2015/02/22

【私撰名馬物語#49】グルメフロンティア

―果ては砂をも喰らった“美食の開拓者”の受難―


今から丸20年前の1995年を“交流元年”と定め、本格的にスタートした中央地方指定交流競走。この大改革により、国内ダート路線の地位の向上が賑々しく図られたわけだ。交流草創期に活躍した代表として真っ先に名が挙がる馬と言えば、ライブリマウントとホクトベガであろう。両者はその程度や格に差はあれど、共に芝路線で一度挫折した後ダート路線に転じたというプロフィールを持つ。新天地である砂上において自らのポテンシャルを存分に発揮し、華々しい活躍を見せた彼らだが、幾分語弊はあろうが結局はローカルヒーローの域を出ることは無く、日本競馬界の主役の座を勝ち取ることは出来なかったと言えるだろう。SS旋風から三強体制へとメインストリームたるターフの大スターが紙面に躍るのを恨めし気に見ていたこの2頭。片やライブリマウントの旬の時期は短く、そしてホクトベガの花の命も遠きドバイの地にて儚く散り果てた。

こうして二大巨頭の光が消えた1997年という年は、地方交流重賞に対しグレード制に則した格付けが行われるようになった年でもある(同年4月~)。この格付けによりGⅠと定められた交流重賞競走の勝ち馬を並べてみる。

帝王賞:コンサートボーイ
南部杯:タイキシャーロック
ダービーグランプリ:テイエムメガトン
東京大賞典:トーヨーシアトル
川崎記念:アブクマポーロ

振り返ってみれば、やや地味ながらも味わい深い時代であった。バトルライン、デュークグランプリ、メイショウモトナリ、キョウトシチー、エムアイブラン、キソジゴールド、そしてGⅠに昇格したフェブラリーSを制したシンコウウインディ……同年のダート路線を賑わせた馬たちである。いずれも強みと弱みを併せ持った個性豊かな競走馬だ。時代は南関東のアブクマポーロと岩手のメイセイオペラの盤石の二強体制へと向かっていく中、彼らは「いざ我こそが新時代の基軸を築かん」とばかりに戦い続けた。だが、その戦いの末に苦労に見合った栄誉を掴み取ることが出来た者は、悲しいかなあまりにも少ない。現代に引き継がれてしまったダート馬残酷物語の系譜である。

今回ご紹介する1998年のフェブラリーSを勝ったグルメフロンティアは、一様に「ダートの専門家」と呼べる彼らとは一線を画す競走馬と言えるだろう。「地味な血統と大柄な馬体」という特徴は古き良きダート馬のそれであるが、芝の器用貧乏が突如覚醒した末にダートGⅠを奪取した、というグルメフロンティアのケースはよくあるようで実はそんなに無い。GⅠ昇格以降のフェブラリーSに芝路線から参戦して来たケースは山ほどあれど、キングヘイローやカレンブラックヒルのように人気を背負いながら見せ場無く大敗したシーンばかりが脳裏に浮かんでしまう。

“美食の開拓者”というユニークな意味合いの名前を付けられたグルメフロンティア。7歳(旧馬齢表記)にして初重賞を手にした後、突如ダート路線に転じ“開拓”に成功した彼だが、ライブリマウントやホクトベガのような砂のニュースターにはなれなかった。そんな彼の慎ましい前半生、そして束の間の名誉にしこたま酔った後、短き夢の代償を払うかのように遭わなければならなかった受難とは、果たしてどのようなものだったのだろうか。

グルメフロンティアのふるさとは門別の白井牧場である。1969年に開業してから数多くの重賞ウイナーを生み出してきた同牧場であるが、GⅡ馬は多数出されどもGⅠを奪取するような生産馬はなかなか現れなかった。グルメフロンティアが誕生した当時の場主である白井民平氏(故人)の生産哲学は「与えられた馬を何とか活かそうと考える」というもので、それは同氏の学生時代からの乗馬経験により培われた考え方だと自ら発言している。

「せめて1勝する馬を作ろう、1勝する馬なら、運が良ければ2勝するだろう」
「900万とか1600万クラスの馬を狙って50頭も作れば、中には狂い咲く馬も出るでしょう(笑)」
「社台ファームがロックやポップスだとすると、僕は演歌なんです」

これらの同氏のコメントは受け取りようによっては卑屈と思われかねないかも知れないが、グルメフロンティアと同時期に活躍したミスタートウジンやシグナスヒーローといった生産馬には同氏の哲学が見事なまでに発現されており、個性派が少なくなったと嘆かれがちな現代競馬をリカバリーするヒントが隠されているような気もする。

1992年に生まれたグルメフロンティアの父は、ダンディルートの直仔でトウショウボーイの甥という良血に恵まれながらも現役時代はGⅡ止まりだったトウショウペガサスである。同年の阪神3歳牝馬Sで殊勲の大金星を挙げたスエヒロジョウオーの父としても知られる同馬だが、GⅠ馬を2頭送り出しながらも慢性的な腰の悪さに悩まされたが故に種付け頭数をセーブせざるを得ず、種牡馬としてもマイナーな存在であり続けた。母馬の名前はバンビファバーといい、現役時代は中央で2勝を挙げた他、障害も走った(未勝利)。

白井氏はファバージ産駒のバンビファバーにトウショウペガサスを付けた理由について、「どうしてかって聞かれても、それは金が無いからなんです(笑)」「どういうわけか、たまたま株があったから付けたんです」「付けたことに、根拠というほどのものは無いんです」と後に冗談交じりに語っている。またカラオケの選曲に準えて、「安室(奈美恵)なんて歌えないから隅っこでこそこそやっていたら、たまたまヒットしてしまったのが、グルメフロンティアなんでしょうね(笑)」ともコメント。要するに、GⅠ馬・グルメフロンティアは偶然が産んだ傑作である、ということなのだろうか。

とは言えこの発言は、グルメフロンティアの血統がどこの海のものとも山のものとも知れない、ということを示したものでは全く無い。母のバンビファバーの産駒には彼以外にこれといった馬はいないが、近いところに活躍馬は少ないものの、母系を遡れば牝馬二冠馬・スウヰイスーに辿り着く名血出身である。ダンディルート系とファバージが属するプリンスリーギフト系牝馬の相性の良さも、ヌエボトウショウやトウショウフェノマ、ダイタクヤマトなどが実証している。加えて白井民平氏の兄はサラブレッド血統センターの創業者の白井透氏である。恐らくは多少なりとも創意を込めた配合だったのではないかと個人的には思うのだけれど、あるいは照れ隠しかも知れないが本人が「偶然」と仰っているので、そういうことにしておこう。

それはさておき。上記の背景から生み出されたグルメフロンティアは、牧場時代から骨格がしっかりしており、幅のある馬体をしていたという。かと言って地味な血統背景を覆すほど期待されていたというわけでは無く、「そこそこの条件までは(白井牧場・市川康範氏:談)」といったぐらいの評判であった。やがて彼は半姉のグルメヒカリ(父リードワンダー・中央1勝)と同様に石井政義氏の持ち馬となり、美浦の田中清隆厩舎へと入った。「グルメ」という冠名は石井氏がレストランを経営していたことに由来する。この3歳にして常時500kgを超える巨漢鹿毛馬は1994年の11月に初陣を迎えたが、芝千四の条件で8番人気の4着に終わった。初勝利を挙げたのはデビュー4戦目でのこと。翌1995年2月の未勝利戦(東京ダート1600m)という条件で、手綱を取ったのは大塚栄三郎騎手。続いて同年4月の自己条件戦(中山ダート1800m)を岡部幸雄騎手に導かれて圧勝し、早々と2勝目を挙げている。掛かりやすい気性をカバーするためか、ここまでの2勝はいずれも逃げ切り勝ちであった。

「芝でもダートでもハナを切って粘るだけ」の一本調子な走りを見せていた彼。転機となったのは次走のGⅡ・NHK杯(東京芝2000m)であった。同重賞ではリーディング上位の岡部騎手が跨りながらも16頭立ての10番人気と低評価だったが、道中最後方から直線で一気の伸びを見せ、勝ったマイネルブリッジと0.4秒差の4着に健闘。惜しくもダービーへの出走権は逃したものの、実りの多いレースであった。しかし、NHK杯以後の3戦はいずれも番手の競馬を試みたが、直線で一様に失速し馬券に絡めずに終わっている。

ちなみに、この1995年クラシック世代はサンデーサイレンスの初年度産駒が席巻した世代でもある。 皐月賞をジェニュインが、オークスとダービーをそれぞれダンスパートナーとタヤスツヨシが奪取し、偉大なるSSは日本競馬にたっぷりと新風を吹き込んだわけだ。煌びやかな活躍を見せる彼らと、マイナーなトウショウペガサス産駒のグルメフロンティアが4歳春の時期に激突することは遂に無かったわけだが、終わってみればこのNHK杯4着馬(3億6000万円以上)がダービー馬(3億円弱)よりも多くの生涯賞金を稼ぎ上げてしまうのだから競馬は本当に分からない。早くも輝かしい重賞の舞台において高い資質の一端を示したグルメフロンティアだが、彼が重賞タイトルを手にするまでにはさらに2年半以上の時間を費やすことになるわけである。

NHK杯での走りを見るに、能力がオープンクラスであることはまず間違いない。だが、掛かり癖と大型馬故の不器用さこそが年若きグルメフロンティアの出世を阻み続けた要因であった。夏から秋にかけて休養を取った後、同年12月の条件戦を叩き、5歳時は東京ダート2100mの自己条件戦を早め先頭の競馬で押し切って、1996年は早くも初日が出た。

ところが、何ともあっけ無い形で準オープンに昇級してからが彼の苦闘の始まりであった。まずダートの2戦で共に複勝圏外に敗れた後、人気を落とした3月の東風S(中山芝2000m)で出遅れながらもインターユニークの2着に入って非凡な素質を示す。続く同条件の総武Sでもアプローズシチーの3着と実力を見せたが、中山競馬場からどちらかというと得意な方である東京競馬場に舞台を移した薫風S(芝1800m)でもサクラスーパーオーの2着に敗退。まぁ、インターユニークとサクラスーパーオーは重賞連対実績のある馬だから仕方ないと言えば仕方なかったのだが、6月の湾岸S(中山芝2000m)では7歳牝馬のグロリーシャルマンにクビ差屈してしまった。とは言え同レースはハンデ戦で56.5kgのハンデ頭。定量戦の安達太良S(中山芝1800m)なら確勝だろう……と思われ単勝1.9倍の1番人気の支持を受けたものの、ここでも7歳牡馬のクラウンシチーに完敗してしまうのだから堪らない。ちなみに惜敗した5戦の鞍上はいずれも岡部騎手。後方待機から猛然と追い込んでも、先団に付け早めに仕掛けてもとにかく勝ち切れない。見方を変えれば馬主孝行とも言えるが、サークル内外の文句を一身に受ける騎手としては鬱憤が溜まり放題であったことだろう。

よく言えば準オープンの安定勢力、悪く言えば勝ち味に乏しい走りを続けた5歳春のグルメフロンティアだが、8月の降級戦(中山芝2000m)にて58.5kgを背負いながらクビ差辛勝し、通算4勝目を挙げた。芝もダートもこなすが、とにかく勝ち切れない。この「走りが不器用な器用貧乏」の5歳牡馬は、同年秋もタイキマーシャルやキングオブダイヤといった後の重賞勝ち馬の前に敗れ続けた。彼がひたすら追い求めた5勝目……準オープンクラスでの初勝利はこの年の暮れの市川S(中山芝1600m)にてようやく手にすることができ、6歳となった1997年の2月にはついに準オープンを卒業。名実共にオープン馬となった。

こうしてグルメフロンティアは充実の6歳のシーズンを迎えた。1997年春のGⅡ・中山記念とGⅢ・エプソムCは不向きな決め手勝負の展開となり、準オープン時代に遭遇し一蹴されたキングオブダイヤとタイキマーシャルに歯が立たず共に掲示板止まり。だが、夏の函館記念(10着)を挟んで出走した9月のながつきS(ダート1800m)では、圧倒的1番人気のエムアイブランをクビ差抑えて逃げ切り通算7勝目を飾ってみせた。そして次走のGⅢ・カブトヤマ記念でも3着に健闘した後、気合の連闘で挑んだのはなんと秋の天皇賞。当然のことながら16頭立ての15番人気と評価は低かったが、前走から引き続き跨った加藤和宏騎手に導かれて、4歳のサイレンススズカの大逃げを冷静に追走し、直線であわや複勝圏内かという5着に食い込む健闘っぷり。続く12月のGⅢ・愛知杯では中団待機から3角を前にかなり位置取りを悪くしたが、4角においてコーナーワークで進出し直線で上手く進路を見つけてスルスルと伸びた。結果、サクラエキスパートとクビ差の2着に入り重賞初連対を果たしたのだった。こうなると重賞制覇も目前である。

やがて彼が7歳となった1998年、陣営は正月の中山金杯を年明け緒戦に選んだ。年齢を良い形で重ねて長年の課題であった折り合いにも進境を見せており、当時のグルメフロンティアの安定感は素晴らしいものがあった。馴染みの名手・岡部騎手を背に、重賞未勝利馬ながら単勝2.5倍の1番人気に推された彼は、道中は後方からマイペースでレースを進めた。良の発表ながらも時計の掛かる馬場や、先頭を行くサクラスピードオーの淀みの無い逃げ、そして56kgのハンデと、全てがグルメフロンティアにとって好材料となった。最終コーナーで鞍上の加藤騎手が早めに仕掛け粘り込みを図る5歳で3番人気のセイリューオーを、老獪な岡部騎手と一緒に534kgの鹿毛馬はまるで赤子の手をひねるかの如く楽に捕まえると、最後は2着に2馬身近い差をつけゴールイン。デビュー34戦目、7歳にして初重賞制覇を飾った。ちなみに、離れた3着には若き日のNHK杯で苦杯を嘗めさせられたマイネルブリッジが入っている。

レース後、岡部騎手は「今日のようなレースが出来れば課題は無い」とコメント。「金杯で乾杯」を果たして美酒に酔い、見事重賞ウイナーとなったグルメフロンティア。管理する田中清隆調教師が彼の次走として選んだのは、2月1日のフェブラリーSであった。同師曰く、「中山金杯を勝った後、ほとんど疲れが見られなかったので、(金杯の)3日後にはローテーション面でも都合がいいと思ったこのレース(フェブラリーS)を選んだんです」とのこと。本稿の初めの方で述べたように、1998年初頭のダート路線は主役不在の混戦模様。フェブラリーSの出走馬中で一応の大将格はグルメフロンティアと同じ7歳馬で前年の南部杯を圧勝したタイキシャーロックであった。しかし、同馬は前走の浦和記念にて1歳上の老雄・キョウトシチーにハナ差負けており、確固たる中心馬とは少々言い難い。この主役不在の戦国GⅠに、重賞3勝の良血馬で武豊騎手が跨るバトルラインや、前哨戦の平安Sを快勝して波に乗るエムアイブラン、芝砂兼用の外国産馬・ワシントンカラーらが参戦してきた。芝路線からはNHKマイルC2着馬のブレーブテンダーや、重賞3勝の実績を誇る青森県産馬・イナズマタカオーなどが名を連ねていたものの、いずれも近走は不振。また、船橋からはバンチャンプが挑戦して来たが、6歳当時の同馬は如何にも実績不足な感が否めなかった。

盤石の中心馬と呼ぶべき馬こそ存在しないが、見ようによっては多士済々と言える1998年のフェブラリーS。そんな中、芝路線から転じてきたグルメフロンティアは前述のタイキシャーロック、バトルライン、エムアイブラン、ワシントンカラーに前年の2着馬のストーンステッパーを加えた“ダート戦線五本槍”からやや離された6番人気であった。確かに芝砂問わずに堅実に走る、ただしダート重賞実績は無いグルメフロンティアなのだから、この評価は一概に舐められていたとは言えまい。前年の覇者であるシンコウウインディ(当時脚部不安のため休養中)と全く同じ、田中清隆師と岡部幸雄騎手のタッグが送り出すグルメフロンティアは、その迫力ある巨体に闘志をみなぎらせてゲートを出た。混戦模様の中央ダート戦線にハッキリと断を下すために。

スタートは抜群に良かった。やや内目の6番枠に不安はあったが、この出の良さなら心配は無用。まず先頭に立ったのはかつてセントライト記念を制し、「打倒ナリタブライアンの旗手」と呼ばれた8歳牡馬のウインドフィールズであった。同馬は近走はダートで戦績を積んでおり、このコースに不安は無い。先頭を行く同馬と鞍上の吉田豊騎手が絶妙な平均ペースを作り出したために、中団を行くグルメフロンティアはやや掛かり気味。その巨体故に、この日の府中の力のいる良馬場のダートは望むところではあるが、折り合いをつけようと頑張る岡部騎手の脳裏に少々の不安がよぎった。自分自身との戦いに腐心する彼らを尻目に、1番人気のタイキシャーロックは逃げるウインドフィールズに終始外から並び掛ける展開。果たして、彼らはこの調子で府中の長い直線を乗り切れるのか。

道中で癇性を見せていたグルメフロンティアがやがて折り合いを取り戻し、前年のシンコウウインディと同じような位置でコーナーを周って抜け出しを図る。そして直線半ばで外へと持ち出した岡部騎手は、先団の内から抜け出そうとしたダートの実績馬・メイショウモトナリを捕まえんと進出した。前にいたはずのウインドフィールズは圏外に消え、外を回したタイキシャーロックがそれに続き手応えを欠いて失速する。バトルラインやエムアイブランといった他の人気馬たちも伸びあぐねる中、ただ1頭グイグイと走り続けたグルメフロンティアは、クビ差で戴冠したシンコウウインディとは段違いの強さを見せ先頭でゴールイン。メイショウモトナリに4馬身差をつける強さで中央の暫定ダート王となったのであった。2着馬とクビ差の3着には加藤騎手とシャドウクリークが突っ込み、タイキシャーロックは5着に敗れ去った。

このフェブラリーSのレース後の岡部騎手のコメントは妙に有名である。

「うまくいきすぎた。これでいいのかな、と思ったぐらい」
「正直ビックリした」
「何もかもが上手くいった」

果てはこんな言葉も飛び出した。

「気持ち悪かったですよ」

……およそGⅠを制した愛馬に対するコメントとは思えない一言であるが、それに怒ったのかどうか、ゴール後の向正面にてグルメフロンティアが岡部騎手を振り落とすというオチがついた。

歓喜の大勝利の後、田中師は「ドバイワールドCへの参戦は考えていない」と明言し、その言葉通りに間も無くグルメフロンティアを放牧に出した。この措置には、グルメフロンティアを担当していた厩務員が怪我のため療養中だったのが影響していたとされる。

ところが、この束の間の休息こそがGⅠ馬となったばかりの彼の競走生命を縮めることに繋がってしまった。放牧中に深管に不安が出たため休養が長引き、復帰がGⅠの天皇賞にまでずれ込んだのである。芝の強豪相手に2月以来のぶっつけ本番では勝負になるはずも無く、案の定12頭中11着に惨敗(サイレンススズカがレース中故障を発症し競走を中止したので完走馬中最下位)。オープン特別のトパーズSの6着を挟み、調子がなかなか上がらない状態で出走した暮れの大一番・東京大賞典では、スタートで躓き致命的な出遅れ。道中終始最後方から直線猛然と追いこんだものの、結局勝ったアブクマポーロから1.2秒離された5着に終わった。休養が長引いた影響により思うように調整が行えなかったこともあり、不本意な7歳秋を過ごしてしまったグルメフロンティアは、東京大賞典のレース後に脚部不安を発症。それからほどなくして現役を退いた。38戦9勝、2着8回、3着3回。かつては準オープンの善戦大将だったグルメフロンティアは、最終的には堂々たるGⅠ馬として故郷の白井牧場に種牡馬として凱旋したのであった。

なんとも波瀾万丈な現役生活を過ごしたグルメフロンティアだが、よく知られているように引退後の馬生もそれはもう波乱に満ちていた。引退後、故郷で種馬稼業に勤しむべく、花嫁を待ち続けた彼。しかし、血統はマイナーだが人気者だったアブクマポーロやメイセイオペラならともかく、人気・実績共に両者より劣っていたグルメフロンティアは、頼みの血統背景も彼らと同様に地味そのもの。その結果、初年度の種付け頭数は7頭(雑誌“優駿”より・JBISでは6頭)とまるで人気を得られなかった。それでも2003年まで種牡馬を続けたが、数少ない産駒の中から活躍馬が出ることは無く、やがて同年中に白井牧場と同じ町内の功労馬施設である名馬のふるさとステーションへと移り、事実上の種牡馬引退に追い込まれている。

種牡馬失格の烙印を押されたとは言えど、功労馬施設に入ったことで余生はひとまず安泰かと思われた。しかし、同施設は当時資金繰りが悪化していたこともあり、グルメフロンティアや他の繋養馬の扱われ方は大変酷いものであったという。彼らは昼夜を問わない長期の集団放牧(要するに原っぱにほったらかし)により傷だらけになり、餌もろくに与えられなかったらしい。そして時間が経つに連れて怪我は酷さの度合いを増し、貪られた放牧場は次第に草も生えない不毛の地と化していく。まるで馬の地獄絵図である。同年秋に有志によってこの地獄から何とか助け出されたグルメフロンティア。彼は長いネグレクトにより深刻な怪我を負っていたが、有志の必死の看護により徐々に回復し、12月に千葉県のオリンピッククラブ宝島乗馬学校へと移動することが出来た、同学校では種付けも10回以上試みられたというが、結局上手く行かず種牡馬復帰は叶わなかった模様である。2010年7月17日、かねてより発症していた腰痛を悪化させた彼は、遂に起き上がることが出来なくなり静かに力尽きた。享年19。なお、死の直接の原因となった腰痛に功労馬施設での怪我が影響していたのかどうかは筆者には分かりかねる。

ここまではグルメフロンティアの身に直接降り懸った災難を粛々と記してきたが、一方で引退後の彼の周囲で巻き起こった著名な“事件”として生産者の白井民平氏の自殺、そして「風の噂事件」というものがある。ここでは後者について私が分かる限りの事の顛末を記す。

現役引退から1年半ほどが経過したある日のこと。某超大型掲示板において、グルメフロンティアの地方競馬での現役復帰を伝えるスレッドが突然立った。内容に幾分真実味が感じられたため、スレッドの住民は朗報だと騒ぎ立てた。ところが、実はこのスレッドはいわゆる「ネタスレ」。いくらかの時間を経てスレッドを立てたユーザーが種明かしをしたものの、その間に競馬に造詣が深いことで知られる有名民俗学者Oが競馬週刊誌にて「風の噂で聞いた」としてグルメフロンティアの現役復帰を匂わせたからさあ大変。たちまち当該スレッドは「祭り」となった。結局、事実無根の噂に踊らされたOは大恥をかき、信用を失ってしまった。

この“事件”についての筆者の個人的な感想は特に記さないが、GⅠ馬・グルメフロンティアの存在の軽さと、Webの世界に浮かんでいる情報の裏を取ることの大切さを端的に表した出来事とは言えるだろう。

グルメフロンティア -GOURMET FRONTIER-
牡 鹿毛 1992年生 2010年死亡
父トウショウペガサス 母バンビファバー 母父ファバージ
競走成績:中央37戦9勝 地方1戦0勝
主な勝ち鞍:フェブラリーS 中山金杯

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