2015/03/12

【私撰名馬物語#50】キクノペガサス

―淀のアタマ差から二十余年、シンガポールにて明けたペガサスの朝―


1980年、秋の天皇賞。このレースを柴田政人騎手を背にしたプリテイキャストがまんまと逃げ切って以降、実に17年もの間牝馬による秋天制覇は達成されなかった。それどころか、有馬記念などその他の牡牝混合の古馬王道GⅠを手にすることすら1度として無かったのである。ウオッカやブエナビスタ、そしてジェンティルドンナが当代一の最強馬として主役を張ることが出来る世の中となった今ではまさに隔世の感があるが、1997年に秋の天皇賞を制したエアグルーヴはだからこそ当時騒がれ、絶大な人気があったのだ。

だが、その17年の間に牝馬が牡馬に全く敵わなかった、ということを申し上げているわけでは無い。短距離路線に目をやればダイイチルビーやにノースフライト、シンコウラブリイなどがGⅠを手にしているし、王道路線でもイクノディクタス(宝塚記念2着)やヒシアマゾン(有馬記念2着)にファビラスラフイン (ジャパンC2着)といった馬たちが気を吐いている。これらは十分に誇れる成績であるはずだ。しかし、こと秋の天皇賞においてはグレード制以前の1983年に2着に突っ込んだカミノスミレ以降、連対した馬はなかなか現れなかった。それどころか、3着に入った馬すらその翌年のロンググレイスのみと、芝2000mという牡牝がある程度対等にやり合える距離条件にも関わらず、非常に分が悪かったわけである。

節目の50回目となる今回取り上げるのは、1985年の中日新聞杯を制したキクノペガサスである。彼女はGⅠ馬では無く、生涯のキャリアも僅か9戦と少ないが、馬格や人的要因にも恵まれて実りの多い濃密な現役生活を送った。「秋にはトウメイ(1971年の年度代表馬)級の出世も期待できる」とまで管理調教師に謳われ、当時の父内国産馬、そして牝馬たちの中でも屈指の強さを誇った彼女は、来たる古馬王道路線への参戦を大いに望まれたのだが……何故陣営はキクノペガサスという名をGⅠ馬の歴史に刻み損ねてしまったのか、その理由について現役時から30年を経た今考えてみたいと思う。

キクノペガサスは1981年4月28日にエクレアという繁殖牝馬の5番仔として生を享けた。父は言わずと知れた「天馬」トウショウボーイで、キクノペガサスは同馬の3世代目の産駒に当たる。スタッドイン当初のトウショウボーイは種馬としての人気がそれほど無く、3世代目の種付けの申し込みも繋養地の日高軽種馬農協が設定した交配頭数の3倍程度の数であったという。この倍率が同馬の晩年には10倍を超えたというのだから儲けものと言えた。母のエクレアは青森のタイヘイ牧場産の中央3勝馬であり、その父はセダン。セダンは天皇賞馬を複数送り出し本格派種牡馬として当時知られていた。トウショウボーイ×セダン牝馬という配合からは「雨に泣いたエリート」サクラホクトオーや、中央2勝も種牡馬入り後中央オープン級を出したダイイチボーイらが送り出されている(が、意外と配合例は少ない)。エクレアの母であるスティーヴスアニー(輸入牝馬)の子孫からはダイワゲーリック&フェイムオブラス兄妹が出ており、その血統は今もタイヘイ牧場に根付いているようである。

生産者である静内の漆原哲雄氏は2015年現在に至るまで馬産を続けているようで、生産馬のラインナップにはキクノペガサスの子孫もちらほらと見受けられる。漆原氏はキクノペガサスの出生についてこう語っている。「キクノペガサスは放牧場で生まれた仔なんですよ。出産予定日が近づいていたので、十分注意はしていたんですが、気が付いた時にはもう半分産まれかかっていましてね。動かすことも出来ないからそのまま産ませ、近所の人に手伝ってもらってリヤカーで馬房へ連れていったことが思い出として残っています」母のエクレアは母乳の出が悪く、幼駒時代のキクノペガサスは仔離れの時期近くまで母乳の他に手製のミルクを飲まされていたという。手の掛かる仔ではあったが、その甲斐あってか成長すると牝馬らしからぬ雄大な馬格を誇るようになり、周囲の期待も馬格に比例するように大きくなっていった。

ところが、トウショウボーイ産駒の宿命、あるいはテスコボーイのラインの定めなのか否かは判然としないが、若き日の彼女はこの系統特有の腰の甘さを抱えていたのだった。やがて母と同じ佐々木秋芳氏の持ち馬となり、栗東の宇田明彦厩舎へと入厩したのだが、腰の弱点はなかなか解消せずデビューが遅れてしまった。新馬戦に出走することは遂に叶わず、彼女の現役生活緒戦は4歳(旧馬齢表記)になってから。1984年3月末の阪神の未出走戦(当時存在した遅い時期の新馬戦のような扱いの競走)が初陣となった。だが能力はすでに相当なものがあり、ダート戦の初陣ながらも、宇田師縁の南井克巳騎手が跨って余裕の勝利を飾っている。

デビュー戦を見事な形で飾ったとは言えど、すでに牝馬クラシック第1戦の桜花賞はその翌週に迫っていた。仕方なく宇田師は愛馬の目標を5月20日のオークスに定めることになったわけだが、それにしても3月末デビューの牝馬を5月下旬のGⅠ、それも2400mの長丁場に挑戦させるのは常識的に考えて無茶が過ぎる。初戦から中2週で出走した4月のたちばな賞(京都芝1600m)でも重馬場をものともせず完勝したキクノペガサスだったが、ここで腰の状態が再び悪化。多少無理すれば使えないことも無かったというが、2戦2勝馬として何とかオークスへ滑り込める体勢ながらも、宇田師は今後のことを考えて彼女を放牧に出すことにした。

この年の4歳牝馬路線はここまで栗東・中村好夫厩舎のダイアナソロンを中心に回っていた。桜花賞トライアルこそ6着にコケて若干評価を下げたが、本番を4角先頭の競馬で5馬身ぶっちぎり、文句なしの完勝。トウショウボーイの仇敵だったテンポイントの近親に当たるこのお嬢様と、拳を高く振り上げて派手なガッツポーズを見せた田原成貴騎手とのコンビは華があった。そして絶頂期にあった同コンビに、もう一つの大一番であるオークスで強烈なパンチを浴びせてノックアウトしたのが、同じく関西馬で中村均厩舎所属のトウカイローマンである。桜花賞4着の同馬は440㎏程度の目立たない馬格ながらも、良発表でもかなり時計の掛かる府中の芝を実に力強く駆け抜け、大本命のダイアナソロンを完封してしまった。手綱を取ったのは、弱冠22歳ながらも平地・障害を問わない活躍を見せていた岡冨俊一騎手だった。

片や3歳路線で5戦4勝の成績を残していた良血馬のマーサレッドは骨折。そして新潟3歳Sの勝ち馬で朝日杯で1番人気に推された雑草娘・マリキータは、慢性化した骨膜炎のためどうも本調子に無かった。これら3歳牝馬路線の両巨頭が4歳春を前に表舞台からひとまず退場し、代わって登場した2頭のクラシックホースが秋の主役の座も得るべく、じっくりと英気を養っていた1984年の夏。一介の2勝馬ながらも、当時すでに才気がほとばしっていたキクノペガサスは、笹針を打たれやはり一旦じっくりと養生していたのであった。雌伏の夏、されど彼女がやがて飛躍の秋を迎えるためには不可欠な時間だったと言えよう。

「悲運の一族のお嬢様」ダイアナソロン、「泥臭さが売りの樫の女王」トウカイローマン、そして「天馬が送り出す隠し玉」キクノペガサス。この3頭が一堂に集ったのが9月9日のGⅢ・サファイヤS(阪神芝1600m)である。夏を越えて初秋を迎え、キクノペガサスが持つ最大のウィークポイントだった腰はすっかり回復していた。こうなれば2戦無敗の彼女への陣営の期待は大きくなる。7頭立ての4番人気と戦前の評価はそこそこどまりであったものの、レースでは後方待機から鋭く伸びて2着のキョウワサンダーと差の無い3着に入った。3着、と言っても2位入線失格のロングキティーに直線で進路を阻まれた結果、脚を余して4位入線という内容である。勝ったダイアナソロンとも1馬身少々の差しか無く(トウカイローマンは5着)、末脚が殺される不良馬場で行われたということを考えれば上出来であった。なお、宇田師は「ダイアナソロンを負かすつもり」であったという。

しかし健闘したとは言え、GⅢで3着では収得賞金が全く追加できない。陣営はここでキクノペガサスの次走を10月半ばのGⅡ・ローズSでは無く、9月末の平場900万下条件戦に定めた。11月4日のエリザベス女王杯(当時は4歳牝馬限定戦)に単に出走させるのならば、5着までの馬に優先出走権が与えられるローズSの方が彼女にとって都合が良いはずである。これは筆者の推測になってしまうが、将来を見据えて自己条件で確実に収得賞金を積むため、そしてローズSを使うとエリザベス女王杯まで中2週のローテーションになってしまうため、などの理由があったのではないかと思われる。ともかく、秋2戦目となる自己条件戦をキクノペガサスは3馬身差で快勝。4戦3勝3着1回という堂々たる戦績を引っ提げて、彼女は勇躍秋の大一番へと向かうことになった。

さて、GⅠのエリザベス女王杯(京都芝2400m)である。前哨戦のローズSでは桜花賞2着馬のロングレザーが意地を見せてハナ差だけ関東馬のジムベルグを抑え込んでいた。前哨戦の前哨戦を勝利で飾っていたダイアナソロンは3着に敗れたが、「トライアルはトライアル。本番では巻き返すだろう」という見方が大勢を占め、単勝オッズは2.5倍と抜けた人気に。一方のオークス馬はトライアルで6着に屈したがために8番人気と完全に舐められていた。片や大金星のロングレザーも距離不安が囁かれて7番人気と低評価で、ダイアナソロンに続く人気を集めていたのは前述のジムベルグ、前年覇者のロンググレイスの半妹に当たるファイアーダンサー、12年前のオークス馬・タケフブキの娘であるタケムスメ、そしてこのレース最大の惑星たるキクノペガサスといったところ。3歳女王のマーサレッドも夏から復帰していたが、ローズSでの9着を含めて4戦し全て着外と精彩を欠いており、ここでの単勝オッズは100倍を超える始末。同じ武岡牧場で誕生したロングレザーとは立場が逆転してしまった。

透けるように青い秋の空の下、先頭を切って行ったのは3番枠の元天才少女・マーサレッドであった。他の20頭を引き連れて、松田幸春騎手とマーサレッドは淡々且つ爽快な逃げを打つ。先行勢で人気なのは大外枠のファイアーダンサーぐらいなもので、大本命のダイアナソロンは後方集団。一方のキクノペガサスはスタートでダッシュがつかず、ダイアナソロンとほぼ同じような位置取りである。先頭を行く華奢なマーサレッドは道中かなりペースを落としたため、キクノペガサスと南井騎手は折り合いに苦労しギクシャクと頭を上下させていた。向正面で6番人気のハッピーオールトンが落馬・競走中止する中、人気馬たちがついに動き出した。3コーナーを過ぎると、末脚自慢のはずのジムベルグが的場均騎手のゴーサインに応えて一気に先頭を奪い、マーサレッドはここで御役御免。折り合いを取り戻したキクノペガサスやダイアナソロンも位置を上げて、いよいよ走破圏内に入ってきた。

直線に入るとまずジムベルグが粘り込みを図ったが、内を狙ったダイアナソロンと外のキクノペガサスがそれを強襲。早仕掛けのジムベルグは脚が持たずに失速してしまう。ところが、脚色良く見える2頭よりも、さらに手応えの良い芦毛の馬が大外から突っ込んできた。サファイヤS2着、14番人気のキョウワサンダーとベテランの樋口弘騎手だ。422㎏のスリムな赤メンコが、490kgの水色のメンコを外から凌駕する勢いで伸びる。グラマーなキクノペガサスも内から応戦したが、ムチを叩きに叩く南井騎手は追いに追いまくる樋口騎手に敵わない。やがて一番分の悪かったダイアナソロンが失速し、勝敗は完全に決した。1着、キョウワサンダー。そしてアタマ差の2着にキクノペガサスが入った。

この惜敗を、キクノペガサスの鞍上の南井騎手は後々まで悔いた。後にタマモクロスやナリタブライアンによって遅まきながらスターダムへとのし上がった彼は、「自分がGⅠを勝てなかったのはGⅠで本命になる馬に乗ってなかっただけの話」と公言して憚らなかったが、ことキクノペガサスについて問われると、

「明らかに僕のせいで負けた。あの場合は勝たなきゃいけなかった」
「僕のミスでエリザベス女王杯は取れなかった」

と決まって悔しげに語っている。南井騎手はこれまでGⅠ(級)タイトルを手にしたことが無く、エリザベス女王杯でのキクノペガサスの敗因を彼に求める声も当時多かったという。確かに道中では折り合いを欠いていたし、3・4コーナーでの進路取りにも甘さが見られたのは事実である。兎にも角にも、このアタマ差は色んな意味で大きすぎた。

エリザベス女王杯後のキクノペガサスは、相棒の南井騎手と共に敗戦をバネにして大きく飛躍していった。12月のGⅢ・愛知杯では平凡なスタートから二の脚がつかず危うさも見せたが、直線では内から抜群の伸びを見せてタイアオバ以下との追い比べを制し初重賞制覇。同い年の強豪牡馬であるニシノライデン(8着)らを相手にしなかった。続く阪神牝馬特別ではトップハンデタイの55kgを背負い、前走と同様に出が悪く直線入口ではまた馬群の中。そこから馬群を切り裂いて一気に伸びて直線半ばで逃げるロングロイヤルを捕捉し、最後は2着のカルストンテスコに3馬身半差つけ突き抜けてしまった。 これで通算7戦5勝、重賞は2連勝。

その強さは「女ルドルフ」との声が上がるほどで、1984年度の“優駿”フリーハンデではシンボリルドルフ(67kg)、ビゼンニシキ(60kg)に次ぐ4歳馬3位タイの58kgの評価が付けられた。この評価は桜花賞馬のダイアナソロンと同等であった。また、優駿賞(現在のJRA賞)最優秀4歳牝馬の選考では無冠ながら23票を集め(なおダイアナソロンが116票で受賞)、最優秀父内国産馬の選考でも6票を得るなど、マスコミ内での評価もうなぎ上り。同年に手にしたGⅢタイトルはそれぞれ父内国産馬限定戦、牝馬限定戦だったから、翌1985年は混合のGⅢ、そしてGⅡ・GⅠタイトルを獲得するような活躍が期待された。

年明け緒戦の京都牝馬特別では珍しく早め抜け出しの競馬を図ったが、勝負付けが済んだはずのファイアーダンサーの出し抜けに遭いハナ差で2着。とは言え2頭の斤量はそれぞれ56kg&52kgと4kgも差があったことを考えれば、納得の敗戦であった。むしろレースの結果よりも、スタート良く好位置につけられたことこそが良い材料に思えて仕方が無かったのだ。

生涯3度目の敗戦の後に迎えた2月のGⅢ・中日新聞杯での走りは、ここまでの8戦で培った経験の集大成となった。マル父重賞らしくこれといった強敵はいなかったが、 牡馬を含めても最重量である56kgを背負いながらも快調に好位で先行。直線に入ると逃げ馬の内をすくって先頭を奪い、追いすがる6歳牡馬のブルーダーバンを1.3/4馬身差完封して見せた。この勝利で離れた4着のファイアーダンサーへのリベンジに成功すると共に、春のグランプリである宝塚記念、そして秋の大目標たる天皇賞への期待が大いに高まった。ちなみに、1985年当時は古牝馬限定GⅠなど影も形も無い。

長く持続する末脚に自在性も身に付けたキクノペガサスは、この時点でまさに絶頂期を迎えていたと言えよう。同い年のライバルであるダイアナソロンは翌週のGⅡ・マイラーズCで牡馬に交じって3着に入ったが、それと比較しても何ら引けを取らない。それどころか、牡牝混合のGⅠでも好勝負になる、という自信が宇田師や南井騎手の心中に確かにあった。事実、前年秋に枕を涙で濡らした南井騎手は、この頃のインタビューでは「牝馬ではこの馬が一番強い」「キクノペガサスでGⅠを狙いたい」と言い放っている。前年秋から押せ押せの使い詰めで7戦もしたため、中日新聞杯の後は休養に入ることになったが、宝塚記念辺りで復帰し現役最強馬・シンボリルドルフに挑み、これを見事に負かす……こんな実現困難に思えるような青写真が、自信を深めた陣営の胸の中には臆面も無く描かれていたことだろう。

同年6月の宝塚記念。シンボリルドルフが直前で出走を取消し、GⅠ馬不在の低調な争いとなったこのレースに、南井騎手は宇田厩舎の古牝馬に跨って臨んでいた。結果はというと、緩いペースを良い感じで先行したものの力負けの5着。勝ったのはミスターシービー世代の影の実力者・スズカコバンであった。騎手も調教師も臍を噛んだが、仕方が無い。陣営はこの牝馬の次走を3週後の高松宮杯へと定めた。南井騎手を背に宝塚記念で5着、続く高松宮杯にて勝ったメジロモンスニーとハナ差の2着に健闘した古牝馬、彼女の名はグローバルダイナ、といった。

当のキクノペガサスは2月のレース以降球節炎のため放牧に出ていた。休養期間は長引く一方であったが、宇田師は「並の馬では無い」「関西の古馬の中でも屈指の剛の者」「秋に復帰できればトウメイ級の活躍も期待できる」と依然トーンを落とそうとしない。球節炎が時を経て屈腱炎と病名を変え、病魔に苦しむキクノペガサスは馬の温泉施設へと入った。同温泉の泥浴場にて無理の無い程度の運動を施され、彼女は苦しみながらも復帰への道筋を見つけようとしていた。が、1986年5月に宇田師は遂に決断を下した。競走馬登録抹消、引退。片や1歳上のグローバルダイナはキクノペガサスと入れ替わりになるようにして出世し、南井騎手の手綱で3つの重賞を勝ち、最優秀古牝馬のタイトルをも手中に収めていた。脚元との長い戦いに敗れ去り、年増のグローバルダイナとの女の争いにも結局不戦敗を喫したキクノペガサスは、故郷である漆原氏の牧場へと帰った。

繁殖牝馬としてのキクノペガサスは、周囲の大きな期待に十分応えたとは言い難い成績しか残せなかった。もちろん、お相手のラインナップが若干シブいことだとか、個人牧場における施設面での不利なども影響は与えていよう。彼女が1989年に産んだキクノエリザベスは南井騎手を主戦にして中央で4勝を挙げたが、重賞はどうも荷が重く準オープンクラスでも勝ち切れずに終わっている。産駒の生後直死や不受胎も多く、8頭(生後直死の産駒は除く)の産駒を残した後、2000年8月に彼女は用途変更となった。繁殖を退いた後の彼女に関する情報は少ないが、漆原氏の下で穏やかに過ごしたことがある程度窺い知れる。

結局GⅠタイトルには手が届かず、第二の馬生でもホームランを打てなかったキクノペガサス。そんな彼女の名が、引退から二十余年を経た2008年に再び世間に知れることになった。初仔のキクノフォタップ(中央未勝利)の孫に当たる、ステイゴールド産駒のエルドラドという名の新表記で4歳のセン馬が、遠い異国であるシンガポールのGⅠを制したのだ。彼が勝ったシンガポールゴールドCはシンガポールの大レースの一つであり、詳細は不明だが2008年&2009年と彼は同レースを連覇した後、2年後の2011年にも同レースを制覇したのだという。国際GⅠを制したわけでは無いが、当地のGⅠレースを制したという意味で、これにてキクノペガサスの悲願は成就したと呼べるだろう。こうしてシンガポールGⅠ馬の牝祖となったキクノペガサスは、ひ孫の活躍を見届けたかのように2010年の9月に大往生を遂げた。享年30。


キクノペガサス -KIKUNO PEGASUS-
牝 鹿毛 1981年生 2010年死亡
父トウショウボーイ 母エクレア 母父セダン
競走成績:中央9戦6勝
主な勝ち鞍:中日新聞杯 愛知杯 阪神牝馬特別

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