2015/03/30

【私撰名馬物語#52】トモエリージェント

―B級スプリンター?いえいえ、僕は世界の1.5流スプリンターです―


語ろう、昨日の高松宮記念のあの馬を。もうハナに拘らなくなったハクサンムーンが、あわやの伸び脚と粘り腰でGⅠタイトルを掴み掛けたあの瞬間を。

若き日のハクサンムーンと言えば、驚異的な調教タイムを叩き出し1勝馬の身で朝日杯に出走するもシンガリ負けとか、アイビスサマーダッシュにて勝利を目前にしながらも最後の最後でタレて複勝圏外とか(三連複の軸にしていた筆者はゴール前思わず声を失った)、「京都はダメ」と戦前散々言われながらも酒井学騎手を背に楽なペースに持ち込んで逃げ切った京阪杯とか、馬主がアレだとか……おまけに旋回癖もあるな。とにかく、当時のハクサンムーンは典型的なB級スプリンターの域を出ない、というかB級スプリンターのあるべき姿そのものだったのだ。

ホクトフィーバスだとか、サカモトデュラブだとか、ヒシクレバーだとか、あるいはスリーコース。こんな「テンの速さなら誰にも負けない」面々のうちの1頭だったはずのハクサンムーンが、何時の間にか香港のスーパーホースにガチンコ勝負を挑めるようなトップクラスのスプリンターに成長していた。それはもう、何とも喜ばしいことであるはずなのだけど……どこか一抹の寂しさを感じてしまうのは、筆者がひねくれ者だからなのだろう。ともかく、後世の競馬ファンにダッシャーゴーゴー辺りと一緒くたに分類されないためにも、秋の大一番こそはキッチリと奪取してもらいたいものだ。

さて、第52話目となる今回取り上げるのは、前述のテン速軍団の一員としてよく語られるトモエリージェントである。GⅢにおいては自慢の快速を披露するも、GⅠでは掲示板すら無いという彼の戦績は、確かにB級スプリンターのそれそのものであろう。言うなれば「ハクサンムーンになれなかった快速馬」ということだ。だが、ただB級馬であるという以上に、このトモエリージェントの競走成績はなかなかに出色モノである。南関東公営から夢を追って中央競馬の海へと乗り出し、立身出世を叶えたトモエリージェント。本稿では彼自身のレースぶりを振り返って記載すると共に、公営時代及び中央時代のライバルたちについてもほどほどに取り上げ、徐々にトモエリージェントという馬の実像を浮かび上がらせていきたいと思う。

1988年4月3日、浦河の田中牧場にて産声を上げたトモエリージェントの父は、現役時代ミドルパークS勝ちのある輸入種牡馬のカジュンである。カジュンは父としてクリスタルC勝ちのリンカーンシチーなどを出し、母父としてはマサラッキ(高松宮記念など)を送り出すなど、スプリント戦に一家言ある種牡馬であった。系統としてはオーエンテューダーからライトロイヤルを通るラインに当たり、アラナスやルイスデールと同系統になる。母のゴールデンパワーは多くの重賞ウイナーの父となったダイハードの娘で、加えて母の父がソロナウェーで母母父がトサミドリと、血統は一見して一本筋が通っている。ただし、近親にこれといった馬はいない。なお、現在ゴールデンパワーを祖とする牝系は末娘のゴールデンシービー(父ミスターシービー)のラインがなんとか命脈を保っている。

田中牧場は古くは1965年の皐月賞馬のチトセオー、TTG世代のダービー馬のクライムカイザーなどを生産した牧場であるが、1980年代は停滞期に当たり、これといった馬を出せていなかった。牧場長の金石功氏が言うには、ハビトニー(ナイスネイチャの母父で1984年再輸出)ばかりを種付けしていたことが不振だった原因なのではないかという。同氏はトモエリージェントの幼駒時の印象について「ごく普通の感じの馬」と語っている。

近親に活躍馬がおらず、血統は地味。 その上馬自体も目立ったところが無いとくれば、よほど馬主に恵まれなければ中央競馬でのデビューは難しい。このトモエリージェントも例に漏れず地方競馬に産湯を使った。長じて川崎競馬の河津政明厩舎に所属した彼は、1990年6月に同競馬場の新馬戦(ダート900m)でデビューすることになった。

その当時、同じ川崎競馬の山崎三郎厩舎にフジノリニアーという期待の3歳(旧馬齢表記)牝馬が所属していた。彼女のサンシャインボーイ×マルゼンスキー牝馬という血統は、今で言えばゴールドヘイロー×クロフネ牝馬みたいなものだろうか。要するに地方競馬ウケする好配合出身ということで、おまけに馬体重は480kg前後と立派なもの。同馬と比較すると、451kgと牡馬としては薄い馬体のトモエリージェントは素人目に見て劣っていた。

この2頭を含めて6頭立ての新馬戦にてトモエリージェントは4番人気に過ぎなかったのだが、河津師の息子の河津裕昭騎手が跨ると類稀なる速さを発揮。やはり山崎師の息子の山崎尋美騎手が手綱を取ったフジノリニアーをハナ差競り落としてしまった。続く2戦目(川崎ダート900m)では当地の名手・森下博騎手に手替わりし、再びフジノリニアーと対峙。単勝人気はやはり4番手だったものの、「逃げの森下」が手綱を取ったことで天性のスピードが活き、2着のフジノリニアーに1馬身差つけ勝負は決した。

同年9月、3戦目の野菊特別(川崎ダート1400m)。同レースに馬体重を19kgも増やして出走したトモエリージェント。河津師の思惑はこうだ。緒戦&2戦目は900mのスピード比べに合わせ、まだ脆弱な脚部のことも考えてこじんまりと馬体を作った。そして、距離が延びた3戦目の頃には脚元も固まり、体力の増強を図って馬体重を増やした、ということらしい。さすがの慧眼、さすがラフィアンのアドバイザーとして知られる河津師といったところだ。こうしてパワーアップしたトモエリージェントは、野菊特別もクビ差押し切り3連勝を飾った。

デビュー4戦目は船橋に戦いの場を移し、さらに距離が1500mに延びた白菊賞であった。中間飼い葉を増やされ、+15kgとさらに馬体の増強が図られた同レース。だが、河津騎手と共に逃げの手に出たものの、「鉄人」佐々木竹見騎手のマークに遭いユウユウサンボーイにクビ差だけ差し切られ初黒星。次走のローレル賞(川崎ダート1500m)は強敵不在と言うこともあって4馬身差で快勝したが、大一番の全日本3歳優駿では今度は森下騎手が跨ったユウユウサンボーイの強襲に遭い、ハナ差で涙を飲んだ。圧倒的1番人気の船橋のアーバントップ(前走の平和賞でユウユウサンボーイを下す)の逃げを2番手で追走し、河津騎手のゴーサインに応えて4コーナーで抜けたものの、またしても……という結果であった。

この頃、オーナーサイドから中央移籍の打診があり、明け4歳となった翌1991年1月、浦和競馬場で行われた重賞のニューイヤーC(ダート1600m)に出走。後に中央競馬のオープンクラスで活躍するダイカツジョンヌを2番手抜け出しの競馬で完封し、最初で最後の地方重賞勝ちを収めた。鞍上は森下騎手。なお、ダイカツジョンヌは前走の東京3歳優駿牝馬でフジノリニアーに敗れていたが、当のフジノリニアーはレース後に脚を痛めて引退&繁殖入りしている。

こうしてそれなりの実績を引っ提げて中央入りが叶ったわけだが、美浦の橋本輝雄厩舎に転じた当初は骨膜の不安の影響もあって苦戦が続いた。同年の6月、転厩初戦のニュージーランドT(加藤和宏騎手騎乗)ではハナを奪えず3番手からの競馬となり、マイルの距離も堪えたか直線半ばで大きく失速しブービー負け。菅原泰夫騎手を伴って福島に現れ出走した吾妻小富士賞(芝1800m)もセンゴクヒスイから2.1秒差離された7着(ブービー)に終わった。

そうこうしているうちに、古巣南関東の羽田盃をアーバントップが、東京ダービーを東京3歳優駿牝馬3着のアポロピンクが制し、同時期に馴染みのユウユウサンボーイとダイカツジョンヌが中央へと転厩して出番を待っていた。後者2頭が中央のオープンクラスで活躍を見せるのは翌年以降の話なのだが、それはそれとして。兎にも角にも、1990年の南関東3歳路線のレベルは高かった、という話である。ちなみに、1991年秋にデビュー6連勝の快進撃で東京王冠賞を制し、翌年から2年連続でジャパンCに出走することになる(そして2年連続シンガリ負け)ハシルショウグンは、この頃はまだ大井のB級条件馬であった。

やがて季節は盛夏を迎え、転戦先の函館の地でトモエリージェントは徐々に開眼していく。脚元の具合もすっかり良くなり、この後引退までパートナーを務めることになる根本康広騎手が初めて乗ったオープン特別のマリーンS(芝1200m)にて4着に入ると、中2週で出走した同条件の青函Sではゴール寸前まで先頭をキープ。結局ギリギリのところで伏兵馬に差されたが、僅差の2着に健闘した。橋本師はここで11月のGⅢ・根岸S(東京ダート1200m)を目標に定めた。「地方時代にずっと走っていた左回りのダート戦なので」と期待を込めた橋本師は、中山のオータムスプリント(5着)を挟み、根岸Sへとトモエリージェントの調子を整えていった。

翌年喜寿を迎えんとする斜眼の老伯楽、しかし通算900勝を誇るダービートレーナーは川崎時代の河津師と同様に、さすがの慧眼の持ち主であった。万全の状態で迎えた根岸S。最内のキオイドリームがダッシュ良く飛び出し先頭をうかがったが、外から根本騎手と6番人気のトモエリージェントが一気にハナを奪う。前半3ハロンは33秒8。良馬場の力の要るダート戦としては驚異的、まるで芝のレース並のラップを刻みながら、彼は砂塵の中で道を切り開く。その速さには名うての快速牝馬・ハスキーハニーすらついて行けない。勢いは長い府中の直線に至っても衰えを見せず、モガミスイスやビューチフルロマンといった伏兵陣の追撃も虚しく、トモエリージェントは1分10秒フラットのタイレコードで真っ先にゴールインした。

橋本師・根本騎手共にメリーナイスで制した1987年のセントライト記念以来約4年ぶりの重賞制覇。「行けたら行くつもりでした」とは根本騎手のレース後の弁である。ゲートの出は平凡だが、二の脚が凄まじく速い……このトモエリージェントのイメージを創り上げたのが根岸Sであり、次走のGⅠ・スプリンターズSであった。

前半600mが32秒2で1000mが55秒5。当時の1000mの日本レコードが1990年10月に福島で記録された56秒7だから、それよりも1秒2も速かった。このスプリンターズSというGⅠの舞台においてそりゃもう滅茶苦茶なラップを刻んだのが、まさしくトモエリージェント、その馬だったのだ。やはり出は普通だったものの、最内枠を利して根本騎手が追いまくる。ハスキーハニーやマイスーパーマンが必死に追いすがる。1番人気のケイエスミラクルもそのテンの速さには敵わない。もし、このスプリンターズSが芝もしくはダート800mのGⅠだったら、トモエリージェントが悠々と戴冠していたことだろう。

だが、競馬……いやGⅠはテンの速さだけで勝てるような甘いものでは決して無い。4コーナーまで健気に先頭を守り続けたトモエリージェントだったが、残り250mほどで一気に馬群に飲み込まれて、結局12着に沈んだ。同レースのフジテレビの実況映像を見てみると、直線入口でトモエリージェントはまだ先頭に位置しているのに、4コーナー以後彼は馬名を全く呼ばれていない。要するに、実況アナウンサーに「こいつはどうせタレる」と思われていたということだろう。そして、2着に4馬身差付けてレースレコードで快勝したダイイチルビーは道中後方に位置していた。言わば勝ち馬のペースメーカーという役割にハマってしまったトモエリージェント。この“激走”の代償なのか、レース後間も無く体調を崩した彼はアテの無い放牧に出てしまった。

しかし、失意のうちに休養に入ったトモエリージェントが再び表舞台へと姿を現すのに、そう長い時間は掛からなかった。不屈の川崎魂を燃えあがらせながら、彼は温泉放牧から中山競馬場へとカムバックしたのだ。日時は1992年4月5日、舞台は千二時代のGⅢ・ダービー卿チャレンジT。馬場状態は生憎の不良馬場となったが、パワーとスピードが自慢の彼にとって、これはむしろ願っても無い好条件に他ならない。鉛色の空の下、根本騎手が跨るこの愛馬は9頭立ての5番人気。春真っ只中の中山競馬場に乱気流が吹き荒れようとしていた。

1番人気のナルシスノワールが立ち遅れ気味なのを尻目に、スタート良く出たトモエリージェントは楽々ハナを切った。「他のジョッキーもこの馬の速さが分かっていたはずだから、無理に競り掛けては来ないと思っていました(レース後の根本騎手:談)」この言葉の通りに、潰れるのを恐れたのか他馬は競り掛ける素振りすら見せない。それでも、4コーナーまでは後続を引き付けて無理の無い逃げを打ったわけだが、直線に入ると圧倒的なパワーで後続を突き放した。エンジンが違うのか、それともタイヤが違うのか、はたまた駆動方式がそもそも違うのか……中山の酷道をひたすら突っ走るこのオフロード仕様のカワサキの四輪駆動車は、対抗人気のユウキトップランに3馬身の差を付けてフィニッシュ。重賞2勝目をかつて恥辱を嫌と言うほど味わった中山千二の条件で挙げたのであった。

名実共に堂々たるオープン馬、それも2つの重賞タイトルをいずれも完勝と言える内容で手にしたトモエリージェントだったが、その後はしばらく低迷期に入った。安田記念やスプリンターズSといった花形競走にも出てはみたものの、ハナは切っても道中結局先頭を譲る展開となり、結果2レース揃って大敗。前者に至ってはブービーから大きく離されたシンガリ負けであった。距離が延びると明らかに限界を見せ、適距離の千二でも速過ぎる馬場だとダメ、と馬場状態に注文が付く。1993年2月、橋本師の定年引退を翌週に控えたGⅢ・フェブラリーHでは、ダイカツジョンヌと2年前のニューイヤーC以来久々に矛を交えたが、牡牝の差がありながら56kgと同じハンデを背負い逃げ潰れて5着と、3着に差し込んできたダイカツジョンヌに後れを取る始末。適条件のオープン特別では重い斤量を背負わされ、なかなか結果が出ない毎日が続いた。

そして月日は無常に流れるばかり。恩師たる橋本師が77歳で引退すると、トモエリージェントは新規開業で橋本厩舎の馬房を受け継いだ増沢末夫厩舎へと転厩した。愛馬の復調を促すベく、増沢師と根本騎手は協力して調教法に工夫を施した。それがインターバル調整という調教法で、今まで番手の競馬では持ち味が活きなかったトモエリージェントに、じっくりと我慢することを教え込んだわけだ。効果は間も無く発現した。58kgを背負った3月のアメジストS(中山芝1200m)。このレースで道中2番手から競馬を進めた彼は、直線でも勢いを落とさず伸び2着に入ることが出来た。中央入り以来逃げ一手の脚質が定着していた彼にとって、番手の競馬での2着は大きな進歩に他ならない。

ちょうど1年前に美酒に酔ったゲンの良い重賞、ダービー卿チャレンジT。1993年の同重賞の馬場状態は良、1番人気はトモエリージェントが新味を見せた前走のアメジストSの勝ち馬・エーピージェットであった。同馬とは前走では3kgの斤量差があったが、今回は57kgと56kgで1kgの差。それに加えて他のメンツも手薄である。重賞馬はエーピージェット、トモエリージェントと盛りの過ぎた8歳馬のナルシスノワールだけ。実績から考えれば、これは負けられない。

 「外を通って、トモエリージェント交わすか!トモエリージェントが交わして1着!」

スタートが切られ、11頭が飛び出してから1分ほどが経過すると、4歳時の彼しか知らないトーシロファンが聞いたら耳を疑うような実況フレーズが飛び出した。道中は先団の後ろで控え、たっぷりと末脚を溜めたトモエリージェントが内のウィンザーモレノに襲い掛かる。やがてゴール前でキッチリと交わしたトモエリージェントは、“大人の競馬”で重賞3勝目をもぎ取った。

「この日のためにキッチリと仕上げてくれたスタッフの皆さんに感謝しています(根本騎手:談)」
「根本騎手が実に上手かった。初勝利が初重賞、本当に嬉しいですね(増沢師:談)」

この重賞制覇は増沢師にとって調教師として初めての重賞勝ちとなり、尚且つ結果的には根本騎手にとって騎手としての最後の重賞勝ちとなった。

競馬の幅を広げた6歳時のトモエリージェントは、この後9月のオープン特別を逃げ切って中央地方通じて通算9勝目を獲得した。同年の暮れにはなんと香港へと果敢に打って出て(香港名:巴摂政)、香港国際ボウル(現在の香港マイルに当たるレース・シャティン芝1400m)に挑んだものの、ハナは切れたが最低人気のシンガリ負け。帰国後検疫所で体調を崩し、以後1995年6月まで1年半ほどの間競走馬登録が残っていたが、結局ターフへと帰ってくることは無かった。余談であるが、かつてライバルだったユウユウサンボーイが岩手競馬に転入後、「魔王」トウケイニセイの壁にぶつかり続けた末に、北上川大賞典にて10歳にして約7年ぶりの重賞制覇の美酒に酔ったのは、それからさらに2年以上後の話になる。

引退後は種牡馬にはなれず乗馬となり、乗馬クラブをいくつか転々とした後、旧表記22歳時の2009年11月に岩手県奥州市の岩手県馬術連盟にて功労馬となった。そして2011年3月11日の東日本大震災以後も生き長らえた彼は、それから3年後の2014年6月に死亡したという。享年27。川崎が生んだB級スプリンターは、世界の1.5流スプリンターという肩書を保持して競馬場を去り、増沢師の定年引退や河津裕昭現調教師の中央重賞制覇を見届けてこの世を去った。来年には「牧原(現・増沢)由貴子以来の美少女ジョッキー」と噂の藤田菜七子騎手候補生がデビューするが、果たして彼女はトモエリージェントのような駿馬に巡り合えるかどうか。実習先の根本厩舎にそのまま所属するかどうかも気になるところ。

トモエリージェント -TOMOE REGENT-
牡 鹿毛 1988年生 2014年死亡
父カジュン 母ゴールデンパワー 母父ダイハード
競走成績:地方7戦5勝 中央19戦4勝 海外1戦0勝
主な勝ち鞍:ダービー卿チャレンジT(2回) 根岸S

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