2014/12/15

【私撰名馬物語#47】ニシノスキー

―東の一番星が不肖の息子に成り果てた日―


しばらくの間書く意欲が湧かず、気がつけばゆうにひと月ぶりの更新となった。今後もマイペースでの更新が続くだろうが、どうか閲覧者の方々には見捨てないでいただきたい。よろしくお願い申し上げます。

そうこうしているうちに年の瀬は押し迫る。今年度より阪神競馬場に舞台を移した朝日杯フューチュリティSが、そしてグランプリ・有馬記念が二つ続けてやってくる。それぞれ2014年度のJRA賞の選考に大きな影響を与えるであろうレースだ。新たなヒーローの誕生を待望しながらワクワクしつつ、根っからの穴党である筆者は目を皿のようにして穴馬候補を必死に探す日々が続くだろう。胸は高鳴るし、自分が走るわけでも無いのに腕が鳴る。何かと私事が立て込んでしまい、リアルタイムでオルフェーヴルの強さを拝めなかった昨年の雪辱をどうにか晴らしたいところである。

読む方が反応に困るような私事情はさておき、通算47回目となる今回は暮れのグランプリの前座的レース且つGⅠの朝日杯フューチュリティSにちなんだ名馬をご紹介したい。1982年の朝日杯3歳Sを制したニシノスキー、今から32年前に東の3歳(旧馬齢表記)チャンプに輝いた彼こそが今回の主人公である。

ニシノスキーは1980年生まれの鹿毛のオトコ馬。彼を生産したのは1974年の桜花賞馬・タカエノカオリを生み出したことで世に知られる新冠の隆栄牧場である。父は"伝説のスーパーカー"マルゼンスキー。マルゼンスキーは1978年の春に種牡馬入りしたので、このニシノスキーは2期目の産駒になる。母のモミジはアイルランド産の輸入繁殖牝馬で、現役時代はイギリスで1勝を挙げた程度の馬だったが、本邦輸入後はニシノスキー以外にも中央6勝のクラシックブリッジ(父ノーアテンション)を産むなど大いに活躍した(ただし、子孫は現存しない模様)。母父のHarambeeはレリック系の海外種牡馬だが、産駒にこれといった馬はおらず日本で走った仔もいないようである。血統表を見てもらえれば分かるが、ニシノスキーの母方の血はかなり異系色が濃い。ちなみに、マーベラスサンデーの母の母であるモミジ(こちらはカナダ産で"Ⅱ"がつく)とこのモミジは同い年だが全くの別馬。要するに同名異馬である。

父親のマルゼンスキーは初年度から菊花賞馬のホリスキーを送り出しているが、当然のことながら種牡馬2年目の産駒であるニシノスキーが仔馬の頃にはまだ実績の無い新種牡馬であった。だが、ニシノスキーに対する期待は早くから高かったようで、隆栄牧場の飛渡三代治場主は後にこう語る。「馬体はマルゼンスキー似で、出来は良かったですね」マルゼンスキーの仔はホリスキーのような長距離タイプと、自身のようなスピード豊かなタイプとに分かれたというが、ニシノスキーはコロッとした寸の詰まった馬体でどうやら後者のように見えた。

息子が偉大な父の長所だけを受け継いでいれば万々歳である。だが、飛渡氏はこう続ける。「ただ、これも父親の影響なんでしょうが両前肢が外向で、矯正には時間がかかりました」マルゼンスキー自身、そしてその産駒の最大の弱点として知られる脚元の弱さ。ニシノスキーはそれをも律儀に受け継いでしまっていた。もっとも、牧場での矯正が上手くいったようで、2歳の春には肢の外向はほとんど気にならない程になっていたというが、脚元と体質のウィークポイントは後の彼の馬生に大きく影を落としてしまうことになる。

やがて西島清氏の持ち馬となり(要するに「ニシノ」の西山牧場とは無関係)、競走名「ニシノスキー」を授かった彼は、長じて美浦の元石孝昭調教師の下へ入り、虎視眈々とデビューの日を待った。初めは1982年初秋の函館開催での初披露が画策されたが、挫石のため爪を痛めてしまい結局回避。当時想定されていた的場均騎手とのコンビも幻となった。元石師曰く、「(函館から帰厩後)美浦で早い調教をやりたいと思って乗り役を探したら、ちょうど騎乗停止を食らって美浦に戻っていた安田富男がいた」とのこと。兎にも角にも、1982年10月の東京開催の新馬戦(ダート1400m)にて安田富男騎手を鞍上にお披露目となったニシノスキーだが、2番人気に推されながらもタケムシャのレコード駆けの前にハナ差屈してしまい人気通りの着順に終わった。

初戦のハナ差負けにも元石師はめげていなかった。「直線ではインを突いて伸びて来たんですが、砂を被りながらも勝ち馬をギリギリまで追い詰めるのを見ていて、ああ、素晴らしい勝負根性を持ってるな、と思ったんです(元石師:談)」上半身の筋肉が発達した前輪駆動のニシノスキーの武器は、抜群の勝負根性と粘り強さだ。芝に替わった折り返しの新馬戦を余裕を持って逃げ切ったニシノスキーと安田騎手は、元石師がちょうど5年前にタケデンで逃した朝日杯3歳Sに歩を進めることになった。

1勝馬の身での大レース挑戦は半ば無謀に思えるが、元石師は勝算を感じていたようだ。「無論、一線級相手にどこまでやれるか、といったくらいの気持ちだったんですが、全く腕試しというのでは無くて、多少の計算はあったんです」師が言うには、ニシノスキーが初勝利を挙げた新馬戦のタイムが1分25秒2で、同日の府中3歳Sでのデアリングパワーの勝ちタイムが1分24秒8。その差はコンマ4秒しかないから上位陣との差は何とか詰まるんじゃないか、という計算だったらしい。なるほど、前者はデビュー2戦だが後者はデビュー3戦目でのタイムなのだから、理に適っていると言えばそうだろう。

とは言え、当然のことながらニシノスキーの戴冠を阻まんとする強敵は多かった。いの一番に挙げられるのが10月末のいちょう特別をレコード勝ちしたビンゴカンタ。キャリア6戦3勝を誇る同馬は1979年の皐月賞馬・ビンゴガルーの甥に当たる血統馬だ。2番手評価には前述のデアリングパワー。同馬は名門・二本柳俊夫厩舎所属で、テスコボーイ×ヴェイグリーノーブル牝馬という血統がスケールを感じさせる馬であった。続いてそのデアリングパワーを重賞の京成杯3歳Sにおいてハナ差抑えたドウカンヤシマ。その他、芙蓉特別勝ちとデイリー杯3歳S3着のあるファイブオーシャン、いちょう特別2着のウメノシンオーなどが比較的高評価を得ていた。例年と比べてややレベルが低く、本命不在の混戦模様ではあったものの、キャリア2戦1勝のぽっと出競走馬が勝利を収めるには、どうにもこうにも障壁が高いように見えた。

1982年12月12日、中山競馬場。同年度の朝日杯3歳Sはこの日、この舞台にて施行された。1番人気には大方の予想通りビンゴカンタが推され、出走各馬は大方上記のような順番で人気になった。当のニシノスキーは単勝オッズ13.8倍の7番人気に過ぎなかったが、それでも折り返しの新馬戦を勝っただけの馬にしては高評価と言えるだろう。彼の鞍上にはデビュー戦から手綱を取る安田富男騎手。6年前の1976年にグリーングラスで菊花賞を奪取した1982年当時35歳のこの中年ジョッキーは、某新興宗教の信者として著名だが、果たして信心のチカラなのか、強運&強心臓の穴騎手として一目置かれていた。枠は3枠4番と内目。これはもう自分の競馬…スタートを決めて逃げるしかない。

そしてスタートは切られた。フライング気味に好スタートを切ったのは赤い帽子、赤いメンコ、そして赤を基調とした勝負服のニシノスキーだ。まるで真っ赤な焔が立ち昇るが如く1頭飛び出したニシノスキーは安田騎手に導かれ、敢然とハナを切る。まるで6年前の朝日杯で逃げたマルゼンスキーのような姿だ。2番手には外からピッタリと人気薄のスピードトライが付け、岡部騎手とビンゴカンタはやや立ち遅れてしまった。ドウカンヤシマもいつもの推進力が見られず後方。片や対抗馬のデアリングパワーは好位に付けている。

やがて3コーナーのカーブに差し掛かるとスピードトライがニシノスキーを交わしにかかり、ドウカンヤシマも大外をぶん回して進出を図る。内から外へ持ち出したデアリングパワーの手応えは悪くなさそうだが、ビンゴカンタはまだ後ろで苦しんでいる。コーナーで最内の経済コースを周ったニシノスキーの末脚は直線に至っても衰えを見せず、外からスピードトライが必死に競り掛けるもなかなか交わせないし、ハナもアタマも前に出ない。そして、後ろのデアリングパワー以下はすでに届きそうに無い。それから数秒後、そのままの態勢で勝敗は決した。1着、ニシノスキー。2着には14番人気のスピードトライが頑張り、同馬の複勝は1280円と高値をつけた。7番人気と14番人気の組み合わせで、もし当時馬連があったならまず間違いなく万馬券になっていたことだろう。

勝ちタイムの1分35秒8はそれほど目を引くものでは無いし、有力馬たちが後方で牽制し合う中、楽に逃げられた結果、というのが大方の見方であり、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬の座も西の3歳王者のダイゼンキングに譲ることになった。JRA賞での票数はダイゼンキングが130票に対し、ニシノスキーは7票と完全にナメられていた。それに、時を同じくして付けられたフリーハンデでもダイゼンキングが55kg、ニシノスキーが54kgとやや分が悪かった。確かに、後のマイル王・ニホンピロウイナーを下したダイゼンキングの末脚は特筆すべきものであったし、阪神3歳Sと朝日杯3歳Sは同じ1分35秒8の勝ちタイムとは言えど、その時間が濃密だったのは西の3歳王者決定戦の方と言えるだろう。しかし、西のダイゼンキングが父トウショウボーイの無念を晴らすべくダービーを目指すのと同じように、東のニシノスキーにも父マルゼンスキーが出走出来なかったダービーを奪取するという物語が想定されていたのだ。

この"東の一番星"に元石師は、まず共同通信杯、そしてスプリングSを経由し皐月賞へと出走させるという青写真を描いていた。そして1983年正月の時点で、ニシノスキーが東のクラシック候補最右翼であることは疑いが無かったわけだ。だが、関東にはダイゼンキングに匹敵するような秘密兵器がまだ眠っていた。父はダイゼンキングと同じトウショウボーイ、母は重賞3勝馬・シービークイン。3戦2勝、2着1回、重賞未出走。1982年度のフリーハンデにてニシノスキーより2kg軽い52kgの評価を付けられたその馬の名は、「ミスターシービー」といった。

元石師が頭の中に描いたかくも立派な青写真は、時が経つに連れて徐々に滲んでいった。挫石や熱発のため調整に狂いが生じ、2月の共同通信杯はおろか、3月のスプリングSも回避。果ては皐月賞にも間に合わなかった。ニシノスキーがもたついている間に、"本当の主役"たるミスターシービーが破天荒な競馬で連勝街道を突っ走る。中山の泥んこ馬場を一気にマクって、まず1冠目を獲得したミスターシービーの前に、やはり中間順調さを欠いていた3歳王者のダイゼンキングは形無しの17着敗退。ここで完全に主役は交代し、父トウショウボーイの物語を継承する息子の座も明け渡された。一方のニシノスキーは5月の平場オープン(東京芝1800m)を9頭中4着で叩き、何とか日本ダービーに間に合ったものの、本番では4角で沈没し21頭立ての18着に惨敗。勝ったのはやはりミスターシービー。ここでニシノスキーは疲れが出て、笹針を打たれて休養に入った。ちなみにダイゼンキングはダービーに出走すら叶わなかった。

捲土重来を期し、秋にセントライト記念から戦線復帰したニシノスキー。しかし、結果は牝馬のメジロハイネから4秒8離された12着(最下位)。レース後に右ヒザの剥離骨折が判明し、彼は再び休養に入った。翌1984年、規定の変更によりマル父のマークが付いたニシノスキーは、京王杯スプリングCと安田記念を連戦するも18着、15着と全く見せ場無く敗れ去り、降級緒戦となる900万下条件戦ですら1番人気の5着に完敗。運の悪いことに間も無く脚部不安を発症した彼は、長くて先の見えない休養期間に突入することになってしまった。

時は静かに過ぎ、6歳になったニシノスキーが復帰した舞台は、1985年4月の900万下条件特別戦・丹沢特別であった。 この芝のマイル戦において安田騎手を背に久々に軽快な逃げを打ち、華々しかった3歳時の走りを彷彿とさせた彼は、3着に敗れたものの次走以降に望みを繋ぐ走りを見せることが出来た。だが、結局このレースの後彼がターフに帰ってくることは無かった。かつての東の一番星は、最終的にはしがない900万下条件馬、言うなれば名馬の不肖の息子として競走生活を終えることになったのだ。白血病のため現役中に召された3歳上の朝日杯馬・リンドタイヨーほどでは無いにせよ、なんとも侘しい結末であった。

このように競走生活の晩年を無為に過ごした彼だが、引退後は故郷の隆栄牧場に引き取られ、めでたく種牡馬入りが叶った。その上、牧場の宝とも呼ぶべきタカエノカオリに実に5年連続で種付けすることも出来たのだ。もっとも、最初の種付けの時にはすでにタカエノカオリは旧表記19歳だったわけで、言わば敗戦処理の役割ではあったのだが…。初年度の種付頭数は20頭と振るわなかったものの、血統的な魅力や産駒の出来の良さからか、種牡馬4年目となる1990年には83頭に種付けするなど一時的ではあるが人気を博したこともあった。しかし、公営新潟の東北ダービーを勝ち中央入り後2勝を挙げたホンスキーや、中央3勝のヒミノタカモリ(この2頭はタカエノカオリの孫に当たる)、条件戦であのサクラバクシンオーを下したマイネルコート以外にはこれといった馬は出ず、程無くして種付頭数も激減。折りからの輸入種牡馬の増加による種馬の生存競争に敗れた彼は、やがて1995年の暮れに熊本県の牧場へと流れて行った。

1995年当時の九州馬産界と言えば、「九州のサンデーサイレンス」ことマークオブディスティンクションの独壇場。そんな同馬に一矢報いんとばかりに、遥々渡った熊本の地から再起を図ったニシノスキーだったが、繋養地の松田弘美牧場に到着するや否や、九州の風土が合わなかったのか脳炎を発症。見る見るうちに衰弱し、間も無く呼吸不全で息を引き取ってしまった。享年16。父のマルゼンスキーが死んだのはそれから2年後のこと。スーパーカーになれなかった男は、競走成績はおろか寿命でも父に敵わなかった。

ニシノスキー -NISHINOSKY-
牡 鹿毛 1980年生 1995年死亡
父マルゼンスキー 母モミジ 母父Harambee
競走成績:中央10戦2勝
主な勝ち鞍:朝日杯3歳S

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