2014/11/03

【私撰名馬物語#43】モエレアドミラル

―"第二のコスモバルク"になれなかった男―


先週書いたのはスワンSにちなんだ1作のみと、ややスランプに陥っている感がある筆者。秋天ネタも水面下で練ってはいた。だが、結局レースに間に合わずお流れになるという失態を、実に2週連続でかましてしまったのはいただけない。ちなみに取り上げようとしていたのは1975年の勝ち馬であるフジノパーシアでした。39年前とかちょっと古すぎ?

さて、世間が秋天とJBCの余韻で温かな雰囲気となっている中、このブログではそれらをまとめてすっ飛ばして11月6日の交流GⅢ・北海道2歳優駿にちなんだ名馬を紹介させていただく。昨年には前身のブログである"おお、モンタヴァルの4×3ですね!"において1988年の勝ち馬のドクタースパートを取り上げているが、同馬を皐月賞の週では無くこの交流GⅢの週に取り上げたのは、言わば苦肉の策であった。というのも、今まで何度も白状しているように"モンタヴァル"時代の初期は実はほとんど紙媒体の資料を持ち合わせていない状態で書いていたため、必然的に書ける重賞ウイナーの幅がかなり狭かったのである。したがって、一昔前の地方競馬の活躍馬などは書ける状況に無かった。それに加えて、同馬の回を執筆した頃は扱うネタによってアクセス数が大きく変動するスポーツナビ+にてブログを運営していたので、アクセス数稼ぎのために有名な馬を優先して取り上げる傾向があった。地味馬天国の現状からは信じられないかも知れないが、かつてはファインモーションやキングヘイローのようなミーハー人気に支えられた馬たちを取り上げているのだ。今や懐かしさすら覚える裏事情と言えよう。

昔話(?)はこの辺にしておこう。では、本作の主人公をいよいよ発表したいと思う(タイトルで丸わかりだろうが)。 モエレアドミラル。この2004年の北海道2歳優駿の覇者が主人公である。

今や中央でもお馴染みとなったホッカイドウ競馬のモエレ軍団。彼らの活躍の歴史はそれほど長くは無く、2003年の札幌2歳Sを10番人気で逃げ切ったモエレエスポワールによって初めて全国の競馬ファンに認知されたと言えるだろう。同年はホッカイドウ競馬において認定厩舎制度が初めて施行された年でもある。この"生まれ変わったホッカイドウ競馬"の躍進をまざまざと世間に示したのは、幾分展開や馬場に恵まれた感があったモエレエスポワールの快挙よりも、それに遅れること3か月でラジオたんぱ杯2歳Sを制し頭角を現したコスモバルクの方であろうが、以後もモエレ軍団は地方競馬だけで無く中央競馬でも目を引く活躍ぶりを見せ続けた。浦和記念勝ちのモエレトレジャー、函館2歳Sを制したモエレジーニアス、兵庫ジュニアグランプリの覇者・モエレソーブラッズ、道営記念馬・モエレビクトリー…活躍馬の名を挙げればキリが無い。血統が良かろうが悪かろうが活躍馬が泉のように湧き出すモエレ軍団は、北の強豪集団として競馬史にしっかりと名を残したのである。

そんな骨のあるモエレ軍団の中でも、2002年生まれのモエレアドミラルはとびっきりの良血馬と言えた。父ブライアンズタイム、母バウンドトゥダンス、そして母父ノーザンダンサーという血統にどこか見覚えのある競馬ファンは決して少なくあるまい。まさしく2000年のオークス馬・シルクプリマドンナと同じ血統である。この早田牧場生まれの栗毛の良血馬はセレクトセールにて当歳時に6300万円(税込)の高値が付けられ、"モエレ"の中村和夫氏の持ち馬となった。そして2歳(新馬齢表記)になるとホッカイドウ競馬の名伯楽として知られる堂山芳則調教師の下へ預けられ、デビューの日を今や遅しと待った。

月日は経過し2004年7月。旭川競馬場で行われたJRA認定競走(ダート1500m)に齊藤正弘騎手とのコンビで出走する予定だったが、返し馬で後肢に故障を発症し競走除外となった。実質のデビュー戦は8月末の同条件の認定競走となり、道営リーディングの経験もある千葉津代士騎手が跨って単勝オッズ1.1倍の圧倒的支持に応え5馬身差で圧勝。初陣を見事な形で飾った。2戦目は1000mのオープン戦と条件は一変したが、クラファストレディ以下を問題にせず完勝している。

デビュー3戦目には地方重賞(H3)のサンライズC(門別ダート1700m)が選ばれた。同重賞では前走から700mの距離延長もものともせず、直線では若さを覗かせながらも2着のルパンを5馬身ちぎり捨てて快勝。一介の道営馬とはモノが違うところを見せつけて初重賞制覇を果たした。このレースを制した辺りから中央競馬のファンの間でも「ホッカイドウ競馬でシルクプリマドンナの全弟がデビューから圧勝を続けている」と噂になり始めた記憶がある。当時は彼の馬主についてよく知らなかったので、「何故こんな良血馬が道営でデビューしたんだ?ワケアリなんじゃないか?」と素朴な疑問を覚えたものだ。

それはさて置いて、全く条件の異なる3戦をいずれも強い内容で勝って見せたモエレアドミラルは、自らの名声を全国へと轟かせるべく同年11月の交流GⅢ・北海道2歳優駿(門別ダート1800m)へと登録した。道営勢はエーデルワイス賞3着の小柄な牝馬・ヨウヨウがいる程度で、JRA勢もサンデーサイレンス産駒なのが取り柄の1勝馬・ニシノアレックスが大将格と、かなりメンツは弱かった。すでに同厩&同馬主のSS産駒・モエレフェニックスが中央のクローバー賞を勝ち全国区となっており、同じく良血のモエレアドミラルは何としても同馬に続かねばならない。また、やはり堂山&千葉のコンビが送り出し、前年の同重賞で1番人気に推されながら4着に敗れたモエレエスポワールのリベンジという意味合いもあった。

8枠10番を引いたモエレアドミラルの単勝オッズはレース10分前まで1.0倍の元返しだったが、直前で反発し結局1.2倍に落ち着いた。内から中央のゴールドサンセットがハナを切り、道営のエイティサンディや中央のベルモントタイタンがそれを追い掛ける展開。当の大本命のモエレアドミラルは6番手で落ち着いて外を周った。彼の鞍上の千葉騎手は馬の行く気に任せて3コーナーで仕掛け、4コーナーでは抜群の手応えで先頭に並び掛ける。やがて直線で先頭に立つと、内から道中後方に待機していたニシノアレックスが伸びて来たが、全く寄せ付けること無く4馬身差をキープしそのままゴールイン。交流GⅢ制覇を何とも呆気ない形で飾ったのであった。ウイニングランでは場内から勝者に惜しみない拍手と歓声が送られた。

レース後、堂山師は「道中は余裕を持って見ていられました」と当然の結果であるかのようにコメントしたが、千葉騎手は「勝ててホッとしました」と今年は1番人気に応えることが出来て安心した様子。ここまで4戦で2着馬につけた着差は合計17馬身。某競馬誌においては「北の怪物」と称されたほどで、ホッカイドウ競馬を背負って立つ存在として、前年に飛び出したコスモバルクの実質的な後継者たる活躍が大いに期待された。

だが、実はもうこの時点でモエレアドミラルは中央競馬の小島太厩舎への移籍が決まっていたのだ。それを証明するかのように北海道2歳優駿が終わった後、件の小島師が門別競馬場に姿を見せた。堂山師とガッチリと握手をした小島師は、「芝向きの綺麗な走りをする馬。これからもっと良くなるだろうし、絶対クラシックに乗せないとな」とモエレアドミラルを称賛しつつ今後の抱負を語った。こうして順風満帆に華の中央競馬へと船を漕ぎ出したモエレアドミラルだったが、思わぬ落とし穴が手ぐすねを引いて待ち構えていようとは…。

中央緒戦は翌2005年1月のGⅢ・京成杯だった。すでに中央競馬でも大器との評判が高かったモエレアドミラルは、不良馬場で行われた同重賞において堂々の2番人気の支持を得ていた。鞍上はフランスから短期免許で来日していたダヴィ・ボニヤ騎手であった。モエレアドミラルと僅差の1番人気に推されたのは、幼少期に早田牧場にて同じ釜の飯を食べた超良血SS産駒のアドマイヤジャパンだ。相手が幼馴染みの超良血馬とは言えど、キャリアが僅か2戦の甘ちゃんに重賞ウイナーたる者、負けるわけにはいかない。芝を走った経験が無いため、重い時計の掛かる馬場はモエレアドミラルにとってかえって好材料なように思えたし、ボニヤ騎手だって並の日本人騎手よりは上手いだろう。2000mという距離もオークス馬を全姉に持つ血統を考えれば問題は無いはず…このように考えるのも、その当時我々がマスコミによって与えられていた情報からすれば無理は無いことである。もっとも、後々の彼の戦績を振り返れば噴飯ものの愚考と思わずにはいられないが、それは結果論というものであろう。

確かに4コーナーまで、もっと言えば直線半ばまでは良い勝負をしていたのだ。道中は3番手辺りで悠然と構え、コーナーではかなり良い手応えで外目を周った。ところが、中山の急坂を登ろうとした辺りで彼は途端に失速し、アドマイヤジャパンやシックスセンスをはじめとした差し馬たちに並ぶ間も無く追い抜かれていった。10頭立ての7着。初の敗戦は完敗であった。

京成杯で初めて土が付き、クラシックへ向けて距離適性や芝適性に疑問符が付いたモエレアドミラル。とは言えまだまだ巻き返しの目はあったはずだった。ところが、血統の外貌と比べて思いの外乏しかったスタミナと芝適性、そしてホッカイドウ競馬時代に一部で指摘されていた「後肢に疲労が残りやすく、仕上げが難しいタイプ」という弱点が彼の出世を阻んだ。京成杯の後はスプリングSに出走する予定だったのだが、筋肉痛が出てしまったためやむなく回避。それでも陣営は日本ダービーへの出走を諦めず、5月のプリンシパルSに彼を登録した。しかし結果はシンガリと散々なもので、収得賞金も足りず彼は残念ながらダービー出走を断念せざるを得なかった。

3歳時の彼はプリンシパルS以降6戦したが、ダートのマリーンSで4着に入ったのが最高着順と、当初の期待を完全に裏切る形となった。古馬になるとほぼダート短距離専業となり、2006年10月に1000万下条件戦で1勝、2007年12月に準オープンのアクアラインS(中山ダート1200m)を外枠を利して制すなど、一応の結果は残した。だが、やはり体質的な問題もあってか使い込めず、レースに使って強くなる傾向があるブライアンズタイム産駒の彼にとってはそれが致命傷となった。やがて2008年3月にとうとう中央競馬の登録を抹消された彼は、古巣のホッカイドウ競馬の堂山厩舎へと転厩していった。結局、彼は郷土の偉大な先輩であるコスモバルクの足下にも及ばない戦績しか残せなかったわけだ。

道営再転厩後の彼の動向については残念ながら詳しく分からない。上山競馬出身の小国博行騎手が跨り、2008年から2009年に掛けて2戦し1勝2着1回の成績が残されているのみである。この2戦で戦った相手や走破タイムを鑑みるに、当地の重賞で好勝負になるだけの能力はまだまだ保持していたものと思われるが、無論レースに使えなければ意味の無いことだ。2009年7月に1戦した後は音沙汰が無いまま、彼の地方競馬での登録は2011年4月に抹消されている。引退後の動向は不明である。種牡馬入りさえしていれば、同じく中村畜産が関わったゴールドヘイローのように活躍馬を出す可能性は十分にあったように思えるのだが、そこら辺がSSとBTの威光の差か。

モエレアドミラル -MOERE ADMIRAL-
牡 栗毛 2002年生 没年不詳
父ブライアンズタイム 母バウンドトゥダンス 母父Northern Dancer
競走成績:地方6戦5勝 中央22戦2勝
主な勝ち鞍:北海道2歳優駿

0 件のコメント: