2017/09/19

【私撰名馬物語#63】メジロハイネ

―詩人の名を冠した名牝は牧場で愛を語る―


~メジロ軍団のおてんば娘~


 かつて“メジロ”が日本競馬を代表する冠名であったことに異論を挟む余地はないだろう。総本山たるメジロ牧場はレイクヴィラファームに受け継がれる形で消滅し、マックイーン、パーマー、ライアンの1987年生まれ3傑も今やこの世にいない。だが、虎は死して皮を留め、馬は死んで血と名を残す。彼らは後世に血筋と物語を繋ぎ、オールドファンの能書きは今日も躍る。

 メジロゲッコウという馬がいた。その母メジロボサツはメジロドーベルの牝祖としても知られる女傑。嵐の夜、難産の末誕生したメジロボサツに対し、メジロゲッコウが生まれた1968年5月1日の夜は穏やかであったらしい。弥生賞とスプリングSを連勝するなど非凡な競走馬だったが、G1級のビッグタイトルには恵まれず1975年引退。種牡馬入りしたものの4年後の1979年に死亡している。翌1980年5月28日、そのメジロゲッコウのラストクロップとして誕生したのが、今回の主人公メジロハイネである。

 メジロハイネの母メジロハリマは、メジロマックイーンの牝祖アサマユリの娘に当たり、メジロ軍団きっての個性派メジロファントムや、1984年の中山大障害・春を制すメジロジュピターを過去に産んでいた。メジロハイネの5歳上の半兄であるメジロファントムは有馬記念5年連続出走などの記録を残したほか、八大競走の常連として長らく活躍した馬。引退後は東京競馬場の誘導馬となったが、絶大な人気を誇った反面、気性の激しさから周囲の人間を悩ませる存在であったという。

 兄の気性難は様々な人物が証言している有名な事実だが、父がリボー系のロンバードからメジロゲッコウに替わったメジロハイネも、同じく気難しい馬だった。生産者の吉田堅氏は「牝馬なのに兄のメジロファントムより気性は荒かったですね。削蹄や虫下しをかける時なんか、随分てこずらされたもんですよ」と語っている。この性質は、彼女の競走生活の後々まで祟ることになる。

~愛を語るハイネのように~


 メジロ軍団の“下の句”は誕生年ごとにテーマがあった。例えば、1987年生まれは「アメリカの有名人」、1994年生まれの牝馬は「世界の犬種」などである。メジロハイネが属する1980年生まれの牝馬のテーマは未だハッキリとはわかっておらず、それに言及する文献も寡聞にして存じ上げない。恐らくは「四季の歌」の3番の歌詞でも知られるドイツの詩人ハインリヒ・ハイネから拝借したのだろうが、ハインリヒ・ハイネは男性である。

 それはさておき、長じてきょうだいと同じく美浦の大久保洋吉厩舎に入ったメジロハイネ。1982年9月の函館開催での新馬戦に厩舎縁の宮田仁騎手と共に挑んだが、ドウカンヤシマにちぎられて5着敗退。しかし、折り返しの新馬戦を好タイムで圧勝すると、続くサフラン賞(東京芝1400m)をハナ差勝ちし、重賞初挑戦の京成杯3歳S(旧馬齢表記)では的場均騎手を背に最後の最後まで粘り僅差の3着に健闘した。この好走により同年代の牝馬の中でも上位の評価を得たわけだが、暮れの3歳牝馬Sでは2番人気ながら勝ち馬ダイナカールに2秒3遅れるシンガリ負け。後味悪く1982年のシーズンを終えた。同年の雑誌「優駿」におけるフリーハンデでは、前述のダイナカールと函館3歳S勝ちのシャダイソフィアが3歳牝馬トップの53㎏の評価を揃って受ける中、メジロハイネは51kgを与えられた。

 当時のメジロハイネの馬体重は450kgを少々切るぐらい。決して大きな馬ではなかったが、気の強さは牡馬顔負け。その反面、高足を使ったり、コーナーで外に膨れてしまったりと神経の細かさも目立った。一流馬に脱皮するためには、この手の「牝馬らしさ」を解消する必要があった。

~桜花賞への道険し~


 1983年の初戦はオープン特別・新春4歳牝馬S(中山芝1600m)。現在のフェアリーSとほぼ同じ位置付けとなるこのレースで、メジロハイネは逃げ粘るもゴール寸前でジュウジレディに差され、3着に敗れた。実績を考えればまずまずの滑り出し。ところが、続く重賞クイーンCでは後方からの競馬となり、直線でも弾けることなく8着惨敗。勝った「天才少女」ダスゲニーの圧倒的な末脚の前に成す術なかった。年明け3戦目、中2週で出走したうぐいす賞は難なく制し3勝目を挙げたが、関西圏初見参となった報知杯4歳牝馬特別においては、またしてもダスゲニーの急襲に遭い5着まで。常にそこそこの力を発揮し続けたものの、強豪相手には決め手を欠く競馬が続いた。

 すでに述べたように、1983年4歳牝馬世代の中心となっていたのは関東のダイナカールと関西のシャダイソフィアのノーザンテースト産駒2騎。そこに重賞を連勝してきたダスゲニー、そしてクイーンCで厳しい流れながらも2着に粘った明和牧場出身の良血馬プロメイド、さらに勝ち切れないながらも随所で力を見せたメジロハイネと、南関東公営の東京3歳優駿牝馬を逃げ切って中央入りした「女ハイセイコー」サーペンスールなどが加わり、牝馬クラシック戦線は例年以上の盛り上がりを見せていた。

 もっとも、プロメイドとサーペンスールは報知杯4歳牝馬特別にてそれぞれの弱点を露呈する形で大敗を喫しており、メジロハイネも本番を勝ち切るには力不足な感が否めなかった。そしてここまで才気溢れる走りを続けていたダスゲニーも、桜花賞前々日に転んで外傷を負ってしまってミソが付いた。こうなるとダイナカールとシャダイソフィアに風が向きそうなものだが、ダイナカールの鞍上には主戦の岡部幸雄騎手ではなく、代打の東信二騎手が据えられており、岡部騎手は所属厩舎の関係でトライアル惨敗のサーペンスールに跨っていた。一方のシャダイソフィアはデビュー時430kgだった馬体重が減少の一途を辿り、鞍上は大舞台での経験がほとんどない猿橋重利騎手。どの有力馬も多少の不安材料を抱えながら、桜花賞当日が近づいてきた。

~乙女の夢は一瞬で潰えた~


 “DD対決”の様相だった。1番人気はダイナカールで2番人気がダスゲニー。以下、シャダイソフィア、オープン特別・れんげ賞勝ちのダイナマップ、そしてメジロハイネと続く。間断なく降り続く雨の影響で芝は極悪不良馬場。これが各馬にどんな影響を与えるのか。

 ファンファーレが仁川に鳴り響き、スタート直前。不意に3枠7番のメジロハイネがゲートに突進し、的場騎手を振り落として放馬。おかげでメジロハイネは外枠発走となった。当時の阪神千六は外枠不利で有名なコース。結局、持ち味の先行力を活かすことができず、道中中団からゴール前雪崩れ込んだだけの7着に敗退した。持ち前の癇性の強さがよりによってここで最悪の結果を生んでしまった。凱歌を上げたのは、重馬場と速い流れを最大限に利したシャダイソフィアであった。

 1分40秒5の激戦が終了した。捲土重来を期すメジロハイネは、3着のダイナカールなどと同様に2冠目に直行した。片や10着に散ったダスゲニーはサンスポ杯4歳牝馬特別を間に挟みやはり2冠目へ、そしてシャダイソフィアは牝馬代表として日本ダービーへ向かった。ノーザンテースト産駒2騎はこうして道を分かち、その道が交わることはもう二度と無かった。やってくるのは「80年代最大の激戦」「史上に残る名勝負」と名高い、1983年のオークスである。

~激戦!府中12ハロン~


 ダスゲニーは運の無い馬だった。手薄なオークスTRを難なく制した同馬だったが、そのレース直前に患った腰の出来物が未だ完治しておらず、完調とは言い難い出来であった。だが、上位人気を分けたダイナカールも「フケが出た」などの不安説が流布する始末。28頭で争われるオークスは、桜花賞時に輪をかけて混沌とした情勢であった。

 ポンと飛び出し逃げたのは、中島啓之騎手が鞍上のビクトリジョオー。同馬が作り出した緩みの無いペースを、10番人気メジロハイネは先団の内目から追いかける。一方、ダイナカールはメジロハイネとほぼ同じくらいの位置取りで、ダスゲニーは末脚を活かすべく中団から追走した。

 3コーナーで馬群の中ほどに位置していたマチカネオトメが故障発生。前のめりになって消え失せる同馬の煽りを受け、ダスゲニーが後退する。それを尻目に岡部騎手が早目早目の競馬でダイナカールが、そして的場騎手のメジロハイネが前に進出。彼女らは4コーナーで逃げ馬を捕らえると、直線入口にて2頭揃って一気に抜け出した。しばらくマッチレースの様相を呈したが、坂を上がったところでメジロハイネが若干もたつき、隙を突いて外からダイナカールが突き抜ける。そこにやってくるスタミナ自慢のタイアオバ、さらにレインボーピットに大外ジョーキジルクム!一旦は敗色濃厚となったメジロハイネも再び食らいつく。史上稀に見る5頭横一線の激戦をハナ差制したのはダイナカール。2着にはタイアオバが入り、さらにアタマ差で最内のメジロハイネが3着に食い込んだ。

 ダイナカールから20馬身以上遅れた23着に敗れ、ダスゲニー鞍上の大崎昭一騎手は「やはり問題は距離だろう」と唇を噛んだ。初のビッグタイトルを逃した的場騎手はその時何を思ったか。2400mの距離は血統的に問題なく、実力も申し分ない。だが、メジロハイネは勝ち切るだけの“華”、またはゴール前の自身をほんの少し後押しする“運”に恵まれていなかった。そしてダイナカールと岡部騎手にはそれがあった。この事実は、その後の彼女たちが辿った運命が証明しているように思えてならない。

~18年ぶりの牝馬優勝~


 オークス後のメジロハイネはラジオたんぱ賞(3着)を使い、レース後休養に入った。秋初戦には9月半ばのクイーンS(中山芝2000m)が選ばれたが、手薄なメンツ相手に6着と精彩を欠き、秋の大一番・エリザベス女王杯(当時は4歳牝馬限定戦)へ不安を残してしまう。叩き台として不十分と見たのか、ここで陣営は中1週でセントライト記念に登録する。

 同年代の牡馬を牛耳っていたのは言わずと知れたミスターシービー。だが同馬は牧場で釘を踏むアクシデントに見舞われて調整が遅れてしまい、顔見世興行は10月下旬の京都新聞杯にずれ込んだ。片やセントライト記念に駒を進めた牡馬は重賞2勝も安定感に乏しいドウカンヤシマや二線級のキクノフラッシュがいるくらいで、メジロハイジと再び轡を並べることになったダイナカール共々、牝馬上位という見方が大勢を占めていた。1983年当時にしてもセントライト記念に出走する牝馬というのは珍しい存在であったが、同じ位置付けの重賞である神戸新聞杯は直近でアイノクレスピン(1977年)やアグネステスコ(1981年)が勝っており、現在ほど4歳秋の牡牝の路線が明確に分かれていたかというと疑問がある。

 逃げたのはドウカンヤシマ。外から人気薄のプラウドシャダイが競り掛けるが、向正面でドウカンヤシマのハナは揺るがない。2頭の有力牝馬はというと、メジロハイネは先団の後方辺りに、そしてオークス馬ダイナカールはそのすぐ後ろにつけた。4コーナーに達すると、早めに仕掛けた的場騎手とメジロハイネが瞬く間に先頭に立ち、必死に粘るドウカンヤシマを突き放す。ワンテンポ遅れてダイナカールも仕掛けるが、残り200mの時点でもうセーフティリード。そのままの態勢でまもなくゴールイン。1965年キクノスズラン以来の牝馬の優勝が成った。2着はダイナカールで、3着にようやく牡馬のドウカンヤシマが入った。

 一瞬の切れはないが、自分の展開に持ち込めば非常に粘り強いという持ち味を最大限に活かした勝利となった。同時にダイナカールを降したことで、関東の4歳牝馬の中でもトップクラスの力を秘めていることを証明したわけだが、まもなく登場する西の新星によって、エリザベス女王杯戦線の勢力図は大きく塗り替えられることになる。その名は、ロンググレイス。

~京女に一蹴されて~


 ロンググレイスは典型的な夏の上がり馬で、ローズS(京都芝2000m)までで7戦3勝。その戦績はもっぱら条件級で積み重ねたものであり、強い相手を降した経験はないが、小林稔厩舎の秘蔵っ子として注目を集めつつあった。何より本番の2400mという距離に不安がなく、成長力溢れる血統は魅力的に映った。

 そして“旧勢力”は敗れ去った。関西のTR重賞・ローズSで人気を集めたのはダイナカールとメジロハイネの東の強豪牝馬たちだったが、蓋を開けてみればロンググレイスの強さが際立つ内容。同じく西の上がり馬のグローバルダイナをゴール寸前競り落とし、重賞初制覇を飾った。春の女王ダイナカールは1馬身半遅れた3着に、メジロハイネはさらに5馬身離された4着に終わった。完全なキレ負けであり、力負けであった。

 このローズS以降、素質馬メジロハイネは輝きを失っていく。本番のエリザベス女王杯では3番人気の支持を受けたものの、直線で伸びを欠き8着。文字通り女王の座に上り詰めたロンググレイスの前に手も足も出なかった。当時のうら若き牝馬にとって、エリザベス女王杯の後は消化試合みたいなもの。4歳春にG3・中山牝馬Sを53kgの軽ハンデで制覇した以外には良績を挙げられず、1984年4月の谷川岳S(2着)の後に骨膜炎のため休養に入ると、もうお釣りは残っていなかった。以後、5戦して掲示板もなく、1985年4月の吾妻小富士賞で12着に敗れたのがラストランとなった。

~人々の愛に包まれて生きる~


 引退後、メジロハイネは故郷の吉田堅牧場で繁殖入りを果たした。後々メジロマックイーンを送り出した同牧場において、同じメジロ軍団として先鞭をつけたメジロハイネは非常に大事にされた。

 ところが好事魔多し。初仔のメジロモニカは4勝を挙げたものの、全般としてどうも仔出しが悪い。調べてみると、メジロハイネの母乳には免疫抗体が無かった。したがってその子供たちは細菌に対して無防備となり、体質的な不安に繋がる。父・堅氏から代替わりした吉田隆氏もこれには頭を悩ませた。様々な方策を講じたものの、それが実った頃には年齢的な峠を過ぎ、1994年夏にはとうとう繁殖牝馬セールに出されることになってしまった。

 そんな彼女の窮乏を救ったのが、大久保洋吉調教師と「ショウナン」の国本哲秀オーナーであった。

 「ハイネは私にとって愛着の馬です。私が調教師になって初めてクラシックに出走した馬で、いい夢を見させてもらった。そのわが子同然にかわいい愛着ある馬を、よそに手放したくはない」

 「ハイネの仔だけは、最後まで自分が手がけたい」

 この大久保師の思いを国本オーナーが汲み取り、「国本オーナーがセールでメジロハイネを購入し、吉田隆牧場に今まで通り預託する」という形を取って、メジロハイネは同牧場で命脈を保つことになった。

 メジロハイネは時代が下って2002年3月31日に死亡した。享年23。その子孫は枝葉を大きく広げるには至っていないが、ショウナンタキオン(新潟2歳S)などが活躍馬として挙げられようか。兄のメジロファントム(2004年死亡)と同様に、人々の愛に包まれて彼女は一生を終えた。

メジロハイネ -MEJIRO HEINE-
牝 栗毛 1980年生 2002年死亡
父メジロゲッコウ 母メジロハリマ 母父ネヴァービート
競走成績:中央26戦5勝
主な勝ち鞍:セントライト記念 中山牝馬S

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