2015/12/24

【私撰名馬物語#60】ノーザンコンダクト

―発展途上のブルボン王朝を存分に脅かした“和製アラジ”の騒乱―


サンデーサイレンスの直仔たちが種馬として全盛を迎えている今となっては顧みられることも大変少なくなったが、社台ファーム……いや、日本競馬の底上げに大いに貢献したはずのノーザンテーストの直系子孫は、去る2013年に滅亡しまった、らしい。“最後の砦”たるメジロブライトが早世し、ノーザンテースト直系最後の重賞ウイナーのレッツゴーキリシマも、結局後継にはなれずにひっそりと引退。して最後に残った種牡馬が公営浦和の下級条件を勝っただけのダイナマイトメール(父はダイナレター)だというのだから、何とも侘しい。そのダイナマイトメールの産駒も皆すでに競馬場から姿を消したようで、かつて日本競馬を牛耳った大種牡馬の血脈は虚しくも途絶えた模様だ。

私が競馬を始めた頃は、「ノーザンテースト最後の大物」という仰々しい枕詞がまだ世間でまかり通っていた。その対象となったのは、例えばクリスザブレイヴ。あるいはシティースケイプ。はたまた正真正銘最後の産駒であるラストリゾートといったあたり。さらに時代を遡れば、マチカネタンホイザだとか、ノーザンアスリートだとか、ノーザンポラリスだとか……そして忘れてはならないのが、本稿の主人公であるノーザンコンダクトであろう。

引退から20年以上が経過した今や彼は「ミホノブルボンの咬ませ犬」としてのみ記憶されている存在かも知れない。大牧場期待の良血にして名門厩舎所属という、誰もが羨む人的背景。故に、当時の彼に対するマスコミやファンの期待は限りなく膨らんだのだが、実際に人的背景に見合った能力を備えていたか、と問われれば、そりゃ疑問符もつくというもの。見出しの「和製アラジ」という呼称も、立派な後継種牡馬を残した本家に甚だ失礼と、各所よりお叱りを受けそうではある。

後に「ミホノブルボンの真のライバル」へと昇格したライスシャワーが、記録と記憶両方に残る名馬として7歳(旧馬齢表記)で身罷ったのに対し、このノーザンコンダクトと、朝日杯にてブルボンと覇を競ったヤマニンミラクルは名馬として讃えられることも無く、単なる「早熟の天才」扱いの競走馬に成り下がってしまった。それは考えようによっては不幸なのかもしれない。しかし裏を返せば、ノーザンコンダクトという馬は実力以上の華を持ち合わせた馬であった、ということでもある。一時的なものであったにせよ、3歳終了時の彼がミホノブルボンを上回る期待を集めていたのは事実であるし、彼の末脚には相当の魅力が感じられたのだ。1992年の春、人心を大いに惑わした大騒乱の首謀者であるノーザンコンダクトは、果たしてどのような競走馬であったのだろうか。

中央競馬のリーディングサイアーの座を11年連続で獲得し、現在に至る社台王国を築き上げる立役者となったノーザンテースト。しかしそれほどの種牡馬でありながら、同馬が日本ダービー馬を生涯で1頭しか出せなかった、というのはそれなりに知られている事実である。そのただ1頭のダービー馬とは、1983年生まれのダイナガリバーであるが、ダービーに加えて有馬記念をも手中に収めたにも関わらず、この孝行息子は社台スタリオンステーション入りを許されなかった。こういった措置は、社台グループの創業者である故・吉田善哉氏の意向であった、と一般的に言われている。要するに、生前の善哉氏は内国産種牡馬を軽視していたのだ。後にサッカーボーイが社台SS入りする際にも、善哉氏は次男の吉田勝己氏と激しく揉めたという。

だが、ダイナガリバー、またはアンバーシャダイが、もし現役時にミスターシービー(内国産種牡馬として初めて社台SS入り)並のパフォーマンスを発揮していたら、どうなっただろうか?恐らくは社台入りが叶っただろうと私は思う。彼らノーザンテーストの息子たちには、社台王国を発展させると善哉氏に思わせるだけの魅力が無かったのだ。後には両者共にGⅠサイアーとして名を馳せたと言えども、偉大なるノーザンテーストの後継種牡馬としては物足りず、やがてサイアーラインは断絶に至る。件のノーザンコンダクトが誕生した1989年の時点では、こんな未来は予測できなかっただろう。しかし、いにしえの大種牡馬たち……ヒンドスタンやチャイナロック、そしてテスコボーイやパーソロンと比較すると、決定打と呼べる大物を出せていない、というのはノーザンテーストの全盛期においても一部で懸念されていたようである。

それだけに、人々は「ノーザンテースト最後の大物」をひたすら渇望した、というわけだ。数々の産駒たちがその対象となったのだが、結局最後の最後まで決定打は出ないまま、後継争いは静かにゲームセットを迎えることになる。それもこれも、やはり今は昔、の話ではある。

冒頭で述べたように、ノーザンコンダクトも多くの例に漏れず、ノーザンテースト産駒における「最後の大物」と呼称された。が、千歳の社台ファームにて生を享け、当地で育成されていた3歳の頃の彼は、“大物”では決して無かったようである。

「小柄な馬で、3歳馬の中に1頭だけ2歳馬が混じっているような感じを与える馬だったんですよ(社台ファーム・尾形重和氏:談)」

ざっくり言うと、幼駒時代の彼はチビだったのだ。母のアトラクト(父ブラッシンググルーム)は1988年初頭に米国より輸入された繁殖牝馬で、同馬はその春にクレヴァートリックを父に持つ牡駒を産んだのだが、このノーザンコンダクトの一つ年上の半兄は非常に小さな馬であった。兄の名はアトラクティヴといい、400kgそこそこの馬格ながらも中央で1勝を挙げた。獣医の尾形氏はこう続ける。

「小さいと言ってもその兄に比べれば体はあったし、闘争心も優れてましたから、そこそこは走ってくれるんじゃないかと見ておりました(尾形氏:談)」

ノーザンコンダクトに対する牧場の期待は決して小さくは無かった。とは言え、重賞を勝ってクラシック戦線を賑わすほどになるとは……というのが本音であるようだ。プロ野球に準えれば、巨人のドラフト4位の社会人出身の二塁手ぐらいの期待感、と言えるだろうか。

とは言え、名門軍団の良血馬であることに変わりは無い。母方の血は代々優秀な種牡馬が重ねられ、近親にも海外の重賞勝ち馬が多数存在した。して栗東の名門・伊藤修司厩舎所属ともなれば、一般的な評価はいやが上にも高まるところ。成長しても440kg程度のまるで牝馬のような細身な馬体にしかならなかったが、少なくとも血統や人的な背景を鑑みれば、「ノーザンテースト最後の大物」候補としての資格は十分にあった。父譲りの栗毛で、顔の真ん中には形の良い流星が据わっている。また、彼の眼は優しげで、薄い馬体と相まって牝馬を思わせたという。

注目のデビュー戦は1991年11月の淀で迎えた。若手のホープ・岡潤一郎騎手が跨った新馬戦の結果は人気通りの1着。芝のマイルを好位につけ、後に重賞を賑わせるナリタフジヒメ以下を完封するという結果であった。伊藤師はこの勢いを駆って、中1週でオープン特別の京都3歳S(京都芝1800m)にノーザンコンダクトを出走させたが、馬場の荒れた内を通る形となりスタントマンの3着に屈した。

2戦目にして初黒星を喫したものの、「おしまいの脚には見どころがあった」と伊藤師は悲観していなかった。続いて再び中1週で出走したエリカ賞(阪神芝2000m)では、武豊騎手が鞍上のマヤノペトリュースに1馬身半差つけて完勝し2勝目。この勝利によって、負けん気の強いチビの二塁手は、一躍関西のクラシック候補に躍り出たのだった。

ノーザンコンダクトが通算戦績を3戦2勝としたエリカ賞は11月の末に施行された。したがって、例年ならば関西馬らしく12月半ばの阪神3歳Sへ出走するのが定石であろう。ところが、この1991年に3歳戦の番組の大改編が執り行われたために、“西の3歳チャンプ決定戦”だった阪神3歳Sは牝馬限定戦の阪神3歳牝馬S(現:阪神ジュベナイルフィリーズ)へと模様替えし、東の朝日杯3歳Sが牡・セン馬限定の東西統一3歳チャンプ決定戦として新装開店していたのだった。さらに、12月後半のGⅢ・ラジオたんぱ杯3歳牝馬Sも牡・セン限定戦に姿を変え、距離も従来の1600mから2000mに延長された。明らかにクラシック路線を見据えたGⅢとなったのだ。これは折り合いに不安が無く、マイルの忙しい競馬よりもじっくりと競馬を進められる中距離以上が向くノーザンコンダクトにとって、願っても無い朗報に他ならない。伊藤師は連闘での東上となる朝日杯3歳Sを迷わず避け、ラジオたんぱ杯3歳Sをノーザンコンダクトの次走に選択した。

12月半ばの朝日杯3歳Sでは栗東・戸山為夫厩舎のミホノブルボンがハナ差でヤマニンミラクルを下し、重賞初挑戦にしていきなりGⅠを奪取していた。だが、一見して短距離が向く血統背景故なのか、「皐月賞へは不安が先立つ」と戸山師の声のトーンはいたって低い。むしろ、父がリボー系でジャパンC2着馬のアレミロードというヤマニンミラクルの方が、客観的に見て距離不安は無いように思えたほどである。ところが、GⅠにおいて僅差の2着に入り、クラシックへの展望が開けたはずのヤマニンミラクルが、これ以降勝ち星を挙げられずに引退してしまうのだから競馬は分からない。戸山師が朝日杯後のインタビューでこう言っているのにも関わらず、だ。

「勝つには勝ったけど、2着だったヤマニンミラクルの強さの方が目についてしまいましたね(戸山師:談)」

一方、ラジオたんぱ杯に出走してきたノーザンコンダクトには、伊藤師の27年連続重賞制覇の大記録が懸かっていた。前年限りで看板馬たるスーパークリークが競馬場を去り、1991年の伊藤師はそれまで9度重賞に管理馬を送り出しながらも、3着が最高着順という結果にあえいだ。デビュー3戦で鞍上を務めた岡騎手が前週に騎乗停止処分を受け、ラジオたんぱ杯でノーザンコンダクトの手綱を取ったのは藤田伸二騎手であった。藤田騎手は新人ジョッキーながらも37勝を挙げている、追えると評判の期待株。しかしながら重賞勝ちはまだ無い。西の名伯楽の記録達成は、薄手の馬体のクラシック候補と、度胸満点のルーキーに託された。

圧巻の内容だった。12頭立てのラジオたんぱ杯3歳S。単勝2.0倍の1番人気に推されたノーザンコンダクトは、道中は先頭から10馬身以上離れた9番手の位置に悠然と構えた。4コーナーでピンク帽のスタントマンが仕掛けて早め先頭の競馬を試みたが、直線に入ると外から藤田騎手のゴーサインに応えてノーザンコンダクトが一気に伸びる。まさに豪脚という表現がピッタリとハマる脚を見せ、並ぶ間も無くスタントマンらを交わしたノーザンコンダクトは、グイグイと伸び2番手を突き放してゴールイン。名伯楽の27年連続重賞制覇と、のちのダービージョッキーの初重賞制覇を請け負うことに成功した。

「直線を向くまで我慢しろと言われたので、ちょっと置かれた3コーナーあたりでは迷いました。でも、じっとしていて正解でした。直線は本当によく伸びてくれましたね(藤田騎手:談)」

「レースを終えてみて、この馬の強さを改めて認識したというのが、私の正直な心境です(伊藤師:談)」

2着に敗れたスタントマンの渡辺栄調教師は、「あれで勝たれたら仕方が無い」とノーザンコンダクトの豪脚に思わずシャッポを脱いだ。勝ちタイムこそ2分5秒9と一見平凡であったが、これはかねてからの阪神競馬場の大改修による馬場改造が影響しており、ノーザンコンダクトの走りに傷を付けるものでは全く無い。むしろ、改修により新しく設置された直線の坂を力強く上る姿にこそ、彼の強さが凝縮されていた。追い出すと重心を低く下げ、自らハミを取ってグイグイと伸びる。ジョッキーのアクションへの反応も鋭く、妙な癖も無い。同い年の馬にヨーロッパの3歳GⅠを総なめにし、勢いそのままに米国に遠征してブリーダーズCジュヴェナイルをも手中に収めた「ワンダーホース」ことアラジがいたが、2頭は血統構成がよく似ており、栗毛で小さめの馬格であることも同じと、共通点が多かった。もっとも、ノーザンコンダクトを恐れ多くも「和製アラジ」と呼んでいたファンが当時存在したかどうかは、私は知ったこっちゃないが。兎にも角にも、大種牡馬・ノーザンテースト産駒の決定打が、この年遂に放たれたように感じられても、全く無理は無かったのだ。ちなみに、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬の選考において、ノーザンコンダクトはGⅢ1勝馬ながら2票獲得している。

こうして1992年クラシック戦線の有力候補として名乗りを上げたノーザンコンダクト。年が明けて、伊藤師が4歳の初戦として選択したのは、共同通信杯4歳Sであった。関西のきさらぎ賞では無く、府中の共同通信杯を選んだという点に、伊藤師のダービーへの意気込みがまざまざと感じられよう。

ところが、新たに鞍上に迎えようとしていた武豊騎手が前日に騎乗停止処分を受けてしまい、急遽ノーザンコンダクトには再び岡騎手が跨ることとなった。岡騎手は当時関西期待のホープとして注目される存在であり、前年の秋にはリンデンリリーでエリザベス女王杯を制しGⅠジョッキーの仲間入りを果たしていた。デビュー3戦の手綱を取った顔馴染みの騎手ではあったものの、後々のノーザンコンダクトの運命を思うと、これこそがケチの付け始めであったように思えてならない。

+8kgと幾分太目残りで出走した共同通信杯。しかし、ファンの評価は単勝オッズ1.5倍。当然の如く1番人気と、彼に対する期待感は天井知らずなようであった。2番人気のマチカネタンホイザは同じノーザンテースト産駒で、3番人気のエアジョーダンはアンバーシャダイの仔である。ノーザンテースト時代の象徴とも呼ぶべき同重賞では、遅めのペースをエアジョーダンが早めにスパートし、例の如く外から追い込んだノーザンコンダクトを3/4馬身抑え込んだ。思わぬ不覚に、レース後の岡騎手は「もうこの馬に乗ることは2度と無いでしょう」と無念さを滲ませたと言われる。

“控えめな3歳チャンピオン”ミホノブルボンは年明けに腰を捻るアクシデントに見舞われ、調整が遅れ気味であった。一方のノーザンコンダクトも2着に敗れた前走からのレース間隔を考えると、弥生賞は避けて3月末のスプリングSを選んだ方が上策なように思えた。運命のいたずらなのか、この2頭の関西馬は本番の皐月賞では無く、前哨戦のスプリングSにおいて顔を合わせてしまう。ノーザンコンダクトの鞍上には今度こそ「若き天才」こと武騎手が据えられ、片やミホノブルボンには今まで通りに厩舎縁の小島貞博騎手が跨った。若き天才と地味な障害上手。ノーザンテースト産駒とマグニテュード産駒。そして27年連続重賞制覇の名伯楽と、坂路の鬼にしてスパルタの風。何もかもが対照的な2頭の強豪が、GⅡにて出遭ってしまった。

スプリングS。1番人気に推されたのは、若き天才の騎乗馬であった。彼らは競馬ファンの信頼を勝ち取ることに成功し、3歳チャンピオンの危うい天下に異を唱え、ファッキンポーズで自信満々に反旗を翻した。だが、勝ったのは2番人気の地味な中年騎手の馬だった。2着馬との差、ゆうに7馬身。その2着馬はノーザンコンダクトでは無かった。初めて経験する中山の重馬場が堪えたのか、後方でもがき続けた彼は、結果勝ち馬から20馬身ほど離された11着に沈んだ。新馬戦から積み上げてきたファンの信頼が、一瞬でパチンとはじけた。

後のことは書くまでも無いかも知れない。書かない方が綺麗に物語が終わるからだ。でも競馬とは汚いものであるから私は綴ってしまう。許しておくれ。

中山の荒れ馬場を嫌って皐月賞を回避したノーザンコンダクトであったが、5月半ばに右前脚の屈腱炎が判明し、長期休養に入ってしまう。関係者の尽力もあり、翌1993年4月の陽春S(阪神芝1600m)にて幸い復帰が叶ったものの、9着惨敗。それから間も無く屈腱炎が再発し、早々と引退が決まった。

不本意な引退の後、父の血を受け継ぐことは出来ず彼は乗馬に転用され、苫小牧のノーザンホースパークに繋養されたと言われる。Web上には00年代前半まで目撃情報が散見されるが、最近の動向は全く触れられておらず、2015年現在の消息は不明と言わざるを得ない。

あのラジオたんぱ杯3歳Sから24年が経過した。のべ4戦の手綱を取った岡騎手は1993年1月に落馬事故に見舞われ、件の共同通信杯の日……2月16日が命日となった。初重賞の喜びを分かち合った藤田騎手は、喧嘩別れのような形で今年秋にJRAと袂を別ち、ムチを置いた。伊藤師は2000年に定年引退後、怪しげな競馬情報会社の広告塔の座に就いた。心ある競馬ファンに「あれだけ成功した調教師でも……」と嘆かせた師も、今はもう故人である。ノーザンコンダクト自身について話題に上ることも、今やほとんど無いと言っても良い。彼の記憶は、新表記で26歳を迎えたミホノブルボンの英雄譚に付随した取るに足らないこぼれ話としてのみ、命脈を保っているのだろうか。一瞬だけベラボーに強かったあの細身の栗毛が、競馬ファンの心を大いに惑わすことなど、もう二度と無いのだろうなぁ。競馬は記憶と虚像のスポーツ。したがって皆に忘れ去られたら、そこで試合終了である。

ノーザンコンダクト -NORTHERN CONDUCT-
牡 栗毛 1989年生 没年不詳
父ノーザンテースト 母アトラクト 母父Blushing Groom
競走成績:中央7戦3勝
主な勝ち鞍:ラジオたんぱ杯3歳S

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