2014/11/11

【私撰名馬物語#44】クリロータリー

―さらば、遠い日の陽光と洋行よ―


サニーライト、という一見何の変哲も無い馬名を提示したところで、最近の競馬ファンの中で興味を示す方は少ないだろう。リィフォーの仔で1983年生まれの彼は、一昔前の悲運の名馬物語の類では定番として扱われていた存在であった。調教では同期のダービー馬・ダイナガリバーと遜色の無い動きを見せ、1986年のスプリングSや青葉賞(当時はオープン特別)を大塚栄三郎騎手とのコンビで制覇した実力の持ち主。だが、同年秋の菊花賞にて後続馬に乗り掛かられ非業の死を遂げたという、言わば不運に泣いた準一流馬である。事故さえ無ければ菊の大輪を咲かせていたであろうと仰る有識者もいるが、戦績や血統面から見てそれはちょっと買い被りが過ぎるだろうと思えなくも無い。

筆者自身は血統に関して特段知識を持ち合わせているわけでは無いが、サニーライトの父であるリィフォーが短中距離の向く種牡馬であったことぐらいは知っている。その資質が最大限に活かされたのが直仔のニッポーテイオーであり、娘の仔のマイネルラヴだったのだろう。"父リィフォー"というプロフィールを目にしただけではサニーライトは到底距離が持ちそうには思えない。では、「無事だったら菊花賞を勝っていた」と仰る論者の自信の根拠は何なのだろうか?調教の動きか、それともダイナガリバーの増沢末夫騎手がサニーライトの厩務員に言い放った「菊花賞を勝つのはお前の馬だよ」という諦念と余裕と嫉妬の混じり合った賛辞か。はたまた単なる敗れ去った者に対しての判官贔屓の思いなのか?

今回ご紹介する1989年のアルゼンチン共和国杯の勝ち馬・クリロータリーは、サニーライトの一つ年下の半妹に当たる馬だ。彼女は主に中長距離で良績を挙げた珍しいタイプの牝馬で、過去に3頭しかいない"アル共勝ちの牝馬"のうちの1頭である。リィフォー産駒のサニーライトが菊花賞を勝っていたかも知れないという意見の根拠は、実はこの妹の距離適性にあるのではないだろうか。彼女の父はファイントップ系のディクタス。そう、マイル近辺で活躍したサッカーボーイやイクノディクタスらの父である。マイラー種牡馬・ディクタスの娘であるクリロータリーが芝2500mの重賞を勝つだけのスタミナを携えていた理由については様々な読み解き方があろうが、本質的には長い距離が向くもののカリカリした気性故に短距離馬ばかり出したディクタスと、母であるクリコスモのスタミナに溢れる血統が組み合わさった結果という意見を本稿では支持したい。突然この世を去った兄と入れ替わるように競馬場に現れた彼女はどのようにしてスターダムへとのし上がり、どんな形で重賞制覇を成し遂げたのか?2014年のアルゼンチン共和国杯もフェイムゲームの勝利で幕を閉じたところで、ささやかに振り返ってみるとしよう。

1984年生まれのクリロータリーはその名前から想像されるように、「クリ」の栗林英雄氏が所有する登別のユートピア牧場にて生を享けた。この栗毛の仔馬の父は先述の通りディクタスで、母はマームード直系の種牡馬・ダディダンフィの娘のクリコスモである。クリコスモは現役時代中央で特別戦2勝を含む3勝を挙げた活躍馬であり、繁殖入り後もサニーライトとこのクリロータリーの兄妹を送り出すなど成功を収めた。近親にはフェブラリーH勝ちのベルベットグローブなどがいる。クリロータリーの配合はマームードの5×4×5を持つなどブランドフォード系の血がかなり濃く、緩急に適応するような柔軟性やメリハリには欠けるが、力押し&スタミナ押しの競馬が似合うという外貌が窺える。詳しくは追々語っていくが、その血統通り…配合担当者の狙い通りの素質馬が誕生したということだろう。

だが、ユートピア牧場の久保正男場長は後にこう語っている。「牧場にいた頃は小さかったせいもあるんですが、これといって目立った体つきの馬じゃありませんでしたね。(中略)それに体型、血統から長い距離は不向きと考えてました」クリロータリーの馬格は多くのディクタス産駒の例に漏れず大柄とは言えなかった。加えて父の産駒で長距離が向いた馬というと目黒記念2着のナスノタイザンぐらいなもので、潜在的なスタミナは有りながらも大半は気性の難しさからマイル以下で瞬発力を活かすタイプに出ている。長めの距離で持久力を活かすタイプの彼女は、父や牧場長にしてみればむしろ"鬼っ子"に近い存在だったのかも知れない。

やがて成長したクリロータリーは、3歳(旧馬齢表記)で兄と同じく美浦の吉野勇厩舎に入り、順調に調教を積まれた。同期同厩の馬には後に京都新聞杯などを制すレオテンザンがいる。クリロータリーは兄が淀で突然身罷ってから1ヶ月ほどが経った1986年12月の中山開催でデビューし、芝1200mの条件においてソウシンホウジュ(エプソムCなど重賞2勝)の3着に入った。続く折り返しの新馬戦では7着に終わったが、年明けの未勝利戦(中山ダート1800m)を5馬身差で逃げ切ってようやく片目を開けることに成功した。しかし、2月下旬のうぐいす賞(東京ダート1600m)にて3番人気の7着に完敗すると、桜花賞をスッパリと諦め笹針放牧に出されている。

彼女のデビュー以来の相棒はこれも兄と同様に大塚栄三郎騎手であった。大塚騎手は吉野厩舎所属の中堅騎手で、板前から紆余曲折を経て騎手に転身した苦労人である。クセ馬として知られたドウカンヤシマで重賞3勝を挙げ、後に「逃げの大塚」の異名をとるようになった彼をクリロータリーの背中に配したのは良い選択であったと思う。この時点ではしがない1勝馬に過ぎなかったクリロータリーだが、復帰後は大塚騎手と共に見違えるような活躍ぶりを見せることになる。

5月の4歳牝馬特別(東)。吉野師はこのレースをクリロータリーの復帰戦に設定した。メジロライアンの姉のメジロフルマーや、ダイナガリバーの妹のダイナシルエットなど成長途上の素質馬たちが顔を揃えたが、それらを問題にせず圧倒的な1番人気に推されたのはマックスビューティであった。桜花賞を8馬身差で大楽勝し、管理する伊藤雄二師曰く「2000mを経験させるため」中2週で東上しオークスTRを使ってきたのだ。先のシンウインドの記事でも軽く述べたが、この世代においてマックスビューティは中心であり、エリザベス女王杯で敗れるまではまさに絶対的な存在だった。過密ローテーションに若干不安があるとは言えど、この程度の相手に負けるわけが無い…そんな空気が場を支配する中で、当のクリロータリーは17頭立ての8番人気に過ぎなかった。

ところが、4番枠を利して果敢に逃げを打ったクリロータリーは淡々と平均ペースで駆け、直線半ばまで先頭を守り通した。もうすぐゴールというところで、ムチの入ったマックスビューティによって遂に交わされてしまったのだが、そのまま2番手でゴール板を越え3番手以下は3馬身半も離されていた。大健闘だった。このように2000mに距離を延ばして適性を示したクリロータリーは、以後ほぼ一貫して長めの距離を使われることになった。

そして彼女の類稀なる持久力の真骨頂が発揮されたのが、次走のオークスである。やはり内目の2番枠から飛び出し他の23頭を引き連れて大塚騎手と共に彼女は逃げると、重の馬場状態を考えれば決して遅くは無いペースで一人旅。やがて直線では外から差して来たマックスビューティに内外離れた勝負を挑み、最後は力の差を見せつけられたものの、3着のタレンティドガールをハナ差抑え込んで堂々銀メダルを手にした。"平均ペースの単騎逃げ×芝の長距離"という条件が揃えば、彼女はいつでもクオリティの高いパフォーマンスを見せることが出来たのだ。マックスビューティは強いが、夏に成長すれば秋には"究極美"に迫れるかも知れない…関係者がそんな青写真を頭に描いていても無理は感じない活躍ぶりであった。

しかし、6月の札幌日経賞(札幌ダート1800m)にてブービーに敗れたのを皮切りに、彼女は長いスランプに入り込んでしまう。飛躍が期待された秋も復帰緒戦のクイーンSをフレグモーネのため出走を取り消して、エリザベス女王杯も回避し11月12月にオープン特別を2戦したものの、共に馬券に絡めずに終わった。なお、主戦だった大塚騎手は同年は札幌日経賞以降乗っていない。古馬になってから数回乗ってはいるものの、勝負掛かりのレースでは郷原洋行騎手に乗り替わっている。大塚騎手がクリロータリーにあまり乗らなくなった直接的な理由は不明だが、同年の6月半ば~8月初めに掛けての大塚騎手の騎乗記録が無いことや(騎乗停止か何かだろうか)、同年に吉野厩舎所属からフリーに転向したことなどが関係しているのかも知れない(ただし、確証は無い)。ともかく、主戦騎手が大塚栄三郎騎手から吉野師の娘婿である「剛腕」郷原洋行騎手へと代わったクリロータリーだったが、体調を崩したことも影響しイマイチ波に乗れず涙を飲み続けた。ちなみに同年のエリザベス女王杯ではタレンティドガールがマックスビューティを制してタイトルを奪取し、兄ニッポーテイオーの面目を保っている。

翌1988年の金杯(東)でアイアンシローの12着に惨敗した後、クリロータリーは笹針を打たれて9か月の休養に出た。10月に復帰した後も適条件で逃げを打てれば善戦したが、なかなか勝ち星が挙げられない。だが、12月のオープン特別・ターコイズS(中山芝2000m)にて東信二騎手の手綱で逃げ切り勝ちを収めた辺りから風向きが変わり始めた。年が明けて1989年の金杯(東)3着、アメリカジョッキークラブC5着、そして中山牝馬S2着と、3重賞で続けて好走して見せたのだ。勝てないまでも好位からの競馬で好走を続けた彼女に、そろそろ重賞勝ちの夢を見ても良い頃ではあった。しかし、中山牝馬S以降は再び調子が落ちてしまい、2走して共に惨敗。この失態に吉野師は「動きがピリッとしない」と判断し、もう一度笹針を打ってクリロータリーを放牧に出した。

同年秋に厩舎へと戻って来たクリロータリーは、10月のGⅢ・牝馬東京タイムズ杯(東京芝1600m)を叩いて翌月のGⅡ・アルゼンチン共和国杯へと出走した。牝馬東京タイムズ杯では9着に終わったものの同重賞は明らかに距離不足で、休み明けだったの大きく影響した敗戦であった。吉野師曰く「あれ(牝馬東京タイムス杯)を使って気配そのものがガラッと変わった」と何とも自信あり気な様子。その上、有力馬と目されていたランニングフリーやキリパワー、ミスターブランディらが回避し他レースに回ったこともあり、この年のアルゼンチン共和国杯はGⅡにしてはかなり手薄なメンツとなった。12頭のメンバー中重賞勝ち馬は1頭もおらず、1番人気のチョウカイエクセル、2番人気のインターストレッチは共に重賞では2着すら無いという有様だ。一応、クリロータリーと同期の日本ダービー2着馬・サニースワローがいるにはいたのだが、同馬は前走でシンガリ負けを喫するなど近走不振で何と最低人気だった。

そんな中、オークス2着の勲章を引っ提げながらも6番人気に過ぎないクリロータリーがハナを切った。ハンデ53kgで紅一点の彼女は、鞍上の郷原騎手の手綱に応えやはり淡々と平均ペースの逃げを打つ。まさにかつてオークスTRやオークスでかました逃げのようなパターンである。3番人気のアキニシキが道中2番手から追い掛けたが、直線に入ったところで早々と脱落。代わって経済コースを周った人気薄のローランシンガーが差を詰めんと追ったものの、先頭を行くクリロータリーの脚色は全く衰えない。片や人気のチョウカイエクセルは伸びを欠き、恵量49kgのメジロバークレイに差し返されてしまった。結局、そのままの態勢でクリロータリーが先頭でゴールを駆け抜け、3馬身差の2着にはローランシンガーが入り連複(現在の枠連)は7750円の高配当を付けた。チョウカイエクセルは4着まで。勝ちタイムは2分33秒5であった。

当時すでに45歳のベテランだった郷原騎手は「今回はメンバーも手薄で、ハンデも53kg。しかも状態がかなり良かったんだから、条件が揃っていました。会心のレースです」と納得のコメントを発した。こうして6歳秋にしてようやく重賞タイトルを手にしたクリロータリーは、以後4戦したものの重賞勝ちで燃え尽きたか結果が出ず、1990年2月の中山牝馬Sにて10着に敗れたのが最後のレースとなった。それから間も無くして彼女は恩人の郷原騎手や競馬場に眠る兄に別れを告げ、故郷のユートピア牧場にて繁殖入りを果たした。「西は方角が悪い」と度々洩らしていたという吉野師の管理馬らしく、一度も関西圏に打って出ることは無かった。彼女が挙げた勝利は僅か3つだけだが、戦績の中身は比較的濃く、偉大なる3勝馬とも言えるだろう。

6歳で得たアルゼンチン共和国杯という重賞タイトルを大事に抱え、故郷へと帰ったクリロータリー。ユートピア牧場肝煎りの名血が後世に受け継がれることになったわけだが、周囲の期待に反し彼女の繁殖牝馬としての成績は一向に上がらなかった。代表産駒は中央で2勝を挙げたレッドハピネス(父リアルシャダイ)か、中央未勝利の後転出した公営北関東で13勝を挙げたクリシアター(父ジェネラス)だろうか。時は下って2004年にクリロータリーは死亡している。"競走馬のふるさと案内所"の彼女のページの没年月日の項にはただ"H16----"とだけあり、"ジャパン・スタッドブック・インターナショナル"には同年の10月30日に用途変更になった旨が記載されている。彼女は牝駒を2頭しか遺せず、1996年に産んだグロンナップガール(父グルームダンサー)が1頭で後を受け継いだが、グロンナップガールも1頭しか産駒を遺せずにクリロータリーの牝系はすでに絶えた。つまり、80年代以前のステイヤー型牝馬にありがちな末路を辿ってしまったということだ。

クリロータリー -KURI ROTARY-
牝 栗毛 1984年生 2004年死亡
父ディクタス 母クリコスモ 母父ダディダンフィ
競走成績:中央26戦3勝
主な勝ち鞍:アルゼンチン共和国杯

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