2016/03/12

【私撰名馬物語#61】メジロゴスホーク

―菊を獲り得ず、いっそ大空を目指したメジロ軍団の“2匹目のどじょう”―


2016年春現在の障害最強馬と言えば、アップトゥデイトで衆目の一致するところ。かつての総大将・アポロマーベリック亡き今、2番手にはサナシオンとオースミムーンが並び、以下エイコーンパスらが団子状態といった感じだろうか。なお、筆者は以前白状したように大して障害レースに思い入れがあるわけでは無いので、障害事情に詳しい方がいらっしゃったらどんどんツッコんでもらって構わない。

私が競馬を見始めた頃はちょうど障害戦の改変期に当たり、未勝利とオープンの間の400万下条件が廃止されたり、障害グレード制が導入されたりと、当時の浜口義曠JRA理事長が旗振り役となって障害レース振興策が実行された。1999年に“中山大障害(春)”から名称が変更され、メジロファラオが勝者となった第1回中山グランドジャンプ。この大レースも、翌年には世界でも稀な国際招待障害競走へと模様替えし、日本馬のゴーカイが外国馬を一蹴している。このゴーカイは長らく日本の障害界に君臨し続けたが、ついに暮れの大一番・中山大障害には勝てずに終わった。

1999年12月の中山大障害、そのゴーカイの初めての戴冠を阻んだのがゴッドスピードであった。当時の障害界は、今よりもさらに平地力のある馬が幅を利かせていた印象があり、特に伝統的にスピードが要求される関西の障害界においてその傾向が顕著であったように思う。いずれも平地オープン級のアワパラゴンやファンドリロバリー、カネトシガバナーにウインマーベラスといった辺りがその代表であろう。また、関東にはオークス馬の全弟にしてやはり平地力抜群のノーザンレインボーがいた。そしてゴッドスピードは平地重賞2勝にして長じて中山大障害馬となった。平地重賞ウイナーが中山大障害を制した例は、少なくとも1984年以降ではこの馬以外に無いはずである。

だがゼロ年代も半ばに入ると、何故か障害界の上位から平地実績のある馬が消えていく。ロードプリヴェイルにメジロロンザンといった中堅級こそ出現したものの、なかなか障害界の頂点を極めるような馬は現れなかった。時代は下って10年代。ケイアイドウソジンやルールプロスパーといった平地重賞連対馬の活躍の報も聞こえるようになったが、やはり中堅の域を出ない。交流重賞とは言え平地重賞連対歴のあるアップトゥデイトのようなパターンは、むしろ稀有なケースと呼べそうである。

どうも前置きが長くなったが、今回の主人公は1989年の阪神障害S(春)を制したメジロゴスホークという馬である。この馬も平地重賞で連対した経験を持ちながら障害入りしたケースに当たる。近い年代の馬には、平地障害両方の重賞を制した第1号となったメジロワースや、第2号のナムラモノノフがおり、やはり関西を中心に“平地力のある障害馬”が多数出現していた時代であった。そしてメジロゴスホークは、その旗手となるべき競走馬だったはずなのだが……。

1984年生まれのメジロゴスホークの母はメジロパンサーというネヴァービートの娘。母の母のメジロマジョルカは、メジロドーベルの牝祖として知られるメジロボサツ(朝日杯3歳Sなど)と同期で、クイーンC制覇、オークス3着などの実績を残した馬であった。その半弟には天皇賞馬のメジロタイヨウが、近親にはメジロマスキットや前述のメジロワースらの名障害馬たちがいる。天皇賞馬の姉にこのサイアーライン随一のスタミナタイプであるネヴァービートを重ね、そこにニジンスキー産駒の中でもスーパーヘビー級の鈍重さを誇る種馬・ニゾンを付けて誕生したのが、メジロゴスホークである。まさにメジロイズム炸裂の重苦しいステイヤー。そのヘビーさたるや、肩に小錦が乗っているレベルに等しい(懐かしいネタだな)。いや、馬名が“ホーク”だから「ドカベン」こと元・南海ホークスの香川伸行(故人)か……?

重いのは血統の字面だけでは無い。1歳上の半姉のメジロカピュサン(父バウンティアス)も500kgオーバーの栗毛のデカい馬であったが、同じ毛色のメジロゴスホークはそれ以上にデカく、ガッチリしていた。長じて栗東の大久保正陽厩舎に入厩し、同馬主のメジロデュレンが菊花賞を制した20日後に当たる、1986年11月末の阪神開催の新馬戦(芝1600m)でデビュー。このレースを飯田明弘騎手の手綱でクビ差勝ちを収めたのだが、馬体重は536kgとヘビーそのものであった。だが大きな馬体と同じように大久保師の期待も大きかったようで、初陣の2週後にはいきなりGⅠの阪神3歳S(旧馬齢表記)に挑戦。単勝オッズ6.2倍とそこそこの支持を受けたものの、スローからの末脚勝負に対応できず、ブービーの7着に敗れている。なお勝ち馬は悲運の金髪・ゴールドシチーであり、結果的にこれが最後の勝利となった。

超重量級と呼ぶべき鈍重な血統故に距離を伸ばしての奮起が期待されたが、年明けの福寿草特別(京都芝2000m)では出遅れてしまい10着に大敗。見た目通りに末脚が鈍く、バテないっちゃあバテないが切れないし好位を確保できないと伸びない、そんなじれったさがメジロゴスホークの魅力であり、最大のウィークポイントであった。

福寿草特別で大敗を喫した後、3戦1勝のメジロゴスホークは放牧に出された。そして帰ってきたのは同年8月の函館開催。前年の菊花賞馬・メジロデュレンが2勝目を挙げたのが6月末のことだから、常識的に考えて菊花賞には間に合うわけが無い。案の定とでも言うべきか、9月までの函館開催では3走したものの勝ち上がることが出来なかった。

このデカくてズブい馬に最も好条件なクラシックは言うまでも無く長丁場の菊花賞だが、もう万事休すか……と関係者は落胆した。ところが、鞍上をそれまでの飯田騎手からメジロデュレンのパートナーである村本善之騎手にスイッチすると、突然メジロゴスホークは輝きを放ち始める。10月の北野特別(京都芝2400m)を後続に2馬身差つけて逃げ切ると、連闘で挑んだ嵐山特別(京都芝3000m)も味な競馬で2連勝。これが“西のいぶし銀”村本の敏腕なのかどうなのか、あれよあれよのうちに菊花賞に間に合ってしまった。しかも嵐山特別勝ちからの挑戦というローテーションはメジロデュレンと一緒。そしてジョッキーも一緒と、あまりにも出来過ぎた好条件での挑戦である。

こうなると期待したくなるのが2匹目のどじょう。この年の菊花賞にはこれといって穴として狙うべきステイヤー血統の馬がおらず、ダービー馬のメリーナイスは3000mの距離に、皐月賞馬のサクラスターオーは休み明けの臨戦過程にと、飛車角となるべき馬がそれぞれ不安材料を抱えていた。もっとも、メジロゴスホーク自身も復帰後嵐山特別で早くも5走目と押せ押せで使われていただけに、不安が皆無というわけでは無かったのだが……。

1987年の菊花賞はいわゆる「菊の季節に桜が満開」のフレーズで知られる、常識外れの菊花賞であった。これは挑戦者たるメジロゴスホークにとって不運に他ならなかった。単勝9番人気と評価を完全に落としたサクラスターオーが、淀の坂を越えてみるみるうちに進出し、直線で内からニュッと顔を出した。同馬の鞍上の“代打男”東信二騎手が1発、2発とムチを振るうと、他の馬を蹴散らしてグイグイと伸びる。馬場の真ん中を通って差を詰めたゴールドシチーは、この奇跡の勝利の添え物に過ぎない。まして直線早々に脱落した5番人気のメジロゴスホークなんて……結果、「菊の季節のサクラ」から1.2秒離された8着に屈したメジロゴスホーク。こうして彼は、自分の名を全国区に轟かせる最大のチャンスを掴み損ねた。

一敗地に塗れた菊花賞から中2週。行き掛けの駄賃的に出走したトパーズSでメジロゴスホークは5歳の上がり馬のハシケンエルドに敗れ、2着に終わった。ハシケンエルドは次走の有馬記念で3着に突っ込み、世に言う「ユメ馬券」の飾り物の役割を果たすわけだが、有馬で同馬の手綱を取ったのがメジロゴスホークから降りた飯田明弘騎手だったのは皮肉というものか。一方のメジロゴスホークは、翌1988年の幕開けとなる金杯・西(京都芝2000m)で日の出の勢いのタマモクロスと遭遇し、3着に敗退。続いて日経新春杯(京都芝2200m)、京都記念(京都芝2400m)とGⅡを連戦するも、2戦とも人気になりながら掲示板にすら載れなかった。

陣営はこの惨状を見て目先を変え、攻め駆けする長所を活かすためメジロゴスホークをダート戦に出走させた。この判断はひとまず吉と出る。3月の仁川S(阪神ダート1800m)を早め先頭の競馬で完勝。彼のジリ脚の短所をカバー出来るダート戦は如何にも良い選択のように思えた。次走の交流重賞・帝王賞(大井ダート2000m)では地方の強豪の前に9着と結果を残せなかったものの、夏の札幌シリーズでダートを3走して2着2回と好成績。GⅢの札幌記念2着で収得賞金を積み、秋の重賞戦線へ向けて弾みをつけた。

ところがダート戦を使ったせいか、芝レースにおいてメジロゴスホークはテンに行けなくなり、得意なはずのダートに戻しても一線級相手では歯が立たなかった。これが器用じゃない器用貧乏の哀しさと言うべきか。同年暮れにはとうとう障害練習がなされ、これがなかなか手応えが良かったということで、翌1989年の正月に障害デビューする手筈が整えられた。だが、折りからの除外ラッシュの関係で、障害未勝利戦では無く同日の金杯・西に出走せざるを得なくなり、ここで1着馬から5.7秒離されたシンガリ負けを喫したことで、陣営の平地への未練は完全に断ち切られた。

姉のメジロカピュサンは障害を2戦していずれも大差ぶっちぎったことで当時話題になった馬であり、いとこのメジロアイガーは前年春の東京大障害(例年の中山大障害に相当)を制し、その妹のメジロマスキットは後に中山大障害(秋)を制すなど、メジロマジョルカのラインからは優れたジャンパーが多く生まれていた。そこに平地の実績十分なメジロゴスホークの登場である。期待されないはずが無い。障害練習で手綱を取った池添兼雄騎手は「さすがにすごいわ」と興奮し、調教師たちも「まともならすぐオープンやな」と感嘆するほど、メジロゴスホークの走りは当時の障害界ではずば抜けていた。メジロ軍団としては、大一番を制した後故障したメジロアイガーの代役、言うなれば「障害界に求めた2匹目のどじょう」。それがメジロゴスホークであった。

満を持した障害入りによって、あの菊花賞以来に注目を浴びたメジロゴスホーク。障害初戦は伏兵馬に押し切られて2着に終わったものの、2戦目を難なく勝ち上がり、昇級戦も6馬身差ぶっちぎった。2連勝で迎えたのは同年3月11日の重賞・阪神障害S(春)(障害3200m)。同じく平地力のあるツナミやマーブルレリック、平地重賞2勝の実績馬・マルブツサーペンなど、スピードのあるメンツが揃う中、メジロゴスホークは単勝1番人気に推された。障害入り以来手綱を取り続ける池添騎手は、「まさか1番人気になるとは……飛びにしてもツナミの方が上手い。この馬の知名度ですかね」と不思議がったが、ファンは8歳馬のツナミよりもフレッシュさに勝る6歳馬のメジロゴスホークの台頭を望んだ、ということであろう。

それぞれ2、3番人気のツナミとマーブルレリックが好スタートを切ったが、後者がいきなり落馬したため、ツナミにとっては非常に楽な展開になった。その逃げは平地力のある同馬にとってはマイペースながらも、他馬にしてはハイペースもいいところである。平地オープン級のメジロゴスホークですら追走に手こずる中、いつの間にやらレースは最終障害へ。

阪神の障害3200mのコースは直線に障害が無い(当時)。コーナーを回ってスパートを掛けたルドルフ世代の歴戦の雄・マルブツサーペンが逃げ粘るツナミに迫る。次いでメジロゴスホーク。彼の望み通りに平地力の勝負となった最後の直線で、先頭のツナミは突如として失速してしまう。実は同馬は最終障害を飛んだ際に故障を発症したのだった。次第に近づくゴール板、そして外から迫るメジロゴスホーク!間一髪、ゴール前で外の馬が内で粘る馬を捕らえ切った。

関西障害界のニュースター誕生と相成ったわけだが、鞍上の池添騎手はレース後早速苦言を呈した。

「確かにこの馬、平地のスピードだけなら桁違いです。でも反面、飛びがどうもマズい。雑と言うよりも用心深すぎるんです。だからどうしてもスピードが落ちて、滑らかに飛べない。ちょうど“よっこらしょ”って真上に上がっていく感じかな(池添騎手:談)」

なるほど、飛びの上手い馬ならスピードを落とさずに斜めの角度で飛んでいくものだ。ズブくて不器用なメジロゴスホークはそれが出来ない。これでは大一番の中山大障害なんて、夢のまた夢である。オオタカを意味する名を冠した彼が障害レースの大空へと飛び立つためには、飛びの修正が急務であった。

だが手直しする暇も無く、彼の仕事の“破綻”はすぐにやって来た。障害4連勝を狙って出走した5月6日の京都大障害(春)(障害3270m)。ヤマニンアピールやエイシンフェアリーといった西の強豪不在の11頭立てのやや小粒なメンツの中で、メジロゴスホークは前走以上の評価を得ていた。しかし、彼が淀の大障害コースのゴール板を無事駆け抜けることは遂に無かった。「とにかく無事に飛んでくれたら」という大久保師の願いも虚しく、大障害コースの入り口に当たる11号の何の変哲も無い土塁障害に向かって勢いよく突っ込むような体勢で落馬し、競走を中止した。

競走中止後の彼の容態については伝わっておらず、分かっていることは5月中に競走馬登録を抹消されたということのみに過ぎない。引退後は乗馬に転用されたというが、現役を退いた後の行方がハッキリしているメジロアイガーやメジロワースらとは違い、その繋養先は全く不明である。もしかすると、落馬の際に脚部を痛めて廃馬になったのかも知れない。同じ大久保正陽厩舎の後輩たるメジロパーマーが障害帰りで春秋グランプリを連勝したのはこの3年後のこと。前に札幌記念勝ちの実績があったパーマーが、本気で障害重賞を獲りに行くべく“札幌記念2着のメジロゴスホークの2匹目のどじょう”を狙って障害入りを図ったのかどうかは定かではないし、師の真意が今後明らかになることも無いであろう。どじょう取りがどじょうになった、とでも呼ぶべきなのか、否か。

メジロゴスホーク -MEJIRO GOSHAWK-
牡 栗毛 1984年生 没年不詳
父ニゾン 母メジロパンサー 母父ネヴァービート
競走成績:中央平地23戦4勝 障害5戦3勝 地方1戦0勝
主な勝ち鞍:阪神障害S(春)

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