2016/04/01

【私撰名馬物語#62】ナリタタイセイ

―90年代の日本競馬を席巻したナリタ軍団のミッシングリンク―


~“西の常勝集団”ナリタ軍団とは~


 ナリタ軍団の活躍馬を見掛けなくなってからしばらく経つ。今から20年ほど前の日本の競馬界には無くてはならない存在であった、故・山路秀則氏が率いた「ナリタ」と「オースミ」の馬たち。どういうわけか「オースミ」の馬はビッグタイトルに恵まれなかったが、片や「ナリタ」からは鮮烈な印象を残した三冠馬・ナリタブライアンや、素晴らしい末脚を武器にクラシックホースとなったナリタタイシン、そして菊花賞を制した後長らく王道路線のバイプレイヤーとして活躍したナリタトップロードら、G1級の名馬たちが立て続けに飛び出した。彼らはナリタ軍団が関西でも指折りの強豪集団であることを強烈にファンに印象付け、あのピンクに紫山形の勝負服に対して畏怖の念すら抱かせている。

 これらの3頭はいずれも種牡馬として恵まれず、自身の血を拡げるには至らなかった。しかし、典型的な失敗種牡馬であったナリタタイシン以外の2頭は、共に早世したものの活躍馬の母方に名を残している。特にナリタブライアンの娘の仔が豪G2馬になったというニュースは記憶に新しい。また、マイネルハニーの活躍次第ではナリタブライアン牝馬の株価も上昇することであろう。ナリタトップロードは代表産駒のベッラレイアの仔出し次第だろうか。

 そんなナリタ軍団の歴史は意外と短く、山路氏がJRAの馬主資格を取得したのは1986年のことである。軍団初期の代表馬と言えば、クロフネによって派手に更新されるまで東京ダート1600mのレコードを保持していたナリタハヤブサであろう。同馬が頭角を現したのは1990年のクラシックシーズン。そしてナリタブライアンがクラシック三冠を制したのは1994年のことである。また、それに前後してナリタタイシンが1993年の皐月賞を制し、持込馬のナリタキングオーが1995年のクラシックトライアルを2勝した。まさに“強いナリタ軍団”を印象付けた馬たちである。

 ここまで90年代のナリタ軍団の活躍を駆け足で振り返ってみた……待て、あの1頭をあなたは忘れていないか。いや、もしかすると忘れるどころかご存じないのかも、その1頭。1992年、“坂路の鬼”“スパルタの風”ことミホノブルボンが強さを誇示した皐月賞、2着は何という馬だったか?ライスシャワーか?アサカリジェントか?マチカネタンホイザか?違う違う。ナリタタイセイだ。矢継ぎ早に活躍馬が誕生したナリタ軍団が、草創期から全盛期へと至る過程で奮闘したミッシングリンク。彼の存在はまさしくそれだろう。言わば“進化の過程で失われた存在”であるナリタタイセイは、一体どんな一生を送った競走馬だったのだろうか?

~人呼んで「天剛」、北より来たる~


 名種牡馬と謳われたノーザンテーストが、生涯で唯一送り出した日本ダービー馬と言えばダイナガリバー。同馬は1987年暮れの有馬記念(14着)を最後に引退&種牡馬入りした。1989年生まれのナリタタイセイは、そのダービー馬の初年度産駒に当たる馬だ。母のビューティマリヤは地方の1勝馬であるが、同じ牝系からはナリタブライアンのライバルと目されたナムラコクオーや、1969年の桜花賞馬・ヒデコトブキなどが誕生している。母の父はトライバルチーフという輸入種牡馬で、同馬は本邦にて4シーズン供用された後早世したものの、素軽さと早熟性を武器に1979年、80年と3歳(旧馬齢表記)リーディングを2年連続で獲得した。その血は後世の競馬にも影響を与えており、ゴールドシップの母母母父として名を残しているほか、アングロアラブのトップサイアーの1頭だったトライバルセンプーの父としても著名である。産駒はスピードがある反面距離に壁があり、他に例を見ないほどの極端な早枯れタイプとしても知られていた。だが一方で、菊花賞3着馬のロングイーグル(その母は名繁殖牝馬・スイーブ)を出すなど、配合次第で多少の柔軟性も持ち合わせていたようである。

 ナリタタイセイの生まれ故郷は門別の天羽牧場である。同牧場では生産馬を血統登録するにあたり、「天」の下に漢字をもう一つ付けて命名していた。このビューティマリヤの息子の血統名は「天剛」。天羽繁場主が言うには、「骨太のごっつい感じ」からそう命名したのだという。早くから雄大な馬格を誇り、幼駒時代はケンカで負けたことが無かった天剛は、牧場の人々の愛情に包まれてすくすく成長した。黒鹿毛の彼の顔面には、父のダイナガリバーのそれによく似た大流星が居座っていた。

 半姉のナリタレッドバード(中央1勝)が入厩した縁もあって、成長した天剛は栗東の中尾謙太郎調教師の仲介により山路秀則氏に購入された。中尾師は「骨太で飛節のつきがすごく良い」「これはもう本物という感じ」と色めき立ち、一目見てこの天剛を気に入ったが、一方の山路氏は「これは競走馬というより、馬車馬」と、あまりにもがっしりした様子に多少難色を示したという。それでも中尾師の猛プッシュによって、晴れてナリタ軍団の仲間入りを果たした天剛は、山路氏によって「ナリタタイセイ」と名付けられ、3歳春には早くも栗東に入厩。以後少しずつ調教を施されていった。

 「確かに全体に骨太で動きにもキビキビとした感じは無かったけど、どこか一本芯の通っているような大物感を漂わす馬だったから、自分の信じたように仕上げてみようと決めていた(中尾師:談)」

~大型ルーキーの悲喜交々~


 幼駒時代の印象通りに馬格が大きくなっていたナリタタイセイは、攻め馬を強める過程において中尾師の期待に十分応えるだけの動きを見せるようになった。やがてゲート試験も順調にパスし、夏の札幌競馬場に運ばれてデビューを待ったナリタタイセイだったが、500kgオーバーの馬体に脚元が悲鳴を上げたのか、当地のダートコースでの調教中にソエを発症。デビューの計画は白紙となってしまった。

 とは言え幸いなことに重症では無く、ソエが無事治まった後、1991年11月の京都開催の新馬戦(芝1600m)にてナリタタイセイはデビューを迎えた。そして、松永幹夫騎手が操ったデビュー戦を4馬身差の勝利で難なく飾った彼。先行して力で押し切るレースぶりは至って安心のおけるものであり、彼の高いレースセンスと素質を周囲に感じさせるには十分であった。

 2戦目と3戦目は勝ち切れずに終わったが、上位には食い込んだ。年明け初戦の若菜賞(京都芝1400m)では初めて“若き天才”こと武豊騎手が手綱を取り、逃げを打ってそのままゴールイン。戦績を4戦2勝とした。続く若駒S(京都芝2000m)では一気の距離延長が心配されたものの、1番人気に応えて早め先頭の競馬に持ち込み、南井克巳騎手が鞍上のエイシンテネシー(後に京都金杯を制す)の差し脚を抑え完勝して見せた。重賞経験こそまだ無いが、クラシック候補生としてここまでの戦績は申し分無い。

~皐月賞へ向けて好事魔多し~


 ここまで武騎手とのコンビでのし上がってきたナリタタイセイ。だが、同騎手にはラジオたんぱ杯勝ちのノーザンコンダクトという先約がいたため、ナリタタイセイは新たに南井騎手を鞍上に迎えてクラシックに挑むこととなった。南井騎手は1989年にバンブービギンで菊花賞を、翌1990年にはハクタイセイで皐月賞を制し、三冠ジョッキーへ向けて王手を掛けた当時39歳の男盛り。現代的なスマートさには乏しいが、がむしゃらに馬を追う姿は「ファイター」の異名を取り、タマモクロスやオグリキャップの背中も知る男ともあって、この期待の大型馬を動かす鞍上として不足はあるまい。態勢は整ったはずだった。

 ところが、クラシックを前にしてナリタタイセイに想定外の病魔が襲い掛かる。突然ノドを痛めたのだ。幼駒時代、デビュー前と、そんな兆候は全く見られなかったのだが……愛馬を襲った病に対峙した中尾師はあらゆる手段を講じたものの、どれもさしたる効果は見られなかった。

 3月下旬には東上しオープン特別の若葉S(中山芝2000m)に臨んだが、1勝馬のセキテイリュウオーの3着に敗退。着差は思いのほか大きく、贔屓目に見ても完敗と言えた。この状態で早めに動いて外を回す無理をした点と、後の活躍ぶりに鑑みれば、ロスの無い競馬をした勝ち馬に離されたのは納得がいくところとしても、大して出世しなかったサウスオーにすら後れを取ったのはいただけない。こうして降って湧いたようなノドの不安を抱えながら本番に挑むこととなったわけだが、痛めた箇所が箇所だけに、管理する中尾師は神に祈るような気分だったことだろう。

~1992年、絶対王政ブルボン王朝興る~


 折からの雨模様により、開催が進むに連れて悪化していく中山の馬場。ダンディルートの代わりにシャレー、そしてミルジョージの代わりにマグニテュードという“代用血統”から誕生した2番人気の3歳王者が、3月29日のスプリングSを圧巻の競馬で突き抜けていた。中間頓挫があったように決して万全の状態では無かったミホノブルボンが、生まれて初めて打って出た逃げの戦法で他馬を蹴散らしたのだ。その強さに馬場の要素はまるで関与せず、同馬を追い掛けた馬たちは皆潰れた。この時初めて絶対王政たるブルボン王朝が、1992年の4歳クラシック戦線に打ち立てられたのである。

 クラシック制覇への期待感だけはミホノブルボンを上回っていたノーザンコンダクトはまるで動けず11着に沈み、荒れ馬場を口実に皐月賞から尻尾を巻いて逃げ出した。前年の朝日杯でブルボンに肉薄したヤマニンミラクルも未だ本調子に無い。こうなると、逆転の期待を懸けられるのは弥生賞馬のアサカリジェントぐらいなもの。3つの皐月賞トライアルが終了し、事態はにわかに1強ムードの様相を呈してきた。

 その他、相手なりに走るスタントマンや、やや不器用ながら豪快な末脚を使うマヤノペトリュース、ノーザンコンダクトより“ノーザンテースト最後の大物候補”の座を奪い取ったマチカネタンホイザ、久々のスプリングSでは完敗したものの上がり目が見込めるライスシャワーなどが連下として挙げられていたが、逆転の目はどうも薄かった。ライバルが各地で名乗りを上げる中、年明けには元気が良かったはずのナリタタイセイはやや萎みがち。彼の陣営が天に祈るのは、まさしく恵みの雨だけであった。

~雨の中山、雨中の一冠目~


 その日の中山競馬場は断続的にザーッと雨が降っていた。4月19日、皐月賞。直前の追い切りに臨んだ南井騎手は、「この状態でも2000mまでは何とか持ちます」と一言。湿った空気は痛めたノドにちょうどいい。して、上位人気馬で雨を願っていたのはこのナリタタイセイぐらい。上位進出へ向けて、一応舞台設定は整った。

 当然のことながら、1番人気はミホノブルボン。距離に不安を抱えながらも、戴冠を望む期待感はそれ以上だったようで、単勝オッズは1.4倍とズバ抜けていた。以下、アサカリジェントとセキテイリュウオーというトライアルレースの勝者が続く情勢。当のナリタタイセイは4番人気だったが、若葉S3着馬にこの評価はむしろ見込まれていたと言えなくも無いだろう。

 観客席の傘の花が密集して躍る。悪天候に見舞われ、概ねモノクロームな中山競馬場において、4番枠から鮮やかに絶好のスタートを切ったミホノブルボン。一方、隣の5番を引いたナリタタイセイは平凡な飛び出しとなった。そのまま緩みの無いペースで他馬を引っ張る王者。中団辺りを追走し、初めて馬群に揉まれる展開となったナリタタイセイだったが、幸いにも持ち前の気の強さが良い方向に出た。

 3コーナーにて他馬のジョッキーの手が盛んに動き始める中、南井騎手はある程度余裕を持ってコーナーを周る。黄色い帽子のライスシャワーがすぐ外にいたが、慣性に任せて周ったナリタタイセイと外のアサカリジェントに挟まれ、勝負所で圏外に飛んだ。そんなことはお構いなしに、小島貞博騎手とミホノブルボンは先頭を行く。積極的な競馬を試みた田中勝春騎手のセキテイリュウオーが内の荒れ馬場を通って必死に堪えるも、差は広がるばかり。逆に外を回したアサカリジェントとスタントマンも揃って脚が上がってしまった。後方待機から追い込み戦法に出たマヤノペトリュースはもう届きそうに無い。

 ナリタタイセイは馬群を割って猛然と伸びた。必死の形相で追いまくる南井騎手。だが、荒野を突っ切るかのように伸びる先頭の栗毛馬との差はまるで縮まらない。

 「改めてタイセイの能力の高さを見た思いがしたよ。その直線は長いようで一瞬の出来事だった(中尾師:談)」

 結果は2馬身半差の2着であったが、納得の準優勝でもあった。何よりも、2000mの距離を無事に走り終えられたという事実は、陣営を安堵させるには十分なものと言えたのだ。

 余談であるが、南井騎手はこの皐月賞の2日前に実父を亡くしていた。だからと言うか言うまいか、直線での南井騎手の追いっぷりとムチの連打を映像で拝見すると、彼の執念にも似た強い思いを覚えさせられる。

~運命を変えた強行軍~


 皐月賞準優勝馬が中2週でダービートライアルのG2・NHK杯に出てきた。これは1970年代以前の日本競馬での出来事では無い。1992年のことである。

 府中での試走という意味合いも勿論ある。決断した中尾師にとっては「間隔を空けるよりは使い込んだ方が良い」と納得のローテーションだったようだが、21世紀の現在の常識からすればむしろ「ダービーを勝つ気が無いのか」とすら思えてしまう。500kg前後の大型馬だけに、脚部への無理も半端なものではあるまい。

 内容は文句無しに完勝と呼べた。府中の芝2000mと言えば外枠不利が定説だが、外目の13番枠ながらもスーッと道中2番手につけられた。直線ではさらに外からマチカネタンホイザに迫られたが、馬体を併せるとグイッと伸び、高い勝負根性を見せつけた。結局2着馬に1と1/4馬身の差をつけて、ナリタタイセイは生まれて初めて重賞タイトルを手にしたのであった。位置取りに腐心した皐月賞からすれば、まことに楽な競馬である。

 「ミホノブルボンは強いが、胸を張ってぶつかれる」とは南井騎手。いつもの彼の騎乗スタイルからすれば、出来るだけムチを使わなかったNHK杯の競馬は本番を見越してのことだろう。だが、後々中尾師はこう述懐している。

 「実のところあの時(皐月賞)が体調のピークで、NHK杯はその余韻で勝てたという気がするんだ。もしこれが1つ後ろへズレて、NHK杯にピークが来ていれば、ダービーでもその勢いで持ちこたえたかも知れないと思えてならない……」

~鼻白うて、やがて悲しき大流星~


 案の定と言うべきか、NHK杯以後のナリタタイセイは下降線の一途を歩むこととなった。曇天の下で施行された日本ダービーでは、離れた2番人気というそれなりの評価を得たものの、好位の競馬から4コーナーでもう苦しくなり7着に敗退。4馬身差で圧勝したミホノブルボンどころか、ライスシャワーとマヤノペトリュースの激しい2着争いからも大きく離される結果に、陣営の落胆は大きかった。

 痛めていたノドと気管、加えて母の父がトライバルチーフという血統面を鑑みるに、2400mの距離は長かったのかも知れない。とは言え、1992年当時は4歳馬が秋の天皇賞に舵を切るなんてことはほぼあり得ない時代。したがって秋の大目標は菊花賞以外に考えられなかった。

 ところが、ノドの不安が解消されることは遂に無く、それどころか彼は夏を無事に越すことすら叶わなかった。春の疲労からの夏負けが深刻化しまともに調教も積めない。10月半ばの菊花賞最終トライアル・京都新聞杯には何とか間に合わせることが出来たが、皐月賞の頃の強かった面影はまるで無かった。先行するも淀の坂で失速し、10頭立てのシンガリ負け(1着のミホノブルボンから5秒差)を喫した彼は、菊戦線から完全に脱落。状態の悪化により本番へ出走する目途も立たず、やがて中筋を傷めて満身創痍の状態で彼は放牧に出されることとなった。

 菊花賞は小柄なライスシャワーが制し、ブルボン絶対王政は勃興から1年経たずに崩壊した。元・王者たるミホノブルボンは以後1戦も走らずに引退していくわけだが、ナリタタイセイもなかなか復帰の目途が立たなかった。1993年11月のシリウスS(中京芝1200m)。このオープン特別で、すっかり浦島化したナリタタイセイは1年1ヶ月ぶりに競馬場に姿を現したが、さすがにこの条件では復活しろと言われても無理がある。至極当然と言うべきか、16頭立ての14着に沈んだナリタタイセイは、このレースを最後に表舞台から消え去ってしまった。

 前年5月に恩師である戸山為夫調教師を癌で失い、途方に暮れたミホノブルボンが引退を決めたのは翌1994年の初めのこと。時をほぼ同じくして、かつて覇を競ったナリタタイセイの競走馬登録も抹消されている。抹消事由は“乗馬”。以後の彼の消息を伝える資料は少ないが、手元の紙媒体の資料には「馬事公苑に乗馬として寄贈される予定だったが、ノドの手術の最中に麻酔をしたまま心臓が止まり死亡した」とある。こうして“やがて悲しき大流星”は、何とも侘しき最期を遂げたのであった。

~兄の名誉回復を果たしたけなげな妹~


 ナリタタイセイが不慮の事故でその命を失ってから、2年ほど経ったある春の日。田原成貴騎手に導かれてG1のウィナーズサークルに立った1頭の牝馬がいた。ファイトガリバー。彼女はその兄のナリタタイセイの活躍によって、種牡馬ダイナガリバーと繁殖牝馬ビューティマリヤの間に誕生することとなった馬である。レースぶりは兄とは似ても似つかない豪快な追い込み。だが、その黒っぽい鹿毛と顔の真ん中を通った流星は兄を彷彿とさせるものであった。10番人気ながらも桜の女王に輝き、続くオークスでもエアグルーヴの2着に頑張った彼女が“ナリタ”を冠しなかったのは、兄の体質の弱さが原因なのだという。

 この兄妹の父親たるダイナガリバーは他にG1馬を出さなかった。言うなれば、同馬が種牡馬として一定の地位を築いたのはまさしくファイトガリバーのおかげであろう。そして、彼女の誕生に関わった兄ナリタタイセイの活躍ももっと評価されるべきである。“ミホノブルボンのライバル”として、確かに彼は力不足だったのかも知れない。しかし、全盛期のその活躍ぶりを思い起こす度に、もう少し彼を振り返ってやっても……と思わせられて仕方が無いのだ。それにしても、90年代の競馬を扱ったムックや雑誌を読む度に、「ナリタタイセイは成績と比べて影の薄い存在であった」と感じるのだが、果たしてそれは彼以降活躍馬が続出したナリタ軍団の中で埋もれたからという理由のみに拠るのだろうか。

ナリタタイセイ -NARITA TAISEI-
牡 黒鹿毛 1989年生 1994年死亡
父ダイナガリバー 母ビューティマリヤ 母父トライバルチーフ
競走成績:中央11戦4勝
主な勝ち鞍:NHK杯

2 件のコメント:

Souichiro Nishikawa さんのコメント...

はじめまして。古い名馬を探っていく内に、当ブログへとたどり着きました。
僭越ながら、リンクを貼らせて頂きました。今後とも楽しみにしております。

響斗七 さんのコメント...

こちらこそはじめまして。ご来館ありがとうございます。
「リンクを貼らせて頂きました」ということは、ブログかWebサイトをお持ちということでしょうか?
教えていただければ、(競馬関係のブログならば)こちらからもリンクを貼らせていただく所存です。よろしくお願い申し上げます。