2014/11/19

【私撰名馬物語#46】パッシングショット

―善戦止まりのオールドミスが淀で放ったミラクルショット―


パッシングショットは不憫な馬だ。競馬ブームの真っ只中にGⅠを奪取した強豪でありながらも、彼女の功績が顧みられる機会は今となってはほとんど無いと言っても過言では無い。短い生涯の中で彼女が最も輝いた舞台として知られる1990年のマイルチャンピオンシップは、一見どころか百見の価値があるレースだと個人的には思っているのだけれど、前年のオグリキャップVSバンブーメモリーの「負けられない南井克巳!譲れない武豊!」で有名な大接戦と比較するとどうにも地味な感は否めないし、物語性という点から見ればやはり霞んでしまう。同父で2歳下のダイイチルビーのような恋物語も身に纏わず、ダイイチルビーの相手役と目され翌年からマイルチャンピオンシップを2連覇したダイタクヘリオスほどの滅茶苦茶且つ不可解な破天荒さも持ち合わせていない。最後のスプリンターズSでの大出遅れからの巻き返しは確かに破天荒かも知れないが、結局は掲示板にも載れなかったし観賞後に爽快感を得られる走りとは言えない。そして引退後の早逝とそれを巡る誤謬。これらを憐れと呼ばずして何を憐れむのか。本当に不憫な馬である。

以前、と言うか昨年のマイルチャンピオンシップに際して、私はちょこっとだけパッシングショットの記事を前身のブログで書いた。所有している資料の少ない当時としてはそれなりに健闘したつもりだった。けれども、今記憶を辿りながら書いた内容を思い出してみると、「理解した気になってる感」の強い、何とも稚拙な駄文だったという後悔の念が胸に去来してならないのだ。そこで、今回は去年のリベンジのつもりで彼女の一生を拙筆にてなぞり、再び記事として形にすることにした。相変わらずあまり進歩の無い筆者だが、閲覧者の皆さんの心を動かすような文章が書ければ良いなぁ…とぼんやりと思っている。そして何よりも、今は亡き名牝・パッシングショットの魅力を皆さんにお伝えすることが出来れば、筆者としてこれ以上の幸福は無い。では、粛々と書き始めるとしよう。

1985年生まれの競走馬の代表格と言えばオグリキャップだが、この世代は種牡馬・トウショウボーイの当たり年でもあった。桜花賞馬のアラホウトク、ヤエノムテキの同朋で神戸新聞杯を制したヤエノダイヤ、カブトヤマ記念勝ちなど長らく重賞路線で活躍したモガミチャンピオンなど、1985年に誕生したトウショウボーイ産駒は中央重賞を実に8勝している。そしてパッシングショットはその黄金世代の稼ぎ頭である。4月26日に浦河小林牧場で誕生した彼女の母は名種牡馬として知られたネヴァービートの娘のタカヨシピット。タカヨシピットは繁殖牝馬として当時すでに実績があり、1979年に産んだスナークアロー(父アローエクスプレス)は小倉大賞典や小倉記念を制した小倉巧者であった。その後も仔出し良く毎年のように産駒を産んだが、娘のパッシングショットが活躍中の1990年の春に死亡している。

「トウショウボーイの仔ですから、もちろん生まれる前から期待してました。父によく似た体つきで、 上品な感じの馬でしたね」とは浦河小林牧場の小林孝範場長の弁。長じて栗東の橋田満厩舎に所属したパッシングショットは、気性のうるささや父の産駒にありがちな腰の甘さを抱えながらも周囲の期待を集めていた。デビュー戦は1987年11月の中京競馬場の3歳(旧馬齢表記)新馬戦(ダート1000m)だった。初陣では南井克巳騎手が跨り2番人気の支持を集めたが、逃げを打ちながらも踏ん張りが利かず2着に惜敗。初勝利は折り返しの新馬戦(芝1200m)で挙げており、鞍上は橋田厩舎ゆかりのジョッキーである当時40歳の楠孝志騎手であった。

早々と勝利を挙げ、いざ牝馬クラシック戦線に乗らん!と陣営はパッシングショットを2月の条件戦に登録した。3戦目は再びダート戦だったが、特に見所の無い5着に敗れた。後に橋田師は「この馬、ダートはからっきし下手」と述べており、距離も千八と彼女にとっては若干長かったのだろう。続く3月の初雛賞(阪神芝1600m)では勝ったアラホウトクと1馬身差の2着に入ったが、間も無く橈骨に不安が出たため約6ケ月の休養に出た。 ちなみに、同年の桜花賞は前述の通りアラホウトクが勝ち、父トウショウボーイに初の牝馬クラシックのタイトルを献上することに成功している。

同年9月に復帰した後、パッシングショットは函館で2戦したが共に2着に敗れた。このようにどうにも遠かった2勝目は、11月初めの逢坂山特別(京都芝1600m)にてようやく挙げることが出来た。逢坂山特別における先行して2着馬を7馬身ぶっちぎった内容に期待してのものなのか、陣営は連闘で次週のエリザベス女王杯(当時は4歳牝馬限定の芝2400mのGⅠ)に彼女を登録している。シヨノロマンやアラホウトクといった桜花賞組が人気を集める中、松本達也騎手を鞍上に据えたパッシングショットは2勝馬の身ながらもダークホースとして期待を集め、18頭立ての7番人気に推された。しかし、千八までしか距離実績の無い2勝馬が勝てるほどエリザベス女王杯は甘くなく、道中好位から競馬を進めるも直線で失速しミヤマポピーの9着に終わっている。

初めてのGⅠでは勝負にならなかったものの周囲の期待は依然高く、12月のゴールデンサドルTで難無く3勝目を挙げると翌年の1月には再び重賞に格上挑戦。それがGⅢの京都牝馬特別(京都芝1600m)であった。同重賞では逃げたリキアイノーザンを捕まえ切れずにクビ差の2着に屈したが、自身の実力を見せつけると共に収得賞金の追加が叶い、何とも有意義な結果となった。ところが、ここから彼女の重賞惜敗街道が始まった。続くマイラーズCでも2着に終わり、4月の京王杯スプリングCでは立ち遅れ気味のスタートから猛然と巻き返したものの3着まで。勝ったリンドホシとの差は1馬身半も無かったが、彼女はどうにも要領が悪い。次走の安田記念ではスタートを決めたが前半折り合いを欠いてしまい、直線で伸びずに10番人気のバンブーメモリーの大駆けの前に成す術無く6着に敗退。1989年春の短距離路線において常に一定の存在感を示しながらも、もう一押しが利かずに彼女は涙を飲み続けた。

もしかすると、パッシングショットの惜敗癖は母のタカヨシピットに起因していたのかも知れない。現役時代のタカヨシピットは31戦して1勝しただけの下級馬だったが、2着が通算で14回あり1976年の1年間だけで11回(当時の中央競馬記録)を数え、加えて9戦連続2着の記録を持つなどとにかく詰めが甘かった。小林場長は「4歳の時は父親に似ていたが、古馬になって母親に似てきた」と語っているが、まさかレースぶりまで似てくるとは。また、成長するにつれて徐々にスタート難が顔を覗かせ始めたのも出世の遅れに拍車を掛けた。恐らくは腰の甘さが原因なのだろうが、1989年暮れの阪神牝馬特別(阪神芝2000m)における大出遅れなどはその悪癖の権化と言えよう。

時代は下って1990年。この年の春も相変わらずパッシングショットは惜敗を続けていた。そして惜敗癖はさらに深刻化し、オープン特別はおろか準オープン戦ですら負けるようになった。前年の雪辱を誓い出走した京都牝馬特別ではまたスタートで立ち遅れ、直線で楠騎手が馬群を捌いて猛然と追ったものの4着に敗退。その次走の準オープン戦・ポートアイランドSでは同い年のヤグラステラ(45話参照)の3着に完敗した。重賞だろうが特別だろうが彼女の惜敗っぷりは変化が無く、スタートは悪くなかった6月のGⅢ・阪急杯でも直線で結局伸びを欠き5着に終わっている。要するに、先行しようが追い込もうが2着が関の山といったところで、南井騎手を乗せようが楠騎手を乗せようが誰を乗せようがまるで走りに変化が見られなかった。

そんな彼女が遂に初重賞を得た舞台が、6月24日のGⅡ・CBC賞だった。京都牝馬特別以来に楠騎手とよりが戻り、スタートも普通に出た6番人気の彼女は道中はホリノライデンの逃げを追い掛ける形。やがて3コーナーに入るとすぐ後ろにいたバンブーメモリーよりもワンテンポ早めにスパートを掛け、直線で外へと持ち出した。前半3ハロンが33秒3という厳しい流れも味方につけ、前崩れの展開を利してパッシングショットが伸びる。さらに外からバンブーメモリーが突っ込んで来たものの届きそうで届かない。結果は3/4馬身差でパッシングショットに軍配が上がり、約1年半ぶりの勝利で惜敗街道にピリオドを打ったのであった。

楠騎手は1980年の函館3歳Sを11番人気のシンピローで勝って以来10年ぶりの重賞制覇。 「よく指摘される通り終いの甘い馬ですから、勝てる自信はあまりなかったです」と謙遜しつつ、「今回のレースは私にとってもパッシングショットにとっても会心の勝利と言えるでしょう」と年季の入った顔をほころばせた。強敵を向こうに回して重賞を手にしたパッシングショットが秋に目指すべき目標は、まさしく11月のマイルチャンピオンシップであり、そして暮れのスプリンターズSであった。

続くGⅡの高松宮杯(中京芝2000m)は距離が厳しかったかバンブーメモリーの10着に終わり、彼女の1990年上半期のシーズンは惨敗で幕を閉じた。秋は10月のスワンSから始動し、逃げを打ったナルシスノワールを追い詰めたものの二の脚を使われて結局届かず2着に惜敗。元の悪い流れが戻って来たことを匂わせる結果となってしまった。

また惜敗からのスタートとなったものの、当時のパッシングショットの状態はかつて無く良くなっていた。持病の橈骨の不安も消え、甘かった腰にも力強さが出てきたのだ。橋田調教師もマイルチャンピオンシップを前に「CBC賞の時のデキは80%程度だったが、今のデキは春先と全く違う」と自信を見せ、楠騎手も「バンブーメモリー以外の馬となら五分以上にやれる」と控えめながらも初GⅠタイトルへ向けてボルテージを上げていた。確かに、昨年の準優勝馬で前走の天皇賞(秋)で3着に入っていたバンブーメモリーは強い。マイル戦におけるその強さは盤石に近いものがある。しかし、実際にパッシングショットはCBC賞にてバンブーメモリーを下した経験があった。もう2着はいらない。欲しいのは1着だけだ。

1990年のマイルチャンピオンシップ。レース前の人気は単枠指定のバンブーメモリーが単勝オッズ1.6倍とやはり抜けていた。パドックでも同馬は大柄な馬体を存分に光り輝かせている。その鞍上には若き天才・武豊騎手。一方、中堅以下の実績しか持ち合わせていない楠孝志騎手が跨るパッシングショットは、22.7倍の10番人気とその他大勢の1頭としての評価しかもらえない始末。大体、2番人気のルイテイトにしても10.4倍なのだから2番手以下は混戦だったのだが、それにしても人気が無い。だが、それは裏返せば気楽に乗れるということだ。もしかしたら、6歳牝馬による大振りのラッキーパンチならぬラッキーショットが炸裂するかも知れない…そのくらいの評価だった。

まずスタートで異変は起きた。最低人気のダンシングサムと一緒に、4枠7番のパッシングショットが大きく立ち遅れたのだ。常識的に考えてこの出遅れは短距離GⅠでは致命的である。それらを尻目に逃げたのはやはり快速・ナルシスノワール。それを8歳牡馬のミスティックスターやホリノウイナーらが追い掛けた。先団には他にルイテイトやヒカルダンサーなどがおり、バンブーメモリーはそれらを悠然と眺めながら道中は中団の最内でジッとしていた。幾分引っ掛かり気味ではあるが、それはいつものことで大きな問題では無さそうだ。

1ハロン当たり11秒台が続くラップは決して遅くは無いが極端に速いわけでも無い。そんな流れの中に身を置く楠騎手はすでに腹を括っていた。「前半に楽をさせて、最後の直線だけに賭けよう」彼のこの作戦は戦前から手札の内の一枚として秘めていたものだが、大きく出遅れたがために逆転の一手としてその身を預けざるを得なくなったというわけだ。道中16番手、それがパッシングショットの位置取りだった。

馬群は淀の坂を登って下り、3コーナーで先頭を行くナルシスノワールに外からホリノウイナーやエイシンウイザードらが競り掛ける。途端に手応えが苦しくなるナルシスノワールにスワンSのような脚は残っていない。バンブーメモリーも徐々に馬込みの中から上がってくる。一方、パッシングショットと楠騎手は大外へ持ち出した。そして直線。ナルシスノワールが案の定沈んでいき、外のホリノウイナーと内のラッキーゲランが頑張る。それらを一気に交わさんと馬群を捌くバンブーメモリーと武騎手。バンブーメモリーが先頭に手を届かせようとした刹那、大外からこげ茶色のメンコを着けたパッシングショットが内に切れ込みながらぶっ飛んできた。圧倒的人気馬の窮地と伏兵の激走に沸く観客。当時としては驚きの上がり34秒フラットの脚を使い先頭に立つパッシングショット。バンブーメモリーも必死に抵抗するが及ばず、10番人気の6歳牝馬に凱歌が上がった。3着には道中はパッシングショットよりもさらに後ろにいたサマンサトウショウが突っ込んだ。

橋田師は開業6年目で初のビッグタイトルとなり、楠騎手は苦節22年目の大殊勲を所属厩舎の馬で飾った。レース後、楠騎手はまず「ケガの功名だね」と冷静に勝利の秘訣を語り、「初のGⅠ勝ちですか?長い間乗り役をやってるし、実感が湧くまでその分長く掛かると思いますよ(笑)」と冗談めかしたコメントを発した。片やバンブーメモリーの武騎手は「チャンスだっただけに悔しい」と無念さをにじませた様子。勝ちタイムは1分33秒6とコースレコードとコンマ1秒差で、マイルチャンピオンシップのレースレコードであった。まさに、晴れの舞台でオールドミスのミラクルショットが決まったというわけだ。

実は、このマイルチャンピオンシップの日は橋田満師の父である橋田俊三元調教師(競馬小説「走れドトウ」の作者としても知られる)が12年前に交通事故に遭った日で、同氏は事故の6日後に他界していた。後日、この事実について問われた橋田満師は「忘れていました」と笑ったというが、調教に打ち込み過ぎて本当に忘れていたのかも知れないし、そんなことは無くて亡き父への思いを胸に抱きながらパッシングショットを仕上げていたのかも知れない。真相は24年を経た今となっては藪の中である。

CBC賞を勝った頃からパッシングショットは年内での引退が決まっており、次走のスプリンターズSが予定通りラストランとなった。ところが、このGⅠで彼女はある意味「らしい」最後っ屁をかますことになる。1番人気のバンブーメモリーと共に単枠指定の座に就き、僅差の2番人気に推された彼女だが、どうしたことかゲートの中で暴れて楠騎手を振り落してしまったのだ。幸い楠騎手にケガは無く、間も無くレースはスタートしたものの、精神的なバランスを欠いていたパッシングショットはやはり大きく出遅れてしまった。その出遅れさたるや前走の比では無いレベルで、とても勝負になりそうにないほどに道中で馬群に置いて行かれる始末。結局このレースではバンブーメモリーが人気に応えGⅠ2勝目を飾ってみせた。パッシングショットは届かず8着に終わったが、最後の直線での追い込みの脚は凄まじく、上がり3ハロン33秒6という脅威的な数字を記録している。

スプリンターズSでのスーパーボーンヘッドをファンへの置き土産として、パッシングショットは翌1991年の春から生誕の地である浦河小林牧場にて繁殖生活を始めた。初年度のお相手には1987年のマイルチャンピオンシップなどを制したニッポーテイオーが選ばれていた。言うなれば、マイル王とマイル女王の夢の配合である。誕生すれば注目を集めることはほぼ間違いなかった。

しかし…この年の5月14日、パッシングショットは種付けの準備中に転倒し頭蓋骨を骨折。これが原因であえなく彼女はこの世を去ってしまうのであった。享年7。この事故は「優駿」の1991年7月号にて伝えられている。彼女の死亡年月日については翌1992年5月14日とする文献も数多く見受けられ、「サラブレッド101頭の死に方」でも1992年説が採られているのだが、それより先の1991年に「優駿」が一報を伝えているので1991年の5月14日に死亡したということでまず間違いはないだろう。このように、GⅠ馬なのに死亡年月日すら公に間違えられているパッシングショットは、やはり文句無しに不憫な名牝と言えよう。今年のマイルチャンピオンシップに際し、24年前にマイルチャンプとなった彼女の姿を思い起こすファンは、果たしてどれだけいるものだろうか?

パッシングショット -PASSING SHOT-
牝 鹿毛 1985年生 1991年死亡
父トウショウボーイ 母タカヨシピット 母父ネヴァービート
競走成績:中央27戦5勝
主な勝ち鞍:マイルチャンピオンシップ CBC賞

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