2015/06/16

【私撰名馬物語#55】ゴールドマウンテン

―歴史に残る“ターフの大横綱”の電車道に、先輩力士も形無し―


いずれも劣らぬ個性派として知られたヒシミラクルやヒシマサル、そして“色モノ競走馬界の大横綱”ヒシアケボノを育てた佐山優調教師が、定年制度により競馬界を去ってもう久しい。今後十年もすれば、筆者が競馬を覚えた当時の有名調教師たちはほとんどが表舞台から御役御免となるだろう。

佐山師というと「ヒシ」のイメージがどうしても強いが、90年代に頭角を現した当初はユウキトップランやトーワウィナー(共にCBC賞勝ちがある)といった快速スプリンターを育てるのが上手という印象があった。今回ご紹介させていただく、1994年の札幌スプリントS(現・函館スプリントS)などを制したゴールドマウンテンも、名伯楽・佐山師の秀作の一つである。

ゴールドマウンテンはその低い知名度の割にかなりキャラの立った競走馬で、言うなれば「ヒシアケボノの下位互換」とでもなろうか。そしてヒシアケボノが横綱の曙太郎に準えられるのならば、当のゴールドマウンテンは最高位が小結で生涯獲得金星がゼロの豊真将紀之みたいなもの(活躍時期はやや異なるが)。オープン特別~GⅢには滅法強く、多少の重斤量にもへこたれない。しかしGⅡ以上のレースは家賃が高い。それに加えて、ゴールドマウンテンはスプリント界の頂点に立つためには致命的とも呼べる弱点を抱えていた。数多くの小さな予定調和に彩られた彼の馬生は、果たしてどのような結末を迎えるのであろうか?

栃木県の名門・那須野牧場。内陸の高原の上に居を構えている同牧場にて、1989年の4月にゴールドマウンテンは産声を上げた。父はヌレイエフ直仔で当時の新種牡馬のフォティテン。母は英ダービー馬・エンペリーの娘のエンペリーズゴールドであった。勝気なタイプのフォティテンと、気が悪すぎて失敗したという風評のエンペリーの娘という配合だから、生まれた仔は気難しくて当然という感じさえする。ところが、幼少期の彼が気性難を抱えていたという話は幸か不幸か聞こえてこない。生まれた当時は特に目立ったところも無く、幼きゴールドマウンテンは本州で一二を争う名門の牧場において至って順調に育った。

そして彼は順調に育ち過ぎた。3歳(旧馬齢表記)初夏には540kg近くにまで成長したゴールドマウンテン。その馬格のデカさたるや、関係者が「本当に仕上がってくれるのか」と心配したほどであった。幸いにも、彼はただ図体が大きいだけの“でくのぼう”では無かった。試しに走らせてみると意外にも俊敏な動きを見せ、同年の暮れには千葉県の社台ファームで期待馬としてじっくり乗り込まれた。やがて栗東の佐山優調教師の下へ入厩すると、4歳となった1992年の5月の未出走戦(新潟芝1400m)でようやくデビュー。小谷内秀夫騎手を背に先行抜け出しで初勝利を挙げている。ちなみに、デビュー戦時の馬体重は516kgだった。

1歳上の半兄のゴールドストリート(父テリオス)は一時クラシック戦線に乗りかけたほどの活躍馬で、後に障害界へ転じ重賞を制している。500kgをゆうに超える黒っぽい鹿毛の大きな弟と、460kgそこそこの栗毛の兄では少々勝手は違うかも知れないが、揃って優秀な競走能力を母方から受け継いでいたのは確かだ。

競走生活の初戦は難無く制した。だが、その後しばらくはその大きな馬体を持て余して敗れるレースが続いた。立身出世への第一の壁は“出遅れ癖”、そして第二の壁は巨漢には似つかわしくない“揉まれ弱さ”である。出遅れ癖はレースを重ねて古馬になる頃にはすっかり抜け、その後特にぶり返すことも無かった。しかし、もう一つの弱点である揉まれ弱さは、後々までゴールドマウンテンの弱点として残り続けている。スタートに多少なりとも不安を持つ馬だけに、内枠を引いた時は出遅れぬよう細心の注意が必要だった。事実、4歳秋には千二、千四の条件で2連勝したが、いずれも決まり手は「逃げ」。下級条件戦にしては好タイムだったとは言えど、将来オープンクラスで活躍するためには馬群に慣れ、脚質の幅を広げる必要性が感じられた。

翌1993年は4月の準オープン特別から始動した。短距離上手の佐山師の管理馬らしく、4歳春に一度千八を使って以降は一貫してマイル以下の距離ばかりを使われていた。春先は馬券にも絡めず4連敗を喫したが、7月のTUF杯(福島芝1200m)をウィーンコンサート以下に2馬身半差つけて完勝すると、続くやまなみSと北九州短距離S(共に小倉1200m)も勝ち、一転3連勝。夏競馬での連勝とは言え相手関係は楽では無く、良馬場に不良馬場、差す競馬にマクる競馬と、変幻自在な競馬で勝ち星を手にしたことも大きな意義があった。こうして「夏の上がり馬」として大きな期待を背負い、9月にはGⅢのセントウルS(芝1400)へと出走したが、2番人気に推されながらも勝負所で滑ったように外へとヨレる不利もあって12着惨敗を喫している。

屈辱のセントウルSの後、休養に入ったゴールドマウンテン。翌1994年、明けて6歳となった彼は、4月のダービー卿チャレンジT(4着)を叩いてGⅡ・京王杯スプリングCに出走したものの、スキーパラダイスら外国馬の前に14着と歯が立たなかった。そしてこの頃から彼の秘めたる特徴が顕在化し始める。それは彼が「夏馬」だということだった。

雌伏の時を過ごしていた彼の季節が、とうとう訪れた。5月のシルクロードS(当時はオープン特別)を好位から抜け出し1分8秒8のレコードタイムで完勝すると、 続く6月のGⅢ・阪急杯ではニホンピロプリンスら短距離の強豪たちをやはり1分20秒9のレコードで一蹴し重賞初制覇。手綱を取った岸滋彦騎手は「すべてが上手く行きました」とご満悦であった。怒涛の2連勝で勇躍中京競馬場に乗り込み、本命馬としてGⅡ・CBC賞へ出走したが、ここは必勝を期したニホンピロプリンスによって返り討ちに遭い3着に終わった。しかし、直線でしぶとく伸びた脚には見どころが感じられ、「揉まれなければ抜群に走る馬」という風評を不動のものとした。すっかり勝利の型を身に付けた巨漢の彼が、押せ押せの勢いで出走した重賞。それが7月のGⅢ・札幌スプリントSであった。

重賞勝ち馬がユウキトップランだけという相手関係を考えれば、勝って当然というメンツ。しかし、直前の調教で思いの外動かなかったことが不安材料となり、ニュースヴァリュー、ユキミザケ、ユウキトップランらの卍巴から辛うじて抜け出した1番人気、といったぐらいの評価であった。鞍上は若き天才・武豊騎手。同騎手は6日後にイギリス・アスコット競馬場の“キングジョージ”での騎乗を控えている(ちなみに騎乗馬ホワイトマズル)。したがって、天才ユタカにとってこの札幌スプリントSは壮行レース扱いであった。愛しき天才を競馬発祥の国へと気持ちよく送り出してやりたいゴールドマウンテン。状態に多少不安はあれど、ここは負けるわけにはいかない。

各方面の期待を背負った武騎手&ゴールドマウンテンは、12頭立ての7番枠から抜群のスタートを決めて先行した。ハナを切ったのは5歳牝馬のロングキャロットだったが、外から近走不振もGⅠ2着の実績があるイイデザオウが競り掛ける。前半3ハロンは33秒4と緩みが無い。

「行きっぷりはイマイチだった(武騎手:談)」

馬群の外に付けられたのは想定通りだったものの、行き脚がなかなかつかない。武騎手の細腕が道中常に動き続けていた。傍目から見てもおっつけ通しで何とも忙しない。

大事な局面なのにエンジンがまるで掛からない。このおとぼけな巨漢の闘志に火が点いたのは、1200mのレースの中盤……3コーナーに入ってからであった。直前を行くニュースヴァリューの外を回し、巨体を揺らしながら白いメンコのゴールドマウンテンが一気に加速する。そこからは楽だった。斤量58kgも何のその。外から一気の伸びを見せたゴールドマウンテンは、内で抵抗するニュースヴァリューをねじ伏せてゴールイン。GⅢ2勝目を北の地で見事に飾ってみせた。

「おっつけ通しだったが、手応えは良かったので何とかなると思った。約1年ぶりにこの馬に乗ったが、以前よりも力を付けている。(英国遠征にも)いい感じで行けそうです(武騎手:談)」

「スタッフの努力、武騎手の好騎乗が勝利をもたらしてくれました(佐山師:談)」

ゴールドマウンテンの直前の稽古において不安説が出たのは、実は佐山師の深慮が影響していた。この年の記録的猛暑によって夏負けしている馬が多いことを重く見た佐山師は、札幌競馬場に着く前の栗東での調教を「オーバーワークにならないように」ほどほどな程度にしたのである。したがって、まさしくこの勝利は調教師をはじめとしたスタッフと、レースにて見事な手綱さばきを見せた武騎手の勝利と呼べたわけだ。

「夏男」として重賞2勝を飾り、押しも押されもせぬスプリント路線の横綱候補となったゴールドマウンテンであったが、“彼の季節”は短いものであった。1994年の暑すぎた夏が過ぎ、一転して秋風が吹き始めると、彼の調子も気温に合わせて急降下。秋はスワンS、マイルチャンピオンシップの2戦揃って惨敗した。同年の暮れには果敢に香港へ遠征し、前年のトモエリージェント(14頭立てのシンガリ)の敵討ちとばかりに香港国際ボウルに出走したものの(香港名:黄金山嶽)、逃げバテて8着に敗退。明け7歳となった翌1995年も現役を続行したが、適鞍では常に60kg程度の重斤量を背負わされるなど不利な条件に苦しみ、結局シルクロードSでの1勝に留まった。そのシルクロードSでの勝利は60kgを背負ってのものであるが、前年の覇者にも関わらず11番人気と評価は低く、加えて2着に16頭中16番人気のメモリーキャッチを連れてきたため馬連は22万馬券の超高配当となった。他に阪急杯、CBC賞での2着があるが、両レース共にゴール前での踏ん張りが利かず、3つ目の重賞タイトルをみすみす逃してしまった。

連覇を狙った札幌スプリントSでも斤量60kgが響いて4着に終わり、やがて夏が終わると当たり前のように二桁着順を繰り返した。どうも、この頃のゴールドマウンテンは重い斤量だけでなく、馬体の減量にも苦しんでいたようだ。6歳夏の全盛期には530kgほどだった彼の馬体重は、7歳秋には540kgを超えるようになり、引退レースとなった12月のスプリンターズSに至っては、何と自己最重量となる552kgでの出走となってしまった。なお、このスプリンターズS、勝ち馬はあのヒシアケボノである。

1995年のスプリンターズSの時のヒシアケボノの馬体重は、ゴールドマウンテンのそれをさらに上回る560kg。自慢(?)の馬体重を軽々と超える怪物に出会ってしまった(しかも同厩舎の後輩)ゴールドマウンテンは、自らの存在意義を粉々に破壊されてやる気の無いレースぶりを見せ、当時全盛期にあったヒシアケボノの電車道の前に、後方ママのシンガリ負けを喫したのである。アングロアラブのムーンリットガール(14着)にすら先着されるという、惨憺たる負けっぷり。先行力を活かした露払いの役割すら果たせず、新横綱誕生を目にして形無し&用無しとなった前頭格の先輩は、レース後間も無くして競馬界から身を引いた。

引退後はタニノクリエイトやシクレノンシェリフといった重賞ウイナーたちと共に、ヤマハリゾートつま恋乗馬倶楽部に引き取られ、1996年の暮れの大会で早くも入賞するなど、乗馬としてもセンスのあるところを見せていた。それからの消息については詳らかで無いが、晩年は岐阜の乗馬クラブに移ったという情報が僅かにWeb上に散見される。同じ情報ソースに拠ると、2008年の秋に彼は死亡したらしい。首尾よく年寄株を取れなかった、中途半端な実績の力士の最期は侘しいものである、という何とも失礼な偏見を筆者は持ち合わせているが(多分栃赤城雅男からのイメージ)、運悪く種牡馬になれなかった、中途半端な実績の巨漢スプリンターであるゴールドマウンテンは、安らかな最期を迎えることがどうにか出来たのか、どうか。

ゴールドマウンテン -GOLD MOUNTAIN-
牡 鹿毛 1989年生 2008年死亡?
父フォティテン 母エンペリーズゴールド 母父エンペリー
競走成績:中央34戦10勝 海外1戦0勝
主な勝ち鞍:阪急杯 札幌スプリントS

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