2015/02/17

【私撰名馬物語#48】ミスターヤマノ

―“遅れて来たミスター”のジレンマ―


閲覧者の皆さん、お待たせいたしました。朝日杯にちなんだニシノスキーの回以来、実におよそ2ヶ月ぶりの更新である。私事で恐縮だが、来たる3月から生活の環境が大きく変わるため、1月&2月とその準備に追われていたのだ。来月以降も更新のペースに大して変化は起きないだろうが、当分の間このブログを閉鎖するつもりは無いので、気長に新作をお待ちいただければ幸いである。

これで通算で48回目。あとふた作執筆すれば、区切りの50回目を迎えるというわけだ。以前のように中央重賞がある度に新作を発表するなんて真似は、所要時間やモチベーション(実はこれが一番デカい)の関係でもう難しいだろう。50回目に特別な企画をやろう、なんてことも今のところは頭に無い。このようにどうにもローテンションのまま今回の執筆に挑むわけだが、競馬に例えるなら休み明けの一叩きみたいなものなので、乱文乱筆その他の粗相に関してはどうかご容赦いただきたい。なお、事実誤認等のミスがもしあれば、何らかの方法で指摘していただければ有難い。

今回ご紹介するのは、1990年の小倉大賞典を制したミスターヤマノである。いわゆるオグリキャップ世代の一員でありながらも、典型的な遅咲きの血筋とそれと相反するような弱点を持ち合わせていたが故に、彼が世に出るのは6歳(旧馬齢表記)になってからであった。そして生涯初の大舞台において、この“遅れて来たミスター”は実に鮮烈な勝ちっぷりを披露したのだが、男盛りの季節は大変短いものだった。辛抱の前半生と輝かしい全盛期、それから間も無く入り込んでしまう退潮期の3つに分けられるミスターヤマノの競走生活。本稿ではそれに加えて“全盛期のお釣り”についても伝わっている限りのことを書いていきたいと思う。

ミスターヤマノは1985年3月25日に静内の松田三千雄氏の牧場にて誕生した。 松田三千雄氏は1981年のオークス馬・テンモンの生産者として知られている人物であり、そのテンモンは引退後同牧場に繁殖牝馬として繋養されていた。栗毛のミスターヤマノの父は前年の春から種牡馬入りしたばかりのアンバーシャダイで、母は中央3勝馬のレーシングルイースである。母の父は天皇賞馬・テンメイを送り出ししたルイスデールだから、血統の外貌は良く言えば重厚と言えるだろう。だが一口に重厚とは言うものの、ミスターヤマノの近親には後にも先にもこれといった活躍馬はおらず、父のアンバーシャダイも新種牡馬時代の評価は決して高くなかったという。

このように血統的な評価の度合いが未知数そのものだったミスターヤマノは、体つきも目立ったところが無く、2歳時のセリでもあえなく主取りとなっている。松田氏は「そう期待していた馬じゃなかったんですよ」と後にコメントしており、幼駒時代の彼は悪い意味で地味な存在だったというのが読み取れよう。

やがて長じた彼は栗東の福永甲厩舎に入り、1987年12月の阪神開催にて競走生活の緒戦を迎えた。結果は道中後方から直線で一気に伸び2着。負けたとは言えど、芝1400mという距離を考えれば上出来であった。ところが、中1週で出走した折り返しの新馬戦(芝2000m)で後方ままの14着に敗退。その後何とも運の悪いことに骨折してしまい、翌年5月まで休養に入った。

約5ヶ月の休み明けで出走した未勝利戦にて6馬身差ぶっちぎって初勝利を挙げ、中2週でオープン特別の白百合Sに挑んだもののシンガリ負け。次走の自己条件でも見せ場無く敗れた後、再びミスターヤマノは休養に入った。当時の彼は体質的にかなりひ弱であった。また、デビュー時に482kgあった馬体は5戦目には460kgにまで減っており、その上すぐ腰に疲れが出るという弱点があったという。アンバーシャダイの仔らしく、彼は典型的な遅咲きタイプであった。

晩成の血筋とは言え、素質が開花しておらず、結果が出ていないうちはただの馬だ。1989年1月に戦線復帰した彼は、懸念されていた体質面も少しずつ強化され、その春は月1、2走のペースで使われた。結果、2月に400万下条件戦と900万下特別を樋口弘騎手とのコンビで楽に連勝し、準オープン4走中3走で掲示板に載るなど確かな進境が見られた。だが、この春の躍進の陰で彼のもう一つの弱点が徐々に表面化していった。それは「ペースが遅いと引っ掛かる」という点。長い距離をこなすだけの持久力は十分。だが、その弱点を持つが故に中距離以下のレースを使わざるを得ないわけだ。一流ステイヤーへと脱皮するためには、長距離血統の彼が抱えていたこのジレンマは致命的に近い大問題であった。

同年1月から5月に掛けて8走した後、ミスターヤマノは笹針を打たれて放牧に出された。結果から言えば、彼にとってはこの休養が大きかったようだ。秋に復帰した彼は腰の弱さが改善され、競走馬として完全に本格化していた。休み明けから3走目となる12月の900万下条件戦を完勝すると、翌1990年正月の900万下条件特別の新春賞を4馬身差で圧勝。それから間も無く小倉に遠征し、オープン特別の関門橋Sを早め先頭の競馬で押し切って見せた。この時手綱を取ったのはベテランの樋口騎手で、同コンビは3勝目。なかなか相性は良さそうだ。

中距離戦を早め先頭の競馬で押し切るという勝ちパターンも見事に完成し、競走馬として全盛を迎えたミスターヤマノが次に照準を合わせたのは2月半ばのGⅢ・小倉大賞典であった。同重賞では2年前の阪神3歳Sを勝ったGⅠ馬のラッキーゲランや、中京記念勝ちのある安定勢力・インターアニマート、重賞2勝のファンドリポポに、前年の同重賞の覇者・ダイカツケンザンなどが出走表に名を連ね、ローカル中距離重賞としてはまずまずの好メンバーが揃った。良馬場発表ながらも時計の掛かる馬場はミスターヤマノにとって好条件。だが、ハンデ56kgはやや見込まれた感もあり、前述のラッキーゲランに加え、ケープポイントやミスターブランディといった逃げを得意とするライバルがいることもあって、前半が厳しい流れになるのは必至と見られていた。スタミナはあるがスローだと掛かってしまう、しかし楽に行けないと後半粘りを欠く彼にとって、果たしてこれはプラスと言えるのか……結果は神のみぞ知るといったところであった。

ハイペースを見込んでのものか、それともユタカ人気によるものなのか、はたまた斤量の53㎏に着目したのか、蓋を開けてみれば1番人気に支持されたのは武豊騎手が鞍上の重賞未勝利馬・オースミシャダイであった。オースミシャダイは後に重賞2勝を挙げ種牡馬入りするほどの馬だが、当時は皐月賞4着が目立つ程度の二流馬。それに、ローカル千八のコースにおいて自慢の末脚が活きるともどうも思えない。筆者がレースの結果を知っている立場だからかも知れないが、同馬は馬券的妙味の感じられる馬では無かった。2番人気にはインターアニマートが推され、これが重賞初挑戦のミスターヤマノは3番手という評価。ここが一流馬に出世できるかどうかの試金石といったところだろう。

オープン大将・ケープポイントが2番枠からアオって出てしまい、先手を奪ったのは最低人気のダンツエリート。出の良かったミスターヤマノや9歳馬のミスターブランディも続いて先行争いに加わった。元々樋口騎手は福永師の指示通りに前に付ける心づもりだったようだが、ケープポイントの出遅れが若干の展開利を招いたことは否めないだろう。オースミシャダイはいつも通りの後方待機。

そのまま平均ペースで流れる道中でケープポイントが巻き返しを図り、3角を前に先頭に立ったものの、すぐにミスターヤマノとダンツエリートが抜き返し、交わされたケープポイントは一杯に。直線を前に楽な手応えで抜け出したミスターヤマノ。後続馬は全く付いて行けず、彼は「気合をつけるとギュ~ンと(樋口騎手:談)」ただ加速していった。「後ろからは何にも来ない」状態のミスターヤマノは抜群の手応えのまま危なげなくゴールイン。終わってみれば2着のダンツエリートとは8馬身もの差がついていた。3着にはダイカツケンザンが入り、人気のオースミシャダイとインターアニマートはそれぞれ5着、9着に敗退した。

1985年12月以来約4年2ヶ月ぶりの重賞制覇となった樋口騎手は「何と言っても、重賞の常連組相手にこの楽勝が素晴らしい」とミスターヤマノの圧勝劇を素直な表現で讃え、福永師は「いや本当に強かった。びっくりしたよ。」と驚きを隠せない様子であった。強豪相手にハンデ56㎏で圧勝したというのは、彼らにとって大いに自信になったことだろう。父親のアンバーシャダイにとってはこれが産駒の重賞初制覇となり、種付けシーズンを前に丁度良い宣伝材料となった。“遅れて来たミスター”は、都合の良い孝行息子とも言えたのだ。

しかし、確かに歴史的な勝ちっぷりではあったが、今後はさらに重い斤量を背負いながら王道路線を歩まねばならない。早め先頭から押し切る競馬しか出来ないようでは芸が無いし、真の一流馬は脚質に幅があるものだ。このように、GⅠを奪取するためには気性面の成長が不可欠と言えたわけだが、悲しいことに小倉大賞典以後のミスターヤマノは逆に急速に輝きを失っていくのである。

続く3月の中京記念では、ハンデ58kgと前半1000mが57秒5という超ハイペースの消耗戦に屈し12着に惨敗。レース後当初の予定通り放牧に出たミスターヤマノだが、前年の秋から押せ押せで使われたのが響いたのかなかなか状態が戻らず、復帰戦は実に1年4ヶ月後、1991年7月の小倉日経賞にまでずれ込んだ。このレースで逃げバテてシンガリに敗れた後、57kgを背負ってGⅢの北九州記念(芝1800m)に出走。あの小倉大賞典と全く同じコース条件で復活を図り、4角先頭の積極策で勝利を目指したが、直線あえなく失速しムービースターの5着に敗れた。秋は福島で2戦したがカブトヤマ記念4着、福島記念13着と完全復活には至らず、北九州記念以後顕在化していた脚部不安により休養入り。そのままターフに帰ってくることは無かった。結局引っ掛かる気性が改善されることの無いままの、不完全燃焼の競走生活であった。

GⅢ1勝、それもローカル重賞という実績。その上血統的に新味が無いという身の上では当然種牡馬入りは出来ない。このクラスの牡馬だと引退後行方不明になるのもよくある話と言える。だが、このミスターヤマノは唯一の重賞勝ちから25年を経た今もなんと健在だという。乗馬として色々な牧場を転々とした後、現在は平取の高橋牧場(旧名:高橋啓牧場)にて余生を過ごしているそうだ。最近撮影された彼の写真を見ると大分痩せてはいるが、綺麗な栗毛はそのままである。周囲の人に恵まれたのか、それとも小倉大賞典の圧勝劇のお釣りがまだ残っているのか、あるいはそれらの両方が作用しているのか……兎にも角にも、辛抱と苦労が折り重なった現役生活を送った彼は、各方面より様々な恩恵を受け、今でもちゃっかりと北海道の大地に足を付けて佇んでいる。

ミスターヤマノ -MR. YAMANO-
牡 栗毛 1985年生
父アンバーシャダイ 母レーシングルイース 母父ルイスデール
競走成績:中央25戦7勝
主な勝ち鞍:小倉大賞典

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