2014/11/15

【私撰名馬物語#45】ヤグラステラ

―福島の大御所に痛烈なはなむけを贈った"演歌系の女王"―


今週の日曜日にはGⅠのエリザベス女王杯が開催される。でも、この第45回で題材とするのは裏開催の福島記念である。この選択に深い理由は無い。もしエリザベス女王杯をネタにするなら、1983年のロンググレイスを扱おうかな、と以前から漠然と考えてはいたのだが、結局残念ながら来年に持ち越しとなったわけだ。あえて福島記念を扱った理由を述べれば、「たまたま書きやすそうな馬が見つかったから」ということになる。最近なかなか更新意欲が湧かない筆者が「書きやすそうな馬」と称す競走馬…彼女こそが今回の主人公、1991年の福島記念の覇者・ヤグラステラ、その馬である。

ヤグラステラは1985年生まれの鹿毛の牝馬で、その父はモンテプリンス&モンテファスト兄弟やウィナーズサークル&アイネスフウジンの両ダービー馬を生み出した名種牡馬・シーホークである。シーホークは1963年生まれなので、このヤグラステラは父が23歳(旧馬齢表記)の時に生まれた産駒ということになる。母のヤグララナーはサラ系の中央未勝利馬。牝祖は二冠馬のヒカルイマイなどの祖としても著名な"サラ系界のゴッドマザー"ことミラであり、近親には1967年の桜花賞馬・シーエースなどがいる。また、ヤグララナーは1990年にドラゴンルーブル(父ラシアンルーブル)という牝駒を産んでおり、同馬は中央5勝の活躍を見せ1993年のオークスにも出走している(10着)。母父のラナークはグレイソヴリン直仔の輸入種牡馬。

ヤグラステラを生産した浦河の細道牧場は、シンザンの好敵手として知られたウメノチカラの故郷でもある。歴史ある同牧場にて元気良く産声を上げた彼女の出生に関してはこんな逸話が存在する。

彼女の母のヤグララナーの馬主である矢倉敏夫氏はどうしても白馬が欲しくなった。そこで、「父ラナーク譲りの芦毛のヤグララナーにさらに芦毛の種牡馬を掛け合わせれば、当然芦毛馬が産まれるだろう」という目算から、1984年当時の芦毛の種牡馬の中で最も著名だったシーホークを種付けすることにした。ところが、翌年3月に誕生した仔は何と鹿毛馬であった。これには関係者も訝しがったことだろうが、ともかくこの褐色でサラ系の"みにくいアヒルの子"は矢倉氏がそのまま所有し、遡ること1784年に英オークスを制したステラという牝馬にあやかって"ヤグラステラ"と名付けられた。

このように、出生時には"招かれざる客"であったヤグラステラだが、成長すると立派な馬格を誇るようになった。彼女の馬体の出来の良さは、細道牧場の細道富克牧場長が2歳の彼女を農業青年クラブの品評会に出すほどであったという。しかし、サラ系で母が未勝利馬という血統背景が影響したのか、品評会では賞に迫ることも無くあえなく落選。この結果に「やっぱりこの馬はこんなもんかなあ」と落胆した細道氏は、さらに大きくなったヤグラステラが牧場を出る際にも特に期待を懸けなかった。だが、後にこのヤグラステラの活躍のおかげで高級な種牡馬を付けられるようになったそうで、細道氏は「この世界はホントわかりません」と明るく振り返っている。

やがて母と同じく栗東の中尾謙太郎厩舎に所属したヤグラステラは、1987年12月の阪神開催の3歳新馬戦(芝1400m)に出走。同レースでは4番人気ながら、鞍上の河内洋騎手に導かれて2着に2馬身半差つけ、無事初陣を飾っている。この結果を受け「資質馬だと感じた」という中尾師は、年が明けてから彼女をいきなりオープン特別の紅梅賞(芝1400m)に登録した。しかし、紅梅賞では特に見るべきところも無く9着に敗退。このレースの後に後脚を痛めたため、彼女は笹針を打たれて放牧に出された。

後に中尾師は4歳時のヤグラステラについてこう述懐している。「今から思えば、エンジンはいいのに部品が弱かったというところでしょうかね」若き日のヤグラステラは骨組みの弱さや気難しさを抱えながらも、レースでは全身全霊を懸けて一生懸命走ったというが、反面それが仇となって疲れが溜まりやすかったのだという。同期のアラホウトクやシヨノロマンらが4歳春に華やかな活躍を見せる中、ヤグラステラはじっくりと機を待ち大事に使われた。結局桜花賞は棒に振り、オークス直前の5月初めに何とか復帰が叶ったものの条件戦で3着と星を落とし、2勝目はオークスから1週後の阪神競馬場で挙げている。このように出世は少々遅れたが、彼女の素質の高さは侮れ無いものがあった。続く7月のひめゆり賞(中京芝2000m)では当時評判の高馬だったチュニカオーや、後に重賞路線で大活躍するサマンサトウショウらを完封し3勝目を挙げた。血統面から見れば、秋の大一番であるエリザベス女王杯(当時は京都芝2400mの4歳牝馬限定GⅠだった)はまさしく彼女の輝ける舞台と言えたし、栄冠に肉薄するだけの資質は十分に秘めていたのだ。

ここで1988年当時の秋の4歳牝馬限定重賞の流れを整理してみよう。大目標のエリザベス女王杯は11月13日に京都で開催される。その前の10月23日にトライアルレースのGⅡ・ローズSが京都芝2000mの条件で施行されるのだが、当時はさらにそのローズSのステップレースと言えるGⅢ競走が存在した。共に10月2日に施行されるクイーンSとサファイヤSがそれだ。クイーンSは例年は中山芝2000mという条件だが、この年に限り新潟競馬場で行われ、春二冠で3着&4着と結果を残していたフリートークが勝ち名乗りを挙げていた。片や西のステップレースであるサファイヤSは阪神芝1600mで行われ、1番人気には武豊騎手が鞍上の素質馬・マチカネイトハンが、そして2番人気には河内洋騎手が跨るヤグラステラが推された。13頭立てのこの重賞にはオークス2着のマルシゲアトラスや、後にGⅢを勝ちまくるリキアイノーザン、翌1989年にJRA賞最優秀古牝馬に輝くルイジアナピットなどが名を連ねていた。施行当時はそこまで評価されていなかったようだが、今振り返ってみるとなかなかの好メンバーである。

レースはブービー人気のクインモーニングが外からハナを切って幕を開けた。リキアイノーザンやスルーオベストなど先行馬が揃ったにも関わらず、それぞれが牽制し合いペースは意外にも落ち着いた。そんな中、当のヤグラステラは逃げるクインモーニングのすぐ後ろにつけることが出来た。この位置取りについて手綱を取った河内洋騎手は「無理に行かなかったけど、どの馬も来ないし、自然に2番手の展開になってしまった」とレース後に語っている。前を行く2頭が楽をする反面、3番手以下は目まぐるしく入れ替わり、その影響か人気のマチカネイトハンは4コーナーで一杯になってしまう。直線に至っても前の態勢はなかなか変わらず、ゴール前でヤグラステラがクインモーニングを外から交わして勝負あり。結局、前残りの単調な競馬となった。マチカネイトハンは7着敗退。

こうしてデビュー6戦目にして重賞獲りが叶った。レース後、中尾師はエリザベス女王杯への挑戦を明言したが、好事魔多し。間も無く骨折が判明し、充実の秋を休養に充てざるを得なくなってしまった。なお、同日のクイーンSを制したフリートークもレース後骨折が判り、オークス馬のコスモドリームも京都大賞典で2着に入った後骨折と、有力馬に故障が相次いだため、エリザベス女王杯のメンバーはやや寂しいものとなった。肝心の結果はと言うと、桜花賞準優勝馬のシヨノロマンとローズS4着で権利を取ったミヤマポピー(タマモクロスの半妹)が一騎打ちを演じ、後者の手綱を取った松田幸春騎手がハナ差で11年ぶりにGⅠ級レースを獲得している。離れた3着にはマチカネイトハンが入り(レース後故障のため予後不良に)、桜花賞馬のアラホウトクは力及ばず4着に終わった。

折り合い面に進境を見せ、成長著しかった矢先の骨折は当事者のヤグラステラにとって、そして関係者にとっても痛すぎた。幸い重度の骨折では無かったのだが、復帰はフレグモーネの発症もあってやや遅れて、仕切り直しの1戦は翌1989年3月のコーラルS(阪神芝1400m)となった。結局このレースは4着に終わり、以後も体の成長を待ち無理に使われず、5勝目はさらに翌年の2月の準オープン戦・ポートアイランドS(阪神芝1600m)にて挙げている。

5歳、6歳と地元関西のオープン特別を中心に休み休み使われ、GⅢ馬ながらも中間ぐらいの着順が続いていたヤグラステラが、ようやく使い込めるようになったのは7歳になってからだった。イレ込む気性は相変わらずだったが、それ故に滞在競馬が続く北海道シリーズではしっかりと結果を残した。1991年の夏は札幌で4戦、続いて函館で3戦。オープン特別の道新杯(札幌芝1800m)を制し、GⅢの函館記念では3着に入って3年前のサファイヤS以来久々に重賞で馬券に絡んだ。やがて迎えた秋は福島に飛び、当時7年目の田島裕和騎手を乗せ福島民友C(芝1800m)での2着をステップにして、GⅢ・福島記念に挑んだ。

この福島記念で1番人気に推されていたのは、中山記念など重賞3勝を誇る逃げ馬のユキノサンライズであった。もちろん、彼女自身の実績も評価されての人気だったのだが、同馬を取り巻く人的要素も高評価に拍車を掛けていたことは否めない。福島記念に先んじること数日、鞍上の増沢末夫騎手が翌年春に調教師に転身するとの発表があったのだ。増沢騎手と言えば一にハイセイコー、二に福島競馬場である。長年福島を我が庭として大活躍を収めてきた彼にとって、秋の福島開催のオーラスを飾る福島記念は言うなれば惜別の盃であった。当時売り出し中の逃げ馬・ツインターボが2番人気に支持されていたが、この時点ではまだまだその逃げは未完成。同馬に跨るベテランの大崎昭一騎手と大ベテランの増沢騎手を"福島バイアス"の掛かった天秤に引っ掛ければ、当然増っさんに軍配が上がる。ましてや関西のしがない若手の田島裕和騎手などに、この物語に入り込む余地など全く無いはずだった。彼が手綱を取るヤグラステラは単勝4番人気。

ところが、である。予想通りツインターボがハナを切ったのまでは良かったが、同馬が茶色い荒れ馬場の上を前半5ハロンが59秒2という速いペースで駆けたため、それを追い掛けた馬はおしなべて末が厳しくなった。3番手で追走した人気のユキノサンライズも例外では無かった。怯まずに外へ持ち出した増沢、そして内ラチ沿いをひたすら逃げる大崎。直線で一挙に外一杯に広がった馬群から飛び出して来たのは、道中はいつもより幾分後方から追い掛けていた大外14番のピンク帽・ヤグラステラだ。田島騎手が着るパステルカラーの勝負服と、側面にハートマークの付いた淡い黄色のメンコが突如浮き上がって来る。そしてゴール。上がり38秒フラットの厳しい勝負を制したのは、14頭の中でも随一の末脚を披露したヤグラステラであった。1馬身離れた2着にはハイペースは慣れっこのツインターボが粘り込み、増っさんとユキノサンライズはラストワンを飾れず3着までという結果であった。

ヤグラステラの実に3年ぶりの重賞制覇をアシストした田島騎手は、「これが僕にとって初の重賞勝ちになります。ひとつの目標でしたし嬉しいですね」と述べ、続いて周囲の人々への感謝の言葉を発した。デビュー当時こそ二世騎手ということもあって(父はタニノチカラの主戦だった田島日出雄騎手)乗り鞍を集めるのに苦労していなかった田島裕和騎手だが、なまじそこで結果を出したために慢心に繋がり、間も無く師匠に干されてしまう。以降しばらく不振に陥っていたものの、前年の1990年から裏開催のドサ周りを始め徐々に勝ち星を回復していた。また、後年の伴侶との出会いもドサ周りでの収穫の一つであるという。90年代後半にはスギノハヤカゼ、2000年以降はナリタセンチュリーの主戦として存在感を示した田島騎手。予定通り1992年の春に引退した増沢騎手のような大騎手にはなれなかったものの、忘れた頃にピリリと辛さをアピールするジョッキーとして記憶に残っている。個人的には、Webの世界が現在よりも一般人にとっては入り込みづらかった時代に、手作り感溢れる個人ホームページを所持していた騎手というイメージが未だに強いが。

辛抱に次ぐ辛抱の末、"演歌系の女王"として7歳で福島記念を制覇したヤグラステラは、それ以降も力一杯全力で走った。レース後は予定通りGⅢの阪神牝馬特別(阪神芝2000m)に登録し、トップハンデ56kgに耐えて踏ん張ったもののマチノコマチの4着に屈し、年明けの金杯(西)では10着敗退。そして2月の小倉開催にて田島騎手と共に2戦したもののいずれも馬券に絡めず、12番人気で12着の小倉大賞典が結局ラストランとなった。1992年春に故郷の細道牧場において繁殖入りを果たした彼女の初年度のお相手は、あのサンデーサイレンスであった。翌年の春、2頭の間に栗毛の牝駒が生まれた。同馬は後にナリタマイスターと名付けられ、中央で1勝を挙げている。

いわゆるヴィークル・メアとして、産駒がサラ系では無くサラブレッドとして認められることになったヤグラステラ。彼女の1993年のお相手はタマモクロスであった。これは筆者の勝手な推測になってしまうのだが、彼女のオーナーがどうしても芦毛の仔が欲しくなったのでは無いかと思う。芦毛馬の出生は言うなれば二代越しの夢というわけだ。ところが、順風満帆だったはずの彼女の後半生はその僅か1年後に突然途切れてしまう。彼女のプロフィールにはこのようにだけ記されている。"1994年4月21日死亡" なお、彼女とタマモクロスの間の仔も生後間も無く死亡したらしい。恐らくは難産により母仔ともに命を失ったのであろう。演歌歌手ばりのドサ周りと潜伏期間を経て、福島の地で見事な白鳥に化けたみにくいサラ系のアヒルの子は、こうして血をほとんど後世に遺す事無く黄泉の国へと旅立った。彼女の一粒種であるナリタマイスターも後継繁殖牝馬を1頭しか遺すことが出来ず、残念ながら現在ではヤグラステラの血は絶えてしまったようである。かつてよく見掛けたミラ系の名も、2014年の今ではとんと目にする機会が無くなった。

ヤグラステラ -YAGURA STELLA-
牝 鹿毛 1985年生 1994年死亡
父シーホーク 母ヤグララナー 母父ラナーク
競走成績:中央34戦7勝
主な勝ち鞍:福島記念 サファイヤS

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