2015/08/23

【私撰名馬物語#57】オーバーレインボー

―夏の札幌に異端の虹は2度輝く―


今ではいささか古びた感のある“水かきのついた馬”という表現は、果たしていつ頃から使われ始めたのだろうか。現代に名を残した歴代の重上手と言えば、“雨のラファール”の異名をとった1972年の安田記念の勝ち馬・ラファールや、1980年の皐月賞馬・ハワイアンイメージ、極め付けの不良馬場で行われた1989年の弥生賞にて大差勝ちを収めたレインボーアンバーなどが著名である。近年この手のニックネームを襲名する馬が少なくなった理由としては、「物語の無い時代になった」とも言えようが、競馬場の造園技術の進歩に伴い大レースが重馬場で行われること自体が減ったということも挙げられよう。

今回の主人公であるオーバーレインボーは、それらの歴代の重上手たちに負けず劣らずの素晴らしいパフォーマンスを発揮した、稀代のパワーホースである。彼は同期のハワイアンイメージのようにビッグタイトルに恵まれたわけでは無かったが、80年代前半の関西の重賞や北海道シリーズにおいて長らく独特の存在感を示した。競走生活の後半には公営岩手競馬に転じ、老齢故にさすがに衰えは深刻で苦戦を強いられたものの、黎明期から上昇期に差し掛かりつつあった岩手競馬の駿馬たちに胸を貸し続けた。本稿ではこのオーバーレインボーが最も輝いた瞬間とも呼べる、2度の札幌記念制覇を中心としてストーリーを構成。彼自身の栄光と凋落の馬生を、札幌記念連覇から30年余りの時を経た今振り返ってみたいと思う。

浦河の安藤武氏の牧場においてオーバーレインボーが誕生したのは1977年5月2日のこと。彼の父のイエラパは仏グランクリテリウムの勝ち馬でモスボロー産駒の輸入種牡馬。後にエリザベス女王杯を最低人気で制したサンドピアリスの母父として世間に多少名を知られることになるイエラパだが、直仔はあまり走らず本邦では1982年のラジオたんぱ賞馬・アキビンゴを出した程度に終わった。母のサンビタリアは現役時代に中央で2勝を挙げている。その父はプリンスリーギフト直仔のフロリバンダ。フロリバンダは力感のあるスピードが売りの種牡馬であった。オーバーレインボーと同じプロポンチス~ミスヒガシの牝系からは、レガシーワールド(ジャパンC)やメガスターダム(菊花賞3着など)らが後々生み出されている。

サンビタリアは下ること1979年にダニッシュガール(牝馬東京タイムズ杯・父ハーディカヌート)を産んだが、その9年後の1988年に死亡している。初仔のオーバーレインボーの誕生に際してはこんな逸話が残っている。

普段は子供が引けるほど大人しかったというサンビタリア。だが繁殖初年度の種付けに際しお相手がいる牧場に連れて行くと、同馬は極端に暴れ種付けを嫌がった。そのため同牧場には種付けを断られてしまい、仕方なく持ち主の安藤氏は付き合いのある中村畜産に種付けを依頼した。その際に代役を務めたのがイエラパだったのだという。これが縁となり、サンビタリアはそれから毎年中村畜産の種牡馬を付けられている。

牧場にいた頃は、「どっしりとしたというか、のんびりとした馬(安藤氏:談)」であったというオーバーレインボー。その反面、他の気の強い幼駒からは逃げ回ってばかりで頼りなく、馬格も目立ったものでは無かった。丈夫で大人しいことが取り柄の凡馬、というのが当時の周囲の評価であった。

やがて京都某区の区長の父である鳥居茂三氏の持ち馬となったオーバーレインボーは、栗東の中村武志厩舎に所属した。この中村武志師はステートジャガー事件の当事者である中村好夫調教師の実兄に当たり、1979年の桜花賞馬・ホースメンテスコを育てた人物である。同師の弟子には佐々木晶三現調教師がおり、ホースメンテスコの主戦も騎手時代の佐々木師が務めていた。

オーバーレインボーのデビュー戦には1980年1月初めの京都開催の新馬戦が選ばれた。初戦は血統的に不適な千二という条件もあって、差のある2着に終わっている。しかし、千二から千六、千六から千八へと距離を延ばすごとに内容を良化させ、3戦目で無事勝ち上がった。ちなみに初勝利の舞台は未勝利戦では無く、400万下条件戦であった。ここまで鞍上を務めたのは厩舎縁の佐々木騎手。

初勝利の後オーバーレインボーは1ヶ月ほどの間に3戦したが勝てず、結局4月半ばの皐月賞には間に合わなかった。その皐月賞では雨中の極悪泥んこ馬場の中、重巧者のハワイアンイメージがクビ差オペックホースを下していた。一方、オーバーレインボーは同日の阪神のれんげ賞(芝2000m)を完勝。このれんげ賞は当時存在した2勝馬条件戦(800万下条件戦)であり、馬場状態は皐月賞と同じく不良であった。

2度に渡る格上挑戦の成就に気を良くした中村師は、れんげ賞後の目標として日本ダービーに照準を合わせた。2勝馬のオーバーレインボーがダービーに出走するためには、4月末の京都4歳特別で連対するか、5月初めのNHK杯で5着以内に入るか、このどちらかが上策であろう。そして中村師が選択した策は“東上してNHK杯出走”であった。

NHK杯にはデビュー3連勝で毎日杯を制し東上してきたレッドジャガーと、トライアルから皐月賞まで雨に泣かされ続けた関東の素質馬・モンテプリンスという明確な飛車角が存在していた。 当のオーバーレインボーは田原成貴騎手を背に2頭に続く人気を得たが、条件が晴れの良馬場ともなればモンテプリンス相手に勝ち目は薄かった。結果はというと、力強い伸び脚でモンテプリンスがレッドジャガーを7馬身ちぎり捨て、 オーバーレインボーは後方からバテた馬を交わしただけの5着に終わっている。こうしてなんとかダービーへの出走権を得たわけだが、同じく良馬場となった本番ではやはり通用せず8番人気の13着に沈んだ。ちなみに、このダービーにおいてモンテプリンスとの叩き合いの末戴冠したのは、“史上最弱のダービー馬”オペックホースである。

ダービーで生涯初めて掲示板を外す惨敗を喫したオーバーレインボー。1980年夏の彼は条件馬故に函館競馬場へ飛び、佐々木騎手と3戦してラストの北洋特別(芝2000m)を制し栗東へと帰った。春先のオーバーレインボーは気性的にまだ幼かったが、盛夏を乗り越えて徐々に成熟していった。秋の大目標はもちろん菊花賞だ。そしてその前哨戦……トライアルレースの京都新聞杯に、成長を遂げたオーバーレインボーは臨むこととなった。

この年の京都新聞杯は、京都競馬場が改修工事中のため阪神競馬場の芝2000mコースにて施行された。メンバーにはセントライト記念をハナ差勝ちして西下してきたモンテプリンスや、神戸新聞杯で接戦を演じたノースガストとタカノカチドキ、重賞2勝のノトダイバーに、前年の最優秀3歳牡馬であるリンドタイヨーなどが名を連ねている。なお、ここに名の無い皐月賞馬のハワイアンイメージは菊には目もくれず福島へ向かい、ダービー馬のオペックホースは熱発のため生憎調整が遅れていた。注目の馬場状態は……パワフルなオーバーレインボーとっては僥倖と言え、“太陽の王子”モンテプリンスにとっては恨めしい、悲喜交々の不良馬場であった。

そしてレース結果は、各々の馬場適性が何とも分かりやすく滲み出たものとなった。極端なスローペースから2番人気のタカノカチドキが4コーナーで抜け出しを図り、雨の重馬場に苦しむモンテプリンスを制して一旦先頭に。だが、タカノカチドキの内を通って進出を図ったノースガストが外へ外へとヨレていき、2頭の間にいたオーバーレインボーもその煽りを食って外へと進路を採る始末。これでは素質あるタカノカチドキもひとたまりも無く、鞍上の武邦彦騎手は思わず立ち上がってしまった。結局6番人気のオーバーレインボーが3/4馬身ノースガストを制し、タカノカチドキは3着まで。モンテプリンスはリンドタイヨーにも後れを取る5着に終わり、1980年の菊花賞路線はますます混沌を極める、という結果になった。前年の泥んこ桜花賞のホースメンテスコに続き、鞍上の佐々木騎手はまたしても不良馬場に笑った。

得意の条件で大物食いを果たし、重賞初制覇を成し遂げたオーバーレインボーは、予定通り3週後の菊花賞に出走したが、「必殺仕事人」こと田島良保騎手が駆るノースガストのレコード駆けの前に立つ瀬無しの6着に敗れた。稀代の重巧者だけに、レコードタイムが出るほどの歴史的な高速馬場では手も足も出なかった、というわけだ。以後年末から年明けに掛けて淀で重賞を2走したオーバーレインボーであったが、2戦とも争覇圏外に敗れ去っている。

この時点で重賞1勝馬に過ぎなかったオーバーレインボーにとっての最初の転機は、翌1981年1月に訪れた。管理する中村師が莫大な借金を苦にして、突然蒸発・失踪したのである。クラブ馬主法人のホースメンクラブの倒産(一説には計画倒産であったとも)に絡んだ同師の失踪。この一連の騒動は「ホースメンクラブ事件」と呼ばれ、現在では日本競馬史における完全な黒歴史の一つと化している。そして桜花賞トレーナーである中村武志調教師の名も、2015年の今では語られる機会すら完全に無くなり、その存在自体が抹消されている感すらあるほどだ。中村武志師の廃業後、オーバーレインボーは実弟の中村好夫厩舎預かりとなり、その後間も無く土門一美厩舎へと転厩している。

5歳時のオーバーレインボーは崎山博樹騎手の手綱で不良馬場の金鯱賞を制し、同じく不良馬場の大阪杯で2着、重馬場の高松宮杯で3着に入った。しかし春秋の天皇賞や宝塚記念では勝ち馬に歯が立たず惨敗している。この3戦はいずれも良馬場で施行されており、オーバーレインボーにとっては天候に恵まれなかったということもあろうが、同時代の大スターであるカツラノハイセイコやカツアール、ホウヨウボーイなどと比較すると、格や実力的にいささか見劣りするところがあったのは否定できまい。それはさておき、暮れの阪神大賞典(稍重)でアタマ差の2着に敗れ、やや停滞した状態でオーバーレインボーは5歳のシーズンを締めくくることとなった。

明けて1982年、6歳のシーズンは3月のマイラーズC(阪神芝1600m)を叩いて(8着)、4月のサンケイ大阪杯に出走。得意の重馬場ということもあって、人気のサンエイソロン相手に必死の抵抗を見せ半馬身差の2着に食い込んだ。だが、次走の春の天皇賞(良馬場)では道中2番手の積極策を見せるも、ミナガワマンナやモンテプリンスにマクられると末を失い12着に惨敗。同期のモンテプリンスの悲願のビッグタイトル奪取を恨めし気に眺める他無かった。

そして、オーバーレインボーの2度目の転機は同年の夏にやって来た。自身初めてのダート競馬参戦である。当時の札幌競馬場にはまだ芝コースが無く、札幌記念などの大レースもダートコースで施行されていた。この夏、4歳時の函館滞在以来に北海道シリーズに挑んだオーバーレインボーは、6月の札幌日経賞(ダート1800m)をステップに翌月の札幌記念(ダート2000m)へ出走することとなった。

札幌日経賞から彼の鞍上には、それまで主戦を務めていた佐々木晶三騎手では無く田島良保騎手が跨っていた。かつて覇を競ったライバルであるノースガストの主戦騎手が、このオーバーレインボーの背中に据えられるとは奇縁と言うか、それとも勝負の世界故の出来事なのか……一方の佐々木騎手はすでに騎手稼業に対して情熱を失っていたらしく、翌春には調教助手に転向している。

初めての札幌、初めてのダート、そして初めて田島騎手とコンビを組んだ札幌日経賞は、同い年のキタノリキオーを捕まえ切れず2着に終わった。敗れたとは言え、初物づくしのステップレースとしては上々の内容であった。

夏のダート王決定戦・札幌記念。人気を集めたのは前年の覇者で重賞3勝馬のキタノリキオーである。498kgの馬体に60.5kgの酷量を背負ったこのダイコーター産駒は、オーバーレインボーとはほとんど別の道を歩んで来た関東馬だ。その他、前年の皐月賞2着馬・ロングミラーや、中山ダート1800mのレコードホルダーであるキヨヒダカ、前年の桜花賞馬のブロケードに、宝塚記念で4着に入り遅く来た春を謳歌しつつあったキョウエイプロミス、あるいは後に史上初のダートGⅡ馬となるエリモローラなど、メンツはなかなかに多彩であった。そんな中、彼らに負けず劣らず実績十分のオーバーレインボーは2番人気に推された。ハンデは58kgと決して楽では無かったが、弱音を吐いている場合では無い。

スタートでオーバーレインボーが躓くアクシデント。鼻面が砂の表面に触れるほどノメった彼は、いつもの先行策を取れずに道中は後方に待機せざるを得なかった。一方、最内1枠1番に入ったキタノリキオーは乾いたダートに苦しみ、先手を奪うのに苦心していた。前年の勝ち馬とは言えど、その勝利は不良の軽いダートで得た物である。今年の力の要る砂とはまるで勝手が違う。それに、いくら強豪と言っても60kg超の斤量は堪えないはずが無い。

3コーナーでようやくキタノリキオーが意地を見せ先頭に立ったが、すでにディフェンディングチャンピオンに余力は残されてはいなかった。瞬く間にスタートで死んだはずのオーバーレインボーが外からマクってくる。直線に入ると内に入ったキタノリキオーは伸びを欠き、外から来たロングミラーに競り落とされてしまう。しかし、2頭の競り合いを尻目にオーバーレインボーは先頭をひた走った。スタートの躓きも何のそのの盤石の強さ。最後は2着馬に2馬身差をつけ、真っ先にゴールへ飛び込んだ。ロングミラーとキタノリキオーは後方からやって来たシルクリキオーにも交わされ、それぞれ3着と4着に敗れた。ちなみに、このシルクリキオーはキタノリキオーの1つ年下の全弟である。2着馬が人気薄だったこともあって、連複は15800円と万馬券になった。

「4コーナーで差を詰めて行った時、やっと目標のキタノリキオーを確認できた。そして手応えの差から負けられないと思った(田島騎手:談)」

6歳で円熟味をより増したオーバーレインボーはこれで重賞3勝目。こうして史上に残るパワーホースは、札幌の空に名を轟かせることとなった。片や敗者たるキタノリキオーは、その後1勝も出来ないまま、同年秋に盲腸破裂のためこの世を去ってしまうのである。

オーバーレインボーの活躍はまだまだ終わらなかった。翌1983年1月の日経新春杯では遂に良馬場を克服し、2着のメジロカーラをハナ差下して重賞4勝目を獲得。やがて迎えた夏の北海道シリーズ。前年は2着だった札幌日経賞でエリモローラを完封すると、今度は自身が60.5kgを背負った札幌記念においてはベストのパフォーマンスを発揮。前年と同様に道中後方から一気にマクる競馬で、カツマサタイコウ以下をクビ差抑え込んだ。田島騎手曰く「これ以上は走れません」という会心の競馬で、札幌の夏空に大きな虹を2度輝かせた。この札幌記念にはエリモローラ(3着)の他、翌年フェブラリーHを制すロバリアアモン(4着)や、皐月賞馬のハワイアンイメージ(7着)に桜花賞馬のリーゼングロス(14着)、南関東最強馬と呼ばれ中央入りしたアズマキング(8着)、おまけに6年連続重賞制覇のドウカンヤシマ(12着)など、前年以上に豪華絢爛のメンツが揃っていた。それらの強豪たちを向こうに回してトップハンデで勝ち星を挙げたオーバーレインボーは、まさしく“砂の王者”であった。

これほどまでに随所で強さを見せつけ続けたオーバーレインボーであったが、GⅠ級のタイトルには遂に恵まれなかった。彼が走った時代はジャパンCダート(現在のチャンピオンズC)はおろか、フェブラリーSもウインターS(現在の東海S)も無く、古馬ダート重賞は札幌記念のみという時代である。未だ芝のステイヤーが持てはやされていたこの時代において、オーバーレインボーは異端な存在であったのだ。札幌参戦の前には4度目の天皇賞に臨んだものの、同期の関東馬・アンバーシャダイの前に衆寡敵せず9着敗退。馬場状態はまたしても良馬場と、重上手の彼は天に見放された。同年暮れには有馬記念を目指して久々に東上を図ったが、ひと叩きの平場オープン(阪神芝1900m)で4着に敗れた後、角膜炎を発症し戦線離脱を余儀なくされてしまう。この病気は思いの外重症であったようで、復帰は翌1984年6月の宝塚記念にまでズレ込んだ。齢はすでに8歳を迎え、出走馬中最高齢の宝塚記念では後方から全く動けず11着に大敗。それから16日後には大井の中央競馬招待競走(ダート1800m)に出走したものの、浦和のダーリンググラスを中心とした南関東勢の返り討ちに遭い9着に惨敗した。

大井で冷や水を浴びた後、オーバーレインボーは中央競馬の登録を抹消されて公営岩手競馬の城地藤男厩舎へと移籍した(詳しい時期は不明)。その当時まだ草創期にあった岩手競馬において、中央の重賞5勝馬である彼は絶大な熱望を持って迎えられたという。周囲の期待に応えるかのように、当初の彼は連戦連勝の活躍を見せて当地のファンを沸かせた。ところが、1985年春の特別戦・赤松杯(水沢ダート1900m)を制したのを最後に勢いが止まり、以後はボールドマックスら岩手のトップクラス相手に勝負にならない競馬が続いた。みちのく大賞典やシアンモア記念、桐花賞など大レースにも挑んだが、いずれも大敗。結局赤松杯以降は勝ち星を挙げることが出来ないまま、1986年7月の競走がラストレースとなった。

引退後は浦河スタリオンステーションにて種牡馬入りしたが、訴求力に欠ける競走成績と地味な血統が祟ってまるで人気が出ず、牝馬は集まらなかった。代表産駒は公営金沢のA級で活躍し、後に中央入りしたハクツルキングか。そのうち住処を放出され牧場を転々としたオーバーレインボーは、やがて1994年に用途変更となった。廃用後の消息は全く不明であり、2015年現在彼の血を受け継ぐ馬は存在しない。

オーバーレインボー -OVER RAINBOW-
牡 鹿毛 1977年生 1994年用途変更
父イエラパ 母サンビタリア 母父フロリバンダ
競走成績:中央47戦9勝 地方29戦5勝
主な勝ち鞍:京都新聞杯 日経新春杯 札幌記念(2回) 金鯱賞

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

4歳暮れの阪神大賞典で、人気馬(ノトダイバー)が直前に発走除外となり、なにか波乱を予感させる中
見上げれば競馬場の空にとても大きくきれいな虹がかかったのを今でもおぼえています。