2015/05/18

【私撰名馬物語#54】ケイキロク

―いにしえの樫の女王・キロク嬢がささやかに挑んだ大キロク―


トウショウボーイ&テンポイント&グリーングラスのTTGらが競馬を彩った1970年代後半、そしてミスターシービーがトリプルクラウンを達成した1983年。この2つは言わば日本競馬史の節目と呼べるだろう。TTG世代の層の厚さは言うに及ばず、その三強の筆頭たるトウショウボーイが生み出した三冠馬は破天荒な脚質から絶大な人気を誇った。 競馬史の節目であり、華やかな黄金期であったこれらの時代。当時を生きた駿馬たちは、名馬物語の類で今もなお語り継がれ、紙上などで永遠の生を謳歌している。

では、その狭間……“谷間の世代”に当たる1980年前後に活躍した名馬たちはどうなのか。ただひたすらにメス馬を愛したホウヨウボーイがいた。あまたいる“野武士”の真打たるヒカリデュールがいた。雨に泣き続けた末に我が世の春を祝ったモンテプリンスがいた。そしてホウヨウボーイの花道に泥をぶっかけたアンバーシャダイもいた。個性なら牝馬だって負けちゃいない。長丁場の秋天にて大逃げでアッと言わせたプリテイキャスト、“幻の三冠牝馬”として名高いビクトリアクラウン、“華麗なる一族”の代表格・ハギノトップレディ、同期のダービー馬を凌駕する高評価を得ていたテンモン、小さな女傑にして悲運の名牝・ラフオンテース……一頭一頭の魅力では決してTTGやシービーに負けてはいなかった。が、彼らは現在では一様に「地味な世代」という監理ポストに放り込まれてしまっている。1981年に創設されたジャパンCにおいて、日本勢の大将格が外寇の前にあえなく敗れ去ったのも大きかったのだろう。

54話目となる今回ご紹介する1980年のオークス馬・ケイキロクは、実績と比較して不遇な彼らよりも知名度という点でさらに劣る競走馬である。その地味さたるや、ある程度競馬歴の長いファンの方でも、同世代にどんな馬がいたのかパッと思い出せないほどであろう。そんな彼女が自身の最晩年に多少脚光を浴びたわけだが、果たして「30年ほど前のオークス馬」という以上の印象を彼女が携えていたのか、と問われると思わず口をつぐまざるを得まい。本稿では、出来るだけ現役時代の彼女の姿にスポットを当て、後先についてはおまけ程度に取り上げさせていただくことにする。

1977年4月28日、無冠の貴公子・テンポイントに春が訪れた天皇賞の前日に、ケイキロクは産声を上げた。出生地は千葉県成田市の東牧場である。東牧場は規模は決して大きくは無いが、かつて1961年の菊花賞馬・アズマテンラン(ちなみに持ち込み馬)を送り出し、それ以後も順調に重賞馬を送り出し続けていた。ケイキロクの後の世代には1982年の皐月賞馬・アズマハンターや、1990年のスプリングSを圧勝したアズマイーストがいる。競馬評論家時代の大橋巨泉氏は後に同牧場を「驚異的」と評しており、社台やシンボリが千葉での生産に力を入れなくなった後も当地で存在感を示し続けた。

東牧場の初代場長である出羽卓次郎氏は、異色の経歴を持つホースマンとして名高い人物である。明治生まれの同氏は現在の東京医科歯科大学を卒業後、北海道の三石で歯科医となったが、故あって三十路を前にして競馬界に飛び込み厩務員から騎手となった。こうして日本競馬史上初の大卒騎手が誕生したわけだが、体重が重かったため騎乗機会に恵まれず、障害レースで何とかデビュー。しかし障害3戦目で落馬・負傷してしまい、3戦未勝利で同氏は騎手稼業から足を洗わざるを得なかった。

こうして失意のどん底に落とされた出羽氏であったが、さすがの好人物。転んでもただでは起きなかった。同氏の経歴を見込んだ三菱財閥の岩崎彦弥太氏から声が掛かり、1936年に創設された東牧場の場長に据えられたのである。この東牧場は当時は育成を中心に営み、近隣の下総御料牧場や、同じく三菱財閥が運営する小岩井農場に安馬で挑むも、戦前は目立った成績を挙げられなかった。だが、戦後しばらくして生産牧場として再出発を図ると、出羽氏は積極的に血統改良に取り組んだ。その結果、ケイキロクの祖母であるシルヴァーファーやアズマハンターの母のハンティングボックスといった良血牝馬が輸入され、これらが1970年代から80年代に掛けての東牧場の栄華の礎となるのである。なお、東牧場は1990年代には出羽氏の息子の龍雄氏に完全に代替わりし、その名称を三菱財閥の祖である岩崎弥太郎の“東山”という号に因んだ東牧場から“出羽牧場”に改めたようだが、近年は目立った活躍馬を出していない。

ケイキロクの母は1974年のCBC賞を制したケイスパーコ(父キノー)で、その全兄には同じくCBC賞を制し、1971年の啓衆賞最良スプリンターに選出されたエリモシルバーがいた。もっぱら短距離走者の家系であった。その気骨ある母の1976年度のお相手として宛がわれたのが、東牧場の自家種牡馬のラディガであった。ラディガはバンブーアトラスの父・ジムフレンチと同じくグロースタークを父に持つが、現役時代に重賞勝ちは無い。この三流の実績しかない種牡馬が父としてオークス馬を送り出し、母父として皐月賞馬(ナリタタイシン)を後に出すのだから競馬は面白い。牧場自慢のケイスパーコに無名のラディガを付けたことについて問われると、出羽龍雄氏は「ケイスパーコは発情をなかなか見せないため種付けが難しく、よその馬を付けられなかったから」と述べている。ちなみに、“ラディガの血に拘る生産者”としてナリタタイシンやマヤノペトリュースを生産した川上悦夫氏がよく知られているが、ナリタタイシンの母・タイシンリリィはケイキロクの従妹に当たり、同馬は東牧場が川上氏に譲り渡した繁殖牝馬のうちの1頭である。

上記の事情の下、ラディガとケイスパーコの間に生まれたケイキロク。幼駒時代の彼女は初仔らしく小柄であったものの、特に周囲の人間の手を焼かせることも無かったという。やがて成長したケイキロクは母のオーナーだった内田恵司氏の妻の敦子氏の名義となり、同じく母が所属していた栗東の浅見国一厩舎に入った。小柄な牝馬らしく仕上がりは早く、1979年の8月の小倉開催が初陣となった。重賞馬の母を持つが故なのか、デビュー戦には何とオープン特別のフェニックス賞(小倉芝1200m)が選ばれた。“名人”武邦彦騎手が跨った同レースでは初出走ながらも3番手の評価を得たが、さすがに荷が重く8頭立てのシンガリに敗れ去った。勝ったのは416kgのケイキロクよりもさらに小柄(394kg)な牝馬のラフオンテースで、2着に5馬身差付けてのレコード勝ちであった。

この惨憺たる結果にも浅見師は強気を曲げることは無かった。初戦の1ヶ月後には小倉3歳S(旧馬齢表記・当時は特別競走)に3歳未勝利馬の身で出走したが、逃げは打てたものの失速し3番人気の6着に敗れた。これで2戦未勝利となったケイキロクは、レース後笹針を打たれて一息入れた後、1勝馬条件特別の葉牡丹賞(中京芝1200m)に出走。その結果、田原成貴騎手とのコンビでハナ差ながらも初勝利を収めた。続く翌1980年1月の若菜賞(阪神芝1200m)は初の重馬場となったが、それを物ともせず2連勝。2月の2勝馬条件特別・春蘭賞(阪神芝1600m) に駒を進めた。同特別では評判馬のマチカネニチリンの逃げ足に屈したものの、離れた2着は確保。こうしてケイキロクは周囲から一定の評価を受けながら、勇躍桜花賞戦線へと挑むことになった。

桜花賞前のステップレースとして浅見師が選択したのは、定石通り阪神4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)であった。大本命で前年の最優秀3歳牝馬・ラフオンテースは初めて土が付いた前走以来本調子に無く、2番人気のシャダイダンサーも年明け2戦で共に敗れていた。これら2頭に次ぐ評価を得ていたケイキロクは、経験十分の武騎手とのコンビで大物食いを狙った。が、結果は関東馬のシャダイダンサーが前で持ち前の器用さを発揮し快勝。道中不利を受けたラフオンテースは2着に終わり、同じように道中で位置を下げたケイキロクは4着だった。馬券圏外に飛んだとは言えど悲観するような内容では無く、本番でのケイキロクの巻き返しに関係者は期待を懸けていた。

しかし、依然ラフオンテースを中心にして回っていた桜花賞戦線に、1頭の良血馬が突如として参戦。情勢はにわかに風雲急を告げることとなった。1980年牝馬クラシック路線の主役・ハギノトップレディの登場である。

サンシー産駒のこのハギノトップレディは、前年夏の函館での新馬戦を日本レコードで大差勝ちした馬だ。その後一旦捻挫を発症して頓挫したものの、休養中にテスコボーイを父に持つ半弟が当時の当歳セリ史上最高額である1億8500万円の値で売れたことで、自身の知名度も1勝馬ながら全国区となった。3月の復帰戦(桜花賞指定オープン)では逃げ切れず3着に終わったが、これはあくまで試走。管理する伊藤修司調教師やその義理の息子の伊藤清章騎手は、依然強気の態度を崩していなかった。同馬の母は悲運に彩られた名牝・イットーで、母が棒に振ったクラシック制覇の夢を、娘は託されていた。

1980年4月、桜花賞。21頭のうら若き乙女たちが覇を競ったこのレースで、1番人気に推されたのは3歳女王のラフオンテースだったが、続く2番人気には1勝馬のハギノトップレディが支持された。そして結果は旧女王にとって残酷なものとなった。やはりというか、道中においてラフオンテースが不利を受け圏外に消える中、ロケットスタートを決めたハギノトップレディがそのまま押し切り、一躍新女王の座に就いてしまった。2着には去る小倉3歳Sの勝ち馬のタマモコトブキが入り、勝ち馬のスピードに圧倒されたシャダイダンサーは3着。ラフオンテースは直線で差を詰めたものの4着までという結果であった。ここまで一言も触れなかったケイキロクはというと、20番枠の不利もあって中団ままの7着に終わった。

ハギノトップレディの圧倒的すぎる逃げっぷりの前に成す術無く敗れたケイキロクとしては、5月中旬のオークスにおける逆転の策を練る必要があった。だが、自身の血統を顧みれば母は典型的な短距離馬で父も長距離には実績が無い。そもそも、母のケイスパーコは1973年のオークスで逃げたが3コーナーを前に潰れて最下位に終わった馬だ。したがって、長丁場に対して脆弱なバックボーンには到底頼ることが出来なかったというわけで、ケイキロクは自分自身の走りで2400mでの可能性を探っていく他に道は無かった。というわけで小手調べの意味合いなのか、桜花賞から中2週置いて2000mの重賞・京都4歳特別にケイキロクは出走した。初距離、その上牡牝混合戦の紅一点ということもあり、同レースでは8頭立てのブービー人気だった。気になる結果はというと、タカノカチドキとグリーンチドリのキタノカチドキ産駒2騎に押し切られ、3番手でゴール板を駆け抜けた。上位と力の差は感じられたが、本番の長丁場への目途はひとまず立った。後は体調を整えるだけ……。

ところが、ここに来てケイキロクの鞍上に関する不具合が生じてしまった。初め浅見師はオークスではケイキロクに武騎手を乗せるつもりだったが、武騎手はケイキロクと同厩舎で同父のケイシャープを選んだのである。ケイシャープはクイーンS勝ちのバンパサーの全妹に当たる馬で、ケイキロクよりもキャリアが少ないが、その分上がり目が感じられる馬だった。そこで師はケイキロクに師匠筋の親交がある関東の岡部幸雄騎手を乗せることにした。当時31歳の中堅どころの1人だった岡部騎手は、9年前のオークスをカネヒムロで制しており、他にもハクセツ&ジョセツの姉妹やミスカブラヤなどの騎乗で知られ、当たりの柔らかい“牝馬上手”の騎手として高い評価を受けていた。要するに、「代打オカベ」は適役だったということだ。

※なお、前走で騎乗していた田原騎手を乗せなかった理由について、ウィキペディア等での通説では「騎乗停止中だったため」となっている。だが、同騎手はオークスと同日の中京競馬場で騎乗していたようであり(しかも第11Rにて勝ち星まで挙げている)、どうも辻褄が合わない。したがって別の理由があったのだろう、と考えられるが……。

迎えた大一番・オークス。1番人気の支持を受けたのは桜の女王のハギノトップレディでは無く、前哨戦の4歳牝馬特別(現・フローラS)を手堅く勝ち上がってきたコマサツキであった。スピードが勝ったサンシーの仔には2400mはキツい、そして昼まで降っていた雨によって馬場状態は重。良馬場で能力を活かしたいハギノトップレディにとって、これはまさしく不安材料と言えた。そして、岡部騎手と装鞍所にて初めて顔を合わせたケイキロクは単勝10番人気。どう贔屓目に見てもその他大勢に過ぎない。7年前にシンガリ負けを喫した母の敵を娘が取る……なんてことを夢想していたファンは、実際にどれぐらいいたのだろうか?

そうこうしているうちにスタートは切られた。 前哨戦で大敗したラフオンテースはそこにはいなかった。スタート良く飛び出したのは4番枠のタケノハッピーだったが、それを制して予想通りに6番枠のハギノトップレディが行き切った。女王と同じく距離に不安を抱えていたシャダイダンサーは控えて、根本康広騎手と本命のコマサツキは何と最後方。黄色い帽子、10番枠のケイキロクは本命馬より幾分前、だが似たような後方待機の作戦を取っていた。

「終い良い脚を持っている馬だけど、ハミが掛かるとどこまでも行ってしまうので、スタートしたらどんじりでも良いから出たなりにハミを外していくように指示した(浅見師:談)」

向正面でまず観衆がどよめく。何が起きたのか。ブービー人気のハセシノブがハギノトップレディを交わして先頭に立ってしまったのだ。このハセシノブは後にホウヨウボーイを下してオールカマーを制すほどになる馬だが、当時はただの1勝馬に過ぎない。すぐさま女王が先頭を奪い返すが、その時すでにハギノトップレディに余裕と末脚は残されていなかった。3コーナーを前にして先頭は目まぐるしく入れ替わる展開に、事態は混乱を極めレースは混沌へと一直線に向かっていく。

4コーナーを周り、直線で早めに先頭に立ったのは加賀武見騎手とリックサンブル。同じ赤帽のハギノトップレディが馬群に飲み込まれていく中、6番人気ながらスタミナ十分の同馬が一気に抜け出した。年季の入った“闘将”の高笑いによって、この樫の舞台は幕が引かれるのか……と思われた刹那、最内を通って伸びるリックサンブルの1頭分外から、他馬と次元の全く違う脚色を見せる馬が1頭やってくる。それがケイキロクだった。彼女は道中無理をせず、コーナーで最内を周って末脚を溜め、直線で盛大にばらけた馬群を突っ切って追い込んできたのである。1週前に落馬負傷したばかりで、痛み止めを打って臨んだ岡部騎手が導く重上手のケイキロク。一世一代の舞台において、このコンビは一番の輝きを見せた。1着、5枠10番ケイキロク。それから5馬身離された2着には4勝馬のリックサンブルが粘り込み、3着にはシーホークの娘のミョウガミネ(タケノコマヨシの母)が入った。残り100mの地点ではもうケイキロクのひとり舞台。見事な圧勝劇であった。

殊勲の岡部騎手は「あっという間に直線の坂を登ってしまった。ギアが入れ替わったみたいだったね」とコメント。一方の浅見師は「勝算は無かった。本当はもう1頭のケイシャープ(18着)の方が強いと思っていたんだ」と戸惑い気味の表情を見せていた。コマサツキは9着、ハギノトップレディは17着に惨敗。グレード制の施行と時を同じくしてシンボリルドルフと出会い、超一流騎手への階段を上っていく岡部騎手とケイキロクの生涯最初で最後の邂逅は、飛車角が見せ場無く敗れ去るという波乱の結果を呼んだ。

5馬身差での圧勝。この勝利によって、女王の椅子に座っているハギノトップレディをケイキロクが引き摺り下ろし、暫定4歳女王の座が入れ替わっても例年と事情が同様ならばおかしくは無い。ところが、新しく誕生した樫の女王に対する世間の目は厳しかった。「ハギノトップレディの惨敗は展開と道悪故。ケイキロクの勝利は馬場に恵まれての産物」という見方が大勢を占めたのだ。母の敵討ちなんてストーリーには、どいつもこいつも目もくれちゃいない。ケイキロクがハギノトップレディ以上の評価を獲得するためには、とにかく結果を残す他無かった。

しかしながら、このケイキロクが“華麗なる一族”の令嬢以上に評価される機会は、遂に訪れなかった。秋は9月の朝日チャレンジC(阪神芝2000m)から始動したが、先輩オークス馬のアグネスレディーの影も踏めない5着に敗退。秋2戦目の京都牝馬特別(阪神芝1600m)、そして秋の大一番たるエリザベス女王杯(当時は4歳牝馬限定戦・芝2400m)では、2戦ともハギノトップレディのやり過ぎなまでのリベンジに遭い、5着、10着と結果を残せなかった。暮れの阪神牝馬特別(京都芝2000m)ではタマモコトブキとラフオンテースの同い年コンビの後塵を拝し、3着まで。こうして誇り高きオークス馬の不本意な4歳秋は終わりを告げた。

秋はコテンパンにやられたとは言えど、底抜けに成長力のあるリボー系である。それ故に、古馬になってからの活躍に期待が集まるところであった。ケイキロクは5歳の夏まで9戦、以後6歳初夏に再び骨折するまでさらに4戦走った。だが延べ13走の結果はというと、1981年2月の中京記念での1勝を挙げるに留まっている。その他、京都記念(春)や小倉大賞典などで2着に健闘したが、牡馬一線級とぶつかった春天や宝塚記念ではいずれも衆寡敵せずシンガリ負けを喫した。なお、5馬身差でレコード勝ちを飾った中京記念は、折りからの降雪のため芝2000mからダート1700mに条件が変更されたレースであった。この中京記念の好結果から彼女のダート適性に注目が集まり、1982年6月の中央競馬招待競走(大井ダート1800m)に中央競馬代表として出走するプランがあったが、骨折のためそれも夢と消えた。当時の公営最強馬・アズマキングと道営史上最強馬と名高いコトノアサブキのワンツーで決まったこのレースに、中央自慢のオークス馬・ケイキロクが出走していたらどうなっていたのか……その答えが出ることは、永久に無い。

中央競馬招待競走直前に患った骨折は思いの外重傷だったようで、以後ケイキロクは戦線に復帰することの無いまま、翌1983年春には繁殖入りしていた。繋養地は故郷の東牧場では無く、門別の下河辺牧場であった。この措置には、オーナーの内田氏がケイキロクの所有権を巡って東牧場と争い、その結果仲違いしたことが影響しているのだという。繁殖牝馬としてのケイキロクはなかなかに優秀で、中央4勝を挙げ種牡馬入りしたケイコバン(父マルゼンスキー)を筆頭に中央競馬での勝ち馬を7頭も産んでいる。ダイイチルビーを送り出したハギノトップレディと比べるとさすがに見劣りするが、中央勝ち馬の数では一応上回っている(ハギノトップレディは5頭)。時は下り、やがて1997年に繁殖を引退したケイキロクは、日高の外館孝一牧場にて余生を穏やかに過ごすこととなった。

時代は21世紀を迎え、彼女の産駒の活躍の報ももう聞こえなくなり、1980年前後の地味な時代の名馬たちはこの世から、そして人々の記憶から徐々に退場していった。こうして後は静かに現世から失せるのみとなったケイキロクが、再び世間の表舞台に一報を届ける機会が巡ってくるとは……。2011年、この年すでに新表記で34歳となっていた彼女は、当時生存していた中央重賞馬の中でも最高齢となっていたのだった。著名な長寿牝馬であるトウメイの31歳はゆうに超え、先輩オークス馬であるカネケヤキの34歳と231日に手が届くか……とまで思われたが、大キロク・新キロク達成まであと7ヶ月ほどとなった同年の5月、いにしえのオークス馬・ケイキロクは老衰のため長い長い生涯の幕をとうとう閉じた。享年35。

ケイキロク -KEI KIROKU-
牝 鹿毛 1977年生 2011年死亡
父ラディガ 母ケイスパーコ 母父キノー
競走成績:中央27戦4勝
主な勝ち鞍:オークス 中京記念

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

はじめまして。楽しく拝読しております。

本記事をアップされたのが2015/5/18。
ケイキロクがオークスを制したのが1980/5/18。
そしてラデイガの誕生日が1969/5/18。

不思議な巡り合わせを感じました。