた彼は、最内の経済コースを周って一目散に直線へと向かった。「5ハロンあたりで勝てると思った」という嶋田騎手の言葉通りに、必死に追いすがるエイティトウショウをさらに突き放し、最後は2馬身半差で完勝。初重賞制覇を得意の府中コースで飾ったのであった。

いささか展開に恵まれた感もあったが、5歳の春にさらに上昇した良血馬の彼に春の天皇賞を期待する声も上がった。しかし、言わずもがなだが春天は右回りの京都コースで施行されるだけに、関係者は出走を固辞し徹底して左回りのレースへの登録を続けた。

目黒記念(5着)を挟み、デビューから17戦目となる4月のダイヤモンドS(東京芝3200m)を今度は2番手から押し切って重賞2勝目を果たした。この勝利に嶋田騎手は「インターメゾ産駒としてはグリーングラスにも劣らない素質がある」と、かつての騎乗馬に準えた最大級の賛辞を彼に送り、当時は府中の芝3200mのコースで施行されていた秋の天皇賞での好走が期待された。一方、ダイヤモンドSの1週前には春の天皇賞が行われており、ノーザンテースト産駒のアンバーシャダイが前年の菊花賞馬のホリスキー以下を一蹴し、社台時代の到来を告げる勝利を収めている。かつての問題児は、そのアンバーシャダイへの秋天での対抗馬として名を挙げられ、"ターフの主役"への階段を着々と昇りつつあった。

ダイヤモンドSに続き左回りコースを求めて出走した6月の高松宮杯(中京芝2000m)ではハギノカムイオーの4着に敗れ、タカラテンリュウの5歳春は終わった。そして"勝負の秋"がやがてやって来た。秋緒戦に選んだ10月の毎日王冠(東京芝2000m)。1番人気こそ巨漢のスピード馬・イーストボーイに譲ったが、ドロドロの不良馬場を赤のバッテンのメンコを着けたタカラテンリュウが上手いコース取りで駆け抜け、ややズブさを見せたイーストボーイをクビ差抑え逃げ切って優勝。秋天の前哨戦を見事に制してみせた。3着は前年の覇者のキョウエイプロミスで、4着が桜花賞馬のリーゼングロス。そして6着馬が翌年の春天を制す"愚弟"モンテファストだったのだから価値は高いだろう、鞍上の嶋田騎手は「昔は暴走したり問題児でも、今は大人になり優等生だよ。天皇賞が楽しみだね」と抱負を語った。

来たる1984年の大改革に伴い、2000mへの距離短縮が当時すでに決まっていた秋の天皇賞。その最後の東京芝3200mの秋天において、タカラテンリュウは堂々の1番人気の支持を受けた。1965年のシンザンが勝って以降、1番人気馬が17連敗中というジンクスも気にはなったが、府中コースとの相性の良さ、そして溢れる高い素質への期待はあまりに大きかったのだ。前述のようなアンバーシャダイの対抗馬…言うなれば"挑戦者"という立場ではあったものの、ホームとも言える府中での彼への声援はチャンピオンよりも大きく聞こえた、ということであろう。

ところが、この盾獲りへの真摯な挑戦は、意外な馬のボーンヘッドにより打ち砕かれてしまうのであった。かつての出遅れ癖はどこへやらの飛び出しを見せ、大方の予想通りタカラテンリュウがハナを切った。その後ろに柴田政人騎手が駆るキョウエイプロミスや加藤和宏騎手のアンバーシャダイらが付け、ガチガチのマークを受けながらも、嶋田騎手が前半1000mが1分4秒8というスローペースに落とし絶妙な逃げを展開する。完全にタカラテンリュウのペースに見えた。少なくとも、1周目の4コーナーまでを見る限りではその見方は正しかったと言える。

スタンド前で異変は起きた。毎日王冠にて勝負付けが済んだはずのイーストボーイが折り合いを欠いて外からグングン上がっていく。そして逃げるタカラテンリュウに並びかけたのだ。イーストボーイの根本康広騎手が必死のアクションで同馬を制御しようと試みたこともあって、向正面にてタカラテンリュウは再び先頭の座を取り戻した。だが、これにより彼と嶋田騎手の計算に狂いが生じてしまった。直線に入るとすでに余力の無いタカラテンリュウは抜群の手応えで進出するキョウエイプロミスに交わされ、次いでアンバーシャダイにも抜かれてズルズルと後退していった。結果、7歳にして全盛期を迎えたキョウエイプロミスが2着以下に2馬身半差付け完勝劇を演じ、2着には6歳牝馬のカミノスミレ(第10話参照)が切れ味鋭く飛び込んだ。アンバーシャダイは離れた3着で、タカラテンリュウとイーストボーイはそれぞれ7着と9着に敗れた。

そもそも、イーストボーイはアローエクスプレス産駒な上に1800mまでしか勝利の経験が無く、マイラー不遇な時代とは言えど3200mの秋天に出て来たこと自体に疑問符が付くような馬であった。そんな馬にペースをかき乱され、惨敗を喫したタカラテンリュウは悔やんでも悔やみ切れないし、どこにも恨みをぶつけようが無かった。こうして一敗地に塗れたタカラテンリュウは11月末の第3回ジャパンCへとコマを進めたが、自分の競馬が出来ずに見せ場無く13番人気の11着に大敗。勝ったスタネーラとアタマ差の接戦を演じ、「大和魂ここにあり」を体現したキョウエイプロミスと明暗を分けた。

ジャパンCの後、「まだ未完成な馬だし、丈夫で長く走ってもらいたい(佐々木師:談)」という意図からタカラテンリュウはしばらく放牧に出た。復帰戦となったのは1984年5月のGⅠ・安田記念であった。だが得意の左回りとは言えど、休み明けでマイルのGⅠというのはさすがに荷が重くハッピープログレスの6着に敗れ、続くGⅢのエプソムCでも6着と結果を残せなかった。その後彼は脚部不安を発症(屈腱炎と言われる)し、6歳のシーズンを棒に振り長期休養に入ってしまった。

7歳の秋にようやく復帰し、毎日王冠(7頭立ての6着)に2年前の覇者として出走したタカラテンリュウ。しかし、翌1986年の正月から2戦してもどうにも本来の走りを取り戻すことは出来なかった。そして彼のラストシーンは刻一刻と近づいていた。1986年2月16日、東京競馬場のGⅡ・目黒記念。久々にベストな条件にお馴染みの嶋田騎手を乗せての出走が叶った彼は、道中は先団から競馬を進め、3コーナーで先頭をうかがうという往年の"らしさ"を彷彿とさせる走りを見せた。通算7勝のうち6勝を挙げた歓喜の地・府中にて老雄が復活するのか…そんな夢を背負って直線に入ると、間も無くして内に付けていたタカラテンリュウは脚をもつれさせて躓き、やがて動きを止めた。左第一指関節脱臼、予後不良。かつてマスコミを賑わせた狂気の一族の問題児は、天才肌の姉に遅れること5年で同じ運命を辿ることとなった。享年8。余談であるが、遡ること1983年の末には彼の敵(かたき)とも言えるイーストボーイがやはり競馬場にて命を落としている。

タカラテンリュウ -TAKARA TENRYU-
牡 栗毛 1979年生 1986年死亡
父インターメゾ 母カバリダナー 母父パーシア
競走成績:中央27戦7勝
主な勝ち鞍:毎日王冠 東京新聞杯 ダイヤモンドS

8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

最後のレースはよく覚えています。
日刊ゲンダイの厩舎コメントを愛読していましたが
厩舎は、はっきりと「出せる状態ではない」、と言っていました。
かわいそうでした。

響斗七 さんのコメント...

今時の競馬界なら「敢闘意欲が無い」とされて問題になりそうなコメントですね。
もっとも、これに近いニュアンスのコメントはたまに見かけますが……。

匿名 さんのコメント...

本当に大好きな馬でした。東京新聞杯、ダイヤモンドS、毎日王冠、馬券も取って本当にうれしかった。
それなのに、肝心の天皇賞でイーストボーイに・・。レースの後、「イーストボーイの馬鹿・・・」と
思わず叫んでしまったこと、忘れることができません。
最後の目黒記念で逝ってしまった後は、一人で泣きました。

本当に大好きだった問題児(?)のタカラテンリュウ。忘れることはありません。

響斗七 さんのコメント...

当ブログにて、タカラテンリュウの記事はカーネギーダイアンの記事と共にアクセス数上のツートップ。稀代の個性派としてその人気が窺えますね。資料さえ揃えば、そのうちイーストボーイの記事も書くかもしれません。こちらも個性的な馬だったようですし。

ノエルザブレイヴ さんのコメント...

お久しぶりです。
前身のブログを愛読させていただいた者ですが、ブログが消息不明となりすっかり諦めていたところにこちらを見つけることができて大変うれしく思います。
(と言いますより父系馬鹿さんに出入りされていたのに気付かなかった私が間抜けなだけですが)
これから改めまして楽しく読ませていただきます。よろしくお願いいたします。

響斗七 さんのコメント...

こちらこそお久しぶりです。「モンタヴァル」ではお世話になりました。
前身のブログを削除→現ブログを作成するにあたり、筆名を改め文体も多少変えさせていただきました。いかがでしょうか。今後ともお引き立てのほどよろしくお願い申し上げます。

こーし さんのコメント...

タカラテンリュウの話で、つい最近までコメントがあるのですね。
私もこの馬は大好きで、インターメゾのついたカバリエリエースの下がいると聞いて、デビュー前から期待していました。
葉牡丹賞はラジオで聞いていました。
当時ラジオ関東、恐らく井口保子さんのスタート直後の実況が忘れられません。
「タカラテンリュウ、走りません!!」
こんな実況は後にも先にもないでしょうね。

響斗七 さんのコメント...

1981年当時の競馬マスコミの雰囲気について私は詳しくありませんが、女性の実況アナウンサーがいらしたのですね。
「○○、走りません!」で思いついたのは2000年の皐月賞のラガーレグルス。ただ、タカラテンリュウはなんだかんだで完走したというのがすごいですね。