2015/03/21

【私撰名馬物語#51】キーミノブ

―ありふれたマル父馬の背中に羽が生え、弾みに弾んだ2ヶ月間―


古今東西、馬の生き死にの事例には謎がつきものである。やれ銃で撃ち殺されたとか、猛毒を盛られたとか、脚を叩き折られたとか、突飛且つ一見して物騒と解せる海外の事例はともかく、現役時にドンパチの世界とは無縁な印象だった重賞級の名馬でも、この日の本では簡単に“用途変更”とか“転売不明”といった不可思議な言葉の下に埋められてしまう。本当に本当に、競馬の世界はきな臭いなぁ……という思いを常時心の底に沈めつつ、我ら競馬愛好家は日々馬券を握る。

1978年の有馬記念にてレコード勝ちを収め、 同年の年度代表馬に選出されたカネミノブ。現役時代に輝かしいスポットライトを浴びていた彼の老後、そしてその末路が何とも侘しいものであったということはそれなりに知られていよう。彼の種牡馬成績はGⅢ馬を3頭出した程度と大したものでは無かったが、1990年前後の内国産種牡馬事情を鑑みれば上出来に近いとも言える。さらに、彼が馴染みの繋養地を追われ行方知れずとなった1993年の春には、息子のグランドシンゲキがGⅢのアーリントンCを逃げ切っている。したがって、用無しで時代遅れの三文血統というわけでは決して無かったはずなのだが……いずれにせよ、このカネミノブの死にまつわる“謎”は、競走馬が生きるも死ぬもオーナーの胸三寸である、という日本競馬における残酷な理を表していると言えるのではないか。

その不憫なカネミノブの代表産駒を問われれば、多くの競馬愛好家たちは恐らく「キーミノブ」と答えることであろう。この「キーミノブ」という馬名はスタイリッシュでは無いが、シンプル且つ響きにインパクトがあり、覚えやすい。加えて、実績の上でも他の重賞馬2頭に勝っている。そもそも、カネミノブ産駒の中央重賞ウイナーを問われて、ちゃんと回答できる方がどれだけいらっしゃるのかということに疑問はあるが(ニューファンファン、グランドシンゲキ)。

というわけで、廃止重賞のペガサスS(現在のアーリントンCに当たる)と来週末の毎日杯にちなみ、今回は1990年に両重賞を連勝したキーミノブについて取り上げてみたい。地味な血統に冴えない風体。こんなありふれたプロフィールの下に誕生した馬が、春の仁川にて弾みに弾んだ。そして、彼を“1990年版西の秘密兵器”として華々しくクラシック戦線に登場させ、東上最終便に搭乗を願い後世まで名を知らしめたのは、まさしくある大物実況アナウンサーの名文句に拠るところが大きいだろう。本稿ではその懐かしのフレーズも織り込みながら、競走馬・キーミノブの生涯について分かる限りのことを記していく。

キーミノブは1987年生まれの黒鹿毛の牡馬。彼と同じ世代にはアイネスフウジンやメジロマックイーンらがいる。父は前述の通りグランプリホースのカネミノブ、母はイエローゴッド産駒のキーケルナーである。このキーケルナーは中央未勝利馬で、当初は「非常に受胎しにくい(生産者の高瀬すが子氏:談)」難儀な繁殖牝馬であったというが、時代は下って1999年の秋にお払い箱になるまで、2番仔のキーミノブを含めて9頭の産駒を残した。そのうち末っ仔のキーボランチ(父キンググローリアス)は2002年の京都新聞杯においてファストタテヤマとクビ差の2着に入るなど、オープンクラスで長らく活躍を見せている。母は牝駒も3頭残したが、キーミノブの全妹が1頭繁殖入りしただけで、その1頭も後継牝馬は残せず牝系は絶えている。キーミノブのいとこには新潟大賞典勝ちのセッテジュノーがいる。

後に高瀬氏が語るには、幼駒時代のキーミノブは「これといった病気もせず、性格も非常に素直で、本当に手の掛からない馬」であったという。だが、長じて栗東の日迫良一厩舎に入った際には、どうも骨が弱くて稽古も思うようにいかなかったらしい。さらに、自身の血統由来なのか気難しさも抱えるようになり、調教ではヨレ癖を頻繁に見せ、レースでの折り合いにも少々不安があった。馬体に関しては、良く言えば父に似た均整の取れた好馬体、悪く言えば少し線が細かった(デビュー時の馬体重は464kg)。いずれにしても、重賞を奪取するほどの大物に育つとは考えづらい若駒であったようだ。

1990年正月の京都開催の4歳(旧馬齢表記)新馬戦(ダート1800m)がキーミノブの初陣となった。しかし、ベテランの上野清章騎手が手綱を取ったものの、「絶対的な調教量が不足していた(日迫師:談)」ためか9番人気の5着に敗退。デビュー戦を飾れなかった。続く2戦目(京都芝1600m)ではソエを気にしており、やはりコンディションはイマイチの情勢。そんな中、村本善之騎手を背にハナを切り、ゴール寸前まで粘り込んで2着に入ったことは、陣営にとって大きな自信になったようだ。

こうして2戦続けて敗戦を喫したキーミノブ。この冴えないマル父馬の転機は同年2月の小倉開催にて早くも訪れた。2戦目から中1週で出走した未勝利戦(芝1200m)を、出遅れて前がつかえて大外をぶん回しての三重苦を抱えながらも、直線一気の伸びで一閃し3馬身半差で完勝。3戦目にして初日が出ると、連闘で1勝馬クラス・同条件の萌黄賞に挑み、これも楽に勝った。鞍上は当時デビュー3年目の千田輝彦騎手であった。

小倉で2連勝を果たし、堂々オープン入りを果たしたキーミノブは、返す刀で3月初めのGⅢ・ペガサスS(阪神芝1600m)に出走した。前の2戦は共に重馬場の下で施行されたが、どういうわけかこのレースの馬場状態も重となった。鞍上には2戦目以来に村本騎手が据えられ、ソエも回復し万全の体勢で臨んだわけだが、強敵がまず1頭。それは前年の阪神3歳Sの覇者であるコガネタイフウであった。430kgそこそこの小柄な馬体ながらも、闘志を全身にみなぎらせて走るこの西の3歳チャンプは、前走のきさらぎ賞で2着に敗れた汚名をそそぐべく、この重賞に出てきたのだ。単勝オッズ1.4倍という評価は、この時点ではまだまだファンがコガネタイフウを見捨てていなかったことを示していると言えよう。当のキーミノブは離れた2番人気の支持を受け、以下きさらぎ賞3着のナリタハヤブサ、2戦2勝のアンビシャスホープが続く情勢となった。

3枠3番に配されたキーミノブは道中は先団の後ろにつけ、楽な手応えで追走した。対してコガネタイフウは後方から追い掛ける展開となり、3コーナー手前で主戦の田原成貴騎手の手が早くも動き出す。不運なことに、この追い上げを図った本命馬に悪夢が襲い掛かる。コーナーで外を回した同馬の前を行くニホンピロエイブルが微妙に外へと斜行し、その煽りを食って田原騎手が落馬。単枠指定の圧倒的人気馬が直線を前にして消え場内が騒然とする中、内を回した黒い帽子のキーミノブは直線で馬場の良いところを悠々走り、最内をすくって逆転を図ったナリタハヤブサを完封してゴールイン。3連勝で初重賞制覇となった。

この勝利に、世間では「キーミノブは重馬場が向いた」という評価が一般的ではあったが、村本騎手は「本来はスピードタイプなので良馬場だったらもっと走るんじゃないかな」とクラシックへの期待を寄せた。また、生産者の高瀬氏は「主人を亡くしてからの辛い思い出が、全て洗い流されたような気がいたします」と喜びを語っている。1975年に夫の幸次氏を交通事故で亡くした高瀬氏は、それ以降女手一つで牧場を切り盛りし、3人の娘を育て上げたのだという。殊勲のペガサスSの前日に当たる3月3日には同氏の還暦祝いの会が催され、次女に牧場の後を継ぎ得る婿が来た(恐らく現場主の高瀬敦氏のことであろう)こともあって、高瀬氏は「今、毎日喜びを噛みしめています」とただ感無量の様子であった。

しかし、ペガサスSを勝った時点では重馬場の悪条件に本命馬のコガネタイフウの事故も重なったこともあり、依然キーミノブは皐月賞への伏兵の域を出ていなかった。彼の名をスターダムへとのし上げたのは、やはり次走の毎日杯での快走であろう。

馬場状態は良馬場、距離は2000mと、3連勝中のキーミノブにとって毎日杯はどうも不安材料が多かった。とは言え、肝心の相手関係は、シンザン記念勝ちがあるも弥生賞では5着に敗れ去ったニチドウサンダーが大将格であり、それほど厳しいものでは無い。何よりも毎日杯を勝ち、最終便に乗り自信を持って東上しなければ、メジロライアンやアイネスフウジンといった強豪たちが待ち構える本番では勝負になるわけが無いのである。本番と同じ距離のこのレースにおいて、老齢の日迫師が育て上げたキーミノブの真価が初めて問われることとなった。

そしてこの勝負は驚くほど呆気無く決した。3コーナーの前でそれまで先導していたニチドウサンダーの手応えが早くも怪しくなり、直線入口で3番人気のキーミノブが先頭に。4角先頭の横綱相撲からの押し切りを図った村本騎手。その手を離れるかのような勢いで外へ外へとキーミノブが伸びていく。泡を食ったカメラはわなわなと揺れ始め、無人の荒野を行くキーミノブは外ラチ沿いへとただ進路を取る。

「さあ、先頭はキーミノブ!キーミノブ先頭だ!」
「東へ東へ、キーミノブが弾む!キーミノブが弾む!」

リズム良く小気味良い杉本節が晴れ舞台を彩る。2着のロングアーチに2馬身の差をつけ、弾みに弾んだキーミノブは外ラチ一杯を駆け抜けた。日迫師は「この道50年にして初めてクラシックを狙える馬に巡り会えた」と、1984年のゴールドウェイ以来の東上を誓った。目下4連勝、重賞2連勝。当時のキーミノブは自身の生涯における絶頂期の中にいた。

予定通り東上が叶い、4月15日の皐月賞の出走表に名を連ねることが出来たキーミノブ。輸送で馬体を減らすことは無かったものの、状態は毎日杯の時と比べると1段階落ちていた。レースではアイネスフウジンの気風の良い逃げを好位3番手から追走するも、ペースが上がった3コーナーで位置取りを悪くし、直線でも伸びそうで伸びずハクタイセイの6着に敗退。村本騎手は「馬場が乾いてスピード競馬になっては苦しいね」と前言を翻す始末であった。続いて日本ダービーにも出走したが、4コーナーで進出するも結局は力の差を感じさせられる8着に敗れた。アイネスフウジンの逃げ切り勝ちに伝説のナカノコールが響き渡る府中の杜に、敗者であるキーミノブと村本騎手はどんな顔をして佇んでいたのか。関西所属馬としては淀の菊花賞で何としても巻き返しを図りたかったが、ここで右前脚の屈腱炎を発症。名誉挽回が成らないままで、失意のキーミノブは長期休養に出てしまった。

カネミノブは皐月賞6着、ダービー3着、菊花賞5着と、三冠レースにていずれも勝ち馬の後塵を拝した後、古馬になってから急成長し、「闘将」加賀武見騎手とのコンビで1978年の有馬記念を制した。そんな父と毛色は違えど(カネミノブは鹿毛でキーミノブは黒鹿毛)、よく似ている中肉中背の均整の取れた馬体を持っていたキーミノブに、5歳以降の躍進を期待するのは自然な流れと言えたわけだ。だが、羽が生えたような走りを見せていたあの2ヶ月間は、もしかしたら効果のごくごく短い魔法を掛けられていたのかも知れない。1991年3月より戦線復帰した彼は以後屈腱炎の再発による休養を挟んで10戦したものの、全て掲示板にも載れない惨敗を喫し、やがて1993年春に彼は中央競馬より姿を消した。

かくして魔法が解けた……あるいは完全に燃え尽きたキーミノブは、1993年の夏に道営競馬の塚本哲雄厩舎へと入り、同年11月に復帰した。塚本師が言うには、入厩時の彼は「丸々と太って、まるで熊みたいだった」という。古傷との兼ね合いもあって調整は思うように進まず、なかなかに苦しい状況が続く中、相手関係が幾分楽な道営のレースで掲示板にでも載れば万々歳だったのだが、2戦して共に10着と全く結果を残せずじまい。その後塚本師の定年に伴い退厩し、翌年春には佐賀競馬の津野正浬厩舎へと転厩した。

道営競馬のオフシーズン中、「最後の調教師生活を懸けてこの馬を立て直して見せる」と意気込んでいた塚本師の願いが叶ったのか否か、1994年5月から佐賀にて復帰すると、全て下級条件戦ながらも同年11月初めまでで10戦して8勝の成績を残すことができた。これを復調と見るかは意見の分かれるところではあるが、ともかく中央重賞2勝馬として一応の格好は付けたわけだ。ところが、クラスが上がって1400mから1750mに距離が延びると通用しなくなり、以後7戦したもののいずれも馬券圏外に消える惨敗を喫してしまう。そして1995年3月のレースで9頭立て9着に敗れたのを最後に、キーミノブの出走履歴は途絶えている。登録抹消後の彼について伝えている資料は皆無と言っても良いほどで、僅かに「九州の牧場で繋養されていた」という情報がWeb上に散見されるのみである。と言っても種牡馬登録をされた形跡はないため、乗馬か当て馬でもやっていたのかも知れない。2015年現在、生存していれば旧表記で29歳ということになるが、恐らく彼はもうこの世にはいまい。彼の短くて長い戦いの後には、「東へ東へ、キーミノブが弾む!」の名調子だけが残った。

キーミノブ -KEY MINOBU-
牡 黒鹿毛 1987年生 没年不詳
父カネミノブ 母キーケルナー 母父イエローゴッド
競走成績:中央18戦4勝 地方19戦8勝
主な勝ち鞍:毎日杯 ペガサスS

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