2015/12/16

【私撰名馬物語#59】キタサンテイオー

―不世出の大歌手と名伯楽、それぞれの邂逅と栄華と花道と―


公営船橋競馬の名伯楽、いや近年の地方競馬全体を代表する名伯楽であった川島正行調教師がこの世を去ってから、もう2度目の暮れを迎えようとしている。月日が過ぎるのは早い、とただただ感嘆するばかりだ。

川島師の偉大さをわかりやすい形で説明すると、「アジュディミツオー、フリオーソの南関二大巨頭を育てる」「地方所属馬初のドバイ遠征を敢行」「東京ダービー5勝」「通算勝率2割6分4厘」「川島再生工場」「ヒゲ」……いや、拙い言語で説明するのは野暮というものだろう。とにかく、1990年の厩舎開業以来驚異的な成績を残し続け、“川島軍団一人勝ち”の牙城を10年単位で築き上げたことは驚嘆に値する。彼の遺産は息子の川島正一師や、弟子の山下貴之師(元騎手)などに分散されて受け継がれる模様だが、果たして今後船橋……南関競馬の勢力図はどのように変貌を遂げるのか、注視していく必要がある。

話題を転換する。すっかり冷え込んだこの年の瀬の空気を暖めるビッグイベントと言えば、競馬界では有馬記念、また歌謡界では紅白歌合戦が挙げられよう。そして2つのイベントを結びつけるキーマンが、今年度はしっかりと存在する。他でも無い、北島三郎御大である。長年紅白をシメてきた御大に、悲願のGⅠタイトルを献上した菊花賞馬・キタサンブラックが、来たる暮れにはグランプリに出走するのだ。揃った面子にもよるが、恐らく同馬はクラシックに引き続き単穴~連下評価という気楽な立場で、大きな一発を狙うことになるのではないだろうか。だが穴人気とは言えども、キタサンブラックはれっきとしたクラシックホースだ。それなりにカッコをつけないと金看板に傷がつくというもの。ここは是非、同馬に“菊花賞馬らしい立派な走り”を望みたい。紅白大トリ男・北島三郎が唄い上げる「まつり」が、中山競馬場から船橋法典駅とららぽーとにまで響き渡る様子。それこそが、“不世出の大歌手”が歩み踏みしめた競馬道における真の花道と呼べるのではないか。

冒頭で述べた故・川島正行師の軌跡、して有馬記念での北島三郎御大の花道。一見関係無いように見えるこの二巨人だが、地方競馬の事情に詳しい方ならもうご存知であろう。実はこの2人は“熱い絆”によって結ばれていた、という話はこぼれ話扱いにするには役不足というものか。何はともあれ、今回ご紹介する馬は、北島三郎氏所有(馬主名義は(有)大野商事)のキタサンテイオーである。1992年12月の全日本3歳優駿(旧馬齢表記)などを制した彼は、創生期の川島厩舎が全国区のスターダムへとのし上がる原動力となり、北島氏率いるキタサン軍団が中央競馬に根を張るための布石となった。やがて力余った彼は川島厩舎を飛び出し、よりレベルの高い世界へと飛び立つため翼を広げようとするのだが……舞台背景から年の暮れにピッタリと思われる名馬・キタサンテイオーの物語を、これから粛々と綴っていきたい。

キタサンテイオー自身の話をする前に、まずは川島師と北島氏の出逢いについて書こう。話は1980年に遡る。

今となってはあまり語られないが、川島正行調教師の前職は騎手である。1947年9月に千葉県で生まれ、1964年に公営船橋の騎手試験をパスしジョッキーとなった川島師は、以後20余年間馬乗り稼業を勤め上げた。通算で786勝を挙げ、船橋のリーディングジョッキーに輝いたこともある。あのロッキータイガーに羽田盃と東京ダービーで騎乗したのも彼である(いずれも惜敗)。中堅以上一流未満の騎手であった。師匠の林正夫調教師の下、歓喜と辛苦両方を味わった騎手生活。デビュー以来16年ほど忍耐強く頑張ったが、なかなか師匠に実力を認められなかった。ようやく一人立ち……つまり「もう一人前」と関係者に声に出して言われたのが、三十路をとうに過ぎた頃。そのきっかけが、浦和のアラブ重賞・シルバーCを歌手の北島三郎氏が所有するエリモミサキで制したことであった。

北島三郎氏の持ち馬の名が襟裳岬というのもどこか妙ちきりんな話だが、それは脇に置いといて。愛馬をハナ差で重賞制覇に導いた川島騎手(当時)に、北島氏は「もう彼も一人前だね」と労いの声を掛け、大いに喜んだ。この勝利は北島氏にとって、馬主としての初めての重賞勝ちであった。これが縁となり、以降御両人はまるで義兄弟のように仲睦まじく付き合ったという。林師も川島騎手の腕をようやく認め、一人前の証として翡翠の指輪と時計と着物をプレゼントした。後々も川島師は、この記念の指輪を初心を忘れないために競馬場に行く度に着用したというが、式典出席時の立派な袴がこの時の着物と同じ代物であったかどうかは定かで無い。

話が脱線した。1980年の北島氏との邂逅を経て、1987年に40歳でムチを置いた川島騎手は、下って1990年より船橋競馬場にて厩舎を開業した。一国一城の主となったのだ。腕っ節と鼻っ柱の強い彼が調教師免許を取得し、厩舎を開業するまでには組合と一悶着も二悶着もあったというが、ややこしい事態を収拾したのもまさしく北島氏の一声であった。もちろん川島師も血が滲むほど努力した。彼が中央競馬の境勝太郎調教師を通じて、故障馬の勉強・研究をしたのもこの頃である。これらの経験は存外すぐに実を結び、初めは5馬房しかなかった川島厩舎は躍進と拡大の一途をたどることとなる。

川島師がキタサンテイオーの母・キタサンクインと出逢ったのは、同馬がまだ幼駒だった頃である。三石の牧場を訪れた北島氏と騎手時代の川島師は、ロジンスキーの娘である“パーセントの1984”を見初めたのだという。父ロジンスキーは当時数多くいたニジンスキー直仔の種牡馬の中でもパワータイプ、且つ三流の種牡馬であった。恐らくは、母のパーセントが現役時北島氏の妻の名義で走ったことに起因しているのだろう。兎にも角にも、やがてキタサンクインは川崎でデビューし、東京プリンセス賞3着、戸塚記念5着などそれなりの活躍を見せた。引退後同馬は片岡禹雄氏の下で繁殖入り。そして川島厩舎開業の年、1990年の4月に生を享けたのがキタサンテイオーである。鹿毛馬のキタサンテイオーの父はミルリーフ直仔の英GⅡ馬・サウスアトランティック。当時は種牡馬・ミルジョージ全盛の世の中。言うなれば流行の血筋だ。

母と同様に北島三郎氏(名義は(有)大野商事)の持ち馬となり、長じて船橋の川島正行厩舎に預けられたキタサンテイオー。1992年8月の新馬戦(船橋ダート1000m)を逃げて6馬身差で勝利し初陣を飾ると、千二に距離が延びた9月&10月の特別戦も勝利。この3戦の鞍上は、いずれも36歳で脂の乗り切った船橋の名手・石崎隆之騎手であった。

この石崎隆之騎手は、後の1994年にワールドスーパージョッキーズシリーズで優勝し、その3年後に施行されたGⅡ・東海ウインターSをアブクマポーロで制したことで中央競馬にも名を轟かせた。アブクマポーロとのコンビはその後も継続され、東京大賞典や帝王賞などダートのビッグタイトルを次々と奪取した。また、無敗の南関東四冠馬・トーシンブリザードとのコンビでも著名である。実子の石崎駿騎手がほぼ一人立ちし、本人も還暦を迎えんとする2015年現在では乗鞍がかなり減っており、1日1鞍だけヒョイと乗って帰る日々が続いているが、90年代には今も現役バリバリの大井所属の的場文男騎手と火花を散らし鎬を削っていた。須田茂、佐々木竹見、高橋三郎、桑島孝春、そして的場文男らと共に、間違いなく歴代の南関東公営を代表するジョッキーに名を連ねる存在であろう。

さて、デビュー以来無傷の3連勝を危なげなく飾ったキタサンテイオーであるが、続く4戦目にして初めて当地の重賞に挑戦することとなった。11月の平和賞(船橋ダート1600m)である。距離はマイルに延びたが、地元開催ということもあって、8頭立てで単勝オッズは1.4倍と圧倒的な支持を得た。結果はというと、同じく船橋所属のプレザントが大逃げを打つ中、離れた3番手で楽に追走。4コーナー手前で石崎騎手が仕掛けると抜群の反応を見せ、粘りこみを図るプレザントをゴール前で計ったように半馬身だけ差し切った。これで土つかずの4連勝。川島師が後に刻む濃い歴史の最初の1ページとなる、何とも見事な重賞初制覇であった。

ところが、連勝街道を驀進するキタサンテイオーの前に強敵が立ち塞がる。大井のブルーファミリーの登場である。その当時本邦ではまだ珍しかったミスタープロスペクター直仔のテューターを父に持つ同馬は、地元の新馬戦と特別戦をやはり危なげなく完勝。父は不肖の5戦未勝利馬だが、世界的大種牡馬の父父と母父のマルゼンスキーより天性のスピードを受け継いだ快速牡馬であった。

2頭が雌雄を決したのは12月初めの大井重賞・青雲賞。平和賞と同様にマイルで行われた同レースでキタサンテイオーは1番人気に支持されたが、石崎騎手から乗り替わった佐藤隆騎手と共に臨んだものの、逃げるブルーファミリーを捕まえ切れず2着に終わった。この敗戦にさしもの川島師も「相手が強かった」とお手上げ状態。レースぶりは上手かっただけに、勝ったブルーファミリーの強さが誇示されるだけの内容となってしまった。

5戦4勝2着1回、うち重賞1勝とほぼパーフェクトな戦績を挙げながらも、管理する川島師はさらなるビッグタイトルを求めた。伝統の全国交流重賞・全日本3歳優駿(川崎ダート1600m)こそが、師が最初に奪取を図ったタイトルである。日時は12月22日。その2日前、中央競馬では持ち込み馬のニシノフラワーがスプリンターズSを制していた。血統の過渡期、また騎手や調教師の過渡期でもあった1992年、前年に斃死したサウスアトランティックの息子であるキタサンテイオーが、公営3歳馬の頂点に立つべく、同重賞へとコマを進めて来た。川島・北島両氏の黄金タッグにとって、初めての山場となった舞台と言えるだろう。

しかし、全国交流重賞と一応名はついていたものの、この年の全日本3歳優駿に北海道勢以外の他地区馬の参戦は皆無だった。その北海道勢は北海道3歳優駿勝ちのスイートビクトリアと、同レースにて人気を集めながらもシンガリ負けを喫したジュライスリーの2頭。前者に圧倒的な凄みは感じられず、後者には如何にも距離不安が付きまとった。対する南関東勢は風車ムチの桑島孝春騎手が操るプレザント、そして南関のトップジョッキー・石崎騎手に手が戻ったキタサンテイオーと、船橋勢が上位人気を占めた。石崎騎手はこの重賞を過去4回制しており、まさしく盤石の体制であった。大井のブルーファミリーは不参戦。したがってキタサンテイオー、ここは負けられない。

まず逃げを打ったのは、テンの速さには自信があるキャリア豊富な道営馬・ジュライスリーだった。鞍上の角川秀樹騎手が誇らしげに行き切らんとハナを切ったが、すぐ後ろからプレザントやキタサンテイオーが突っつく展開となり、まったく息が入らない苦しい逃げに。スイートビクトリアは道中最後方から行ったが、3コーナーでの行き脚はあまりよろしく無い。

4コーナー手前で逃げ馬が一杯になり最初に脱落。追い掛けていたプレザントが並ぶ間もなく交わし、やがて先頭に立った。桑島騎手は砂の深いインを嫌い、外目へと持ち出した。そこにあえて内目からやって来たのが石崎騎手とキタサンテイオーだ。平和賞で見せつけた“並んでからの強さ”を彼はここで嫌というほど発揮し、外のプレザントと競り合いの末、ゴール板を前にして3/4馬身ほど抜け出た。2着馬から5馬身離された3着には後方から伸びたスイートビクトリアが入った。

川島師が思い描いていた青写真通りに、公営3歳馬の頂点に立ったキタサンテイオー。川島師自身の「芝でもやれる馬」という助言に心を動かされた北島氏によって、4歳になった彼は中央競馬……美浦の嶋田功厩舎へと移籍し、皐月賞に端緒とする中央牡馬クラシック制覇へ向けて調教されることになった。同父のミルジョージと比べて産駒に芝馬の多いサウスアトランティックの息子。血統的には芝は全くと言って良いほど問題が無い。全日本3歳優駿の勝ちタイムには多少疑問符が付いたものの(ひと月前に同条件で開催された全日本アラブ争覇の勝ち馬・マルシンヴィラーゴのタイムよりも1秒9も遅かった)、その頃放送されたフジテレビの深夜の競馬番組において、「今年のダービー馬はキタサンテイオー!」と威勢よく指名されるなど、話題性も十分(?)であった。

ところが、中央緒戦と目されていたスプリングSを前に、彼は左前トウ骨遠位端に骨膜が出るアクシデントに見舞われてしまう。それ故に中央御披露目は白紙となり、彼は先の見えない長い長い休養に入った。遅れに遅れた中央緒戦は、なんと全日本3歳優駿から約1年7ヶ月後の1994年7月、新潟のオープン特別・朱鷺S(芝1400m)にまでズレ込んだ。すでに彼は5歳馬。これじゃあ話題性もへったくれもあったものでは無い。中舘英二騎手が跨った同レースでは前々で頑張り、勝ったメジロカンムリと僅差の2着に好走し、一応の格好はつけて見せた。しかし、続くGⅢ・関屋記念では2番人気に推されながらも、完全に長期ブランクからの2走ボケにハマり、行きっぷり悪く5着に敗退。朱鷺Sで乗っかりかけた中央のスター街道から、この敗戦で見事に取り残されてしまった。

鳴り物入りで移籍したはずのキタサンテイオーが中央で七転八倒している間に、古巣の川島厩舎は「川島再生工場」として名声を高めていた。不肖の公営3歳チャンプと物々交換だと言わんばかりに、壊れて捨てられてきた中央の上級条件馬のモガミキッカやサクラハイスピードが、腕利きの川島師によって見事に立ち直り、南関東の大レースを次々と奪取したのである。見事な活躍ではあったが、これでは厩舎を飛び出したキタサンテイオーは立つ瀬が無い。おまけにかつてのライバル・プレザントは東京ダービー馬となり、ブルーファミリーは堂々の南関二冠馬だ。これじゃあ恩師や旧友たちに合わせる顔が無い。弱ったなぁ。さらにキタサン軍団には新たにキタサンサイレンスという期待馬が……もう勘弁してくれぇ!

関屋記念以降、キタサンテイオーは慢性の脚部不安故に休み休み使われながら9歳まで16戦したが、結局準オープンの阿武隈S(福島ダート1700m)で挙げた1勝のみに留まった。1996年のGⅡ・フェブラリーSでは、2つ年下の全日本3歳優駿馬・ヒカリルーファス(12着)と激しい先行争いを演じ公営ファンをぬか喜びさせたものの、案の定共倒れとなり13着に惨敗。確かにスピードは非凡なものを持っており、芝適性もそこそこあったが粘り腰に欠け、何より万全な状態での出走が叶わなかったのは痛かった。晩年は筆まめな谷中公一騎手とコンビを組みオープンクラスで戦ったが、白星を上げることは遂に出来ず、1998年7月の朱鷺Sで7着に屈してから1ヶ月ほど後に登録を抹消された。引退後の道行きは「乗馬」とアナウンスされたが、その後の消息はまるで聞こえてこない。1992年度公営3歳チャンプ・キタサンテイオーは、こうして花の中央競馬でヨレヨレくたくたになるまで負け続けた後、行方知れずとなった。

だが、彼の母であるキタサンクインは、その後も長男に負けずとも劣らずの駿馬を産み続けた。4歳下の半弟のキタサンフドー(父サクラホクトオー)は小倉3歳Sで2着、デイリー杯3歳Sで3着と非凡な才能を見せ、最終的に1億円超の賞金を稼ぎ上げた。また、1998年生まれのキタサンチャンネル(父ヘクタープロテクター)はニュージーランドTで岩手の星・ネイティヴハートを完封しGⅡ制覇。さらに、1999年生まれのキタサンヒボタン(父フジキセキ)は極めて非凡な才能を持っていた。最終的に彼女はGⅢ1勝(ファンタジーS)止まりに終わったが、7戦5勝の戦績を残し最後の最後まで底を見せなかった。キタサンクインは2001年に死亡したが、複数頭の後継繁殖牝馬を残しており、牝系はしばらく安泰であろう。キタサン兄弟の長男坊は軍団の捨て石となり、不遇をかこったままその消息を絶ったものの、これだけ下の兄弟が活躍すれば兄貴の苦労も報われた、と言えるのではないだろうか。

キタサンテイオー -KITASAN TEIO-
牡 鹿毛 1990年生 没年不詳
父サウスアトランティック 母キタサンクイン 母父ロジンスキー
競走成績:地方6戦5勝 中央18戦1勝
主な勝ち鞍:全日本3歳優駿 平和賞

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