2015/07/09

【私撰名馬物語#56】リーゼンシュラーク

―新興ホースマンの賢き理念と得た栄光、そして訪れた挫折と迎えた終焉―


騙し騙されの関係性で成り立つ、魑魅魍魎にまみれた日本の競馬界。そこには一見して風変わり且つ独特な理念に則ったホースマンが、合理主義全盛の現在も少なからず存在している。その代表にして最大級の成功を収めたとも言えるメジロ牧場はもう潰れ、「テイエム」の竹園正繼氏の九州を中心とした牧場運営もほぼ音沙汰が無くなったが、一方でクラキンコを生み出した倉見牧場の奇跡は記憶に新しいところだ。そして古のメジロ牧場の落とし仔たるモーリスの活躍も今や目覚ましい。これらの存在は、日本の競馬に親しんできたオールドファンの心のオアシスとなり得るし、巷に蔓延る合理主義の反例として、我々に小気味良さをただ覚えさせるのである。

「天才少女」のあだ名で親しまれたダスゲニー、そして桜花賞馬・リーゼングロス。これらの1980年代前半の人気馬を所有していた三島武氏も、ある種の独特な理念を携えたホースマンであった。東京都内の開業医から馬主となった同氏は、ドイツ語に親しむ職業柄からかドイツ本国の馬産に興味を抱き、その結果「系統繁殖」と呼ばれる牝系を重視する理念を持つに至る。ダスゲニーもリーゼングロスも庭先取引によって購入された牝駒であり、同氏のドイツ式馬産の理念を実践するために買われたのであろう。事実、2頭は繁殖入り以降も三島氏の意向に沿った種牡馬が宛がわれ、産まれた仔馬もほぼ例外無く同氏が所有している。

1992年の七夕賞を制したリーゼンシュラークは、そのリーゼングロスの2番仔に当たる馬だ。仏ダービー馬・ハードツービート(1990年死亡)の忘れ形見としてGⅢを制すに至った彼。そして彼のこの勲章こそが、結果的にリーゼングロスが母として得た唯一の重賞タイトルとなる。2007年に死亡するまでにのべ13頭もの産駒を残しながらも(うち牝駒は6頭)、この桜花賞馬は後世に血を遺すことが出来なかったのだが、原因は果たしてどこにあったのだろうか?本稿では主人公たるリーゼンシュラークの活躍を振り返りつつ、母のリーゼングロスや同馬のファミリー、あるいは三島武氏の馬主・馬産家としての栄光と挫折について、ただ粛々と綴っていくつもりである。

快速・アローエクスプレス自慢の娘にして1982年の桜花賞馬・リーゼングロスは、翌1983年一杯で脚部不安のため現役を退いた後、浦河の小笠原隆牧場に預けられ繁殖入りを果たした。当地での初年度のお相手は新興種牡馬のブレイヴェストローマンであった。この1984年の春にオークスを娘のトウカイローマンが制すことになる同馬。翌1985年、2頭の間に母親によく似た立派な馬体の牝馬が産まれた。1988年のオークス3着馬・アインリーゼンである。

母と同じく三島武氏が所有し、やはり母と同じく美浦の新関力厩舎に所属したアインリーゼンは、4歳(旧馬齢表記)2月のデビューからわずか3ヶ月足らず、4戦目にしてオークスに出走。結果中団から鋭く伸びてコスモドリームの3着に入った。その後、1勝馬故に最下級条件から再出発した彼女は、400万下条件戦と900万下条件特別を連勝。将来が待望されたが、1989年5月の調教中に肺破裂を起こし急死してしまった。彼女が走った全6戦を共にした東信二騎手は、前年の5月にも相棒の二冠馬・サクラスターオーを闘病の末に亡くしており、本当に運が無かった。

アインリーゼンという後継牝馬候補を不慮の事故で亡くしたリーゼングロスは、遡ること1987年の春、ハードツービートとの間に2番仔を儲けていた。このオスの鹿毛馬は一見細身で華奢だが、長距離種牡馬の父譲りの綺麗な馬体を誇っており、加えて良血馬とあって周囲の期待は高かった。母や姉と同様に三島氏が所有した彼は、長じて「リーゼンシュラーク」と名付けられた。母の馬名から連想されたと思われるこの名前。「リーゼン」は「巨大な」、「シュラーク」は「一撃」をドイツ語でそれぞれ意味しており、彼に対して抱かれたGⅠタイトルの大望を感じさせる馬名である。

だが、このように大いに期待されて新関力厩舎に入ったリーゼンシュラークは、骨膜や腰の弱さなど良血馬特有のひ弱さを抱えており、当初は強い調教を施すことが出来なかった。そのうちに同厩の半姉は斃死し、1990年の春クラシックのシーズンも過ぎ去っていった。やがて同年秋にようやくデビューの日を迎えたのだが、彼の緒戦の地は良血馬に何とも似つかわしくない10月のどん詰まり開催の福島競馬場。レース名は“4歳未勝利”であった。その上条件はダートの1700mと、芝向き血統から見れば明らかに不適。恐らくは脚元が弱すぎて芝を使えなかったのであろう。このデビュー戦ではベテランの坂井千明騎手が跨り、早め先頭の競馬で難無く初勝利を挙げている。

リーゼンシュラークの初勝利の1週後には淀でクラシック最後の1冠の菊花賞が行われ、メジロマックイーンが一流ステイヤーの血を開花させていた。そんな華やかな同期とは全く無縁の1勝馬・リーゼンシュラークは、自己条件のダート戦を黙々と走り続けた。1990年11月から翌年3月まで骨膜炎による出走取消の1戦を除いて3走し、その結果デビュー4戦目で500万下条件を卒業。やはり桜花賞馬の息子は只者では無かったのだが、5戦目にして初めての芝レース出走となった房総特別(芝2500m)では見せ場無くメジロマッキャロン(ちなみにメジロマックイーンと同郷である)の7着に敗れた。そのうちに右前脚を骨折してしまい、同年秋まで休養を余儀なくされた。

5歳春以降の休養中にクラスが再編成されて、一介の2勝馬のリーゼンシュラークは最下級条件である500万下から再出発を図ることになった。1991年11月の復帰戦(東京ダート1600m)で加藤和宏騎手とのコンビを組み4着に入った後、中2週で中山の条件戦(ダート1800m)に出走。このレースでは2戦目以降休養するまで手綱を取り続けていた柴田政人騎手が再び跨り、デビュー戦と同じように早目先頭の競馬で押し切った。この勝利で900万下条件に昇級した彼は、暮れから正月に掛けてダートで2戦しいずれも掲示板に載った後、1992年2月に満を持して芝に参戦。東京芝2400mの立春賞で3着に入り、ひとまず芝への目途が立った。

末脚が切れないがバテない、なまくら刀のハードツービートの息子であるが故に、リーゼンシュラークはスピード競馬に対してはあまり適性が無かったが、反面時計の掛かる重い芝や2000m以上の中長距離戦にはなかなかの強さを見せた。立春賞で健闘した後、同年4月まで彼は芝で3戦を走った。初めの2戦では持ち前のズブさやフワッとした気抜き癖を露呈してしまい、いずれも3着に終わっている。しかし、初めてブリンカーを着用した安房特別(中山芝2000m)を重馬場を利して勝つと、5月の準オープン戦2走で共に2着に入る活躍ぶり。そして中1週で出走したジューンS(東京芝2400m)を完勝し、通算5勝目を見事な形で飾った。期待の良血馬のエンジンが、これで遂に全開となったのだった。

円熟の6歳を迎え、ブリンカー効果で気抜き癖も無くなったリーゼンシュラーク。彼が次に目指した舞台は、夏の福島開催の最終週、7月12日のハンディキャップGⅢ・七夕賞であった。

開催最終週ともあって、馬場状態は稍重発表ながらもかなり悪化しており、時計の掛かる芝がベストのリーゼンシュラークにとっておあつらえ向きの舞台となった。10頭立ての1番人気には前走で不良馬場を克服し、ハンデは55kgと手頃な“5冠馬・シンザン最後の産駒”スーパーシンザンが推された。以下、福島実績は十分だが2000mの距離に不安を残す快速馬・マイネルヨース、無冠の名牝・エイティトウショウの息子で前走のエプソムCで3着に頑張ったトウショウヒューイ、正月の金杯2着の実績を持つハンデ51kgの牝馬・ジャニス、重賞2着2回のカミノスオードなどがあまり差が無く続く。当のリーゼンシュラークはハンデ54kgと「思っていたより軽かった(新関師:談)」にも関わらず17.3倍の単勝9番人気と、重賞初挑戦故なのか評価は低かった。彼の鞍上には主戦の柴田政人騎手の姿は無く、代わりにデビュー戦以来に騎乗する坂井千明騎手が跨っていた。柴田騎手が厩舎の縁があり、実績も上回るトウショウヒューイに乗ったための措置である。

一流の腕を誇る主戦騎手が背中にいないという事態は、往々にして大きな痛手となり得る。だが、ローカル巧者として知られ、初出走初勝利のパートナーでもあった坂井騎手が鞍上ともなれば話は別だ。1990年のオールカマーを格下で11番人気のラケットボールで制すなど、時に思わぬ好騎乗を見せる同騎手は、良血の甘ちゃんだったリーゼンシュラークを巧みなテクニックで「その気」にさせた。最内枠に入ったリーゼンシュラーク。出脚はあまりつかなかったが、鞍上がスタート直後からムチを振るい、逃げを打ったマイネルヨースとあまり差の無い2番手に付けた。

「作戦は特になかったけど、少しジリっぽいところがあるし、多少前に行ってもバテない馬だから、他馬よりもワンテンポ早く仕掛けて行くつもりでした(坂井騎手:談)」

道中で折り合いを欠くことも無く、勝負所の3コーナーで坂井騎手はズブいリーゼンシュラークを盛んなアクションで奮い立たせ、直線入口で馬場の良い外へと持ち出した。この時点で人気のスーパーシンザンの手応えはすでに怪しい。同馬は重馬場が苦手というよりも、開催末の荒れた芝が苦手だったようだ。

直線半ばに至っても未だ粘るマイネルヨース。しかし残り100mというところで距離の壁かはたまた重賞の壁なのか、その勢いをにわかに失った。ゴール前で逃げ馬を外から交わしに掛かるリーゼンシュラークとトウショウヒューイ、そしてもっと外から芦毛のカミノスオードが突っ込んでくる。やがて迎えたゴールの瞬間。大激戦だったが、わずかにアタマ差だけブービー人気のリーゼンシュラークが抜けていた。2着にカミノスオード、さらにハナ差の3着にはトウショウヒューイが入り、直線入口で圏外に飛んだスーパーシンザンは巻き返しならず7着に終わった。

「トウショウヒューイを交わした瞬間、大外から1頭もの凄い勢いで来たのにはヒヤッとさせられましたね。でもよく粘ってくれましたよ。勝つっていうのは、本当にいい気分ですね」とは福島重賞で通算3勝目の坂井騎手の弁。新関師も「乗り役さんも上手く乗ってくれましたね」とご満悦であった。絶好の条件で、こうして初重賞を飾ったリーゼンシュラーク。アインリーゼンで得ることが出来なかった重賞タイトルを母に献上し、秋のGⅠ戦線へ向けて切符を手にしたのだ。文字通りの「巨大な一撃」ではあった。

だが、その大事な大事な切符をリーゼンシュラークが使うには遂に至らなかった。1992年秋の緒戦となるオールカマーの2週前の調教で、彼は左前脚を痛めてしまったのだ。診断は繋靭帯炎。それから間も無くして放牧に出された彼は、秋のシーズンをフルスイングで棒に振った。なお、この休養中にタケノベルベットがエリザベス女王杯を制しているが、同馬はリーゼンシュラークの2歳年下のおば(リーゼングロスの10歳下の半妹)に当たる。

翌1993年5月に彼はターフへと復帰を果たしたが、7歳となった手負いのリーゼンシュラークはすでに充実期の力を失っていた。春から初夏に掛けて府中で3戦しいずれも掲示板に届かず凡走した後、連覇を目指して七夕賞に挑んだが、道中ほぼ最後方から直線で突っ込んできたものの、ツインターボの逃げに迫れず差のある4着に終わった。このレースを最後に見切りを付けられ中央競馬の登録を抹消された彼は、公営岩手の志村文雄厩舎へと移籍したのだった。

最後のレースはメンバー随一の脚を使うも4着という結果。とは言え、まだ余力を十分に残しての地方移籍であり、若い頃に実績のあるダート競馬にもあまり不安は無かったはずだった。だがしかし、実は当時のリーゼンシュラークの状態はそれはそれは酷いものだったのだ。

「いざ実物を見ると、体の肉は落ちているし、動きもゴツゴツしていて、デビューどころか、調教すら始められる状態じゃなかったんです(志村師:談)」

しかも、1993年当時の岩手競馬は「魔王」トウケイニセイが未だ全盛期にあり、それに加えて中央オープン馬も頻繁に移籍していたという事情もあって、トップクラスでの活躍は望み辛かった。志村師と言えば、かつて中央でフェブラリーHを制したローマンプリンスを移籍後復活させたことで知られる名伯楽。だが、「今のこの馬をローマンプリンスと比較するのは、ちょっと可哀想(志村師:談)」と当時の同師のリーゼンシュラークに対する評価は何とも低いものであった。

案の定と言うか、岩手移籍後のリーゼンシュラークは全く力を発揮できず、8戦して4着が1回(それも1着馬から1.6秒差)あるだけと散々な成績に終わった。無敵状態のトウケイニセイとぶつかったこともあったが、同馬とは2戦するもどちらも大差のシンガリに敗れ去った。脚元の具合がよほど酷かったのか、それとも地方の深いダートが本質的に合わなかったのか……どちらが原因なのか、あるいはそれらが合わさった結果なのかは、今となっては分からない。残された戦績から類推する他無いのである。何故なら、1994年7月のレースで8頭立ての7着に敗れた後、彼の戦績は途切れており、その後の行方……いや、生死すら判然としないからである。桜花賞馬自慢の息子は、こうして表舞台から消え去ったのだった。

リーゼングロスは1990年に産んだエンゲルリーゼン(中央3勝・父ウインザーノット)が引退後繁殖入りして牝系を受け継ぎ、同馬が1997年に産み落としたエンゲルグレーセがダートのGⅢであるエルムSとクラスターCを制し、何とか気を吐いた。しかし、このエンゲルリーゼンは後継牝馬を遺すことが出来ないまま、時代は下って2005年春に用途変更の措置を取られており、リーゼングロスから伸びる牝系は絶えてしまった。エンゲルグレーセも所有していた同牝系のゴッドファーザーたる三島武氏は、現在では馬を持っていない模様である。また、ダスゲニー(1999年に用途変更)からの牝系も現在では消滅しており、2007年3月にはリーゼングロスが旧表記29歳でマッケン農場にて大往生を遂げ、今では三島氏の理念と熱意と夢は跡形も無くなった。わずかに種牡馬入り出来なかったエンゲルグレーセが、福島県南相馬市において功労馬として生き長らえているのみである。

これはリーゼングロスの生前から囁かれていたことではあるが、同馬やダスゲニーに宛がわれた種牡馬のラインナップは素人目に見て酷い。リーゼングロスの晩年こそB級サンデー産駒が種付けされてはいるのだが、それ以前は最初期を除いてB級・C級の輸入種牡馬ばかり付けられている。現在2頭の血が残っていないのは、三島氏の牝系の個性を大事にする「系統繁殖」の理念が裏目に出た結果と言えるだろう。このような“奇策”はメジロ牧場の全盛期の様に成功すれば掛け値無しに称賛されるが、失敗してしまえば当然のように批判されるか無視されて、後には何も残ることが無い。徹底した合理主義や、いわゆる「ベスト・トゥ・ベスト」の配合理論は人情味や面白味が無いと言えばそうなのだが、奇をてらった結果失敗してしまうというのも、どこか罪作りではある。難しい問題だ。

リーゼンシュラーク -RIESEN SCHLAG-
牡 鹿毛 1987年生 没年不詳
父ハードツービート 母リーゼングロス 母父アローエクスプレス
競走成績:中央21戦6勝 地方8戦0勝
主な勝ち鞍:七夕賞

2 件のコメント:

John さんのコメント...

初めまして
リーゼンシュラークの七夕賞の2着を探して辿り着いたのですが
このときの印象は一際鮮明に覚えています
比較的相性のよかった七夕賞と高松宮杯の週…
いつも通り予想して意気込んでいたものの
深夜の仕事明けで寝過ごし場外に買いに行きそびれたのです
こういうときに限って当たるんですよね
七夕賞がリーゼンシュラーク、カミノスオード
高松宮杯がミスタースペイン、ホクセイシプレー
共に高配当で茫然としたものです
数万の取りそびれは半端じゃないショックでした

まあそれはともかくリーゼンシュラークの脚は好きでした
戦績は派手ではありませんでしたがお気に入りだったので
こうやって記事にされている方がいらっしゃるだけで嬉しくなります
この時代はマル父のレースがあったくらいで今のように内国産種牡馬が多くなく
血統を含め種牡馬、繁殖牝馬も考えながら楽しめたものでしたが
最近はなんかこうおもしろみが足りません

いろいろ懐かしいマニアックな馬の名前が登場するこちらのブログ
これからも期待していますので頑張って下さい

響斗七 さんのコメント...

こちらこそ初めまして。管理人の響斗七です。

このリーゼンシュラークの記事は完全に趣味に走ったものなので、リアクションは全く期待していませんでした。
それだけに、ご丁寧にコメントしていただき本当に嬉しいです。
私自身の競馬歴はまだ20年にも達していないため、当然件の七夕賞についてはリアルタイムで知りません。
そのため、所持している当時の競馬雑誌をめくりながら、何とかその頃の雰囲気を感じ取るよう努力いたしました。
ご期待に添えることが出来たでしょうか?

今や「マル父」という言葉も「マル抽」や「マル市」と共に死語と化してしまいましたね。
これらの言葉が生きていた頃は、まだまだ内国産種牡馬の勢力が弱かった時代。
むしろ輸入種牡馬の仔に声援を送りたくなるような今とは隔世の感があります。
日本のターフマンの努力は認めたいですが、血統の多様性という意味で後退しつつあるのも事実でしょうし、
面白味が足りない、という意見には頷けます。

これからもほどほどにマニア路線を継続していこうと思います。
こういったコメントは更新の励みになりますし、更新の指針にもなり得ます。
今後とも当ブログをよろしくお願い申し上げます。