2015/04/11

【私撰名馬物語#53】ワンダーパヒューム

―華やいだ桜の季節、20年を経れども淀にふわっと香る微かなカオリ―


競馬は虚像のスポーツである……とは他でも無い私の弁。「物言わぬ畜生」こと競走馬に、物好きなファンは思い思いのキャラ付けを夢想する。そしてスターホースたちの虚像は、彼らやそれを煽るマスコミの手によってただひたすらに拡大されていくのだ。例えその虚像が実像とあまりに様相を異にしていようとも。

そのスターホースたちの虚像とやらを肥大化させる一因となりがちなのが、彼らの背中に跨っているジョッキーの存在である。いかに真っ黒いSS産駒で気性が荒かろうが、全盛期の武豊騎手の騎乗馬は全てすっきりスマートなイメージになってしまうし、岡部幸雄元騎手のお手馬ならばイージーイージーなお子ちゃまになる。松永幹夫元騎手が主戦ならハイソでドラマティックな雰囲気を帯び、江田照男騎手や安田富男元騎手が鞍上に居ればなんだか穴っぽい香りがしちゃう。一部の不逞な輩は馬と騎手のカップリングとやらを妄想するなんて聞いたことがあるが、なるほど競走馬の世界は印象が大事なのだ。

田原成貴という男がいた。ジョッキーという一種の技術職を選択しながらも、1990年代の天才タバラは多方面に渡って華やかに活動していた。騎手時代の彼は何かと毀誉褒貶の激しい人物ではあったが、シンガー以外の職業ならばどれを選んでも成功を収めたことだろう。まさに異能の人だった。そして時は過ぎ、何時の間にか彼は暗い檻の中。発信機だかナイフだか葉っぱだか知らないが、しょうもないことをきっかけに、スポットライトの下で1人踊っていたタバラは舞台から引き摺り下ろされた。

そんな「元・天才」田原の代表騎乗馬にGⅠ4勝馬のマヤノトップガンがいるが、不思議と同馬の“スターホースとしての虚像”は自身の輝かしい実績と比較して小さいように思える。ツボにハマった際の勝ちっぷり、明るい栗毛に大きな作を擁したルックス共に派手の一語に尽き、1997年の春天でのスーパーレコードにより記録にも名を残したマヤノトップガン。この名馬が何故か顕彰馬に選出されない、という話は10年以上前からよく語られていた。そして2001年及び2004年の顕彰馬選考制度の改定に伴い、残念なことにマヤノトップガンが顕彰馬の仲間入りを果たす可能性はかなり低くなってしまった。それもこれも主戦騎手のタバラがやらかしたことが影響している……のかは定かでは無いが(筆者注:同馬が顕彰馬に選出されていない云々の話題が出始めたのは田原成貴の初犯以前)、1995年のグランプリにて馬上で十字を切って投げキッスをかましたタバラが、相棒たる勝者・マヤノトップガンの強さの印象を薄めてしまった、という可能性は否定できまい。

マヤノトップガンと同じく4歳(旧馬齢表記)にして有馬記念を制したリードホーユー、日本ダービー馬の娘にして桜花賞馬となったファイトガリバー、短距離路線の頂点を極めたフラワーパーク。これらはまさしく田原成貴の手綱でビッグタイトルを掴んだ馬たちであるが、それぞれに一定数のファンはいれども、実績以上の虚像を携えているかというとどうも疑問が残る。言葉や表現を選ばず、それぞれのファンに配慮無しにハッキリ言わせてもらうと、田原成貴を背中に乗せてGⅠを獲った馬は地味なのだ。彼らが如何に鮮やかにビッグレースを勝とうとも、鞍上の天才タバラが持つ強烈なキャラクターこそが勝ち馬の印象を弱め、馬自身の虚像を小さなものにしてしまう。言わば明日のスターを目指す競走馬にとってタバラは劇薬であったのだ。この“劇薬タバラオキシン(造語)”の効果が唯一無かったのはトウカイテイオーだが、同馬は狭義のお手馬には含まれないだろうから例外扱いである。

前置きが長くなったが、今回ご紹介するのは1995年の桜花賞馬のワンダーパヒュームである。多くのタバラ騎乗馬の例に漏れず、このワンダーパヒュームも馬そのものの印象の薄いGⅠ馬であった。ところが、某書籍において須田鷹雄氏に「“ローカルGⅢ勝ち”あたりが安住の地だった」と評されるレベルの競走馬だった彼女が、悲劇的な形でターフを去ったことにより突如として“悲運の名牝”へと祭り上げられてしまうのである。こうなると鞍上タバラがどうこうという次元では無い。語弊はあろうが、ある意味究極のキャラ立ち法である。

本稿では出来る限り筆者自身の感情の入る余地を排することにより、よりワンダーパヒュームの実像に近い姿を捉えようと試みた。その試みが成功したかどうかは筆者には分からないが……なお、人気音楽ユニットのPerfume(カタカナ表記は“パフューム”)の影響もあるのか、ワンダーパヒュームはしばしば“ワンダーパフューム”と誤記されることがある。彼女の厩舎関係者の手記や、競馬の胴元たるJRAのWebページですらたまに間違っていたりすることがあるほどで、もはや別名の1つとして公式に併記しても良いくらいだ。これに関して市井の競馬ファンである私がどうこう言う資格は無いのかも知れないが、とりあえず一言だけ申し上げたい。「グレード制以後のクラシックホースの名前ぐらい正確に覚えようよ」と。

北海道浦河の信岡牧場、後に宝塚記念勝ちのダンツフレームを生み出すこの牧場で、ワンダーパヒュームは生を享けた。1992年生まれの鹿毛馬の彼女は、その母ラブリースターの5番仔に当たる。ラブリースターはその時点で14歳。同馬は天馬・トウショウボーイの初年度産駒にして、金鯱賞など重賞2勝を挙げた立派な孝行娘であった。母の母であるグッドサファイアは信岡牧場の信岡修氏が惚れ込んで他の牧場から譲り受けた馬であるが、信岡牧場での初産駒であるラブリースターを産んだ際に死んでしまったという。ワンダーパヒュームの父に当たるフォティテンはヌレイエフ直仔の仏GⅢ馬で、1991年に産駒がデビューしている。当時すでにアラシ(1992年春時点でシンザン記念2着の実績があり、後に福島記念など重賞2勝)などが父フォティテンの名を背負って活躍しており、新鋭種牡馬として同馬は周囲の評価を高めていた。

競走馬として十分な実績を挙げ、故郷の信岡牧場へと帰ったラブリースター。場長の信岡氏にとって、同馬はお気に入りの1頭であったという。だが、繁殖牝馬としては気性が勝ち過ぎていたためか、なかなか活躍馬が出なかった。最初の2頭は中央競馬にて合わせて34戦して未勝利と全然ダメ。2頭とも当時のトレンドを反映した種馬の仔で、このチョイスはラブリースターの馬主の山本信行氏の意向であったという。やがて産駒の芳しくない成績に耐えかねた信岡氏は、山本氏に「1、2年は(種牡馬の選択を)私に任せてくれないか」と申し出た。時は1988年。そこでお相手として選ばれたのが、フランスから門別へと輸入されたばかりのフォティテンだった。

「緩やかさの中にシャープさを併せ持っている。これならラブリースターの固さもほぐしてくれるのではないかと(信岡修氏:談)」

信岡氏の馬産に対する感性の下、翌1989年に誕生したのがワンダーワイルである。同馬は故障がちながらも中央で4勝を挙げる活躍を見せている。

ワンダーワイルがデビュー戦にて初勝利を挙げたのが1991年11月のこと。その翌年の1992年3月に全妹に当たるワンダーパヒュームが誕生したわけだが、さらに4年後の1996年3月には全弟のワンダーファングが生まれている。雨のスプリングSを幸英明騎手を背に逃げ切り、一躍皐月賞候補として名乗りを上げることになる同馬。しかし、彼を待っていた運命が非常に残酷なものであったことは、世間でもそれなりに知られていよう。いずれ書く機会もあるかも知れないから、本稿ではワンダーファングについて詳しくは触れないでおく。

それはさておき。関係者の期待を一身に集めて誕生したワンダーパヒュームは、非常に気の強い幼駒であったという。

「あれは女では無く、男馬だったね。気は強いし、よく食うし、おまけに自分が嫌だと思ったことは、テコでもやらない。ただ、それだけだったら、ただの気性の悪い馬、ということになっちゃうけど、あの仔には物に動じない、逆境をバネにする図太さが備わっていたんですよ(信岡氏:談)」

母方のリボー由来なのか、それとも父に由来するのか。その気の強さときたら、母乳を飲む際にラブリースターに蹴られても顔から血を流しながら蹴り返そうとしたほど。彼女の右頬には母に蹴られた時に出来た大きな傷が後々まで残ったが、故にこのエピソードは武勇伝として入厩後も語り継がれたという。

母のラブリースターと同様に山本信行氏の持ち馬として、これまた母と同じ領家政蔵厩舎へと所属したワンダーパヒューム。領家師は「今度のラブリースターの仔は楽しみや。これだけの体とハートを持った馬はいない」と彼女の走りに早くから期待を寄せていた。ラブリースターは領家師が初めての重賞タイトルを一緒に勝ち取った馬であり、信岡氏と同様に領家師にとっても同馬は特別な存在であったようだ。同厩舎においてワンダーパヒュームを担当したのは藤井美津子厩務員であった。他の厩舎関係者に「ミッちゃん」とか「アラレちゃん」といった愛称で呼ばれている、大きな黒縁メガネを掛けたこの女性厩務員も、デビュー前から「大きいところを狙えるかも」と愛馬に対し相当な手応えを感じていた。

彼女のデビュー戦はソエがちな脚元と相談しながら選定された。1995年1月の京都競馬場、ダート1200mの新馬戦において四位洋文騎手と共に初陣を迎えた彼女は、スタートで出遅れながらも直線で一気の伸びを見せて前を捉え差し切った。嬉しい初勝利をエスコートした四位騎手は「ステッキを使わずに勝っちゃった」と愛馬に賛辞を贈っている。ちなみに、このレースで単勝1.7倍の人気になりながらも勝ち馬から1.1秒差の5着に屈したのが、本稿の冒頭で触れたマヤノトップガンである。

脚元への負担を考慮され2戦目もダートの寒梅賞を使われたが、前を行くダンツシュアーを捕まえ切れず1番人気ながら3着に終わった。調子良く2連勝とはいかなかったものの、ここで領家師は桜戦線へと針路を取る。次にワンダーパヒュームが出走したのは、桜花賞トライアルとしてすでに定着しつつあったオープン特別のアネモネS(京都芝1400m)である。

例年はあまりメンツが揃わない傾向にあるアネモネSだが、この年は3歳重賞勝ちのあるマキシムシャレードや、SS産駒の素質馬・ブライトサンディー、伊藤修司厩舎の秘蔵っ子・ジョージビューティなど、それなりのメンバーが集っていた。そんな中で1番人気の評価を得たのは関東馬のウエスタンドリーム。的場均騎手が駆るこの芦毛の持込馬は、その当時東の桜花賞候補として期待が高かった。当のワンダーパヒュームは4番人気。初芝とは言え、血統的にその点は問題が無い。

ところが、レース結果はなんとも意外なものとなった。人気馬を制してハナを切った6番人気のヤングエブロスが、4角で後方勢を突き放しまんまと逃げ込みに成功してしまったのだ。四位騎手が鞍上のワンダーパヒュームは中団から良い脚を使って伸びたが、僅かにクビ差届かず。3着には5番人気のジョージビューティが入り、他の人気馬は馬券圏外に飛ぶという波乱の結果であった。

僅差で負けたとは言えど、「2着以内に入る」というノルマは達成し桜花賞への優先出走権を得た。この時点でワンダーパヒュームは、展開利の下に逃げ切った勝ち馬のヤングエブロス以上に評判になっていた。翌週のチューリップ賞ではプライムステージ&ダンスパートナーのSS牝馬二強を、トニービン産駒のユウキビバーチェが抑え込み重賞初制覇。ダンスパートナーはハナ差の2着に終わり、プライムステージは粘り込めず3着に屈し気性面の不安を覗かせた。例年の最重要トライアルであるチューリップ賞が終了し、同年の桜戦線は本命不在の混戦という様相を呈していたのだが、さらに翌週のGⅡ・報知杯4歳牝馬特別にて、ついに同路線の真打たる競走馬が出現するわけである。

ライデンリーダー。この何の変哲も無い中背の、公営笠松からやって来た鹿毛馬が、桜戦線の話題を気合の一伸びで全てかっさらっていった。3月19日の報知杯4歳牝馬特別(京都芝1400m)。直線で白いウエスタンドリームが内で粘るところを、1番人気のエイユーギャルがいざねじ伏せんと動き出し、抜け出しを図る。やがて先頭に立ったエイユーギャル。鞍上の四位騎手が安堵したのも束の間、外から道中もたついていたはずのライデンリーダーが信じられないほどの末脚で突っ込んできた。安藤勝己騎手がムチを振るう度に伸びるライデンリーダーに、実況の杉本清アナウンサーは「抜けたー!ライデン!」と叫んだ後思わず絶句した。最後はエイユーギャルに3馬身半の差をつけ、「笠松の女傑」はデビュー11連勝をベストの形で飾ったのであった。

この快挙にマスコミの報道は過熱した。笠松競馬場で行われた桜花賞直前の追い切りには、1995年春当時の現役最強馬・ナリタブライアンがクラシック三冠を達成した日よりもさらに多く取材陣が集ったという。当然、世間的な空気はライデンリーダー一色に染まっていったわけだが、一方でプライムステージの岡部幸雄騎手、ダンスパートナーの武豊騎手といった他の有力馬に跨る騎手は、実に冷静に勝利への最短距離を計算していた。

宙に浮いたワンダーパヒュームの鞍上の座には、桜花賞2勝の実績を誇る田原成貴騎手が宛がわれた。 デビュー以来3戦を共にした四位騎手が先約のエイユーギャルに乗るためだった。桜花賞の追い切り直後、田原騎手は「線の細かった母に比べて、こちらは線が太くて切れがある。京都コースもいいし(この年の桜花賞は阪神大震災の影響により京都競馬場で開催された)、馬の力を引き出せれば、いい結果を出せると思う」とコメントした。母ラブリースターの重賞2勝をかつてアシストした縁のある田原騎手。レース前から自信を持って「絶対勝てる」と連呼していた彼に対して、耳を傾けたファンやマスコミは果たしてどれだけいたのだろうか。

4月9日、GⅠ・桜花賞。4年ぶりの“淀の桜”は生憎の雨に祟られた。ワンダーパヒュームは18頭立ての大外枠を引いた。例年の阪神コースならば大きなマイナス要因となり得る大外枠だが、最初の直線が長い京都コースならそう不利では無く、むしろ位置取りを決める上で楽になる。ピンクの帽子にピンクの勝負服、そしてピンクのメンコを着けたワンダーパヒュームは、桜の女王に相応しいルックスに恵まれていた。そう言えば、ラブリースターが1983年に中京競馬場にて金鯱賞を制した時も8枠であった。もっとも、金鯱賞において鞍上の田原騎手が被っていたのはピンクと白の染め分け帽であったのだが(同枠に同馬主のアリーナオーがいたため)……。

1番人気には大方の予想通りライデンリーダーが推され、単勝オッズは1.7倍と圧倒的。以下、プライムステージ、ダンスパートナー、ユウキビバーチェ、そしてエイユーギャルと続いた。そんな中、ワンダーパヒュームは7番手評価であったが、田原騎手の自信に揺らぎは無かった。7番人気という評価は気楽そうに映らなくもないのだが、冷静に考えればアネモネS2着の彼女が桜花賞で7番人気になるというのは、いささか過剰な評価であると言えなくもない。勝ち馬のヤングエブロスが100倍近い単勝オッズに甘んじていたのを考えれば、尚更である。

18頭がスタートを切ると、阪神3歳牝馬S2着のスターライトマリーや小倉チャンプのエイシンサンサン、そしてダンスパートナーが立ち遅れた。鞍上の武騎手は同馬に1989年のシャダイカグラでの走りを思い描いていたとも言われる。先頭を行くムーブアップやダンツダンサーが作り出したペースは前半4ハロン46秒4。稍重の馬場にしては少々速い。先行馬のプライムステージはいつもより後ろにつけ、ワンダーパヒュームは好スタートから中団の位置取りを選択。それぞれ雨中の芝を外から悠々と進んだ。多少速い流れを中団から追走するという、如何にもおあつらえ向きの展開である。大本命の安藤騎手とライデンリーダーは無難に中団に付けていたが、前走と同様にもたつき気味。対してダンスパートナーは後方から自分のレースに徹していた。

人気馬たちはそれぞれが思い思いのレースを試みていたが、結局最も流れに乗れなかったライデンリーダーが早くも最終コーナーで圏外に消えた。ペースアップに置かれてついて行けない本命馬を尻目に、プライムステージやワンダーパヒューム、ユウキビバーチェらが進出。そして直線。速い流れにバテる前を捌いてプライムステージが抜け出しを試みるが、それを制して外からワンダーパヒュームが先頭に立った。ワンテンポ遅れて大外から後方待機のダンスパートナーが追いすがるも、ワンダーパヒュームの勢いは衰えない。ライデンリーダーも馬群の中から良い脚で突っ込んできたものの時すでに遅し。2羽の白鳥をかたどったゴール板をトップで駆け抜けたのはワンダーパヒュームであった。ゴール後少し間があって、田原騎手が拳を前に突き出した。勝ちタイムは1分34秒4。領家師にとってこの勝利は初GⅠ制覇となり、藤井厩務員は史上2人目の女性厩務員の担当馬によるGⅠ制覇の栄誉に与った。

レース後も田原騎手は「もっとビューティフルに勝ちたかったね」と軽妙洒脱に語る一方、 「母のラブリースターには追い込みの仕掛けどころを教わったんですよ。それだけ、少しでもその恩返しが出来たと思うと、とても嬉しいです」と喜びを語った。彼が言うには、牝馬らしい切れ味が身上だったラブリースターに対し、ワンダーパヒュームは長く良い脚が使えるタイプだとか。桜花賞での勝利はまさに彼女の特性を最大限に活かした勝利と言えるし、彼女にとってパーフェクトな競馬をした結果、とも言えたわけである。

GⅠ・桜花賞を最高の競馬をした結果手にしたワンダーパヒューム。だが、この歓喜の勝利以後が彼女の本当の戦いの始まりであった。大目標としていたオークスへ向けて調整を施された彼女であったが、至って順調に調教を積まれていたものの、1週前追い切りの後下痢を発症。直前の東京入り前には何とか持ち直したが、結局ベストの状態には戻らなかった。それでも距離を疑問視されての7番人気からの3着だから健闘と言えたわけだが、領家師は「あのアクシデントが無ければ勝ち負けだったかな」と後にコメントしている。

オークスの舞台にて戴冠したダンスパートナーがフランス遠征を決行したため、秋のエリザベス女王杯(当時は秋華賞が無く、2400mのエリザベス女王杯が4歳牝馬最強決定戦であった)は再び本命不在の混戦が予想された。その舞台で、桜花賞馬でオークス3着のワンダーパヒュームこそが主役を張るべき存在と当初は目されていたわけだ。しかし、夏を過ごした鹿児島の山下牧場で彼女は体調を崩してしまい、その結果復帰戦と定めていた9月のサファイヤSを回避せざるを得なくなった。来たる10月のローズS(京都芝2000m)にはどうにか間に合ったものの、調整不足が祟って4着に敗退。そして本番のエリザベス女王杯では見せ場すら無い16着に沈んだ。GⅠで一敗地に塗れた後、復活を期した阪神牝馬特別(阪神芝2000m)でも好位退の10着に終わり、桜花賞馬としての権威を地に落としたままワンダーパヒュームの1995年は終わった。なお、この秋には彼女を担当していた藤井厩務員が産休に入っており、それが不調に繋がったという見方もある。

愛馬の不振に心を痛めた領家師は、「こんなはずはない」と立て直しに尽力した。調教方法を工夫するなど様々な手を施した同師が、桜の女王の年明け緒戦に選択したレースが1996年1月28日のGⅢ・京都牝馬特別であった。あの桜花賞と同じ淀のマイルという条件。そして鞍上にはその桜花賞以来手綱を取り続ける田原騎手が据えられ、領家師も「これなら格好をつけてくれるはず」とワンダーパヒュームの復活に自信を持っていたという。

フジキセキの半姉に当たるシャイニンレーサーに次ぎ、2番手の評価を得ていたワンダーパヒューム。ゲートの出はやや遅れ気味ではあったが、再び栄光へのスタートを切った……はずだった。道中は中団より後方に付けて京都の芝を駆けていた彼女は、逃げを打ったダービーキングダムが3コーナーから4コーナーへと差し掛かったところでテレビの画面から消え去った。

馬群から大きく離され、1頭だけ取り残されたワンダーパヒュームは、痛みに顔を歪ませながら物も言わずに折った左前脚をバタつかせていた。やがてその様子を京都競馬場のスクリーンが映し出すと、あまりに悲痛な光景にスタンドからは悲鳴が上がった。 オリビエ・ペリエ騎手とショウリノメガミのコンビが他馬を圧倒した同レースを途中で放棄し、ただ立ち尽くす桜の女王。その傍らでは相棒の田原騎手が下馬して呆然としていた。間も無くして、馬運車に乗せられて競走馬診療所へと運ばれたワンダーパヒュームは、検査の結果左前脚複雑骨折と診断された。全くもって手の施しようが無い重症であり、すぐに安楽死の措置が採られることとなった。同年の春にもファイトガリバーの桜花賞獲りをエスコートすることになる田原騎手。彼が企図したパーフェクトな競馬によって桜の女王として即位したこの2勝馬は、デビュー9戦目にして生涯を不完全な形で終えたのだった。身に纏っていた微かな桜のカオリを、冬晴れの下の淀の芝に漂わせたままに。

「あの日あの場所で凍りついた時間が 逢えないままどれくらいたったのかなきっと 手をのばしてももう届かない」
-パーフェクトスター・パーフェクトスタイル- by Perfume

ワンダーパヒューム -WONDER PERFUME-
牝 鹿毛 1992年生 1996年死亡
父フォティテン 母ラブリースター 母父トウショウボーイ
競走成績:中央9戦2勝
主な勝ち鞍:桜花賞

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